第1話 「大川の出遭い」

文字数 8,306文字

                         NOZARASI 14-1
 皐月の闇に
 (一)大川の出遭い

 白金の岡の外れの隠居家に、春浅い午後の日差しが穏やかな温もりを醸し出し、小ぢんまりとしてはいるが、好く造られた庭のそこここの木々の芽も芽立ち始め、その幾つかはもう綻ばんばかりに膨らんできていた。
「小三郎様、今日もお暇なようで」
 腰丈ばかりの柴垣の間をすり抜けて、庭師の芳造が現れた。
 勿論この庭を造った植木職人である。
 訪れてくれる人に、出入りのし易いようにと、柴唐戸を設けず柴垣を互い違いに組み、人の通れるだけの隙間を明けてある。まるで、三日と明けずに訪ねて来る自分のために作ったようなものである。
「ああ、暇、暇、暇の暇だらけ、欠伸だらけですよ」
 小三郎が口に手を当て、小さな欠伸をしながら応えた。
「春でございやすからねぇ、こんなぽかぽか陽気に、日がな一日縁側にボケーッとしてちゃ、欠伸の方だって出てきたくて仕方がございやせんでしょ」
「ははは、欠伸の気持ちが分るのか、芳さん」
「暖かくなりやしたね、そろそろこれっ」
 芳造が、右手で釣り竿を煽る仕草をした。まぁ大概、釣り好きはそれで通じる。
「おっ、やっとそんな季節になってまいりましたか。でも、急なことでは弥吉さんも困りはしませんか」
「へへへ、この芳造に抜かりはございやせんよ。一昨日、駒込まで野暮用を足しに出掛けやしてね。その足でちょいと遠回り」
「清ちゃんのところから佃島へ回ったということですね」
 皆まで言わせず、小三郎が後を継ぐ。
「こう暖かくなると、何でしょうねぇ、虫が疼くんでさぁ」
 芳造が、小さく憤かるように肩を揺すって見せる。
「して、何が釣れていると言っていました」
 小三郎も釣られて小さく肩を揺すりながら身を乗り出してくる。ははは、もうその気である。
「まだ、鰈ぐらいだそうで」
「鰈か。ブルッ、ブルッン。うっ、あの小気味好い引き、たまらんな。行こう芳さん」
 更に、小三郎が今にも立ち上がらんばかりに腰を浮かそうとする。
「あのね、小三郎様、もうとっくにお午を回っていやす。明日でやすよ、明日。これからじゃ夜釣りになっちまう、まぁだ夜釣りにゃ早いでやしょうが」
 芳造が呆れ顔で言う。
「そう言われてみればそうですね、明日かぁ」
 がっかりした様子で腰を落とした小三郎に、
「何考えてんのかね、よっぽど暇なんだ」と、芳造が追い討ちを掛ける。
「そう、あたしゃ暇ですよ。暇で悪うござんしたね」
 一冬という無聊の時を過ごし、やっと釣りが出来ると喜び勇んで思わず腰を浮かしたバツの悪さも手伝ってか、小三郎が少し邪慳に言葉を返した。
「すぐ僻む、悪い癖だ。これが無かったら後添えだってごまんと来やしたものを」
 我関せずと、芳造が減らず口で切り返す。
「大きにお世話。ごまんと来たのを、私がお断りしたの。千切っては投げ、千切っては投げ」と、小三郎が、両手を振って見得を切る。
「見得なんか切らないの、三件でしょ、たったの三件」
 芳造が指を三本立て、強調するように振って見せた。
「見合いしたの三件だって、知ってたんだ。でも、たったの三件て、そんな言い方はないでしょ」
「小三郎様くらいの大身だったら、幾ら隠居でも、十件やそこらはあって当たり前でしょ。それが三件、たったの三件でしょ」
「そう言われてみればそんな気もしないことはありませんが、それにしてもよく三件だとご存じのことで」
「地獄耳の芳造を甘く見られちゃ困りやす」
「地獄耳?何処にでもありそうな耳のくせして。男の耳年増なんて、おー、気色悪」
「またこうだ、お口が悪い。これも悪い癖だ」
 相も変わらぬ二人の会話である。
「大川の風はまだ冷たいだろうなぁ、綿入れ要りますよね」
 小三郎が肩を窄め、如何にも寒そうな身ぶりをした。
「ねんねこ半纏、ねんねこ半纏」
「そうですよね、あのねんねこ袢纏はいいですよね、前で合わせれば大事なところも冷えないしね。芳さんのやつを真似て作ってもらおうかと思ったんだけど、暮れに番町に顔を出した時、お光の古いやつを見つけてね、百合に、袖を外し少し大きめに縫い直しを頼んでおいたのが届いてますからね、今年は大丈夫ですよ」
