第3話 『地蔵菩薩』

文字数 3,340文字

 翌朝、夏目は、妻に起こされるまで目が覚めなかった。起こされた後も、頭痛がひどいので寝たままでいると、小学生の娘が「パパ、早く起きてよー。お出かけするよ」と言って、身体に乗っかってきた。
 ――そうか、今日は、トコトコトレインに乗りに行く日だった。
 一瞬、娘が言っている「お出かけ」がどこに行くのか分からないくらい、頭がぼんやりしていた。
 夏目が、ようやく身体を起こすと、妻の佳子(よしこ)が「マー君、昨夜は珍しく深酒だったじゃない。課長さんとよほど盛り上がったんだね。しんどいの分かるけど、そろそろシャワーでも浴びて準備して」と言った。
 夏目は、起き上がりながら「冷酒を飲み過ぎた。完全に二日酔いだ。悪いけど、()きは運転してくれ」と言って、浴室に行った。


 トコトコトレインは、山口県岩国市に流れる錦川(にしきがわ)沿いの線路を走る電気自動車だ。錦川は、山口県最大の河川で、四万十川のような自然美あふれる清流だ。
 その川沿いを岩国市から「錦町(にしきまち)駅」まで「錦川清流線(にしきがわせいりゅうせん)」というローカル線が走っている。かつては、現在の終点である錦町駅から、さらに山陰に向けて路線を延長する予定だった。しかし、その延長計画が中止となったため、2002年からその跡地の路盤を活用して、観光用のトロッコ遊覧車を運行させている。
 夏目は、役場の同僚から「トコトコトレインを子どもに乗せたら、とても喜びましたよ」と聞いたので、家族でネット検索してみた。すると、娘の雅美(まさみ)が、てんとう虫に見立てた車両と道中にある幻想的な「きらら夢トンネル」をすっかり気に入り、行きたいと言い出したので、連れて行くことになったのだ。

 山陽自動車道の岩国インターチェンジで降りるまで、夏目は助手席でほとんど寝ていた。時折目を覚まし、虚ろな頭の中で、妻と娘の会話を聞きながら、昨夜の課長との会話を思い返していた。
「お前、なぜ教育委員会に異動を希望したんだ?」
 ――課長の唐突な問いかけに、自分は教師志望だったからだと答えた。改めて今、同じ問いかけをしたら、何と答えるだろう。かつて教師志望だったことは嘘ではないが、異動を希望した理由は、教育に自分の力を注ぎたいという純粋な理由ではない。
 突然、娘が「ママ、トイレに行きたい」と後部座席で叫んだ。
 佳子が「えー、雅美、もう少し我慢して。マー君、もうすぐ高速降りるから、コンビニ探してー」と頼んできたので「分かった。すぐ探す」と言い、シートを戻してスマホのスイッチを入れた。
 夏目は、異動理由への自問自答をリセットさせた。

 トコトコトレインは、錦川沿いの錦町駅から出発する。
 錦町駅は、岩国インターチェンジで降りて187号線に進み、30分ほど走らせた場所にある。
 国道187号線は、JR岩国駅から錦川に沿って走る錦川清流線の沿線道路だ。渓谷の景色と一体化して走る1両ディーゼルカーが鉄道ファンに人気で、撮り鉄がよく訪れるスポットらしい。国道187号線を車で走らせると、錦川と鉄道の両方を眺めることができ、ドライブコースとしても抜群な場所だ。
 夏目は、錦川をはさんだ場所に見える線路を、助手席から薄ら目を開けて、じっと見ていた。

 夏目の家族は、予定していた出発時刻の15分前に駅に着いて、車を無料駐車場に止めた。
「何とか間に合ったな」
 夏目が佳子に言うと、佳子は「必死に運転した私のおかげでしょう。はい、ありがとうは?」とおどけて言った。夏目も、気をつけの姿勢で「佳子殿、お疲れさまでした。運転ありがとうございました」とおどけて言った。そばにいた娘が、二人のやり取りを不思議そうに、ジュースを飲みながら見ていた。
 
