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 こうして五月は穏やかに過ぎていった。月末には六大学野球の西慶戦がある。キャンパス内はそれに向かって日に日に盛り上がりをみせていた。私たち新入生も入学からのお祭り気分はまだまだ続いていた。クラス内でも「せっかく西北大に来たんだから、西慶戦は神宮の球場で生で観たい」という声が多かった。私も同感だった。広々とした球場で青空の下大きな声を出して応援するのはさぞかし気分の良いものだろう。以前テレビで中継を見たことがあったが、神宮球場が満員になる西慶戦の雰囲気はプロ野球とはまた別な独特のものだった。それを体験してみるのも悪くは無い。私はクラスメイトに誘われるまま観戦チケットを購入することにした。せっかくだからと、私はスポーツ少女の秋野仁美ちゃんを誘ってみた。彼女は私の申し出を喜び快く応じてくれた。こうして私にとって初めての西慶戦は、土曜日の第一戦はクラスメイトと、日曜日の第二戦は仁美ちゃんと観戦することとなった。

 そしていよいよ西慶戦の週末がやってきた。土曜日の第一戦は前日の夜から神宮球場に前乗りして前夜祭を楽しもうという話になった。夜は酒盛りになるのは間違いないとして、試合が始まる午後までどうやって時間を過ごすのかと尋ねると、「そりゃあ当然球場の外で麻雀だよ」という返事が返ってきた。そこら中に娯楽が溢れる今という時代にあって、西慶戦は単なるスポーツの対抗戦というだけではなく、公然と青春のエネルギーを爆発させることのできる一種のハレの祭り、バカ騒ぎが許される大学公認の盛大なイベントに他ならなかった。金曜日の夜は家庭教師のアルバイトの予定が入っていたので、私は夜の十時頃に球場で落ち合う約束をした。

 そしてその金曜の夜、私はアルバイトを終えて一旦アパートに戻り、少し暖かい服装に着替えて国鉄の信濃町駅を目指した。手にした紙袋にはチケットを購入した際に手渡された応援グッズの赤い紙製の角帽とメガホンが入っていた。私は駅前からまっ直ぐ伸びる外苑東通りを南に下り、案内看板に従って球場方面へ入っていった。その時間の神宮外苑はポツリポツリと街灯はあるもののほぼほぼ暗闇だった。しばらく進むと少し先に球場のスコアボードらしき影が見えてきた。私は自分も少し西慶戦気分に浸ろうかと紙袋から取り出した赤い角帽をかぶってみた。

 クラスの仲間たちはどの辺にいるのだろうと探しながら球場の周りをしばらく歩いていると、五、六人の学生服姿が私の行く手を遮った。彼らを避けて進もうと私が通路の端に寄ると、彼らもついてくる。どうやら私をこのまま行かせたくない様子だ。そのとき中央の学生服が声を掛けてきた。

 「はいはいお兄さん、こちらは慶明大の陣地ですけど、何か御用でしょうかね?」

 「えっ?陣地?」

 私は彼が何を言っているのか判らなかった。

 「このお兄さんは余程肝っ玉が座ってらっしゃるのか、それとも頭が空っぽなのか、さあどちらなんでしょう。」

 ニタニタ笑いながら煙草に火をつけると、顎をしゃくった。すると彼の横に居た学生服軍団がサッと私に近づくと有無を言わせず羽交い絞めにした。

 「こっちは三塁側で慶明大の陣地なんですよ。そこに西北の角帽を見せびらかすように 一人でのこのこやってくるということは、喧嘩を売りにいらっしゃったということですよね?」

 凄みを効かせているつもりだろうが、体つきはどちらかといえば貧弱で学生服に着られているような感じだ。暗闇の中に浮かんだその顔もひょろっとして中学生のようなガキっぽさだ。

 「一体これはどういうことなんだ?」 私が答えると

 「少々お仕置きを受けてもらわないといけないですね。」

 ひょろ吉学生服はそう言うと煙草の火を私の顔に近づけてきた。その表情には残酷な笑みが浮かんでいた。

 上体は数名の腕でガッチリ拘束されていたが、私は渾身の力でそれを振りほどき反転して逆方向へと思い切り駆け出した。背後からは彼らのどこか狂気じみた笑い声と私を嘲る下衆な台詞が聞こえてきた。私は後ろを振り返らずしばらく走ったが学生服軍団が追いかけてくる様子はなかった。私は速度を緩めた。今になって息が上がり、心臓が早鐘を打っていることに気付いた。