 孫のお光の話になると、ははは、爺馬鹿、小三郎の相好が崩れる。
「お光さまの。それは尚のこと温けぇや」
 芳造もお光の顔を思い出したかのように、嬉しそうに相好を崩し、そう言った。
「芳さん、清ちゃんはまだなのですか」
「去年の秋に所帯持ったばかしでやすよ。まだ十月十日も経ってやせん。それに、こればっかりは神様からの授かりものでやしょ、トントン拍子にって訳にゃ参りやっせん」
「それもそうか。今度清ちゃんに会ったら、頑張るように言っとくよ。孫は可愛いぞぉ」
「余計なお世話。そのうち玉のような男の子が、お清にも芳松にも授かりやす」
「どうして男って分るんですか、仕込みも終わってないのに」
「あっしの所は、みーんな最初の子は男なんでやす。あっしも最初、親父も最初、おふくろのところも、近い親戚はみーんな一等最初は男の子が生まれてるんでやす」
「それは凄い、羨ましい。あれっ、芳松は清ちゃんの弟じゃなかったっけ」
 武家の小三郎にしてみれば、第一子が男か女は天下の一大事であろう。それにしても、芳造の話はちょっとおかしいではないか。子供は二人、去年の秋、駒込の植木屋に嫁いだ娘清は、息子芳松の姉である。
「あいつは、親不孝者だから」と、そ知らぬ風に、芳造が吐き捨てるように言った。
「あんないい息子を親不孝者だなんて」
「一等最初に生れて来なかったのだけが、親不孝だっていうの」
「あらら、自分の不始末を芳松のせいにしちゃって」
「不始末は無いでやしょ、不始末は」
「まっ、いいんじゃないですか。優しい清姉ぇちゃんのいたお陰で、芳松も親に似ず、優しい、いい男に育ったんだから」
「芳造は、あっしに似たんでやす」
「都合のいいことは自分似にしてませんか。世間じゃ、瓢箪から駒って噂ですよ」
「何処の何奴がそんな事を。耳も鼻も、その性ねぇ口も、みーんな剪定してくれる」
 如何にも植木屋らしい台詞が芳造の口をつく。
「わ、た、し」
 芳造の息巻くような口振りに、小三郎が自分を指差して笑った。
「あっ、そう」
「明日は、芳さんに背中を向けないようにして釣りしなくっちゃ。大川へドボンッ」
「精々お気を付け下さいやし」
「おお怖っ」
「では明日、早朝に。これから芝まで野暮用でやす。何か序でのご用はございやせんか」
「ありがとう、今のところ間に合ってます。明日は寝坊しないで、早く来て下さいよ、首を長くして待ってますからね」
「早く来ても仕方ないでやしょ。それより埃だらけの竿と仕掛け、改めといた方がいいでやすよ。ひょっとしたら錆びてるかも」
「刀じゃあるまいし。でも、早速引っ張り出して見ますかね、ありがとう、芳さん」

 寒い冬の間、釣りが出来ずにいたせいで気が逸るのか、小三郎は早くに目が覚め、昨日の口振りとは裏腹に、随分と早く来た芳造と、せかせかと出掛けてゆく。
 まだ明けやらぬ白金の坂道を、白い息を吐きながら、何かに押されるような勢いで芝へと下ってゆく。
「昨夜はあまり眠れやせんでした」
 芳造が眠そうに言う。
「私もおんなじ。早くに目が覚めてしまい、芳さん来るのを今か今かと首を長くして待ってましたよ。ちょっと早すぎて、弥吉さん、まだ来てないんじゃありませんか」
「かも知れやせんね」
 大分早く芝の船着き場に着いたが、佃島から迎えに来た弥吉は、いつもの小さな船着き場に船を寄せ、煙管片手に紫煙を燻らせながら、Fぐたりの到着を今や遅しと待ってくれていた。
「さすが弥吉さん、承知してますねぇ」
「初釣りだ、どうせ眠れずに早く来るに決まってるって。ははははは」
「はい。魚の心も、釣り人の心も、みんなお見通し」
 夜明けの冷たい空気に溶け込んだ汐の香が、どこか懐かしいような優しい匂いを放っている。昼間の日を浴びた、あの噎せ返るような匂いとは違い、小さく深呼吸し吸い込んだ胸の奥に、穏やかに馴染んでゆく。
 その確かな感触を楽しんだ小三郎が、小さく微笑みながらもう一度大きく深呼吸をする。
