第4話 花火

文字数 12,198文字

                         NOZARASI 14-4  
 (四)花火

 大川の川開き、両国で盛大に花火が打ち上げられる。例年なら、この頃に梅雨が明け、本格的な江戸の夏が始まる。
「大川育ちのようなものなのに、大川の舟の上から花火見るなんて初めて」
 小三郎がその話をした時、里は目を輝かせ子供のように喜んだ。
「この間話したと思うが、弥吉さんが前の舟より少し大きなやつを造っただろ。今日、鱚釣りの帰りにね、あの時の御祝儀のお返しに、花火に招かれたって訳」
「いいんですか、私なんかがお邪魔して」
「いいに決まってるだろ。もう家族の様なものでしょ、里ちゃんは」
 遠慮する里にそう言いながら、小三郎はその「家族」という言葉に不可思議な温かい響きを感じていた。
 里も、その「家族」という言葉が小三郎の口から出た時、寂しさのようなものに襲われ、ふと遠い目をしたが、すぐにその寂しさが、何か故知れぬ温かさに包まれ、自分の内側に膨らんでゆくのを心地よく感じていた。
「この間、お君の祝言に行った時、おばさんから浴衣戴いたの。あれ着てゆこうかな」
「それはいい、そうしなさい。儂も浴衣にしよう」
「はい」
「ところで、里ちゃん」
「何ですか」
「お願いがあるんだけど」
「お願い?改まられると何だか怖いわ」
 そう言った自分の心に、微妙に揺れ動くものを感じて、里はふと戸惑っていた。
「大変だと思うけど、九人分の御重こさえて貰えるかな」
「なーんだ、そんなことですか。お任せ下さい。釣りのお昼をこさえるのも、九人分のお重をこさえるのも、手間はそんなに変わりません、美味しいものをお作り致しますよ。この里に、お任せあれ」
 里はなぜかホッとする自分に、心の中で狼狽えていた。
「良かった。弥吉さんがね、里ちゃんの弁当食べてもらう度に、『美味い、美味い』って言うんでね、その度に自慢をしてたらね、本格的なもの是非食べてみたいってさ。四人分と、弥吉さんとこの家族五人分とに分けてお重にして貰える」
「わっ、頑張らなくっちゃ」
「悪いけど、宜しくね」
「はい、少しも悪くはございません、とても嬉しいことです」

 白地に淡い藍色の朝顔柄の浴衣が好く似合った。
 普段とは違ったその姿に、小三郎は里に女の香を強く感じ、それに戸惑う自分に驚いた。
 久し振りに感じる新鮮な感覚に狼狽え、自分を見失いそうになるのを懸命に抑えた。
 芝まで迎えに来てくれた弥吉の舟に乗り、大川を遡り両国へ向かう。
 両国橋に近づくにつれ、両岸は人の波でごった返していた。大川はというと、矢形船から猪牙舟まで、大小の花火見物の舟が、これまた芋を洗うがの如くごった返していた。
「わー、凄いわね。舟ぶつかりそう」
「弥吉さんの腕は佃島一番、滅多なことではぶつかりゃいたしやせんよ」
花火が弾けると、周りの景色が浮き立つように迫ってくる。その度に両岸から湧きあがるような見物人の歓声が、大きく迫るように響く。
「わー、まるでお芝居の齧り付きにいるみたい、首が痛くなっちゃう」
「さすが、陸から見るのとはちょっと違いやすねぇ」
 浴衣姿の里が嬉しそうにはしゃぐ姿を、何か遠いものをぼんやりと見ているかのように、焦点の定まらぬ目で見ている小三郎があった。
「そろそろ御重開けますか、小三郎様」
「小三郎様、御重お食べになられますか」
 心ここにあらずの小三郎に、里が首を傾げるようにしながら重ねて訊いた。
「あっ、そうだな。ここでは五月蠅い、弥吉さん、少し下流で舟をもやって戴けますか」
「承知致しやした。里ちゃんの御重、やっと食えるぞ」