 『それにしても何ていうヤツらなんだ。』 私は怒りに燃えていた。

 『慶明大の連中というのは、あんな輩ばっかりなのか?しっかり学生服を着用しているということは、あんなんでもそれなりの立場なのだろう。それが寄ってたかって一人に暴行を加えようとするとは。紳士的なイメージとは全く逆じゃないか。全く見下げ果てた学校だ。』

 私は慶明大に進まなくて良かったと心の底から思った。

 『そうか、奴等は一人の男として一対一では勝負できないんだ。だから常にツルんでああやって弱い者を嬲り者にするわけだ。陰険で小賢しく負ける勝負は絶対にしない。それでいて自分が圧倒的有利となると、いきなりその本性を剥き出しにしてくる。ああやって数の威を借りて脅したり時には手を出すこともあるのだろう。そうして相手が怯え、自分にひれ伏し、赦しを請うてくる姿を見ては歪んだ優越感に浸り、自分の権力を再確認するというわけだ。おそらくどこかの良いとこのお坊ちゃまなのだろうが、親の力を自分の力だと信じて疑わないのだろう。そして下劣な弱い者虐めをこんな歳になるまでずっとやり続け、周りはそれを見て見ぬふりをし続けているということだ。どいつもこいつもロクなもんじゃない。ケッ、反吐が出る。』

 私の奴等に対する嫌悪感はそのまま慶明大という存在そのものにも向けられていった。それにしても、たかがスポーツの試合に過ぎないのにこうやって人を変な愛校心に駆り立てる西慶戦というのも考えモノだ。しかしそれは西慶戦の責任というよりも、やはり人間一人一人の問題だ。アイツの場合は元々ああいう悪を心に飼っていたのだろう。普段は内面に押し込めている悪が、西慶戦という戦いの雰囲気の中で解放されたのかもしれない。人を狂わせるという意味では、やはり西慶戦自体もそれはそれでなかなかに罪深い。スポーツであれ受験であれ、何事も競争というものが絡んでくればそれは戦いだ。戦いはとどのつまり勝つか負けるか、生きるか死ぬかの修羅の世界。それは戦っている当事者だけではなく、意図せずともその周囲を巻き込み最後には誰もを不幸に陥れる。今回の出来事がそのいい例だ。そんな世界などロクなもんじゃない。

 少し浮かれたお祭り気分はすっかり吹き飛んで行った。私は頭に載せた赤い角帽を紙袋に戻して、「西北大の陣地」だとかいう一塁側を目指した。しばらくゆっくりと歩いていくとキャンプ用のランタンに照らされたクラスメイトの顔が見えた。私はその輪の中に入っていった。こちらはこちらでやはり変てこな愛校心もどきで盛り上がっていた。私は正直ウンザリした。手渡された缶ビールで乾杯ししばらくバカ話をしたが、先ほどの出来事を彼らに話すのはヤメにした。まだ終電には間に合う時間だった。今夜はここで野宿しようという彼らの誘いを断って、私は明日また出直すと告げアパートへと戻った。

 翌日午後、再び彼らと合流した私は純粋に野球を観戦した。野球を生で観戦するのは高校時代の夏の地区大会以来だ。あれは確か中島球場だった。当時札幌城南高校には応援団すら無かった。野球部員と個人的に親しい有志が授業をサボって球場に駆け付け、粗末な木造の長いベンチに腰を掛けて思い思いに声援を送ったものだ。ジャズ研仲間の矢野君と甲斐君が二人ブラスバンドとか言ってトランペット二本で応援歌を吹いていたのを私は思い出した。

 今見ている光景はそれとは全くの別世界だった。一塁側・三塁側の内野席と外野席には大掛かりな応援看板が掲げられていた。西北大側のメインキャラクターは「フクちゃん」で慶明大側は「ミッキーマウス」だ。聞くところによると内野応援席を取り仕切るのが大学の応援部とブラスバンド、外野側は付属高校の学生が陣取っているという。学生服をキチンと着こんだ応援部の硬派な応援はもとより、華やかなチアガールのダンスあり、ブラスバンドの大迫力の演奏ありの何とも派手な応援合戦が繰り広げられていく。加えてヤジ合戦。応援部がお互いに相手をヤジり合うのだが、それは事前に十分な打ち合わせをした上での出来レースで、観客を沸かせるための一種の漫談だった。それが試合の進行とは直接関係なく展開されているのもどこか面白い。それ以上に一般観客の中に居たヤジ将軍の当意即妙なヤジに私はいたく感心し、時には肚を抱えて笑い転げた。試合は接戦の末、西北大が初戦を制した。

