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文字数 7,900文字

 大林君はそれ以降一度もダンモに姿を見せなくなった。彼がダンモを辞めたということはだんだんと既成事実となっていった。彼が抜けたコンボは、山垣君のワンホーン・カルテットとして粛々と活動を続けた。そして時の経過と共にそれが当たり前になっていった。十一月の西北祭のライブ喫茶ではC年バンドも朝一の枠で演奏することになった。その日に向けて私たちはブルースに加え「Bye Bye Blackbird」や「枯葉」「There Is No Greater Love」などのスタンダードナンバーの練習に真剣に取り組んだ。

 私のコンボのメンバーをざっと紹介しておこう。先ずはトランペットの山垣君。東京人で高校までは吹奏楽部でトランペットを吹いていたらしい。彼の特徴は何と言ってもそのファッション・スタイルだった。ジャズメンにはあまりいないリーゼント・スタイルでいつも髪の毛を決めている。口ひげを生やし眼鏡の奥の眼はいつも笑っていた。そのファッションからは想像もできないほど素直で優しい性格の男だった。そのトランペットの腕前は正直初心者レベルで、音はちゃんと出せてメロディはそこそこ吹けるのだが、アドリブになるとお手上げに近い状態だった。

 ベースの小野誠君も東京人でその身体がベースにすっかり隠れてしまうほど細身だった。特徴はその小さな顔からはみ出してしまうほどの大きなメタルフレームの眼鏡。あのフィンガー・ファイブのリードヴォーカル、アキラのイメージだ。ジャズの経験も多少あって理知的であり、何でもそつなくこなすセンスを持ち合わせていた。

 そしてドラムは神北智弘君。彼も東京人だった。プロのジャズドラマーを目指してこのダンモの門を叩いたらしい。一見おっとりしたように見えるが実は結構短気な男でもあった。一番年少でそのことを言われると「一番若いヤツが一番偉いんだ」と訳の分からない理屈で喰ってかかってきた。腕前はどうしてそうなるのか私には何とも判らないのだが、叩く一音一音にキレが無くモッサリとした印象。軽快にスイングしドライヴするという感じにはどうやってもならないという独特な個性を持っていた。

 私はダンモは卒業後はすぐプロの世界に飛び込むような超絶有能なミュージシャンの溜まり場だろうと想像していたが、実際にはそんなことは無かった。確かに凄腕の先輩は何人もいた。しかしプロを目指しているのはほんの一握りで、多くは音楽とは別の道に生活の糧を求めるのが通常だった。ましてやC年のコンボは全くの初心者も多く、どうしたってこんなものだ。それでもワイワイ・ガヤガヤやりながら一緒に音楽を作っていく楽しさには何も変わりは無かった。

 そんな十月のある日私が部室でE年バンドの練習を見学していると、そこにピアノの二年先輩の小橋勲さんが入って来た。会話も無く二人でしばらく見学していたのだが、私は肩を軽く叩かれた。先輩の方に顔を向けると手で外へ出ようという合図。私は黙ってその後に従った。外は小春日和のいいお天気だ。私は小橋さんに促さされるまま体育局の建物を背にして一階通路に腰を下ろした。秋の爽やかな陽光が降り注ぎ身体はポカポカと暖かい。小橋さんは付属校の西北高等学院の出身だった。ダンモでは二年先輩に当たるが、実年齢では同級生だ。彼はまさにピアニストと呼ぶに相応しい技術と芸術性を備えた素晴らしいミュージシャンで、昨年D年でいきなりレギュラーグループに抜擢された圧倒的な実力の持ち主だった。