 小三郎は、釣りに出掛ける時の、この心ときめく一瞬が、幼き頃に返ったようで大好きなのであった。
 たった一度、父に連れられ、ここから釣りに出た。亡くなった父との唯一の遠出の釣りであった。
 あの時の懐かしい匂いが鼻をくすぐり、楽しかった父との思い出が甦る。
 父の馴染みの船頭は、弥吉の父親、藤吉であった。互いの代が代わっても付き合いは続き、七十に近いというのに元気に棹を取ってくれていた藤吉が、一昨年の冬、急に倒れ、そのまま帰らぬ人となってからは、弥吉が代わって付き合ってくれていた。
「今年も宜しくお頼み致しますよ」
「はい、御前様」
「それはもう止しにして下さいとお頼みしましたでしょ」
「でも、漁師風情が、元大目付様を、小三郎様では……」
 弥吉が、困ったような顔をした。
「そんなお方じゃ無ぇんだよ、このお方は。小せぇことなんぞ気にはなさらねぇ。そんじょそこらのお殿さまとは器が違いますっての。何度言えば分かるの弥吉さんは」
 芳造が、ええいじれったいとばかしに捲し立てる。
「ですが……」
 弥吉の煮え切らぬ返事に、芳造が、
「大久保様。ううん、これも辛気臭い。だったら、御隠居様でどうだい」と、畳みかける。
「いくら隠居したといっても、何だか年寄り臭い呼び方ですよね」
 小三郎は、不服のようである。
「今度は小三郎様もだ。ええい、七面倒だ、旦那で行きやしょう」
 気の短さそのままに、芳造が、どうでもいいやなという風に言う。
「旦那ですか。旦那ねぇ」と、小三郎も煮え切らない。
「旦那でも不服なんでやすか。贅沢だったらありゃしねぇ」
「確か弥吉さん、三代前は上方の方から来たんだって言っていましたよね。『旦さん』、それで行きまひょか」
「いけねぇ、それはいけねぇよ、止めてくだせぇ、江戸っ子が旦さんでは様にならねぇ。行きまひょかなんて、おーお、気色悪、鳥肌が立ってくらぁ」
 芳造が小三郎の言葉に、両の二の腕を摩る仕草をする。
「そうですかねぇ。弥吉さんはどうですか」
「どちらにしても、畏れ多くていけねぇや」
 弥吉は、まだ困ったような、怒ったような顔をしている。
「まっ、今日の所は旦さんで行きまひょか。隠居が遊ぶのに、身分も何も、そんなものは邪魔になるだけでしょ。三人お仲間、無礼講で行きまひょか」
「親しき仲にも礼儀ありとか申しやすそうで。私なんぞにそんなものは使い分けられそうもございやせんが、御前様がそう御望みなら、失礼を承知でそう呼ばせて頂きやす」
「ありがとう。芳さんも旦さんでどうですか」
 不服そうな素振りの芳造の顔色を覗いながら、小三郎が訊いた。
「小三郎様、あっしはね、生粋の江戸っ子でやすよ。小三郎様の方が性に合ってやすね。幼名って云うんでやすか、お小さい頃の名。あの頃から呼び馴れてるんだもの、隠居なされて、義智って名は、後を継いだ今の義智様にお譲りなされた。あの頃は、小三郎様ってなかなか呼べずに寂しゅうござんした。年寄るってのは、子供に還って行くようなところもあるじゃございやせんか。小三郎様って呼ばせて戴くと、何だかあっしも子供の頃に戻ってお付き合い戴いているようで、嬉しくなるんでやすが、小三郎様ではいけやせんか」
 芳造が少ししんみりとして、左手の甲で鼻をぬぐった。
「いえいえ、私もおんなじ。小三郎って呼ばれると、何だか悪戯盛りの子供に戻れたようで、芳さんと居ると妙にワクワクするんですよね」
「そうでございやしょ。ワクワクするってことは、長生きの秘訣でやす。隠居ぶってちゃぁ、あっという間にヨボヨボの爺様になっちまいやす」
「さすが芳さん、我が意を得たり。弥吉さん、そういうことですので」
「では小三郎様、今日は何処へ」
 弥吉が日焼けした顔に優しい笑いを見せながら、ちょっと戯けた口調で訊いた。
「いつものように弥吉さんにお任せしますよ。釣れる釣れないは時の運、何処なりともお気に召すまま」
「あっ、それでは弥吉殿、ぼちぼちと参りやしょうか」
 芳造が、やおら立ち上がって、役者のように振りを付けながら言った。
「ははは、芳造さんには敵わねぇや。上げ汐に乗って少し上へ参りやすか。鰈も永代橋辺りまで釣れてるようでやすから」