 ごった返す花火見物の舟の混雑から離れ、弥吉が棹を突き立てると舟をもやった。
「はい、どうぞ召し上がれ」
「おーっ、これは美味そうだ」
「彩りもいいねぇ」
 二つの行燈の明かりに照らし出された重箱の中には、ひとつひとつの料理が、華やぎを競い合うかのように綺麗に盛られていた。
「美味ぇ。こりゃ本物だ」
 最初に煮物を口に入れた弥吉が、感嘆の声を挙げた。
「そうでやしょう。あっしが行くたんびに宿酔いになるってのも分かりやすでしょ」
「なる、なる、絶対宿酔いになる。これが卵焼きってやつですかい、生まれて初めて食うんだよな」
 弥吉が、卵焼きを拝んでから口にした。
「美味ぇ。涙が出る程美味ぇや」
「卵焼きくれぇで泣くんじゃねぇよ。このお重皆食い終わる頃には、親の死に目に流す涙もなくなっちまうぜ」
 芳造が茶々を入れる。
「嬶ぁにも食わしてやりてぇよ」
「優しいんだねぇ、弥吉さんは」
 しんみりと芳造が言う。
「大丈夫よ、弥吉さんの家にも、人を頼んで御重届けておきましたから、みーんな食べてください」
「さすが里ちゃん、抜かりはございやせんねぇ」
「里ではありません。小三郎様のお心遣いです」
「ありがとうございやす。煮物もなんも、皆美味いね、料理屋始めたら、大繁盛間違いなしだ」
 皆の話も聞こえぬのか、川上で打ち上げられる花火をぼんやりと見ている小三郎に、
「それはいいや。小三郎様、どう思いやすか」と、相槌を求めるように芳造が声を掛けた。
「あっ、何か訊いたか」
 芳造の問いにも、まるで抜け殻のような反応しか帰って来ない。
「今日の小三郎様、どうかしてやせんか」
「何でもない」
「いや、少し変ですよ。具合でも悪いんじゃございやせんか」
 少しわざとらしさの籠った感じで芳造が心配する。
「戻りましょうか」
 芳造の言葉に、里は本気で心配している。
「心配はないよ。花火は綺麗だし、お重があまりに美味いし、夢中で食べていたからな」
「そうですか。ならいいんだけど」
 小三郎、初めて抱く女人への恋慕の情なのであろうか。
 五年前に亡くなった妻の高とは、親の決めた話に添って全てが進められ、見合いの席で一度会い、二度目に会ったのは祝言のその日であった。
 出来すぎと言っていい程の武家の妻であった。勿論小三郎にとってもそうであった。好きでなかった訳では決して無い。だが、そんな感情が生まれて来たのは、一緒になってかなりの時を経てからであった。その存在は、最初からそこにあるべくして在った。越えてはならぬ垣根の向こうの、届かぬものに思いを寄せるようなものでは無かった。
 今目の前にいる里に、胸の張り裂けそうな切ない想いを抱いて、五十路の小三郎が、不覚にも己を失い腑抜けのようにそこにあった。
 が、何故か小三郎の心に、いつもなら取り返せるであろう、自分を呼び戻そうとする力は無かった。それを呼び戻すには、花火の光に浮かびあがる今日の里の浴衣姿は、余りにも妖しく美しく眩し過ぎた。

 弥吉に芝まで送ってもらう。
 花火見物帰りの人達が、三々五々、楽しそうに語り合いながら歩いてゆく。
 白金の岡への坂道に掛かる頃には、皐月の闇の中に大方の人は消え、周りは静けさに包まれようとしていた。
 小三郎も、やっと自分を取り戻しつつあった。
 さっきから、里が右足を気にしている。
「花緒擦れか」
「はい」
「大丈夫か、歩けるか」
 小三郎が心配する。
「はい、大丈夫です」
 芳造が、
「じゃぁ、あっしん家はこっち。ここで失礼致しやすよ」と、右の辻に行こうとした。
「今夜は、家で飲んでゆかれないんですか」
「今日はもう充分に戴きやした。三、四日したらまたお邪魔致しやす。今日は御馳走様でやした。、とっても美味しかったでやすよ、里ちゃん」