 ダンモではF年は就職活動等で忙しくなることもあって事実上部活動を引退するというのが慣例となっていた。F年は籍だけがある状態で部内に残れるのはレギュラーバンドのメンバーに限られていた。そのような中、F年になってもジャズを続けたいというメンバーも数多く存在していた。しかしダンモにはその場が無い。その受け皿となったのがMCS(Music Craft Society)だった。そもそもは文学部スロープ下に部室を構える音楽同好会だったのだが、それはいつしかダンモF年の練習場と化していた。レギュラーになるということは名誉なことには違いないが決して良いことばかりではなかった。それはダンモでの活動の「上がり」を意味するものでもあった。逆に言うと来年はもう活動の場は無いということだ。これは多くのメンバーにチャンスを与えるというダンモ独特の慣例故のことであったが、小橋さんのように飛び級でレギュラーを経験した場合はかなり悲惨なことにもなる。まだE年で活動資格はあるのだが、既にレギュラーを経験したということで、そこから降格となるような一般コンボでの活動参加は事実上辞退させられていたのだ。そういう事情もあって小橋さんは今はダンモではなくMCSを中心に音楽活動をしており、ダンモの練習場に顔を出すのも珍しいことだったのだ。

 小橋さんがレギュラーでバリバリやっていた昨年は私はジャズ浪人、彼の華々しい活躍をこの眼で見てはいなかった。しかし私はその伝説を多くの先輩から聞かされていた。私にとって小橋さんは同い年とはいえ雲の上の眩しい存在だった。そんな小橋さんとこうして肩を並べて二人で気安く話が出来る機会が来るなどとは想像もしていなかった。最初は何気ない世間話を交わしていたのだが、「いつ頃からジャズをやり始めたのか」という話題になっていった。私が「田舎で誰も教えてくれる人もいない中、高校の仲間とジャズ研を立ち上げて見よう見まねでやり始めた」と言うと、小橋さんは「自分も高校時代のジャズ研で始めた」とのこと。当時高校で本格的なジャズ研があったのは、日本広しといえども函館ラマールと西北高等学院くらいのものだろう。私らの札幌城南などはひよっこ中のひよっこ、ジャズ研があると胸を張って言えるほどのものではなかった。小橋さんはその名門西北高等学院のジャズ研出身というサラブレッドだったわけだ。

 私は田舎から出てきた庶民階級の人間がピアノをやることの難しをこぼした。そして「最近フェンダー・ローズを買ってやっと練習環境が整った」と話すと小橋さんは自分のことのように喜んでくれた。同じ政経学部ということもあって、これからは試験対策なども協力していこうという話になった。かれこれ一時間ほどだろうか、日向ぼっこをしながらのんびりとお喋りをしていたのだが、小橋さんが突然思い出したように「最近シンセサイザーなるものを買ったんだが、しばらく貸すから使ってみないか」と言い出した。私に断る理由はなかった。お互いにちゃんと話をするのは今日が初めてだったが、私はこの同い年の偉大な先輩が同じピアニスト仲間として親しく接してくれたことにすっかり感激していた。


        ♪

 
 そして十一月の文化の日を挟んで西北祭の開催となった。昨年はあの人混みの中、自分の居場所も無くあちこち彷徨い歩いた私だったが、今年は違った。六号館の四階414号教室、ダンモが主催するライブ・スポットMJGが私のホームグラウンドだった。事前の会場の設営やピアノの大移動にも私は積極的に参加した。私は西北祭の期間中この場所にほとんど入り浸りだった。スタッフとして観客に提供する喫茶の裏方仕事をせっせとこなしながら、先輩達の演奏を細大漏らさず聴いた。自分達の出番は開催期間中一度きりだったが、高校を卒業してから初めての人前での演奏だ。時間が早いこともあって観客もほとんどが身内だ。それはどうしようもなく下手くそだったが楽しい時間でもあった。他所の会場を見て回ろうという気も起こらないほど私はこの場所に満足していた。