 春とはいえ、まだ川風の冷たい大川の水面を、弥吉の舟が滑るように進んでゆく。
「いつ見ても見事な棹捌きだねぇ。まるで水澄ましのようだ、揺れもしねぇや」
「惚れ惚れしますね」
 ふたりして、いつもながらに見事な弥吉の棹捌きに感心している。
「からかっちゃいけやせんや。ガキの頃から舟乗ってんでやすよ。誰だってこれくらいはできまさぁ」と、少し怒ったように弥吉の言うのも構わず、
「いえいえ、佃島一番でしょ」
「間違いねぇ。釣れるところも滅多に外れたことがねぇ。てぇしたもんだよ」と二人、更に誉めあげる。当の弥吉は、苦笑いである。
 永代橋が間近に迫ってきた。 
「何だか橋の上が騒がしいようでやすよ」
 弥吉の言葉に、三町ほど先に見える永代橋に目をやると、日本橋の河岸界隈へ出かけるのだろう、早朝にしては賑やかに人々の行き交う橋の中ほどで、若い女らしき者を、数人の男が橋の欄干に追い詰めようとしていた。
「あれ、女だ。女が男達に囲まれていやすよ」
「ああっ、落ちた。いや、自分から跳んだのかな」と、弥吉と芳造が少し慌てている。
 着物の裾が翻って、白い足を膝の上辺りまで露わにしながら、女は水飛沫をあげ大川へ飛び込んだ。
「弥吉さんっ」
「承知!」
 小三郎の声にすかさず応じた弥吉が、見事な棹捌きで、あっという間に、着物のまま器用に泳ぐ女の側にピタリと舟を付けた。
「掴まれ!」
 小三郎の差し出した腕に掴まろうとして目を合した女が、一瞬の戸惑いを見せ、その口が何かを言おうとして閉じられた。
「悪いねっ、おじさん」と、小気味好い一言。小三郎の引く力を巧みに利し、ずぶ濡れの着物を引き摺るように、女は舟に上がった。
「畜生!あの馬鹿息子。この寒いのに。あっ、失礼致しました。お助け頂きありがとうございます。里と申します」
 この高い永代橋を思い切って跳んだ興奮もあるのか、町屋で奔放に育った娘の、少し甲高く小気味好い調子の口調が耳に擽ったい。
「それより寒かろう、早くこれを着なさい」
 小三郎が、件の半纏を脱いで渡す。
「済みません」
 小三郎のねんねこ半纏を上から羽織ったが、やはりずぶ濡れ、すぐに女はガチガチと歯を鳴らし震え始めた。
 小三郎が弥吉に一言、
「弥吉さん、引き揚げだ。急いでくれ」と声を掛けた。
「承知っ、みなさん、少し後ろへ寄って下さいやし」
 そう言うと、弥吉は棹を操り素早く舳先を下流に向けると、舳先の回り込まぬ先に艪に持ち替え、漕ぎ始めた。
 橋の上の騒がしさを後に、舟の重心を少し後ろへずらし、舳先を僅かに水面から浮かした舟は、信じられない速さで上げ潮の流れに逆らって、佃島へ向かって走った。
 着いた時には、女の唇はどす黒く紫色に変わり、顔色も真っ青になってきていた。
「家へ来て下さい!先に行って嬶ぁに火を起こさせやす。着替えも嬶ぁのやつを用意させやす。担いでたんじゃ速く走れねぇ。申し訳ねぇがお願い致しやすよ」
 弥吉は、そう言いながらもう走り出していた。
 小三郎、いつも芝から弥吉の舟に乗り、釣りが終わるとまた芝へ戻っていたので、弥吉の家を知らない。
「芳さん、案内を頼みます」
「小三郎様、あっしが」
 女を立たせ担ごうとする小三郎に、芳造が気を使う。
「大丈夫。芳さんは、また腰を痛めるといけません」
 小三郎は女を背中に担ぐと腰を落とし、芳造の後を早足で歩き出す。
 女の震えが背中から伝わる。
「寒いか」
「大丈夫。お……」
 その言葉は弱く、大丈夫そうもない途切れそうな声が背中からした。後から何か言おうとした声が、ガチガチと合わさらない歯の音の中に消えた。
 着替えて火に当たり、弥吉の女将さんに背中を擦ってもらいながら白湯を飲む女の顔に、だんだんと生気が戻って行く。
 見守るみんなもホッとしたような面持ちを浮かべ、その場の雰囲気が少し和らいでゆく。
「どうしたというのだ」
 小三郎が、女の一息つき、落ち着いたのを見計らって訊いた。
「済みません。嫌な男達に囲まれちゃって、どうしても逃げ場がなくて」
「やはり落ちたのではなく、自分から飛びこんだのか。あの高さを」
