第2話 「里」

文字数 16,394文字

                         NOZARASI 14-2
   (二)里

 庭の桜がポツポツと綻び始めた頃、あの女が突然、隠居家に現われた。
「あの折は本当にありがとうございました。折角の楽しい筈の一日をふいにしてしまい、申し訳ございませんでした」
 団子を手土産に持参し、さっさと台所を引っ掻き回し、手際よくお茶を淹れたりなどしてくれる。何だか、先日とは別人のような気がした。
 団子をモグモグと頬張りながら、
「その後どうした、あの馬鹿息子は」と、口の中で籠もってしまう言葉で訊く。
 団子を頬張りながら訊くその姿は、とても大身の武家だとは思えない。
「ふふふ」
 小三郎のその姿が面白いのか、それとも他に何かあるのか、悪戯っぽく、意味ありげに笑う。
 その笑い顔が可愛い。
「何かあったのか」
「それがですね、永代橋から女が落ちたって、誰か間抜けな奴が、慌てて橋番に知らせたらしく、あの後大騒ぎになったようでございます。家にお役人も来ました。先日、この間お借りした着物を返しに佃島の弥吉さんの所にお伺いしたんです。そうしたら、弥吉さんの所にも御番所から役人が来て、事の次第を聞かれたそうなのです」
「それは、あの後釣りに出かけた時、弥吉さんに聞いたよ」
「馬鹿息子、御奉行様の前に呼び出され、きつく絞られたらしいのですが、なんせ、町役から親からでしょ。町役預かり三十日、外出禁止。只今謹慎中」
 そう言って、また悪戯っぽく笑った。
「大人しくなりそうかな」
 団子を口に含んだまま、小三郎が訊く。
「さぁ、付ける薬も無い程の、かなりの馬鹿息子だから、どうなる事やら」と、女は面白がって笑っている割には素っ気ない。
「まっ、この次は私が仲裁してやろう。お前の身体が腐っては可哀想だからな」と、小三郎が冗談めかして言う。
「ふふふ、宜しくお願い致します。元大目付様なら、効き目絶大でしょうね」と、女が悪戯っぽく笑った。
「誰に聞いた」
 小三郎、別に怒ったわけではないが、まだ大目付気分が抜けきらない、少し言葉の端に咎めるような調子が出てしまった。
「あっ、済みません。弥吉さんに」
 女が一瞬焦ったのか、困ったような表情で謝っている。
「あ、いやいや、気にするな。別に身分を隠している訳でも無いしな。ところで名は何と言ったかな。確かあの折聞いたような気もするのだが」
「済みません。私、里と申します。日暮里の里です。永代寺門前町の杵屋という団子屋に世話になっています。親兄弟は十年ばかし前の大火で死に、今は一人です。お父っつぁんの知り合いだった、この団子屋の手伝いをしています」
 十年も前となると、まだ小さい。団子屋の養女ということなのであろうか、
「それは気の毒だったな。頑張れよ、生きていればきっといい事もある。小さな事に負けるでないぞ、儂に出来ることあれば力になろう、いつでも困った時は来なさい。代わりに、その何だな、この団子土産にな」と、優しく諭す小三郎の言葉に、里の目が潤んだような寂しさを垣間見せた。
「ふふふ、美味しいでしょ、この団子の垂れ、私が考えて作ったの」
 が、そう言った時は、もう普段の顔に戻っていた。
「ほう、それは凄い。これは、溜りだろ。それに生姜と、もう一つかな、何か足してあるな。焼き具合も好いなぁ、冷えてきた今でもまだ香ばしい」
「大当たり、良い舌をしてらっしゃいますね。生姜の汁はほんの少し入れてあるだけ、すぐに分る人はそうそういませんよ。でも、もうひとつは秘密。余所の店で同じもの作られると困るから。焼き加減は、おじさんとおばさんの年季かな」
「芳さんにも食べさせてやらなきゃぁ」
 芳造の団子好きを思い出し、小三郎が言う。
「あの人ですね、一緒に舟で助けてくれた人」
 里の顔が綻んだ。芳造に近しいものを感じているのであろうか。
「そうだ。芳さんはな、団子が大好物なんだ」
「じゃ今度来るときは、芳さんの分も持って参ります。芳さんのご家族は何人ですか」
「うーん、ちと多いぞ、七人かな。おばあちゃんに、芳さん夫婦。それに息子夫婦と弟子が二人」
「職人さんでしょ、芳造さんは」
 里の目が輝いた。先程の顔の綻びの訳はその辺りにありそうだ。
「植木屋。腕はいいぞ、儂の屋敷も先代からやってもらっておるし、ここもそうだよ」
「へー、小さいけど、いい庭ですよね」と里が、改めて庭を見回し、そう言った。
「庭が分るのか」
「ふふふ、分る訳ありません、私みたいな者に。ただ、何となく心が落ち着くような感じがして、ボーッとこのまま包まれていたいような御庭だと思ったんです」
 小三郎の問いに、本当にボーッとした感じで庭を見ている。
「うん、それだよ、それでいいんだ。十分に分かっている、大したものだ。儂なんか毎日ここからボーッと見ている」
「ふふふ、ほんとは、ただお暇なだけだったりして」
 里が、悪戯っぽく笑って小三郎の目を見た。