「はい、お待ちしてますね」
「ふらついてるぞ、転ぶなよ。気を付けてな、もう年なんだから」
「またこれだ、あっしの方が若いっての」
 今になって酔いが回ってきたのか、先程から、ちょっと覚束ない足取りですぐ後ろを歩いていた芳造も、皐月の闇の中に消えていった。
「裸足になっちゃお」
「やはり痛いのであろうが」
「少しだけ」
「往きの下り坂、新しい下駄が悪かったかの。済まぬ」
「いえ、私が悪いんです。少し履き馴らしておけばよかったのに、初めて小三郎様に戴いたんで、嬉しくて。花火の日に新しい下駄を下ろすんだって思い込んじゃったものだから」
 小三郎から下駄を貰った時、里は本当に嬉しかった。まるで死んだ父親から縁日に下駄を買ってもらったかのようで、その夜は子供のように下駄を抱きしめて寝た。
「そうか、ありがとう。喜んでもらおうと思ったのが徒になってしまったな、よしっ、お詫びに家まで負ってやろう。さぁ乗れ」
 小三郎が前屈みになって里を促した。
「えっ、いけませんよ、女中を旦那様が……」
「構わぬ、遠慮は無用だ」
「だって……」
「この闇夜だ、誰も見てはおらぬ。さぁ」
「……」
「構わぬ。それに、初めてではあるまいが」
「えっ」
「ほら、永代橋から……」
「ああ」
「思い出したか」
 手から重箱の包みを取り上げ、下駄も持たせると、小三郎は強引に里を背中に背負った。
「あっ」
 里が、小さな悲鳴を上げた。
 里の身体の、意外な女らしい柔らかさに驚きながら、
「よいしょっ」と、一声、背中の里を抱え直すと小三郎は歩き出す。
 二人は黙ったまま、皐月の闇の中をゆく。
 長い沈黙であった。
 歩くほどに、滲み出てきた汗が、夏の薄い衣に沁みてゆく。
 まるで素肌を合わしているかのように、お互いの身体の火照りが、べっとりと汗を吸った薄い浴衣地を通して伝わってゆく。
「小三郎様」
 消え入るような声で、背中の里が呟いた。
「ん!」
 小三郎が、渇いた喉の唾を飲み込むかのように苦しげに応えた。
「お父っつぁんて、一度だけ呼ばして下さい」
 小三郎は戸惑いに似たものを覚えたが、「いいよ」と、一言ぶっきらぼうに応えた。
 前に回された里の両の手に力が込められ、「お父っつぁん」と、切ない声が小三郎の耳に響き、項にその息が掛かった。
 里を背負う小三郎の手に、思わず力が込められた。
 柔らかな女の太腿に、小三郎の手の指が吸い付く様に食いこんだ。
 その時、里の身体がピクッと反応し、やがて小刻みに震えだし、里の涙が小三郎の項を伝った。
 柔らかな肉体の火照りが、汗に濡れた薄衣を透かし、一層の熱さを小三郎の肉の奥底まで沁み透らせてゆく。
 項を伝う里の涙の冷たさが小三郎の胸を刺し、故知れぬ痛みに、全身に鳥肌が立つのを覚えた。
 そして、静かにその騒めきに似たものが収まって行く時、入れ替わるかのように、小三郎の心にも熱きものが込み上げてきた。
 皐月の闇の静寂が、男と女の情念を、狂おしくも静やかにその胸に満たさんとし、この闇に潜む精霊の化身へ脱皮させんとしていた。
 ドクン、ドクンと高鳴る里の胸の鼓動が、その柔らかな乳房のあたる背中から小三郎の身体に共鳴し、熱くその血を滾らせ、大きく静かに寄せくる波のように繰り返されながら、次第に膨らみ、全身に響いてゆく。
 何かを確かめるかのように、耐えるかのように、小三郎は一歩一歩、ゆっくりと踏みしめるように坂道を登り詰めてゆく。
 背中の里も、下駄を握った手を小三郎の胸の前でしっかりと結び、震える身体をピッタリと密着させ喘ぐように息を継ぐ。