 祭りの四日間はあっという間に過ぎ、またいつもの日常が戻って来た。次の大イベントである十二月のリサイタルに向かってダンモは一気にラストスパート態勢だ。しかしC年はリサイタルでの出番は無く通常の練習を繰り返すだけだった。しかしそんな通常に激震が走った。コンボの中核を担ってくれていたベースの小野誠君が急にダンモを辞めることになったのだ。一度練習に出てこない日があったが、その翌週に私たちはマネージャーの杉浦さんから彼が退部したことを告げられた。彼が辞めることになったその理由をバンドメンバーの誰一人として知らなかった。杉浦さんの説明もその点には触れていなかった。これまでもパートを問わずポロポロと退部者は出ており、合宿前には大量に辞めていった。しかし夏の合宿を乗り越えたメンバーが辞めていくのは珍しいことだった。これまでの小野君の素振りから見て、私が引導を渡した大林君と何らかの関係があったとは思えなかったが、あの一件が影を落としているのかどうかは私には判らなかった。ほぼ時を同じくしてのメンバーの脱退で、残されたメンバーにはかなりの動揺が走っていた。かといっていくら嘆いたところで彼が戻ってくるわけでもない。ジャズバンドにとってベースは欠くことのできない重要なパートだ。そのため同じC年の外山紘一君が掛持ちで参加してくれることとなった。こうして新しいメンバーを迎え私たちはまた気分一新、前を向いて歩き始めた。


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 それとは全く別に私生活においても衝撃的な出来事が起こった。私の母方の行雄叔父が突然亡くなったのだ。四十三歳、肝臓癌だった。連絡は母から入った。「これから自分達も駆けつけるが近くに居るお前にすぐ向かってもらいたい」と。私は取るものもとりあえず叔父さんが亡くなった都立駒込病院へと走った。行雄叔父は東京都庁の保健福祉局に勤める役人だった。これが因果というものなのかもしれないが、私が向かっている駒込病院は叔父が主導して出来た最新鋭の都立病院だった。この病院の開設に叔父はこの数年心血を注いできたのだという。病室に駆け込んで久しぶりに再会した行雄叔父はすっかり瘦せ細っていた。思えば西北大に合格し東京暮らしを始めることを知らせると、その日のうちに合格祝いの乾杯をしてくれたのが行雄叔父だった。あの日からわずか一年半。あのとき帰りの電車に乗り込む叔父さんの背中はかなり疲れているように見えたが、まさかこんなことになるなどとは想像もしなかった。まだ四十代前半、幼子を残して人生を奪われるには余りにも早すぎる。私は叔父さんは仕事に殺されたのだと感じた。二か月ほど前まで伊豆大島の病院建設のためにヘリで出張していたと聞かされ、何故そこまで無理をしたのか私には理解できなかった。私にはそれが本人の意思だとは思えなかった。組織という訳の分からない存在が生身の人間の上に立ち、有無を言わせずコキ使う。それが現代社会だ。叔父さんはそんな歪んだ社会の犠牲になったのだ。『どうして人間は自分の正直な気持ちを我慢して生きなければならないのだろう。自分は自分のしたいように、もっと人間らしく生きてやる。叔父さんと同じ過ちは繰り返さない』 落合火葬場の煙突から昇る煙を見ながら私はそう考えていた。


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 十二月はダンモの集大成の時期でもあった。上旬にリサイタルが開かれ、レギュラーバンドとE年バンドの五組がステージ上でこれまでの練習成果を発表する。それを私は観客席の一番後ろの壁に凭れながら眺めていた。『来年は自分もあのステージに立っているのだろうか』 比べることに意味は無いとは頭では判っているのだが、どうしてもハイソで活躍している矢野君との格差を感じないわけにはいかなかった。それほどまでにハイソは華々しい活動を繰り広げていた。春先にはジャズの本場であるアメリカ西海岸に遠征し、カリフォルニア州各地の大学で演奏会を開催していた。そして今このときも日本初の学生バンドによる商業レコード「Hi Way」のレコーディングを控えていた。矢野君はそのハイソにあって今や花形ともいうべきリード・トランペット奏者だ。どこでどうしてこれほどまでに差がついてしまったのか、高校時代を同じバンドで共に過ごしてきた身としては紛れもなく忸怩たる思いがあった。