「うーん、お見通しか。ははははは」
「でもほんとに好い庭ですよね。あの柴垣だって、ちょっと低くし隙間を斜に設けて、来る人に『遠慮は要りませんよ、どうぞお入り下さい』って感じで」
「うーん、参ったな、造った芳さんの心までお見通しか。ほら、あの松の枝の向うに富士山が隠されたようにチラリと見えるだろ。あれも芳さんの拘泥り、粋の見せどころ」
 小三郎は、里の持つ外連味の無い利発さと、如何にも町屋の娘らしい明るく気さくな雰囲気に気持ちが和み、楽しげにさせられてゆくのを感じた。

「おっ、久し振りだね。何してたの」
 暫く顔を見せなかった芳造が、垣根を分けて入ってきた。
「芳松の奴、熱出しちゃって、代わりに番町の高井様の庭いじってやした」
「芳松はもういいのか」
「もう大丈夫のようで、今朝は元気に出掛けて行きやした」
「それは良かった。所でな、この間の女な、来たぞ」
「永代橋の女」
「そうだ。美味い団子を持ってな」
 団子と聞いた芳造が、縁側に腰掛けた身体をひとつ前に乗り出すようにして、
「いつ?何処の団子?」と、真剣な目で訊いてきた。
 ちょっと小三郎が気圧されて、
「五日ほど前かな。永代寺門前町の何とかって言ってたな」と、逆に身を引きながら応えた。
「永代寺門前町、杵屋だっ。御手洗団子を焼いてあるのでしょ。ありゃ、美味いんですよ。もうありやせんよね。自分だけで食っちまったんでやすか」
 五日も前の話だということも忘れているらしい。いくら春先でまだ傷むのが遅いと言えども、残っている訳がないではないか。
「団子くらいで情けない顔するなよ。今度来るときは、ちゃんと芳さんの分も持って来るって言ってたから」
 小三郎、呆れ気味に慰める。
「本当でやすか、食い物の恨みは恐ろしいでやすよ。特に団子は好物でやすからね」
 芳造が恨めしそうな目を作って、小三郎の目を覗き込んだ。
「おいおい、なんだよその目は。でも美味かったな、あの団子」
「うらめしやー」
「ははははは」
「今日は、そろそろ鱚釣りの……」
芳造が言い終わらぬうちに、垣根の向うに、里が大きな風呂敷包みを担いだ二人の男と現れた。
「おっ、噂をすれば影。お団子の御到来だ」
 柴垣の方に向いていた小三郎が里に気付いた。
「団子の御到来?何でやすか、それ」
 そう言って、小三郎の目線を追った芳造も、里の姿に気付いた。
 里が会釈をしながら、柴垣の間を分けて入って来た。
「先日はお世話になりました。はい、お団子、芳造さんの分はこれ。七人分、みなさんでどうぞ」
 里が団子の大きな包みを芳造の前に置いた。
「一人で食っちまおうかな」
 ボツリと言った芳造の顔が、どうも本気のようである。
「芳さん、それ七人分だぞ、七人分」
 その気配に、小三郎がまさかと狼狽えている。
「団子でやすよ、団子。あそこのはね、本当に美味い、あいつらには勿体ぇねぇ」
 芳造が里に貰った団子の包みを、誰にも食わせてなるものかという風に、大事そうに懐に抱え込んだ。
 抱え込んだ団子の包みから匂いがするのか、
「あっ、この焼けた匂い、たまんねぇ」と、芳造目を細め、首を小さく左右に振った。
「駄目だ、これは」
 小三郎が、呆れて天を仰ぐ。
「そんなにお団子が好きなのですか」
「団子の天敵」
 里も呆れたように笑っている。
「里ちゃん」
 垣根の向うに若い職人風の男が二人、大きな風呂敷包みを背負ったまま、困ったような顔で里に声を掛けた。
「あっ、ごめんなさい。こちらから入れて、台所の隣の部屋」
 里が慌てて二人の男に謝りながら、背中の風呂敷包みを納戸の方へ下ろすように頼み、先に立って三和土から奥へ行った。
「よし来た。ごめんなすって」
 男達が二人に会釈をし、里に続く。
「台所の隣って。おい、これは何だ」
 今度は小三郎が慌てた。
「私の引っ越し荷物」
「引っ越しって、ここへか」
 小三郎、益々慌てている。
「はい。今日からお世話になります」
「今日から世話に?」
 小三郎、頭の中が少し混乱してきたようだ。
「女中として勤めさせて戴きます」
「女中?」
「この間お伺いしました折、台所が余りに汚く、呆れ果てました。これは、お世話を致す者がおらぬのだと合点致しましたので、一大決心をして参りました」
「一大決心?」
「はい。幸いお部屋も十分にございますし、私はあの納戸部屋で結構ですので、宜しくお願い致します。御給金は要りません、食べさせて戴くだけで結構です」
「あの納戸部屋って、給金要らないって……」
 里のテキパキとした態度に、小三郎がまるっきり押され気味である。
「ははははは、こりゃぁいい。これから夏だ、男所帯だ、蛆が湧きかねねぇ、宜しくお頼み致しやす」
 芳造がいかにも楽しそうに笑いながら里に頭を下げている。
「芳さん、何を無責任な。儂は何も困ってはいないよ」
 小三郎、周章狼狽、縋るような目で里と芳造を代わり番こに見る。