 翌日曜日の第二戦は秋野仁美ちゃんとの初デートみたいなものだった。私はお昼過ぎに原宿の西郷女子学生会館に彼女を迎えに行った。彼女はスポーティな初夏の装いで例のロビーに現れた。今日は仁美ちゃんの道案内で球場までゆっくり散歩する計画だった。二人は神宮前交差点から表参道を青山方面に進み、途中の喫茶店で昼食を摂った。その後表参道交差点を左に折れ青山通りを地下鉄外苑前方面へと向かった。そこからスタジアム通りに入り、右手に秩父宮ラグビー場を見ながらしばらく歩くと目的地の神宮球場が見えてきた。私たちが向かった席は第二内野席、内野と外野の中間部分のエリアだった。選手までの距離は遠く、実際今どんなプレイが行われているかは正直良く分からない。半面、内外野の応援団席の様子はしっかりと見渡せた。昨日の私同様、仁美ちゃんも両校の応援合戦にしきりに歓声を上げていた。その楽しそうな姿を見て私は『誘って良かった』と少し幸せな気分になった。この日の第二戦は、前橋高校から浪人して西北大に入った向田投手が慶明大打線を完封、二連勝で西北大が春の西慶戦の勝者となった。

 試合終了後球場の出口でクラスの面々と偶然出会った。彼らは私の連れの仁美ちゃんに興味深々の様子だったが、簡単に会釈する程度でそれ以上うるさく聞いてくることはなかった。この春の六大学リーグも怪物江川のいる法立大の優勝だったが、西慶戦の勝利で今夜は歌舞伎町はお祭り騒ぎになるらしい。彼らもその雰囲気を味わいに歌舞伎町に繰り出すという。私にもお誘いがあり、午後七時に新宿コマ劇場前で待ち合わせすることになった。昨晩もほとんで寝ていないだろうに、その底知れぬエネルギーに私は脱帽した。私は「これから彼女を送ってから新宿に向かう」と告げ神宮球場を後にした。

 新宿コマ劇場前は赤い紙の角帽姿の西北大の学生で溢れ返っていた。劇場前の噴水を照らす街路灯によじ登っている輩が奇声を張り上げ、下にいる学生達が囃し立てる。優勝したわけでもないのにこのバカ騒ぎだ。結局いつの世も大して変わらない。この年頃の若者というのは何かにかこつけてバカ騒ぎがしたいものなのだ。私が合流すると先ずは近場の居酒屋で軽く飲み食いし、その後「ジェスパ」なる洋酒パブへと繰り出した。その目論見は女の子をナンパしようということだったのだが、その読みは見事に外れた。店内にはそれらしい女の子はおらず、その後も現れなかった。この頃にはさすがに徹夜組の面々はさすがにグロッキー状態で、一人また一人と酔い潰れ、良く分からないまま尻すぼみ状態で解散となった。それにしても色々なものを見せてくれ、考える機会を与えてくれた西慶戦だった。しかしその終了とともにお祭り気分の五月も過ぎ去ろうとしていた。


        ♪


 東京も日々蒸し暑くなってきた。私の生活は日中は語学と体育の授業には出来るだけ出席するが、その他の大教室での講義はほとんど欠席。授業の合間はもっぱら例のクラスの仲間と雀荘で過ごす。夕方から夜は週三回のハイソの練習に顔を出し、週二回はお花茶屋への遠征。どれもが仕方なくやっているもので、正直気乗りがしないものだった。ここでも私は少々迷子になっていた。何をやっても心が浮き立ち夢中になるということがない。それは本当に自分がやりたいことができていないことの証左だった。結局いろいろと言い訳を見つけながら、私は自分を騙し騙し時間を遣り過ごしていた。

 そんなある日の午後、アパートのベッドに寝転んで広瀬隆のSF小説を読んでいるとき滅多に鳴ることのない電話のベルが鳴り響いた。私は『こんな時間に一体誰だろう』と少々訝しみながら受話器を取った。