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 私の少々いじけた気分などに時は気遣いなどしない。師走の名の通り私は家庭教師の仕事にどんどん追われていった。優君の高校入試が間近に迫っており、これまでの週三回の訪問が四回に増えていた。これまでは勉強といっても形だけで、主眼はワルの友達連中から優君を引き離すことだった。私は心を開いてもらうために、野球好きの彼の誕生日には硬式ボールをプレゼントするなどゴマもすりながら色々と苦心してきた。その甲斐あってか今では親戚の兄貴のような関係性が何とか出来てきた。私は彼の話し相手になることで彼の心の中にあるモヤモヤを吐き出させ、攻撃的な気分になるのを抑えてきた。それよりも何よりも、週に三回夜の時間が拘束されることによってワル連中と接する時間そのものが大きく減った。好むと好まざるとに関わらず、一緒につるめなくなればその関係性はどうしたって薄くなる。幸いなるかな、優君からはワル連中のほうから離れて行った。しかしそろそろ学力を何とかしなくてはならない。それ程までに彼の成績は悲惨なものだった。

 「なあ優、お前さん来年には中学卒業だけど、その先のことは何か考えてるのか?」

 「そりゃあ中学卒業したら次は高校だろうよ。」

 「まあ普通はな。でも高校に進学するには入学試験を突破しなきゃならない。誰でも行きたいと言えば行けるって話じゃないんだ。それくらい優も知ってるだろう。」

 「当たり前じゃん。知ってるよ。バカにすんなよ。」

 「そうか。じゃあ正直に言うけどな、この半年見てきたけど今の優の学力で合格できる高校は東京には無い。」

 「ああ、そうかい。じゃあ行かねーよ。」

 「まあそうヤケッパチになるな。俺は今の学力じゃダメだと言ったんだ。もう試験まであまり時間は無いけど、勉強して学力が伸びれば可能性はあるってことだ。それはそれとして、高校に行かないとしたら優はどうするつもりなんだ?」

 「そりゃあうちの仕事を手伝うさ。」

 「そうか。宮路家の跡取りだもんな。鶴の湯を継ぐってことか。でもなあ、この先銭湯はなかなか厳しいぞ。みんな内風呂を持つようになってお客はどんどんいなくなる。燃料代はどんどん高くなる。経営していくのは並大抵のことじゃないだろうな。何もこれは鶴の湯だけのことを言ってるんじゃないんだ。銭湯全体がやっていけない時代に入って来たっていうことだ。廃業するところも出てくるだろうな。そうなったら優、継ぐにも仕事が無くなっちまうぞ。どうする?」

 「どうするって、そんなの俺に聞かれたって判るわけないだろ。」

 「そうだよなあ。俺が思うに、例え銭湯が続けられなくなったとしてもだ、宮路家は大地主だ。その土地を活かして何か別の仕事をやるってことになるんじゃないかな。そうなるとさ、どうしたって色んな知識が必要になってくる。役所に出す書類一つとっても何が書いてあるのか判らないようじゃ話にならないだろう? だから生活や仕事をしていく上で最低限の知識ってのは身に付けておかないと、狡い奴等に騙されたりしちまう。勉強ってのはそのためにやるもんなんだ。」

 優君は黙って聞いていた。

 「その意味じゃ入学試験のために勉強するってのはちょっと違うんじゃないかと思うかもしれないけど、この学歴ってやつがクセものなんだ。お前さんが高校に行かないとするよな。そうなると最終学歴は中学校卒業だ。だけどな、中卒と高卒とじゃ今の日本では雲泥の差なんだ。今はそんなこと大したこと無いと思うかもしれないけど、この先長い人生を生きていく上でそれはとんでもない差になってくるんだ。中卒の人間というだけで、どこの会社にも取引先にも相手にしてもらえない。恋愛や結婚にだって影響してくる。誰も表立っては口に出さないけどそういうことなんだ。そして厄介なことにそれは一生ついてまわる。それはとんでもない屈辱だ。俺は優にそんな風にはなってもらいたくないんだ。だから何とか頑張って高校には進んでもらいたい。そのためには今が踏ん張りどころだ。苦しいかもしれないが一緒に勉強してもう少し学力を上げよう。」