 皐月の闇の中、いま燃えあがらんとする男と女の情念は、危うい拮抗を既に失い、ゆらゆらと陽炎のように揺れながら、二人を包み妖しげに蠢いてゆく。
 二人には、果てしなく遠い道行きのように感じられた。
苦おしく胸を裂かんばかりの沈黙のまま、隠居家に辿り着く。
 台所の框に里を腰かけさせ、
「今盥に水を汲んでくるからな」と、押し殺したような声で小三郎が言った。
「そんな、私が……」
 消え入るような里の言葉が、まだ収まりきらぬ情念の昂りに詰まった。
 小三郎が、黙ったまま里の目を見つめて首を横に振った。
 端折られた汗まみれの浴衣の裾から剥き出しにされた白い足が、明かりも付けぬ台所の闇に浮かびあがり、小三郎の目に眩しく痛い。
 その白い足を桶に移そうと触れた。
足が、恐れを抱く生き物のように、一瞬怯むかのようにピクンと逃げた。
 傷になった指の間を労わるように洗ってやりながら、
「痛いか」と、小三郎が優しく訊いた。
「……」
「待っていろ、今風呂を沸かしてやる。膿むといけない、汗を流して、傷薬を付けるんだ」
「……」
 小三郎が、黙ったまま何か言いたげな里の目を見た。
 縋るような里の目が、その視線に絡みつく。
「済みません、自分でやります」
 小さな、消え入るような声で里が言った。
「その済みませんというのは止しなさい。儂が沸かす、待っていればいい」
「済みません」
「ほら、また」
 引き攣ったような顔で里が笑った。
 情念の残滓がまだ残るその笑い顔は、いつもの可愛い里の笑顔では無かった。
 里が風呂から出たのを見計らい、着替えを持ち、小三郎も湯を使い、汗を流した。
 背中に里と触れ合っていた肌の感触が鮮やかに蘇えって来る。
 柔らかな女の肉体、温かみ、汗の匂い。
その手に触れた、あの太腿の膨よかさ。
 小三郎は、久し振りに感じる、湧き上がるような男の肉の疼きと邪念のようなものを、冷たい水を思いっきり何杯か被って振り払うと風呂を出た。
 丁度、小三郎の床を敷き終わった里が、蚊帳の紐を掛けていた。
 右足に白い包帯が巻かれてあった。
「痛かろう、無理をしなくて良いぞ。床や蚊帳なら儂でも出来るでの」
「ありがとうございます。花緒擦れなんて直ぐ治りますし、そんなに酷くもございませんから」
「が、夏場は膿みやすい、気を付けるんだぞ」
「はい」
「疲れただろう、もう遅い、休みなさい」
「はい」
 小三郎は、また抑えきれぬように湧き上がろうとする己の情念を断ち切ろうと、里から目を逸らし、離れようとするかのように蚊帳の中に潜りこんだ。
 里は、じっと何かに耐えるかのように黙ったまま、蚊帳の外に座り動かない。
 暗い部屋の蚊帳を挟んで、ねっとりと粘り付くような時が、二人の間をゆっくりと流れてゆく。
「うっ、うっ」
 堪え切れぬ嗚咽を漏らし、里が顔を両手で覆った。
「里」
 里の心の高ぶりに共鳴していく自分の心に、小三郎もまた、呻くように声を絞り出し、切なく里の名を呼んだ。
 男と女の抑えきれぬ情念の炎が、互いの心を呼び合うかのように、呼応する。
 その声に背中を押されたかのように、里が蚊帳の裾を持ち上げ滑り込んできた。
 勢いのまま、小三郎の胸にもたれ込む。
 里は、堪え切れぬ何かを、懸命に己の内に包みこもうとするかのように泣いていた。
 危うく脆く、熱く柔らかなその肉体を優しく受け止め、愛おしく抱きしめる。
 その柔らかく温かな肉体は、また小刻みに震えていた。

 夏の早い夜明けに目覚めた小三郎の横に、一糸纏わぬ姿のまま、スヤスヤと穏やかな寝息を洩らす里がいた。
 眩しく、若々しく、綺麗な裸体であった。
 小三郎、思わず触れようとして、その手を止めた。
