第2話 『異動希望』

文字数 2,838文字

 3月議会の資料がようやく整った2月中旬、祐典は、夏目を飲みに誘った。
 久しぶりなので、町から離れた広島市内の歓楽街の地鶏屋で飲むことにした。
「予算編成資料の作成、ご苦労さん。お前が頑張ってくれなかったら、教育長に雷を落とされるところだった。本当に助かった」
 祐典は、そう言ってから、冷酒のグラスを手に取って、夏目のビールジョッキと乾杯した。
「いや、今回の予算編成は骨が折れました。厳しいマイナスシーリングでしたからね。すべての予算費目の内容を見直して、余分の肉を全部削ぎましたよ。もう骨と皮しか残っていません」
夏目は、苦笑いしながらビールを一気に半分飲み干した。
「教育費っていうのは、子どもにどうしても必要だと言われると、むやみやたらに削れないところがあるからな。学校に勤めた経験がないと、必要なのか削っていいのか分からんよ」
「だから、教育委員会には教員出身者が必要なのかもしれませんね。先生の先生という仕事が彼らの本分だとは思いますが……」
 祐典をなだめるように夏目が言葉をつないだ。
「しかし、教育現場ではこれが足りないと困るんですとか言って、熱意だけで予算が獲得できるような調子でごねられると、俺らの方が困るんだがな。特に、角田はすぐに現場は現場はと言って、いかにも自分が学校側を代弁するような言い方しやがって。いつまで教員あがりを気取っているんだと言いたいよ。よくお前は、あんな不思議な連中と仲良く飲みになんか行っているな」
「いや、課長、教員の人たちは真面目なんですよ。真面目だから教員になったのか、閉鎖的な世界でずっと過ごして、世間の毒気にあたらないから真面目になったのかは分かりませんが、話すとけっこう新鮮で面白いですよ」
「そうかなあ、俺はもともと教員という連中が嫌いだからか、単に純粋培養されたエリート意識の高い連中にしか思えないけどな」
「そりゃ、ずいぶん手厳しい偏見ですね」
「偏見じゃない。正見(しょうけん)だ」 
 夏目は、少し笑って、祐典に冷酒をつぎ足した。

 祐典は、夏目の表情を見ながら、この男は、相手の話をじっくり聞き、笑顔で意見を交わすことができるコミュニケーション能力の高い男だと思った。そして、同時にそんな人間が、わざわざ企画課から教育委員会に異動希望を出したことがやはり疑問だった。
 祐典は、地鶏のたたきにワサビをつけながら夏目に尋ねた。
「お前、なぜ教育委員会に異動を希望したんだ?」
「課長、何ですか突然」
「いや、教育委員会への異動希望はあまり聞いたことがないからな。経験の幅を広げるなら、福祉や財政の部門とかいくらでもあっただろう。そんなに教育部門に興味があったのか?」
 夏目は、付け出しの胡麻風味キュウリを食べ終わった後、残りのビールを飲みきってから、静かに語った。
「実は、もともと教員志望だったんです。町役場を受ける前に、教員の試験を受けて不合格だったんですよ」
「優秀な国立大学出身のお前でもかなわないことがあったのか。でもそれなら、普通、教育界は自分をはじいた世界だから敬遠するんじゃないのか?」
「まあ、そうかもしれないですけど。未練というか、間接的でも教育の分野で携わりたいというか、そんな屈折した気持ちがあったんでしょうかね」
 祐典は、夏目でも屈折した気持ちを持つことがあるのかと意外に思ったが、それ以上掘り下げず、話しを変えた。 
「やっぱりそうすると、自分の子どもは教師にさせたいとかそんな願望って抱くものなのか? 俺は子どもがいないから分からないが」
「まだ小学生になったばかりだし、将来の願望まで抱きませんが。自分のしたいようにすればいいと思いますよ。ただ、妻は自分たちと同じように、役場勤めがいいと言っていますがね」

 
 夏目は、5歳年下の職場の後輩と結婚した。
 当時、役場内で激震が走った結婚話だった。何しろ、相手の女性は、コンテストに応募したら、間違いなくどこかの芸能事務所が手を上げそうな美人で、気立てがよく仕事もできるので、誰が射止めるのか、男性、女性を問わずいつも噂していたからだ。夏目はまったくのダークホースだった。さほどイケメンでもないし、目立つ存在ではなかったが、この男は、時折、惹きつけられる笑顔を見せることがある。快活な笑いや頼りがいを感じる笑顔というより、影のある優しい笑顔が他の男性にはない魔法なのかもしれない。
 結婚すると、すぐに夏目夫婦は、奥さんの実家が所有する土地に家を建てた。奥さんは、子どもができてからは仕事を辞め、子育てに専念している。役場の多くの職員は共働きだが、夏目の両親が、経済的に支援するから子育てに専念してほしいと願い出たらしい。夏目の実家は有名な食品会社を経営しているから、確かに経済的な支援もできるのだろう。
 その愛娘(まなむすめ)は、去年の春、広島市内の有名私立小学校に入学した。

 夏目は、普段ほとんど自分の話をしない。
 他の連中は、子どもが成長した写真を見せたり、飲んだ時に過去の恋愛とか仕事の苦い経験談や成功体験を話したりしたがる。
 そういった時にも、夏目は聞き上手だが、自分のことは語らない。幸せを見せつけることを良しとせず、満たされているという感覚を言葉にしない男なのだ。
 夏目から過去の話しを聞くのは、この3年間で初めてかもしれない。
 祐典は、これ以上プライベイトの話しをすると、夏目が嫌がるかもしれないと思い、話題を役場内の四方山(よもやま)話に切り替えた。

 
 二人は、2時間ほど地鶏屋で飲んで店を出た。
「明日休みだから、もう一件行くか?」
 店の前で祐典が尋ねた。
 夏目は、めずらしく酔って千鳥足になっていた。
「実は、明日朝早くから家族で出かけないといけないんです。最近ずっと休日返上でしたから。今度は必ずご一緒します」
 一人で次の店に行くわけにもいかないし、夏目の酔い方がいつもよりひどかったので、祐典も電車で一緒に帰ることにした。

 広島駅に着き、電車を待つ間、ホームの椅子で雑談をしていた。
 夏目は、うつむき加減に呂律(ろれつ)が回らない口調で言った。
「課長、この間、テレビで3人組の歌手が歌っているのを、何となく見ていたんです。その歌詞がテレビの字幕に出ていたんですが、こんな歌詞の部分があったんです。『お前をきっときっと幸せにするよ。二人のこれからの人生の物語は笑顔であふれている』って感じの。課長、どう思います? 自分の人生の幸せだって何か分からなくて、その幸せらしきものをとりあえず追いかけているだけなのに、自分以外の人の幸せを約束なんかできると思います?」
 夏目は完全に酔っていた。あまり酒は強い方ではないが、仕事の疲れと飲み始めて早々に冷酒を一緒に飲んだからかもしれない。
「幸せにしたくても、会えなくなって、できないことだってある……」
「おい、大丈夫か。もうすぐ電車が来るぞ」
 祐典は、夏目の問いかけに返事をせず、声をかけた。
 夏目は、黙って下を向いていた。その表情には彼特有の優しい笑顔はなかった。

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