「そんな事はねぇでやしょ。面倒臭がり屋で、寒い日にゃ、昨日の残りを温めもしねぇで冷や飯のまんま冷てぇ味噌汁ぶっ掛けて食ったり、飯も炊ねぇで、酒だけで済ましちまったり。この年でやすよ、身体に良かぁねぇ、絶対に良かぁねぇ。良かったでやすねぇ、小三郎様」
 芳造の口振りに、「やっぱりね」というように、里が小さく頷いて微笑んだ。
「ありがとう。これ少ないけど気持ち、帰りにでもどこかで一杯飲んで」
 里が、帯に挟んであった紙包みを、男の一人に渡して礼を言う。
「ありがとうよ。こんな事でよかったら、またいつでも声をかけてくんな。でも寂しくなるな、団子食いに杵屋に行っても、もう里ちゃんに会えねぇんだよな、元気でな」
 男達はそう言って里に別れを告げると、二人にも再び会釈をして帰って行った。
「お店のお客さんなの、二人とも知り合いの棟梁の所の大工。仕事の明いた日があったらと頼んでおいたの」
 一段落といった感じで里が言う。
「……」
 思案投げ首といった様子で暫く黙っていた小三郎が、里に声を掛けた。
「里さん、だったよね」
「はい」
 小三郎の改まった問いかけに、一瞬、里の顔に緊張が走る。
「困ったなぁ」
 何か言いかけた小三郎であったが、里の「はい」という畏まった返事に腰を折られたのだろう、「困ったなぁ」という、ぼやきに代わってしまった。
「小三郎様、何も困るこたぁありやせんでしょ、渡りに舟でやしょ。お遭いしたのも舟の上、こいつはただの縁じゃない、あなたの棹で何処までも~」
 里の緊張が、芳造の戯けて歌うような言葉に解され、穏やかな表情に戻ってゆく。
「下手な都都逸なんぞ唸っている場合じゃないんですよ、何とかして下さい」
「下手なは余分でやす。それじゃ里さん、お後は宜しく。お団子、御馳になりやすね。春だねぇ、枯れたと思った庭の梅の木に花が咲きやがった。植木屋もびっくりだぁな」
 役者のような節回しでそう言いながら、団子を大事そうに抱え込み、鱚釣りの相談にやってきた事も忘れ、芳造は嬉しそうに帰って行った。懐に団子を抱え込んでいる事の嬉しさだけで無いことは確かであった。

 その日から、小三郎の落ち着かない日々が始まった。
 二日もすると、隠居家は見違えるほどに綺麗に掃除され、
「あれっ、家間違えちゃったかな」と、訪ねて来た芳造が、冗談で帰る素振りを見せるほどであった。
「ほっ、お香香も美味いねぇ。お茶も、同じお茶っ葉で淹れたとは、とても思えやせんね。淹れる人が淹れると、こうも違うもんでやすかねぇ」
 芳造が、さも美味しそうに、お香香を抓んではお茶を飲む。
「悪かったね、いつも不美味いお茶飲ませて」
 小三郎が、わざとらしく口を尖らせる。
「気にしないでおくんなさい。これからは里さんの淹れてくれたお茶で、これまでの分取り返しやすから」
 まるで気にはしていない芳造である。
「ここにずっといて貰うと、まだ決めた訳ではありませんよ。でも、ほんとに美味いな、流石団子屋さんの看板娘ですね」
「えっ、あの団子屋さん、杵屋の娘さん?」
「そうだよ。子細構わず、無責任なことばかり言って、挙句さっさと帰っちまうんだから」
 小三郎が、先日のことを咎める。
「ははは、この分だと、料理の腕もかなりのものでやしょ」
 芳造、これは拙いと、さっさと話題を逸らそうとする。
「これまでがこれまで、儂の作るものは、食えればいい、それだけのものだから」
 そっけない口振りで、小三郎が応えた。
「そうでやすよね。たまにお届けするうちの嬶ぁの不美味いやつを、美味い美味いって食って貰えるのは、小三郎様だけでやすもの」
「何てことを言うんですか。罰があたりますよ。毎日毎日、心の籠った美味しいものを食べさせて貰っておいて」
「ははは、こりゃ藪蛇だ。で、小三郎様、白ばっくれるのは止めにして、やっぱ美味しいんでやしょ、里さんの手料理」
「滅茶苦茶美味しい。芳さんには食べさせたくないほど美味しい。少し太ったかな」
 小三郎、袖口を摘まんで両手を広げ、お中の辺りを見た。
「いくら美味いもの沢山食ったからとはいえ、二日や三日そこらで太る訳がないじゃないですか。畜生、今晩ここで飲んでゆこうかな」と、芳造が口惜しそうに言う。
「はい、どうぞ。美味しい煮物に、何かいい肴を拵えますからね。お酒少ないんで、ちょっと頼んで参ります」
 丁度お茶を淹れ替えに来た里、そう言うと、酒を買いに小走りに出掛けて行った。その後ろ姿が妙に嬉しそうで、小三郎は心穏やかでは無かった。

 それから三日後。
「訊いてきてくれました」
「勿論。近所中訊きまくって参りやした」
「で?」
「永代寺門前町の杵屋の夫婦、団子の評判もさることながら、これがまた頗る評判のいい夫婦なんでやすよ。あの大火でひとりぽっちになっちまった里さんを、小さな団子屋で実入りも少ないでしょうに、引き取って自分の子同然に育ててやってるそうでやす。五つ下の自分たちの子もいるんでやすが、まるで姉妹、何の分け隔てもせずに、ここまで育て上げてきたそうでやすよ。素直に育ってやすものねぇ」