 小三郎の目が、その新鮮な里の姿に、眩しそうに細くなり、やがて閉じられた。
 その時小三郎の心の隅に、越えてはならない一線を越え、この眩しく美しきものを穢してしまったことへの後悔のようなものが浮かんで消えた。
 目を覚まさせぬ様、そっと浴衣を掛けてやると、静かに部屋を出、小三郎は井戸端へ行き、歯を磨き、顔を洗った。
 身体の全てに、まだ夕べの里の若々しい女の匂いが残っているような気がした。
「お早うございます」
 桶を持つ里の姿が後ろにあった。
「お早う」
 少し恥じらいを浮かべ、目を伏せる里。
 だが、その顔は明るい。
 その明るい微笑みに、小三郎は、自分の心が、なぜかホッと安堵するのを感じた。

 朝餉が済み、後片付けが一段落した頃、小三郎は、里を部屋に呼んだ。
 恥じらいを浮かべ前に座る里が、なぜか小さく見えた。
 小三郎の心に、また後悔に似た痛みのようなものが走った。
 それは、己がまだ若くあったなれば、感じる事も無かった痛みに違いは無かった。
「良かったのか、こんな事になって」
「……」
 黙ってはいたが、里の目はしっかりと小三郎の目を見つめ、そしてまた己の心の奥底を見据え、その言葉に頷いていた。
「門前町のおじさんの所へ挨拶に行こう。このままではいけないだろう」
「えっ、いやです」
 小三郎の言葉に、反射的に里が反応した。
「そう言う訳にはゆかないだろ」
「恥ずかしいもの、そんな事で行くなんて」
「このままと言う訳にはゆかないんだよ、ちゃんと筋を通さないと」
「私はこのままで十分です」
 里の心は、己をしっかりと見据えてはいた。
「儂がお父っつぁんと似ているから、こうなったのか。ただそれだけなのか」
「ご存知だったのですか」
「ああ」
「ここに来た時はそうでしたが、あの時から変わり始め、昨日からは、はっきりと違います」
「あの時?」
「はい。あの侍が斬られた夜です。小三郎様の胸に初めて抱かれた時、息の掛かるほどすぐ目の前にお父っつぁんの顔が感じられ、それがやがて小三郎様の顔に戻って行き、幸せな夢の中にいるようでした。そして昨日、小三郎様の背中に負われた時、里の身も心も、熱い小三郎様の男の身体の中に溶け込んでゆくような、不思議な心地よさを感じたのです。里は、男としての小三郎様を好きになったのです、今はお父っつぁんとは違います」
「昨日、背中で、お父っつぁんと呼んだのはどうしてだ」
「はい、あの時お父っつぁんと呼ばせてもらわないと、明日からは、もう呼べなくなると、そう思ったんです。本当は、永代橋から飛び込んで最初にずぶ濡れで背負われたあの時、お父っつぁんて呼んだんです」
「ずぶ濡れで、背中で何か言おうとして、寒さで声にならなかった時だな」
「そうです。永代橋で舟から差し出された手を掴もうとした時も、あっ、お父っつぁんて、声を挙げそうになったんです」
「そうか、やはりあの躊躇いはそういうことだったのか」
「ずぶ濡れで背負われた時も、小さい頃、こうしてお父っつぁんの背中で揺られていたっけって、思い出して……」
 里の声が震えている。
「だったら、お父っつぁんのままでいた方が良かったのではないのか」
「最初はお父っつぁんだった小三郎様が、だんだん違ってきて、気がつく度に里の心の中で大きくなって、離れてゆかなくなって。小三郎様の目を見るのが怖くて、見られるのが恥ずかしくて。でも、一緒にいられるだけで嬉しくて……。解らない。昨日背中で揺られている内に、汗の匂いが……。私の汗と、小三郎様の汗と、同じになって、頭の中が不思議な何かで一杯になっちゃって、火傷しそうに熱くなって、胸の中も、身体も……」