 出発時刻が近づくと、係員が電車に案内してくれた。娘が、前の方がいいというので、トコトコトレインの最前列シートに三人で座った。
 係員が、マイクで「それでは、出発します!」と言った。その言葉に合わせて、娘が「出発しんこう!」と言ったので、後ろの席の老夫婦が、かわいいわねと言って笑った。
 佳子も「どこでそんな言葉覚えたの」と言いながら、娘のかわいらしさを喜んで、一緒に笑っていた。
 夏目も二人の姿を見て、幸せな気持ちになった。家族を持つことの良さを心から感じていた。
しかし……、夏目はいつも幸せな感情になると、心のどこかに潜んでいるブレーキが作動して、幸福感を押さえつけられる。この時もそうだった。家族はつくづく大切だという気持ちが起こってくると、やがて、ぼんやりとした心の影がその気持ちを追いやり、消そうとする。
 夏目は、これまでも心のブレーキがかかるたび、自分のよどんだ表情に妻が不審を抱いていないかを気にしてきた。

 トコトコトレインが静かに動き出すと、早速、お目当ての「きらら夢トンネル」に電車が入っていった。トンネルに入ってしばらくすると、暗闇の中で、様々な色の光り輝く絵が、壁に映し出されてきた。
 隣に座っていた娘が立ち上がり「きゃー、きれいきれい。ママ見て、パパ写真撮って」と、はしゃぎ始めた。トンネル内には、光る石を使って描いた装飾画がある。1㎞にわたる暗闇に光る6色の蛍光石の絵は、まさに幻想的だった。
 トンネルの真ん中では、電車が一時停車して、記念写真を撮る時間まで用意されていた。娘は佳子に抱っこしてもらい、不思議な光る石を触りながら、普段見せない興奮した笑顔を見せた。
 その後、色々なアングルで写真を撮り終えると、電車は再び動き出した。

 トンネルを抜けると、清流と緑あふれる自然美の景色が目の前に広がった。
 佳子が「こんな素敵な場所で暮らしたら、街中の暮らしに戻れなくなるね」と言った。
 夏目は「確かにね。でも佳子は、ここで暮らしても、2時間かけて広島のバーゲンに行くんじゃないか」とからかうように答えた。
 佳子は「雅美の洋服のバーゲンなら行くかもね」と娘の頭をなでながら言った。
 夏目は、佳子の笑顔を見ながら、歳をとっても綺麗だと思った。今年、40歳になるが、若い時よりもむしろ落ち着いた女性の美しさを放っていた。役所勤めの苦労も、自分が勤めていたこともあり理解が深いし、娘も伸び伸びと育ててくれている。申し(ぶん)ない妻と娘がいて、今が一番幸せな時なのかもしれない。
 しかし、夏目がそう思った時、また、心の闇のブレーキが作動して、幸福感を追いやっていくのだ。
 夏目は、なぜ、このような闇が自分の中に潜んでいるのか分かっていた。心の底から幸福感を味わうことは、きっと一生ないだろうとさえ思っていた。


 列車は40分ほど走り、終点の「雙津峡(そうずきょう)温泉駅」に到着した。
 トコトコトレインの乗客は、全員がこの駅で降りる。その後、各々が自由に散策して、都合の良い時間の電車に乗って帰ることになっている。夏目たちは、1時間半後の早めの帰りの電車に乗ることにしていた。少し歩いて、錦川の河原で佳子が作った弁当を食べたらちょうど良い時間になる。

 三人は、駅から川の方向に向かって農道を歩いた。
 娘と佳子が手をつないで、学校で習った歌を歌いながら歩き、少し後ろを夏目が歩いていた。
 道沿いの小さな地蔵が目に入った。
 娘が振り返って「パパ、かわいいお地蔵さんがいるよ。来て来て」と叫んだ。
 夏目は「分かった。パパも見に行く」と言って、地蔵のそばに行った。
 娘と佳子がしゃがんで見ている地蔵には、「水子地蔵」とあった。小さなエプロンをしている地蔵には、野の花が飾られ、綺麗に手入れされている。
 娘が「かわいいお地蔵さん、こんにちは」と頭を下げたその瞬間、夏目は胸が締めつけられ、一瞬息ができなくなった。
 何も言わない夏目の様子を佳子が気遣って「どうしたの? 顔色悪いよ。大丈夫?」と尋ねた。
 夏目は、慌てて「二日酔い明けに歩いたから気分が悪くなった。ここで少し休むから、先に二人で河原に行ってて」と言った。
 佳子は「分かった。ひどくて、きつかったら電話してね。雅美、パパ少し休んでいるから、先に河原に行こう」と言って、娘の手を引いて歩き出した。

 夏目は、一人で地蔵の前に座り込んだ。そして、合掌している地蔵を見つめながら、小さな声でつぶやいた。
「分かっている。二人が待っているということなんだな。もう少し待っていてくれ」
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