「それが、何でここへ来たの」
 芳造の話に引き込まれ、小三郎の言葉が芳造風に砕けた。
「妹、つまり杵屋の実の子が、里さんに遠慮して、近所の好きな男と一緒になるのを延ばしに延ばしているらしいんでやす。それが、入り婿という事らしく……」
「そうですか。随分悩んだんでしょうね、ひとりでいる時、何だか寂しそうにしていることが多いんですよ」
 言われてみれば頷けることが幾つもある、そのことが心のどこかに引っ掛かっているのだろう、寂しそうにボンヤリとしているのを何度も見かけていた。
「主夫婦が引き留めるのも聞かねぇで、かなり強引に出てきたみたいでやすよ」
「可哀そうに、そうすることが一番いいんだと思い込んでしまったんでしょうね。皆、心が傷ついたでしょう。このままではいけません、皆の心を元に戻してあげなければなりませんよ、芳さん」
「それはもう。ですが、追い返すんでやすか」
 小三郎のキッパリとした口調に、芳造が不安げに訊いた。
「うーん、どうしたものですかね。窮鳥懐に入れば猟師もこれを撃たず、とか申しますからねぇ」
「でも、向こうさんが……」
「そうですよねぇ。大事にされていたんでしょうからねぇ」
「折角、天から救いの神が舞い降りてきたというのに、あーぁ、兎角この世は儘ならぬ」
「救いの神?」
 思わず鸚鵡返しの小三郎に、
「だと思いやすよ、あっしは」と、芳造が自分を納得させるかのように、首を縦に小さく振りながら小三郎の目を「じゃないんですか、そうでやしょ」と言いたげに覗き込んだ。

「おっ、今日も、これまた美味いね」と、里の作った煮物を口に運んだ芳造の顔が綻ぶ。
「でしょっ、鶏のお肉が手に入ったから、一緒に煮てみたの」
「毎日来ようかな」
「女将さんの御許しが出るかなぁ。許し貰えれば、いいんじゃないの」
 小三郎が笑いながら芳造を冷やかすように言った。
「うーん、やはり毎日は無理か。触らぬ神に祟り無しだものなぁ」
「ふふふ、美味しい、美味しいって食べて貰えると、とっても嬉しいんですよね。今度は何を食べてもらおうかしら、なんて考えだすと、また嬉しさが込み上げて来て……」
 里が、涙ぐんだ。
「みんな、喋ってしまいなさい、自分だけで悩んでいてもどうにもならないですよ。このままだと、里さんを大事に思う周りの人たちの心にも、深い傷を残してしまいますよ」
 小三郎が、里の胸に蟠るものを察し、諭すように言った。
「喋っちまいな。小三郎様は、帰れなんて無下ねぇ事は言わねぇよ。言わねぇでやすよね」
 芳造が、自分の言った言葉の後で、確かめるように小三郎を不安げに見た。
「こちらの思うようには参りませんよ。こうやって美味しいもの戴いている間も、傷ついた人たちが苦しんでいるかもしれないのですから。里さん、そのこと分かりますよね」
「はい」
 小三郎の言葉に素直に頷き、里は、これまでの経緯を語った。
 そして、自分の心の内も語った。
「お君のお婿さんに、早く団子作り覚えてもらわないと、おじさん達に何かあった時、大変でしょ。ここは、私が早く家を出た方がいいと思ったんです。あんなに優しくしてくれた皆と別れるのが辛くて、踏ん切りがつかなくて。でも、先日こちらへお伺いし、小三郎様にお会いして、ここならと……」
 長い間悩んでいたに違いない、いつかは杵屋を出てゆかなければならぬと……。面には出さぬが、きっと、縋るような気持でここへ来たのであろう。小三郎は里の心を思いやった。
「人を思いやるってのは難しいものですね、良かれと思ってやったことが、大切な人々の心を傷つけてしまう。かといって、甘えてばかりもいられない。里さんのやったことが悪いとは思いませんよ、みんなきっと分かってくれています。里さんの心の傷も、みんなは知っていますよ。でも、心から寂しがっていますよ、同じように傷ついていますよ」
「はい」
「みんなが好きなんでしょ」
「はい」
「だったらこのままではいけません。みんなも、里さんも、これからずーっと、笑って会えるようでなければいけません。そうでしょ」
「はい。私が間違っていました」
「でも帰る訳にはゆかない」
「はい」
 小三郎の問いかけに、一つ一つきっぱりと応える里の目に、小三郎は一途な心を見た。
「明日、一緒に行きますか、お団子食べに」
「えっ!」
 明日という小三郎の言葉に、まだ心の準備が出来てはいないのであろう、里が驚く。
「一日延ばせば、それだけ傷口は治り難くなりますよ。早い方がいいのです」
「はい。宜しくお願い致します」
 自分の非を責めもせず、残された者達を思いやる小三郎の心に、里はこれ以上迷惑を掛けてはならぬ、戻らねばと思った。が、心の片隅に、一抹の寂しさが渦巻いていた。
「よーし、これで上手くゆく。里さん、安心して小三郎様に御任せするんだね」