「そうか、儂も同じだ、大分以前からな、里が眩しく感じるようになってな。先日、お君ちゃんの祝言でひとりになったら、里の事ばかり思い出してな、寂しかった。素敵な浴衣姿の昨日は見ているのがとても辛かった。五十にもなって、こんな感情が自分を襲うとは予想だにしなかった。昨夜、負って歩きながら背中の里がたまらなく愛おしくなって、抱きしめたくなって、だんだんと重くなって。赦してくれるか」
「赦すなんて……、私こそ。背中に揺られてる時、このままここへ辿り着かなければいい。死ぬまでこうして揺られていたい、小三郎様の背中にいたい。着いたら、何をしでかすか、自分が怖くて胸が張り裂けそうになって、息苦しくて口も利けなかった……。でも、やっぱり自分を止められなかった。ごめんなさい」
「謝るのは儂だ。若い里の先の事も考えず、自分を御せなかった。赦してくれ」
「小三郎様、謝らないで。里は、小三郎様が大好き。昨日のように大きな胸の中に抱かれて眠りたい。あの肌の温もりの中で目覚めたい。そして、美味しいものを沢山食べさせてあげたい。死ぬまで一緒に居たい」
「ありがとう」
 小三郎が、里を引き寄せ力いっぱい抱きしめた。
「あっ、痛い、苦しい!小三郎様、」
「ごめん」
「ふふふ」
「ははは」
 小三郎が、里の項の髪の毛をそっと手で弄り顔を近づけると、静かに目を閉じた里の柔らかい唇を求め、重ね合わせた。

 三日程した午後遅く、芳造が来た。
「こんにちは。美味しいものに飢えた男がやって参りやしたよ」
「はーい。只今下拵え中でーす」
 台所から里が応える。
「おっ、芳さん、今日は鯒だよ、鯒、二尺近い大物。そろそろ旬だ、旬の鯒は美味いぞ」
「里ちゃんの腕にかかれば、尚更美味い」
「さっき、弥吉さんの女将さんが来てな、この先まで佃煮頼まれてきたから、鯒と佃煮、お土産ですってさ。花火の時の重箱に、佃煮もいっぱい詰まってた。帰りに持ってゆきなよ」
「ありがとうございやす。鯒、今朝釣った奴でやしょ、洗いだ、洗い」
「うん、今、里が腕振るってる」
「ううっ、待ち遠しいな。えっ、今何と言われやしたか」と、話しの端で小三郎が里を呼び捨てにしたのを、芳造が敏感に捉えた。
「里が腕振るってるって」と言う小三郎の声が、明らかな自分の失態を感じ狼狽え、小さく窄んだ。
 芳造の声も、急に小さくなって、
「小三郎様、お手をお付けになりやしたね」と、咎めるような目つきで小三郎を見た。
「そんなんじゃないよ」
「じゃ、どんなんでやすか」
「訊く、そういう事」
「御訊き致しやす」
 芳造が開き直った。
「芳さんが勘繰ってるような事の成り行きとは違いますからね」
「どう違うんでやすか。あっしはまだ何も言っちゃぁいやせん、勘繰ってもいやせんよ」
こうなると小三郎の立場は弱い、防戦一方である。
「邪推しないでくれる。どう言えばいいんだろ。二人は、相思相愛、相惚れ」と、応える声も益々弱々しく窄んでゆく。
「何が邪推しないでくれでやすか、いい年をして、何が相思相愛なんでやすか、何が相惚れでやすか。二回り以上も違うでやしょ」
 声は小さいが、少し語気が荒い。
「二回りって。そう言われれば身も蓋も無いけど」
 すっかり守勢に回ってしまった小三郎に、芳造が追い討ちを掛ける。
「身も蓋も、へちゃむくれも何もありやっせんての」
「へちゃむくれって、それ儂の事、それとも里の事」
「言葉の綾、綾ですよ」
「あっ、そう。綾ですか」
「話を逸らさないでくださいやし。真面目に応えないと、二度とここの敷居は跨ぎやせんからね。勿論、植木の面倒も見ません」
「おー怖っ。でも、こんな事、真面目に応えられないよ、普通は」
「何をひそひそとお話ですか」