 「はい柏木ですが」

 「ああ、柏木さん。良かった繋がった。」 それは若い女性の声だった。

 「失礼ですが、どちら様でしょうか?」 私のぶっきら棒な問いに

 「あ、ごめんなさい。覚えてらっしゃらないかしら。四月に高田馬場のムトウ・レコードの前で映画のアンケートをお願いした沢井杏子と申します。」

 私ははたと思い出した。そういえば入学間もない頃、高田馬場駅前のムトウ・レコードでジャズコーナーを冷やかして店を出た所で綺麗な女性に呼び止められたことがあった。趣味に関するアンケートに協力して欲しいとのことで、協力してもらえたら映画のチケット代が半額になる割引券を格安で購入できるという。私はそこまで映画に興味が無かったので割引券の購入は辞退したが、若くて綺麗なお姉さんの艶めかしく少し甘えたような声に指示されるまま、何の警戒感も持つことなく用紙に書かれた質問に簡潔に答えていった。さすがに住所を明かすことはしなかったが、どうしてもと懇願されて名前と連絡先の電話番号を書いたような記憶がある。

 「あ、思い出しました。」

 「わあ、嬉しい。いきなりお電話してゴメンナサイ。でもジャズが好きだといっていた柏木さんのことがとても印象に残っていて。いただいた連絡先は手元にあるし、どうしようかと散々迷ったんですけど、どうしてももう一度お会いしたくて電話してしまいました。」

 「それは、どうも、ありがとうございます。」

 私は少し良い気分になって返事をしていた。

 「それで柏木さん、明日なんかお時間あります?」

 「ああ、明日の夕方なら空いてますけど。」

 「本当ですか?どこかでゆっくりお話しできたら嬉しいんですけど。」

 『これってデート?そういうこと?』私の気分はだんだん舞い上がり始めた。

 「馬場だとちょっと落ち着かないし、私の住んでる所の最寄り駅あたりでもいいですか?」

 「もちらん構いません。私喜んで伺います。」

 「それじゃあ、西武池袋線の一駅目、椎名町の駅前にあるイタリアン・レストランのニコラスで午後四時ではどうでしょう?」

 「はい。椎名町駅前のニコラスで午後四時ですね。わかりました。わあ楽しみ。」

 そう約束して私は受話器を置いた。

 『こんなことってあり?ひょっとするとひょっとする?』私がこの椎名町を待ち合わせ場所にしたのには、ひょっとした時にすぐに対応できるという下心あってのことだった。

 そして翌日約束の時間にニコラスの扉を開けると、そこには既に沢井杏子さんが来ていた。今日の彼女の服装は焦げ茶色のシャツ・ブラウスにクリーム色のスーツ姿だった。そのスカートの丈はかなり短く、座っている彼女のムッチリとした太腿が嫌でも目に飛び込んでくる。私は「お待たせしました」と一声かけて席に着いた。

 「ごめんなさい柏木さん。無理に押しかけるような真似をして。」
 
 彼女はそう言うと頭を下げた。長い髪が顔を隠す。

 「いえいえ。沢井さんのような素敵な女性のお誘いなら大歓迎ですよ。」

 私の軽口に彼女は髪を掻き揚げながらニコッと微笑んだ。年の頃は私より少し上だろうか。これまで私の身近にいた女子達と比べるのも何だが、一段も二段も大人の女性の魅力に溢れ、何ともセクシーだ。私はコーヒーとケーキを注文した。二人は話の切っ掛けとして簡単な自己紹介を交わした。私が彼女が販売していた映画の割引券のことに触れると、話題はお互いの好きな映画のことへと移っていった。時間の経過と共に打ち解けた雰囲気となり、彼女の私への言葉遣いも親密なものへと変わっていった。