 芳造が、里の不安を拭ってやるかのように優しく言った。
「はい」
 また、里が少し涙声になる。
「里さん、お酒」
 芳造が、徳利を持ち上げて「心配要らないよ」というように笑ってお酒を頼むのであった。
 芳造の気遣いも嬉しい、
「はい」と、その気持ちを噛みしめ、里は応えるのであった。
 応えた里の涙顔に、安らぎの色が、小さな笑みと共に差した。
 この時既に小三郎は、口には出さなかったが、人を思いやれる里の優しい心根に負けていた。

 少し飲み過ぎたか、寝覚めが悪い。
「明日にしますか」
 里が、宿酔いの小三郎の冴えない顔を見て心配する。
「水、水を戴けますか。これしきの事……」
 蟀谷を左手の親指と薬指で押さえながら、手渡された湯呑みに注がれた水を、小三郎が一気に飲み干す。
「ぷはーっ、美味い!」
 里が、小三郎のその姿を見て、
「ふふふ」と、嬉しそうに笑った。
「可笑しいですか」
「はい。いえ、小さい頃、死んだお父っつぁんがいつも酔い醒めに同じことやってたの思い出して……」
 さとが、懐かしそうな遠い目をした。
「悪かったね、辛いこと思い出させて」
「いいえ、反対。とても嬉しかったんです」
 里が、本当に嬉しそうに小三郎の目を見つめた。
「そうですか……」
 素敵な笑顔の眼差しに見つめられ、小三郎が少し照れた。

 杵屋の前まで来ると、里は堪え切れぬかのように小走りになり、そのまま杵屋に駆け込んで行った。
「大久保小三郎様よ」
 里が、ちょっと困ったような顔で小三郎を紹介した。
 小三郎の顔を見た杵屋の主が、一瞬、驚きの表情を浮かべた。
「大久保小三郎と申します」
 主の表情に、おやと思ったが、気を遣わせてはと思い、小三郎がその言葉を飲み込み名乗るのであった。
「こんなところへわざわざお運び頂き、畏れ入ります。里がお世話になりまして、申し訳ございません。荷物は後程引き取りにやらせます、ご迷惑をお掛け致しました」
 頭を深く垂れ、詫びる主のどこかに、まだ先ほどの驚きの陰が残る。
「おじさん……」
 ごめんなさいと言葉を続けたかったのであろうか、涙ぐみながら里の言葉が途切れた。
「いや、改めてお願い致したい、里さんをこのままお預かり致したい。如何でござろうか」
「えっ」
 やはり自分はここへ戻らなければならないのだと覚悟を決めていた里が驚く。
「里……」
「……」
 主の声が詰まる。何か引っ掛かることでもあるのか、里もまた、無言であった。
「おまえさん、里の……」
「解ってるよ」
 主は、すぐ脇にいる女将のどこか訳のありそうな言葉を、諭すようにそう言って遮り、
「大久保様、不束者ですが、宜しくお頼み申し上げます」と、深々と頭を下げた。
 すぐ脇で同じように頭を下げる女将の袖を握りしめ、里が泣いていた。
「いやー、良かった。断られたら、今晩からまた不美味い飯を食う事になるぞと、心配致しておりました。良き娘御にお育てになられましたな、大事にお預かりさせて戴きます。これからも宜しくお願い申す」
 小三郎が安堵したように小さく低頭した。
「勿体ない事で、畏れ入ります」
 恐縮したように、しかし、主の顔にも女将の顔にも、安堵の表情が見て取れた。
「ごめんね、おじさん、おばさん」
「お前が一番いいようにしなさい。大久保様にお目にかかれて良かったな、里。おじさんも安心したよ」
 主と女将、それに里、何処か同じ何かを共有している。小三郎はそう感じた。
「姉ちゃん!」
「お君!」
 走り込んできた若い女が、里に飛びついた。
「心配掛けてごめんね。おじさんにもおばさんにも、ちゃんと赦しを貰ったよ」
「馬鹿……」
 甘えるように、里の身体を自分の身体で押している。
「ごめんて言ってるでしょ。このお方が、お世話になってる大久保様」
「姉ちゃんを宜しくお願い致します」
 曲がったものが突然元に戻るかのように直立すると、ペコンと小三郎に頭を垂れた。
「大丈夫、ちゃんとお預かり致しますよ、お君ちゃん」
 コクンと頷いたお君の顔が、恥ずかしそうな、安心したような表情に変わった。
 団子を戴きながら主と話している間、里達は中で楽しそうに話していた。

 里はただ黙って小三郎の後ろを少し離れて歩いている。
 ホッとしたということもあるのではあろうが、何か心に期すものを大事にその胸に抱え込み、その嬉しさのようなものを噛みしめているのかもしれないと、小三郎も敢えて話しかけようとはしなかった。
 まだかまだかと待ち草臥れた芳造が、隠居家の縁側に腰かけていた。
「どうでやしたか」と、まだ垣根も分けぬ前から小三郎に声をかける。
「これお土産。お団子です」
「おっ、里さんありがとうよ。団子の上にその笑顔、という事は、上々の吉」
「そういう事かな」
 小三郎も同じように笑顔である。
「よかったねぇ、里さん」
「はい。心も晴れ晴れ、今日はうんと美味しいものを作りますよ」
「また宿酔いだよ」
「ははははは」