 いつの間にか里がすぐ傍に来ていた。
「わっ、驚かしっこなしですよ、里ちゃん」
「ばれちゃったの」
 バツの悪そうな小三郎、里の目をまともに見れない。
「何がですか?」
「二人の事」
「えっ」
 里の顔が、恥じらいに赤く染まった。
「里ちゃんて言えば良かったのに、つい里って言っちゃったの。ごめん」
「……」
「いいんじゃねぇんですか、男と女、ひとつ屋根の下に二人でいりゃぁ、間違いだって起こりまさぁな」
 芳造が、急に声音を変えてそう言った。
「間違いでは無い!」
「間違いなんかじゃありません!」
 小三郎の声よりも、里の声の方が遥かに大きく高く、怒りの込められた、叫びに近い声であった。
「そんな、本気で怒らないでくださいよ。言葉の綾、綾でしょ」
 芳造が里の怒りにたじろいだ。
「いくら芳さんでも、今の言葉は赦せないわ」
 里の顔が、怒りで上気し赤くなっている。
 だが、芳造は里の怒りを躱すかのように、
「おめでとう、里ちゃん」と、微笑んで返す。
「えっ」
「良かったね、小三郎様に巡り遭えて」
「芳さん……」
 驚いた里が、すぐに言葉に詰まった。
「嬉しいねぇ。あっしはね、お二人、早くこうならないかとヤキモキしてたの。小三郎様、大分以前から少し様子が違ってきやしたもの、里ちゃん見る目が、優しくなって。最初は、娘見ているみたいだったのが、だんだん違ってきやしたよね。花火の夜は、もう心ここにあらず、素敵な浴衣姿に、夢見心地。里ちゃんだって、最初はお父っつあんだった小三郎様が、だんだん好きな人に変って、惚れちゃったんだよね。ちょっと恥じらうような女らしい色気が出て、綺麗になって。花火の夜の浴衣姿なんかもう本当に綺麗だったもの。これは成るように成るぞって、とっくに気付いてやしたよ」
 芳造らしからぬ猫撫で声。
「それで、あの夜、いつもだったらまだ飲み足りない筈なのに、さも酔ったかの如くふらふらと歩いたりして、さっさと消え、気を利かせたのだな。だったら、色々と言わなくとも……」
 小三郎が、いつものように口を尖らす。
「だって、妬けるじゃありやせんか」
「あっ、焼き餅だったの。いい年をして」
「あっ、そういう言い方するんでやすか、自分のことを棚に上げて」
「棚に上げては無いだろ、棚に上げては」
「だってそうじゃありやせんか、どこが違うんでやすか」
「はい、はい、そうですね、焼き餅妬きの芳造さん」
「あっあー、またそう言う言い方をする」
 もうすっかり普段の二人に戻ってしまった。
「二人とも止めてください。兎に角、里は小三郎様が好き。それだけです。今日はもうお飲みになりませんよね、そんなんじゃ、お酒も料理も、味なんか分かりません。井戸の水でもお召し上がり下さい」
 里も普段に戻ったようで、二人の口喧嘩に呆れ果てている。
「あちゃ、怒らせちゃったよ。芳さんあんたが悪い」
「何言ってんでやすか、また人のせいにして。小三郎様が悪いに決まってやす」
「まだおやりになるのなら、外でおやりください。美味しい鯒は里がひとりで戴きます」
「えっ、それは無いでやしょ、鯒ですよ、二尺の鯒。一人で食べちゃうんですか」
「はい、一人で。洗いも、煮物も、天麩羅も、お吸い物も、みーんな里一人で戴きます」
「芳さん、早く謝れ」
「小三郎様でやしょ、謝るのは」
「まだやってる。二人で反省してください」
 里は、そっぽを向きそう言い残すとさっさと台所へ下がって行った。
「お尻に敷かれそうでやすね」
「どうもそうみたいですね、どうします」
「あっしには関係ございやせん」
「そんな事無いでしょ、芳さんが焼き餅なんか妬くから」
「まだやってるんですか、呆れた」
