第5話 『悲しい理由』

文字数 7,045文字

 職場では当分の間、重苦しい空気に包まれていたが、職員は皆、黙って通常業務をこなしていた。
 夏目の机には、町民から見えにくい位置に小さな花が供えられていた。何も考えず、その空席を見たら、夏目が長期の研修にでも行っているような錯覚を覚えた。
 しばらくして、新年度の異動内示が出された。
 祐典は、予想通り総務課長のまま留任となり、新しい課長補佐は、課内の所属年数が長い係長がスライドして昇任した。


 新年度を迎えた4月半ばのある日、祐典は教育長から呼び出された。
「今週金曜日の夜、時間を取ってくれないか」
「いいですが、何か?」
「話しはその時にする。お前と二人だけだから誰にも言うな。時間と場所は追って連絡する」
 話しは、たぶん夏目のことだと思った。祐典にとっても夏目の死は終わっていない。むしろ、心の整理がまったくできていないままだった。
「わかりました」と祐典は答え、席に戻った。


 約束の日、時間前に店に行ったが、すでに教育長は部屋に入って座っていた。
「根津、すまんな。仕事大丈夫か?」
「家の用事があると言って切り上げてきました。大丈夫です」
「ビールと料理を頼んだぞ。遠慮なく、飲んで食べろ。俺はウーロン茶だ。料理も後にする」
 祐典は、教育長のその言葉を不可解に思ったが、今日のこの会が普通の飲みではないことは感じていたので、何も言わずにおくことにした。
 ビールとウーロン茶、そして一人分の膳料理が出たところでグラスを傾けた。
「乾杯じゃなくて、夏目への献杯だな」
 教育長がその言葉を言った瞬間、今日のこの場の意味合いが分かり、少し身体が緊張した。

 教育長が話しを切り出した。
「根津、お前には聞いてなかったが、夏目はなぜ死んだと思う?」
 いきなり、核心の話になったので、少したじろいだ。
「あの日、夏目は有給休暇だったんです。でも、当日急にではなく、前の週から届けが出されていたので……。まったく理由が分かりません」
「庁内のいろんな噂も耳に入ってくるし、家族からも仕事上のことじゃないかと何度も尋ねられた。正直、確かなことは分からない」
「家にも遺書はなかったんですか?」
「なかったらしい。それだけに、葬儀の時の家族が悲しむ様子には胸がつまって苦しかった」
「実は、2月の中頃、夏目と二人で飲んだんです。結構話しましたが、悩みとか様子の変化は感じなかったんで」
「そうか……」
 教育長は、しばらく無言だった。そして、一口ウーロン茶を飲んだあと、ビールを祐典についで、意を決した様子で話し出した。
「俺には、誰も知らない思い当たるふしがある。間違いのない理由とは言えないが……。 あいつは、委員会にくる前に企画課にいただろう?」
「はい、知っています」
「4年前に一度、企画課の数人と飲んだことがあった。その時に夏目がいて、俺が『夏目、長い役場人生なんだから、一度は教育委員会で仕事をしてみたらどうだ。まあ、役場の連中は委員会に好んで来ることはないらしいが』と言ったんだ。結構、見どころがある男だったからな。夏目は『教育長からそんなことを言われたら本気にしますよ』とまんざらでもない表情で言ってた」
「夏目らしいですね」
 祐典も企画課にいた頃の夏目を覚えている。もの静かだが、誠実に仕事をする好人物だともっぱらの評判だった。
 教育長は、もう一度祐典にビールをついで話を続けた。
「その年に、夏目が教育委員会に異動希望を出してきたんだ。もちろん、喜んで受け入れた。まさか、本当に希望を出すとは思わなかったがな」
祐典は、2月に飲んだ時に話した、この異動希望の理由を思い出していた。もともと教員希望で、採用試験を受けて不合格だったこと。いまだに教育界に未練があり、間接的にでも関わっていきたいということ。
教育長が、続けてこう言った。
「配属された時、夏目に『よく来てくれたな。やりたいことがあったら何でも力になるぞ』と言った。すると、夏目は『本当ですか』と真顔で答えたんだ。あの表情は今でもはっきり覚えている」
「夏目には、教育委員会でやりたいことがあったということですか?」
「今日の話はここからだ」