 三人の笑い声が、静かな隠居家の庭に響いた。

「良かったぁ、心の中が昨日までとは全然違っています。あれで良かったんだって、懸命に思いこもうとしてたんです。これでみんなが幸せになれるって。でも私、間違ってました。みんなを悲しませていたんですね。それに自分も……」
「里さんのやったことは、間違ってはいないと思いますよ。それが里さんの優しさ、良いところなんですよ、きっと。でもね、今度の事は、幸いにも、もっと良い解決の手段があった、それを選ぶことが出来た、ただそれだけの事なんです。迷ったら、あまり自分の内に籠らず、人を頼ってみなさい、自分には見えぬものを見つけてくれます」
「ありがとうございました。ご迷惑をお掛け致しました」
 小三郎の言葉に素直に頷き、里は大きく頭を垂れて礼を言うのであった。
「いいえ、人と人とが生きて行くのに、小さな迷惑なんてものは付き物ですよ、笑って赦せるようなものなら猶の事。今日は何だかとても嬉しい気分です、里さん、こちらこそ、ありがとう」
「ありがとうございます、これからも宜しくお願い致します」
 また頭を下げる里の目に涙が溢れた。
「小三郎様、飲みやしょう、飲みやしょう。今日は里さんの御祝いだ」
 貰い泣きをしながら芳造が言った。
「それは駄目だな、芳さん」と無下なく言い放つ小三郎に、
「えーっ、小三郎様らしくもねぇ、見損ないやしたよ」と、芳造が口を尖らした。
「だって、考えてもごらんな、芳さん。儂ら二人、美味い物もなーんにも作れない、作ってくれるのは里さんだよ。それで里さんの御祝いやるの、それって身勝手、変じゃない」
「うーん、そう言われてみればそういう事になりやすかねぇ」
「そういう事になるんです」
「お流れかぁ」
 とまぁ、悪戯っ気で言った小三郎の言葉を、まさか真に受けているのでもあるまいが、本気でがっかりしている様子の芳造を見て、
「ふふふ、やりますよ、私の御祝い。今日から誰憚らぬここの女中です、宜しくお願い致します。さ、腕振るって美味しいもの作りますよ。私の御祝いに、じゃんじゃん召し上がってくださいね」と、里が涙を拭きながらあの可愛い笑顔を見せた。
「ありがとう、里さん」
 小三郎が、里に微笑みかけて礼を言う。
「団子、どうしよう」
「ひとっ走り、家まで行って置いてくれば」と小三郎。
「そうでやすよね。あいつらに皆食われそうで勿体ぇねぇけど、今日の内に食った方が絶対美味い。仕方ねぇや、そうするとしますか。じゃぁ、ちょっくら行って参りやす」
 杵屋の団子に、まだおおいに未練が残るらしい。
「転んでお団子潰すぶんじゃないよ」
「小三郎様じゃあるめぇし。こちとらまだ若いっての、御心配なく」
「たった八カ月でしょ」
「あっしはまだ四十路でやす」
「後ふた月の四十路でしょうが」
「ふた月ありゃぁ、五十三次、京まで行って戻って来れまさぁ。まぁだ立派な四十路だ」
 減らず口をたたきながら、芳造は団子の包みを抱えて走って行った。

「小三郎様って、少し言葉が変ですよね」
「ははは、変も変、本能寺だ」
「何ですかそれ」
「天下がひっくり返るほど変だっていうの」
「変なの」
「おっ、駄洒落で返してきやしたか」
「そんな積りじゃありません」
「ははは、いいってこと。実はね、小三郎様は、この言葉で大目付をしくじっちまったの」
「はぁ?」
「おい、おい」
「ははは、本当は、幕閣の不正を糺そうとして孤軍奮闘、七転八倒。遂には、その事の虚しさ、果敢無さに気付いてね、大目付が嫌になっちゃったの。その苦労で胃の腑悪くして血を吐いたのをいい口実に、隠居願い。向こうにとっちゃぁ、五月蠅いのが居なくなる、これは渡りに舟と、即、隠居御赦し」
 芳造の講釈に、 
「そうだったんですか。胃の腑はもう大丈夫なのですか」と、里が心配する。
「隠居して気が楽になったら、一辺に良くなっちゃった」
「それと、言葉が変なのと、どういう関係があるんですか」
「鋭いねぇ、里さんは。番町の御屋敷じゃなくてね、ここ白金の外れに隠居家を求めたのは、嫌になった侍を棄てる覚悟だったから。侍を棄てた者が、侍言葉は変でやしょ。それで、この芳造が指南役」
「芳さんが言葉の指南役?それで変なのね」
「今の御言葉、この芳造に仰せられたのでござるか」
 少し酒の酔いが回ったのか、芳造の調子が上がってきた。
「ははははは、芳さんのせいではないよ。そこにある刀が、いつまでも離し難いのと一緒だよ。長年の宮仕えで身に染みてしまったものは、中々抜けてはくれないってことかな。難しくてなぁ、隠居と侍と、それに芳さんの職人言葉。しょっちゅうごちゃ混ぜになって、遂いにはこんがらがってしまう。自分でも変だと思うよ」
 小三郎が言い訳をしている。
「小三郎様とあっしは、幼馴染みたいなものでござんす。十二の時から植木の手入れに、親父について御屋敷にお伺いし、何度か御見かけするたびに、なぜだか気になってたんでやすよ。ある時、お屋敷の植え込みの陰で立ち小便。何と隣の植木の陰で小三郎様も」