 里が、黒天目の大皿に盛られた鯒の洗いを運んできた。添えられた大葉に白身の鯒の洗いが映える。
「うおーっ、出たー!」
「まるで子供みたい。子供は、お酒は飲みませんよね」
「飲みたい」
 里が、プイッとまた下がって行く。
「あー、いい匂いだ。天麩羅でやすね」
「お刺身と一緒では、子供はお中を壊しますので、一枚ずつですよ」
 食感も楽しめるよう少し大振りに切られた鯒の天麩羅であった。
「はい……」
 母親のような里の言葉に、妙にしおらしい二人の応え方である。
「はい、お酒」
「良かったぁ、本当に飲めないかと思っちゃったよ」
 美味しそうに食べる二人に、
「ふふふ。美味しいですか」と、里が訊く。
「天下一品でやす」
「間違い無く、天下無双。とっても美味しいですよ」
「ちょっと褒め過ぎ、見え見えです。仲良くどうぞ」
「ははははは」

 夏が過ぎ、秋が来て、そして冷たい風の吹く季節がやって来た。
「里、明後日、墓参りに行くぞ」
「市ヶ谷ですね」
「いや、番町のではない、下谷正覚院のだ」
「私の……」
「そうだ。明後日があの大火の起きた日だろ」
「はい」
 その時の大火は、芝から出火し、大風に煽られ風下へ舐めるように広がり、遠く浅草までをも焼き尽くした。数え切れぬほどの死者を出し、ほとんどの者が身元も判らず埋葬された。墓を持つ人々は、自宅の焼け跡の灰や遺品を集め、菩提寺の墓に納め、供養した。

 その日、今にも雪の降り出しそうな空の下、寺の多い下谷正覚院辺りには、あの大火で身内を失ったのであろう多くの人たちが供養に訪れていた。
 小三郎は墓の前で手を合わせ、小さな声で御経を唱える。
読経を終えると、
「里、一緒に報告だ。ここへ来なさい」と、一歩下がって手を合わせていた里を促した。
「はい」
 二人は並んで墓に手を合わせ、自分たちの事を、眠っている家族に知らせた。
「喜んでもらえただろうか」
「はい、皆、里の心は分ってくれています」
「そうか」
 小三郎が、里の肩を引き寄せた。
「祝言を挙げるぞ、五日後の大安の日だ。今、皆に報告をした」
「えっ、いいんですか、番町の方は……」
「構わぬ、あんな煩い分からず屋共は抜きだ。同じ大目付だった朋輩の養女として体裁も皆整えてある。遅くなったな、赦してくれ」
「赦すなんて……。祝言なんか挙げなくてもいいのです、里は。このまま小三郎様と一緒に暮らせるだけでいいのです」
「ありがとう。でもな、里、このままではいけない、門前町おじさんだって、おばさんだって、お君ちゃんだって、心の底から二人の事を喜んでくれてはいても、どこか肩身が狭いのではなかろうかの。そんな皆に里の花嫁姿を見せて安心させてやりたいのだよ」
「小三郎様……」
 里の言葉が詰まった。
「泣くな」
「だって、嬉しい」
「儂も里の綺麗な花嫁姿を見たい。もう花嫁衣装も、祝言を挙げる料理屋も、みな頼んであるんだよ。なっ、いいだろ」
 感極まった里が、その場に座り込んで、泣きじゃくる。
 小三郎は、里の両の脇に手を入れ立ち上がらせると、背中に背負い、墓に一礼し手桶を持つと、墓参の人混みの中を歩き出した。
 冬色の空から舞い降りてきた小さな白い雪が、小三郎の胸の前で合わされた里の手の上ではかなく消えてゆく。
 小三郎は、行き交う人々の目も気に掛けず、その冷たそうな手に、首を竦めるようにして息を吐きかけ温めてやりながら歩いて行く。
                               -完ー
                 
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