 祐典は、少し食事に箸をつけて、高ぶった気持ちを抑えながら残りのビールを飲み干した。
「この話は、お互い黙って墓場までもっていく話だぞ」と教育長は言い、夏目の話を語り始めた。
「夏目は『僕は今から教師になれないでしょうか』と聞いてきたんだ」
「役場を辞めてです? なれるんですか?」
「一般選考は教員免許があれば受けられる。広島県の採用試験には、社会人を対象とした特別選考という制度があるが、あいつが望んだ中学校数学の採用はなかった。ただし、臨時の教員なら、教員免許があれば選考試験を受けずになれる。病気や妊娠した教員の代わりや、足りない教員の補充のための臨時教員だ。正式採用の一般選考を最初から受けても、新卒の連中にはかなわんだろうからな。だから、いつか本気で一般選考を受けるとしても、まず臨時の教員をしろと言った」
 教育長は、長年、高校の先生だったが、教育長になる前は、県の教育委員会に所属して教員人事の仕事をしていたと以前誰かに聞いたことがあった。その経験をもとにした助言だから、きっと確かなものなのだろうと祐典は思った。
「中学校の数学の先生ですか。夏目は数学の教員免許を持っていたんですね」
「ああ、そうだ。教育学部じゃなく理学部だが、教職課程の単位をとって免許を持っていたらしい」
「そして、採用試験を受けて不合格だった」
「お前、知ってたのか?」
「そのことは、2月に飲んだ時、教育委員会への異動希望の話を持ち出して聞きました」
「そうか。それで、不合格だったこと以外の話は聞いてないんだな」
 祐典はうなずいた。教育長は、再び話し始めた。
「あいつは、大学4年の時、入学した頃から付き合っていた彼女がいたらしい。彼女も教員希望でな。彼女は小学校と中学校の理科の教員免許を持っていたが、中学校理科の教員試験を受験した。夏目は中学校数学を受けて不合格だったが、彼女は合格した」
 祐典は、この彼女との関係のこじれで、夏目が役場を受けることになった気がした。
 ――役場の試験を受けた時に、もしかしたら彼女と別れていたんじゃないだろうか。
    
 会話が少し止まったところでノックの音がして、店の女将(おかみ)が顔をのぞかせた。
「今日はありがとうございます。先生、飲み物の追加はありませんか?」
「根津はどうする、別の飲み物に代えるか?」
「じゃあ、焼酎のロックで」
「焼酎のロックと俺は白湯(さゆ)をくれ。それと女将、当分込み入った話をするから誰も来なくていい。用事があったら、こちらから声をかける。すまんな」
 明らかに、この場で白湯の注文はおかしい。祐典は、何か嫌な予感がした。
「教育長は、食べなくていいんですか?」
 おそるおそる尋ねると、教育長が大きく息を吐いて言った。
「先に言っとくか。お前も気になるだろうからな。このことは、町長と副町長しか知らない。お前には言うが、他言無用だ。分かったな」
 ――病気なのか。祐典は背筋に電気が走ったような不安を感じた。
「分かりました」
「俺はな、根津。すい臓ガンのステージⅢだ。今は放射線治療を受けている」
祐典は、思わず下を向いた。そして、上ずった声で「手術はされるんですか?」と自分の治療方針を主治医に尋ねるように聞いた。
「俺は、任期の途中だが5月末で職を退く。その後、手術はせず抗がん剤治療をする」
 祐典は、泣きたい気持ちだった。夏目の時は突然の死に対する驚きが大きくて、涙よりも現実感のなさが自分をおそっていたが、今は違う。目の前の好きな上司が、去っていくことを告げ、サヨナラを言っているような気がして、胸が締め付けられる思いになった。

「まあ、俺の話はいい。だから、お前が俺の分まで食って飲め。遠慮をするな。というより二人とも何もしていないと間がもたん。お見合いのようになってしまう」
 そういって、教育長はかすかに笑った。
 祐典は笑えなかった。
「必ず、治ってください」そう言うのが精一杯だった。
「その時が来たら、この世との縁が尽きて死ぬべき時がきただけのことだ。お前は心配しなくてもいい」

 教育長は、自分のことを脇に置いて、話しをもとに戻した。
「その後だが、実は、大学4年の秋に二人に子どもができた。もちろん不意打ちだが」
「でも、その時点で、夏目は教員の採用試験に不合格だったけど、役場の試験を受けて合格していたんですね」
「そうだ。でも、彼女は夏目に役所に入らず、次の年にもう一度教員の試験を受け直してくれないかと言ったらしい」
「子どもはどうなったんですか?」
「彼女は、採用を辞退して子どもを産むと言った。自分は子育てが終わって、もう一度試験を受けるからそうしたいと」
「夏目は、夏目はどう言ったんですか?」
「堕ろしてくれと頼み込んだらしい。今は結婚も子育てもできないと」