「目があって、ニヤリと笑いあった瞬間、天から親父の大声。二人とも褌一丁、庭の井戸で水垢離五十回。あの時は寒かったなぁ、芳さん」
 小三郎と芳造がその時を思い出したのか、二人揃って肩を窄め、身を震わせた。
「寒が明けたばかりの頃でやしたからねぇ。凍りついて死んじゃうんじゃねぇかと思いやしたよ」
「私の時より寒そう」
「先代様が、これまた良いお方でやしてね、うちの親父が勘当だって怒るのをね、宥めて下さって。親父が、それじゃぁ申し訳が立たねぇと言い張るのを、『では、儂も小三郎を勘当せねばならぬな』と、この一言でやすよ。親父の奴、ぐうの音も出ねぇや。どうだい、そんじょそこらの殿様とは訳が違うだろ」
 自分のことでもないのに、踏ん反り返り過ぎて後ろにひっくり反りそうな芳造である。
「へーっ、御心の広いお方なのですね」
「もう死んじまったがな、いい親父だったな。それ以来の腐れ縁だよな、芳さん」
「小三郎様には腐れ縁でも、あっしにとっちゃぁ勿体ねぇ縁でさぁ」
 芳造が涙声になって、右手の甲で鼻水をしゃくりあげる。
「芳さんも隠居してから涙脆くなっちまったなぁ」
「芳さんも御隠居様なんですか」
 里が少し驚いている。
「ドジだから、猿も何とか。植木屋が梯子から落っこちちゃってさ、四十ちょいでもう御隠居様」
 小三郎が、フフフといった風に笑う。
「梯子から落ちたんですか、怪我なされたんですね」
 小三郎の連れない言葉を余所に、里が芳造を気遣う。
「腰がね、腰が立たなかったの、半年近くも」
 芳造が腰のあたりを押さえて、苦しげな素振りをした。
「半年も寝たきりだったんですか」
「そうだよ。立派な息子がいたから良かったの、芳松っていうんだけどね。これがね、まだ若いのに、誰もが一目置く素晴らしい腕の持ち主。とても芳さんの血を引いたとは思えないほどのね」
 また小三郎が、芳造の負けん気を擽る。
「あら、ここの御庭は芳さんの手なのでしょ。私この庭眺めていると、自然と心が落ち着いて、大好き」
 芳造の顔が笑顔で一杯になる。
「ありがとう。里さんは、こんなに優しいのにねぇ」
 芳造が、その笑顔の面持ちをがらりと変え、首を回すようにし、怨みを込めたような目で小三郎を見た。
「優しくなくてすみませんね」
 小三郎、サラリと返す。
「私のお父っつぁんも、お祖父ちゃんから跡継いで、四人ほど職人さん預かってた大工だったんです。だから、職人さんの仕事見てるの大好き。見ているうちに、形の無いものから何かが出来上がって行く。時の経つのも忘れて見とれちゃいます、いいですよねぇ、職人仕事は。だから私も何か出来ないかって考えたの。いろいろ悩んだけど、私はお料理」
「それで、里ちゃんの料理は職人肌足なんだ」
「そうか、親父さんが大工だったのか。大工はいいよなぁ、あの金槌の音、何とも言えない心地よい響きだ。トントントン、毎日夢見心地で見ているうちに、あんな大きなものが、人の力で出来上がって行く。そんな事の出来る奴が羨ましい。儂も、職人の仕事見ているのが楽しくて、あの時も、芳さんたちの植木仕事に見とれていたら、芳さんが……」
「人の見ると、自分もやりたくなるんでやすよね、なぜか」
「そう云う事。連れション、あれは女子には解らんだろうなぁ。それで親父に見つかっちまった。ありゃ、先にやった芳さんが悪い」
「あっ、何十年も前の事を、今頃になって他人のせいにして、それはねぇでやしょ、それは」
「いや、絶対芳さんが悪い」
「いやだ、何を下らぬことで争ってるんですか。知らない人が聞いてたら、笑い者ですよ」
 里が、呆れ顔で笑った。
「ははははは、申し訳ない」
 小三郎が照れたように謝る。
「ところで里さん、里さんて呼びにくいよね、何かいい呼び方ないかな」
 小三郎が里に訊いた。
「団子食べに来て下さってたみんなには、里ちゃんて呼ばれてたんですけど、それでは駄目ですか」
 里の応えに、
「里ちゃん。うん、いいんじゃないですか。可愛い女の子みたいで」と、小三郎がウンウンと頷きながら賛同した。
「みたいでですか。可愛く無いうえに、行き遅れの年増で済みません」
 ちょっと拙かったかなといった顔の小三郎。
「おっ、早くもこの隠居家の住人になって来やしたね」
 芳造がすぐに助け船を出す。
「それどういう事ですか」
 里の怒ったような口振りに、
「口が……」と、芳造が言い淀む。
「そういう事ですか。気をつけなくっちゃ、お二人と一緒にされちゃうと、益々行き遅れちゃうわ」
 里が、手で口を押さえて言った。
「わっ、一段と厳しいお言葉」
「ははははは」

雨上がりの皐月の風が、じめじめとした蒸し暑さを吹き飛ばし、空には雲ひとつ無い心地よい日であった。
「小三郎様。大変でやすよ」
 庭に入ってきた芳造が、いきなり小声でそう言った。
「里ちゃんは……」と、周りを気にしながらキョロキョロしている。