 『これはひょっとするとひょっとするのか?』

 私のスケベ心がムクムクと頭をもたげてきた丁度そのとき

 「ねえねえ柏木さん、留学するとか考えたりしないの?」

 彼女はいきなり話題を変えた。

 「えっ?留学? まだ入学したばかりでそれは考えてないな。」

 「大学の関連で留学するってことだけじゃなくて、ジャズ留学ってこともあるんじゃない?」
  
 「ジャズ留学かあ。ちょっと憧れるかも、それ。」

 「今の時代は留学だって珍しいことじゃないものね。柏木さんみたいな素敵で優秀な学生さんなら、日本を飛び出して活躍するようになるんじゃない?」

 「そんな。素敵でも優秀でもないからさあ。」

 私がにやけながら答えると

 「ううん、素敵よ。でもそうなるとどうしたって語学力が要るわよねえ。」

 「まあそうねえ。最低でも英会話くらいはできないと困るだろうなあ。」

 「そうよ、そうよ。柏木さんは英語はもうバリバリ?」

 「まあ多少は話せるけどバリバリとはいかないなあ。」

 「そうかあ。実は私、とってもいい教材知ってるの。」

 そう言うと彼女は横に置いたバッグから一枚のパンフレットを取り出した。

 「やっぱり学ぶのならネイティヴの発音を覚えないとね。これはテキストとカセットテープがセットになった教材で、とにかく耳で聞き覚えるという画期的な方法を採用してるの。赤ちゃんが言葉を覚えるのと同じやり方で理に合ってると思うの。」

 「へええ。そういうのがあるんだ。でも値が張りそうだね。」

 「そうなのよ。全部で三十巻のセットで二十万円。高いわよねえ。でも本当に良い教材だというのは間違いないのよ。一括払いだけじゃなくて分割払いでも大丈夫みたいなんだけど。」

 さすがの私も彼女が私に近づいてきた本当の目的が判った。東京に出てきたばかりのお上りさんを狙ったいわゆるデート商法だ。恋愛感情や私のような下心を利用して高額商品を買わせようという違法すれすれの悪質な手口だ。私は気付かないふりをして少しだけ話に付き合ってみることにした。

 「二十万となるとちょっと考えちゃうなあ。右から左に動かせる金額じゃないし。」
 
 私は多少は興味があるように答えた。すると彼女は席を立ち私の横に座りなおした。艶めかしい太腿を見せつけるようにして私に身体を寄せ、私の手を取ると耳元で囁いた。

 「ねえ柏木さん。正直言うと私困ってるの。どうしてもノルマに届かなくて。もし助けてくれたら、私にできるお礼をしてもいいって思ってるの。」

 私はこの誘惑に一瞬負けそうになった。たとえ二十万を支払っても、そのカネはドブに捨てるわけではなく一応教材は手元に残る。加えて匂い立つような彼女の肉体を自由にできるとなればそれも有りかなと心が揺れた。しかしどう考えても先立つものが無い。アルバイトの収入も微々たるもの、今の生活を支えるのがやっとの状態だ。借金をしても返す当てが無い。結論は最初から決まっていた。

 「僕も正直なことを言うと杏子さんが欲しい。だけど恥ずかしいことにカネが無いんだ。ついこの間有り金全部はたいて楽器を買ってしまったところで、今はどう転んでも無理なんだ。」

 私の答えを聞くと、彼女は私の手を離し向かいの椅子に戻った。

 「そうなのね。判ったわ。じゃあご縁が無かったっていうことね。」

 彼女はそう言うとコーヒー代をテーブルに置き出口へと向かった。それとほぼ同時に少し離れたテーブルに座っていた大柄な男が席を立ち、足早に彼女を追いかけた。やっぱり彼女は一人ではなかった。変な下心を起こして彼女に手を出していれば、私はとんだ厄介事を抱え、下手をすれば人生を棒に振ることになっていたかもしれない。大都会東京というところは何とも怖ろしい場所だ。こんな貧しい学生すらも喰いものにしようとあの手この手ですり寄ってくる。これじゃあ誰も他人を信用できなくなるのもある意味無理はない。

 私はこのとき親爺が上京前にボソッと呟いた言葉を思い出した。

 「なあ涼、この世にはうまい話なんてそうそうあるもんじゃないんだ。もし本当にそんなにおいしい話だったら簡単に他人に教えるはずもない。自分で独り占めするのが当たり前だ。だから良く知らない人間からうまい話を持ちかけられたら、それはまず間違いなく嘘だ。何のことはない、お前を騙して利用しようとしてるんだから気を付けろ。」

 私は先に楽器を買っていたことに感謝した。これまで暗澹とした気持ちにさせられていた空っぽの預金口座が結果的に私を守ってくれたのだ。本当に人生何が良くて何が悪いか全くわかったものじゃない。


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