 祐典は、つらかった。一人の男の過ちであろうが、その過ちをこういう形で本人からではなく、亡き男の話として聞いていることがつらかった。
「それで、堕ろしたということですか?」
「そうだ。彼女は堕胎する代わりに、どうしても役場に就職せず数学の教員になってくれと頼んだらしい」
「彼女は、夏目がどうしても教員でないといけなかったんでしょうか?」
 祐典は、彼女の堕胎の交換条件が、夏目の教員試験の受け直しだったことに到底合点がいかなかった。
「そのことにも事情があった。実は、彼女の父親が中学校の数学の先生だったらしくてな。その父親が、いつも家族の会話で繰り返し言っていた。『俺には数学を絶対に楽しく子どもに教えることができる虎の巻がある。その虎の巻を娘か娘の結婚相手に伝授するのが夢だ』とな。その父親は彼女が高校生の時、交通事故で亡くなった。彼女は一人娘だったんだ」

 祐典の心は、夏目を取り巻く人間の複雑な事情や願いで混乱していた。
「でも、僕の知っている夏目は、もしそういう経緯と彼女の強い願いがあれば、役場を辞退してもう一度教員を目指す人間だと思うんですが。自分の選ぶ道に対して正しい判断を下して、大切な人を守る男というか……」
 教育長は、小さくうなずいた後、厳しい表情でこう言った。
「夏目は、彼女の希望を断って役場に入った。そして、そのことで彼女との関係にひびが入り、修復ができないまま別れることになった。その後、夏目は大きな負い目を背負うことになる。その後悔の影を引きずっている姿が、お前の夏目像になっていたんじゃないのか」
「負い目というのは、無理に堕胎させたということですか?」
「それもあっただろうが、もっと悲しい理由だ」
 
 祐典は、人間は分からないものだと強く思った。自分があいつはこういう人間だろうと思っているのは、そう勝手に見えているだけであって、相手の心の中の模様や本当の姿は何も分からないのだ。
「それは、別れてしまった後のことですよね」
「そうだ。別れた後、彼女は試験を受け直して広島市内で公立小学校の教員になった。そして、同じ学校の同僚と結婚した。その後、男の子ができたそうだ。しかし、数年後に二人は離婚した。彼女の夫に別な女ができたらしくてな。そして、離婚協議の結果、彼女が子どもを引き取った。その後、彼女は、公立小学校を辞め、広島市内の私立小学校の教員になったということだ。しかも、それだけじゃない。その彼女が4年ほど前、癌で亡くなった。何とも言えないが」
 祐典は、話を聞き終わって慌てて聞いた。
「その私立小学校はどこですか!」
(あかつき)小学校だ」と教育長が答えた。

 夏目の娘が去年の春、入学した学校だった。
 ――夏目が……、あの誠実な優しい夏目が、晴れの自分の娘の入学のことですら苦悩している顔が浮かんでしまう。
「一人で子どもを残して亡くなるなんて。子どもはだれが」
「彼女の母親が引き取った。根津、驚くなよ。その彼女の子どもは、俺たちの町の中学校に入学したんだ」
「えっ!」
二川(ふたかわ)中学校だ」

 裕典は、黙ったまま、飲み終えた焼酎のグラスを見つめていた。
「この度、企画課から異動して参りました、夏目政志です。どうぞ、よろしくお願いします」
 3年前、着任の挨拶をした夏目の姿が、溶けていく氷の中でよみがえる。
 ――夏目は、彼女の死を知って、過ちを償いたいと思い教育委員会に異動してきた。そして、教員になろうと本気で思った。だからこそ、教員出身の職員と話をして、いろんなノウハウを手に入れようとしていたのだ。
 夏目は、教員になって、彼女が遺した大切な子どもに関わりたかった。そのためには、彼女の子どもの学校でしか関わることができず、同時に、彼女の子どもに関わることでしか、過去の自分の行為の贖罪(しょくざい)ができないと思っていたのではないだろうか。