「芳さんの大変はもう聞き飽きてますけどね。里ちゃんは裏の井戸じゃないですか。さっき、野菜持って井戸の方へ行きましたから」
 「今日はね、野暮用で本所まで行ったんでやすよ。帰りに、この先は永太寺門前町だなぁなんて思ったら、無性に杵屋の団子が食いたくなりやしてね、店まで回ったんでやすよ。はいこれ」
 芳造が、団子の包みを縁側に置いた。
「ありがとう。この団子の何所が大変なんですか」
「そうじゃありやせん。里ちゃんの死んだお父っつぁん」
 右手の甲を口に添え、さらに小声で言った。
「あの大火で死んだという」
 小三郎も引き込まれて小声になった。
「そうでやす」
「何でそんな昔に亡くなった方の事が大変なんですか」
「主に聞かれるままに、小三郎様の事を話してたんでやすよ」
「また下らないことをペラペラと」
 小三郎のその言葉に、芳造が真顔になって、
「違いやすよ。いつあっしが小三郎様の事を下らねぇ話のネタに致しやした。これは心外だ」と、少し怒った。
「言葉の綾ですよ、綾。それより何が大変なのですか」
 小三郎、芳造の剣幕にちょっと気圧されている。
「ほい、大事な事を忘れるところだった。主が言うにはですよ、里ちゃんが、小三郎様の所に来る決心をしたのは、どうも、その死んだお父っつぁんに、小三郎様が良く似てたからではないかと言うんでやすよ。あの時主は、里ちゃんを何が何でも引き留める積りでいたそうなんでやすが、小三郎様の顔を見た途端、あっ、これはと、合点が行ったそうなんでやす。女将さんも同じだったそうでやすよ。あの時、そのことを言おうとも思ったらしいんでやすが、元大目付のお武家様に失礼になるのではと、言いそびれたそうなんで」
 芳造が、里を気遣い小声で話しながらも、その身を更に小三郎の方へ押し出すようにして来る。
「私が、里ちゃんのお父っつぁんに似てる?」
 少し虚を突かれたような小三郎の声も、更に小さくなる。
「はい、それもかなり。ほとんどそっくりらしいんでやす」
「ほとんどそっくりですか」
「十かそこらで親兄弟を皆一辺に亡くしちまったんでやすよ、父親にそっくりの、蛆の湧きそうな五十男が、哀れ寂しく人里の外れの一軒家に隠居しているとなると……」
「ウジ!哀れ寂しく。ちょっと芳さん、それは無いでしょ」
「言葉の綾、綾でしょ」
「あっ、あや、綾ですね」
 小三郎、芳造に放ったさっきの一矢、見事簡単に切り替えされてしまった。
「里ちゃんとしては、これはほっとけないでやしょ」
「そういう事になりますかね」
「絶対そういう事になるんでやす!」
 小声だが、芳造の語気が強くなった。
「芳さん、話しを面白くしたいんで、自分の都合のいい方に考え過ぎじゃありませんか」
「ありやっせん!」
 芳造の語気がさらに強くなってゆく。
「そうですかねぇ」
 逆に、小三郎の声は尻窄みに小さくなってゆく。
「死ぬまで面倒見てくれやすよ」
 芳造の険しかった顔が急に崩れて、声まで優しくなった。
「えっ、どうして」
 芳造の応えを聞くのがちょっと怖そうな小三郎の問いかけに、
「だって、奥方様お亡くなりになられてもう五年でやしょ。誰も面倒見てくれそうな人居無いじゃないですか。義智さまの奥方様に見て戴くんでやすか」と、鋭く芳造が迫る。
「百合は、義智には勿体ない程の良く出来た嫁で、多分何も言わなくても、私の面倒、ちゃんと見てくれると思いますよ。でも、私がそれを望むということは決してありません。無いから芳さんに頼んで、番町から離れた芳さん家の近くに、この隠居家探して貰ったんでしょうが」
「ほら、だったら……」
 芳造の言葉に、こういう暮らしをしてみれば当然のこと、胸につまされる思いは多くある、小三郎は黙り込んだ。
 小三郎は、今までの里との出会い、暮らしの中で、いくつかの思い当たるような節を思い出していた。そう言われてみれば、そんな感じのする時が何度かあったような気がしてくるのであった。
「あっしの大変、聞き飽きやした?」
「本当に大変ですよね。お嫁入りの事も面倒見させてもらおうかなと思っているんですけど……」
「何か秘密の御相談ですか。今夜も飲んでいかれるんでしょ」
 やはり裏の井戸で野菜を洗っていたらしく、笊に入れた野菜を持った里が、縁側の端で笑っている。
 芳造が少し慌てている。
「あら、お団子の匂い。この匂い、杵屋のでしょ、嬉しいな。久し振りだわ、ありがとう芳さん。お礼にうんと美味しいもの作りますからね」
「宜しくお願い致します」
「なんだか変ね」
「何がでございますか」
「ほら、その丁寧な言葉づかい、なんか変だわ」
 小三郎、複雑な顔で笑いを噛み殺している。

          皐月の闇に 第二話「里」おわり
                 第二話「夜襲」へ続く
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