 小三郎が、呆れたといった口振りである。
「男だって、永代橋からは生半可な度胸じゃ飛び込めねぇや」
 芳造も、永代橋の高さを手で示すようにしながら呆れている。
「大川は庭みたいなものだから、平気。でも、まだ如月の初めだってことをケロッと忘れてました」
 女はちょっと悪戯っぽく表情を崩し、はにかむように微笑んだ。
「ははは、寒かったであろう。ガチガチと歯が鳴って、見ているこちらも寒さに震えたぞ」
 ちょっと可愛いその笑顔に、小三郎も心が解されてゆく。
「済みません」
 女が、小さく頭を下げ、謝った。
「よい、気にするな。それより、そ奴、余程嫌われておると見えるの。お前を永代橋から大川へ跳ばせるほどにな」
 女の次第に元気になり、その顔に明るさの差してゆくのを見て、皆の気分が一層明るくなり、小三郎の言葉に和んでゆく。
「日本橋の大店の馬鹿息子。顔を見ただけで反吐が出そうになるって云うのに、ずーっと私に纏わりついて。多分、岡場所からの朝帰りね、永代橋を渡り切ろうとする所で偶然だか何だか知らないけど、取り巻きのごろつきみたいな連中と歩いて来るのに出会っちゃって。欄干へ追い詰められて、身体触られそうになって、夢中で跳んじゃった。あんな奴に触られちゃったら、身体腐っちゃう」
 女が、如何にも思い出したくも無いという風に身震いをし、縮こまるような仕草をした。
「ははは、その馬鹿息子、よくぞそこまで嫌われたものだ」
「ひょっとしてその馬鹿息子、越後屋の」 
 芳造が思い当ったのか、ははーんと言いたげな顔で、そう女に訊いた。
「大当たりー」
 すっかり元気が出てきた女が、ちょっと剽軽に応えた。
「そんなに悪いのか、その越後屋のは」と小三郎も訊く。
「悪いも悪い、親の金に飽かせ、飲む、打つ、買うの三拍子揃っただけならまだしも、ごろつき共を引き連れて、人の迷惑顧みず、やりたい放題。親はあれだけの大店の主、人はそれなりに出来てやすが、バカ息子のこととなると親ばか丸出し、大甘も大甘。叱るでもなく、金の力で尻拭いに走り回ってやす。その内てぇ変なことになりやすよ」
 芳造がだんだん怒りを顕わにしてきた。
「ほう」と、小三郎が呆れる。
「止しましょっ、あんな奴のこと。話し聞くだけでも気分悪くなるわ」と、女が話題の腰を折った。それほどに嫌っているらしい。
 身体が温まると、まだ生乾きの服を風呂敷に包んでもらい、何度も何度も皆に礼を言い、
「使いの帰りだったの、おじさんが心配してるといけないから」と、弥吉の舟に送られて女は帰って行った。
 帰り際、女の真剣な目が小三郎の顔をじっと見つめた。
 目の合った小三郎が、一瞬怪訝な表情を見せたが、女はすぐにはにかむように視線を逸らし、深くお辞儀をするのであった。

 半時もしない内に弥吉が戻ってきた。
「永代寺門前町だって言うんで、尾張様の近くまで送っときやした」
「ありがとう、弥吉さん。やれやれ、とんだ初釣りになりましたね、また改めて出直すと致しますか」
 小三郎が礼の包みを渡そうとすると、
「今日は戴けやせん」と、弥吉がきっぱりと断った。
「弥吉さん、それは違いますよ。釣りをすると云う事は、竿を出せなくとも、例え一匹の魚さえ釣れなくとも、その一日をそれなりに楽しめれば、それでいいんです。今日は楽しかったじゃございませんか、生きのいい娘さんが、永代橋から飛び込んできて」
 小三郎が、「そうですよね」というように芳造を振り向いて笑った。
「ははは、一世一代の大物釣りだぁね、釣ろうたってそうそう釣れるもんじゃぁございやせん」と、芳造が例の如く大仰に応える。
「ですよね、芳さん。と云う事で、これは納めて下さいな、弥吉さん。見事な棹捌き、艪捌き、いいものを見せてもらいましたしね」
「畏れ入りやす。有難く頂戴致しやす。それじゃ、芝までお送りさせて戴きやす」

          皐月の闇に 第一話「大川の出遭い」おわり
                 第二話「里」へ続く

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