 お互いが沈黙の中で、夏目の思いを探っていた。
「夏目が、教育長にこの話をしたのはいつですか?」
 祐典は、教育長に尋ねた。
「3年前、異動してきた年の10月に、突然夏目が自宅に来てな。どうしても話を聞いて力になってほしい。今年度末に役場を辞めるので、来年度、二川中学校の数学の臨時教員に採用してほしいと言ってきたんだ」
「採用は可能だったんですか?」
「臨時教員の人選は、町の教育委員会に委ねられている。だから、県の教育委員会との協議で配置自体は可能だった。しかし、問題は数学の本採用の職員が、代員を必要とする病気や妊娠になるか、数学の欠員を生じることにならないと配置できる席がないという点だ」
「つまり、この2年間は配置を必要とする状況にならなかったということですね」
「そうだ。ところが、今年度の人事異動に向けて、二川中学校の数学の教員に欠員が生じた」
「彼女の子どもは、この春、中学校3年生ですよね」
「そういうことだ」
「それなら、夏目は死なずに、昨年度末に仕事を辞めて教員になれたんですよね」
 
 教育長は、テーブルのおしぼりを広げ、顔に当てて眼の上を何度か押さえた後、こう言った。
「実はな、夏目が死んだ後、彼女の子どもの学籍を確認してみた。すると、埼玉に転居していたんだ、2月末に」
「えっ! 3年生になる前に突然ですか?」
「何か事情があったのか、息子の進学に関する理由なのか、確かな理由は分からない」
 ――総務課は、学籍の異動手続きを担当している。処理件数は多いが、夏目は分かったはずだ。
「夏目は、埼玉への転居を知って、自分が二川中学校の数学の教員になる動機を失ってしまったということになるわけですね」
「本当のことは夏目にしか分からない。俺たちが勝手な解釈をしているだけだ」

 教育長は、涙をこらえるように天井を見上げて言った。
「大切な家族があるんだから、死なずに何とかできなかったのかと残念に思う。お前や俺に相談してほしかったとも思う。しかしな、死ぬしかないと思う人間は、他人が思うような選択肢を冷静に選べない。夏目の苦しみ抜いた自問自答の葛藤は、誰にも分からない」
 祐典は、やるせない思いを、絞り出すように言葉にした。
「でも、何も語らず命を絶ったら、残った者の心がいつまでも癒やされません」
 教育長は「確かにな」と一言だけつぶやいて、祐典に尋ねた。
「根津は古典が好きだったか?」
 祐典が「正直、あまり得意じゃありませんでした」と答えると、教育長は「じゃあ、知らないかもしれないが」と前置きして、こう言った。
「『伊勢物語』という平安時代の歌物語にこんな和歌があってな。『思ふこと言はでぞただに()みぬべき 我と等しき人しなければ』という歌だ。思っていることは言わずに、そのまま終えるべきであろう。私と同じ人などこの世にはおらず、心の底から分かってもらえるはずなどないのだからという意味の歌だ。夏目は、何も言わずに去っていった。良い悪いの問題ではない。あいつがそれを選んだ。その答えを他人は評価できない。俺はそう思っている」
 祐典は何も言わず、再び飲み終えた焼酎のグラスを見つめた。


 帰る前に、祐典は教育長から頼まれごとを受けた。
「根津、町内の小・中学校で、この町独自の『命と死の教育』をしてくれないか。全国どの学校でも『命の教育』は多く行われている。しかし、正面切って『死の教育』は取り扱われていない。その理由はな、死の問題に取り組むと宗教の死生観が絡むし、未来志向の子どもたちにはふさわしくないと教師や親が思うからだ。大体、死の教育のモデルケースがほとんどないから、教師の知識や技能が不足していて、誰も自信をもって教えられない。でもな、死は誰にも関わる問題だぞ。絶対と言えることがない世の中で唯一、絶対と言えることが『人はいつか死ぬ』ということだ。誰もが必ず死にゆくのに、死を見つめようとしないのは不真面目じゃないのか。自らの死を見つめることは、未来の自分の死を見つめるんじゃない。子どもたちが命の行方を見つめることは、今ある自分の命、今の自分の生を見つめることだと俺は思っている。どうだ、教員出身ではないお前が先頭に立って、町をあげて取り組んでもらえないか。それが夏目の死をむだにしないことになる。学校教育課のほとんどのメンバーは、いつか学校現場にもどる。新しく赴任した部長は、教育部門が初めての部長だ。教育委員会が長くなるが、お前にしか頼めない。難しい課題だが価値ある課題だ」
 
 この時の頼まれごとは、教育長の遺言になった。

 
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