 私の言葉は多少なりとも彼に届いたようだ。こうして彼は嫌々ながらも教科書や問題集を開くようになっていった。しかし彼の学力はとても中学生のものではなかった。小学六年レベルまで何とか引き上げられればそれから先はおまけみたいなものだった。私が徹底的に取り組んだのは国語だった。漢字は書けないまでも何とか読めるようにする必要があった。私は嫌がる彼に毎回テキストを音読させた。それを延々と繰り返す。文字を読めるようにならなければ問題そのもを理解することすらできない。あとは文章として紙に書かれている言葉とこれまでの日常で使っている言葉とが同じものだということを肌で感じてもらい、紙に書かれた文章に対する拒否反応を取り除く。これまで十五年何気なく使ってきた言葉だ。自分では意識しなくてもそれなりに理解して使っているのだ。その壁を取り払うことができれば、文章の理解力は格段に向上する。私は来る日も来る日も小学国語の完全マスターに向けて取り組んだ。優君もブツクサ言いながらも何とか付いて来た。こうして十二月は慌ただしく暮れていった。私は漢字のドリルとテキストの音読を毎日の課題として必ず取り組むよう厳しく言い渡し、二週間の正月休みに入った。


    ♪


 正月三が日が過ぎ数日経った頃、シネマ研究会の進藤貴一君が後輩の来生渉君を連れて北海道の我が家にやってきた。彼は自身が脚本・監督を務める8ミリ映画の制作を始めており、その撮影にやってきたのだ。冬の荒涼としたモノトーンの風景を撮影したいと言うので、私が「真冬の石狩川の風景がまさにそれそのものだ」と勧めると「是非に」とその話に乗ってきたというわけだ。私の家に一泊しての撮影の予定で、到着後すぐにタクシーに乗り込み私のお勧めの現場へと向かった。その場所は榎本公園と呼ばれる石狩川の河岸だった。その場所はあの明治維新・函館戦争の際の幕府側の司令官、榎本武揚が維新後に入植した土地だった。

 その日も鈍色の重苦しい雲が空一面を覆い、ビュービューと強い北西風が剥き出しの顔に吹き付けてくる。今にも吹雪になりそうだ。それは人っ子一人もいない完全に荒涼としたモノトーンの世界だった。その光景は進藤君のイメージにピッタリだったようで、彼は早速8ミリカメラを構え撮影ボタンを押した。しかしカメラはうんともすんとも動かない。何度やり直しても同じことだった。「バッテリーはしっかり充電してきたはずだ」という進藤君に「ひょっとしたらこの寒さでバッテリーが正常に機能していないんじゃないか」と私は答えた。こうして撮影は一旦中止、待たせてあったタクシーに乗り込んで我が家へと引き返した。室内でテストしてみるとカメラは何の問題もなく正常に動作する。やはり寒さが原因だった。しかし今日はもう日が暮れて撮影は出来ない。明日また仕切り直しだ。その日は我が家の家族と鍋を囲んでの酒盛りとなった。そして翌日カメラにホッカイロを貼り付け、その上から厚手のタオルを巻いて防寒対策を施し再度撮影現場へ向かった。この対策が功を奏し撮影は無事終了した。彼らはこれから鉄路で東京に向かい、その途上の車窓の風景を撮影するという。彼の映画製作にかける情熱はなかなか大したものだ。私は激励の言葉を掛けて二人を見送った。


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