第1話 『教育委員会事務局』

文字数 2,710文字

「未練はあるが後悔はない」
 今は亡き渡哲也が、番組のインタビューで人生の終わりについて語った言葉である。
 彼はインタビューでこう言った。
「以前、死にゆく者の役を演じた時に、このような台詞がありましてね。『未練はあるが後悔はない』こういう人生の終わり方ができたらいいなあと思いました」
 今は亡き好きだった男の影はこう語る。
「僕は逆です。『後悔はあるけど未練はない』と思っていたんです。」


 広島市に近い町の役場に勤めている根津祐典(ねずゆうすけ)は、5年前の春の人事異動で、なぜかこれまで長年、所属していた税務畑と全くかかわりのない教育委員会という部局に異動になった。
 教育委員会は、町立の小学校と中学校を所管する行政委員会である。高校は町内に1校あるが、県立なので所管していない。正確な部局名は、教育委員会事務局というらしいが、要するに、教育長のもとで教育事務を執行する立場らしい。事務局内の半数近くの職員が、学校に勤めていた教員出身である。主に学校の職員に対応する教育委員会では、役場出身の職員はマイノリティ職員である。そのアウェーな職場に異動して5年が経ち、昨年度から総務課長になっている。


「予特の資料は、どこまでできているんだ?」
 年度末に近い2月初旬、来年度予算に関する予算特別委員会の答弁資料作成の遅れが、祐典は気になっていた。
 同じ役場出身の課長補佐である夏目政志(なつめまさし)が、穏やかな口調で言った。
「あらかた揃っていますが、教育指導費の歳出部分で数字が集まっていない内容が何カ所かあります」
 祐典は、少しいらだち、強い口調になった。
「来週の月曜日には、委員会の出席者に配らないと、答弁の準備ができなくなるぞ」
「後から担当者に催促します」
 夏目は、分かっていますよと言わんばかりの口調で答え、黙って数字の確認作業にもどった。
「担当者は誰だ?」
 祐典は、少しいらだちを抑えて夏目に尋ねた。
角田(すみだ)さんです」
 ――やっぱり、あいつか!
 祐典は、心の中で舌打ちをした。これ以上、言葉に出すと不機嫌に拍車がかかるので、気持ちを落ち着かせるために、席を立って喫煙ブースに行った。

 祐典は、教員という種類の人間がどうも苦手だ。それを最も感じてしまうのが角田という担当者である。角田は、教育委員会に配属される前まで、町内中学校の理科の教員だった。今でも忘れられないが、4月1日の着任挨拶で彼はこう言った。
「この町の理科教育が日本一になるよう、精一杯がんばります。よろしくお願いします」
 祐典は、この時、意欲あふれるというよりピントのずれを強く感じた。
 ――教育委員会に入って日本一になるのなら、先月までいた中学校でせめて県内一になれていたはずだろう。
 3年前の春のできごとだ。その春に、夏目も企画課から異動してきた。
 
 企画課から教育委員会に異動することは珍しかった。何か異例の人事異動をしなければならない事情でもあったのかと勘ぐり、人事課や企画課の知り合いにこっそり聞いてみたが、どうやら何かやらかしたわけじゃなく、本人の強い希望によるものだった。
「それにしても、何が日本一の理科教育だ。さっさと資料の数字を出せよ。だから、理科なんか昔から嫌いなんだ」と祐典は、最近始めた電子煙草を深く吸い込みながらつぶやいた。
 角田が理科の元教員でなければ、ここまで嫌悪感を感じていなかったかもしれない。何しろ、祐典は、中学校の頃から理科がずっと大嫌いなのだ。その理科嫌いになるきっかけは中学1年の出来事だった。


 その出来事は、理科の授業中、唾液のはたらきを確かめる実験の時に起こった。
 唾液によってデンプンが分解されることを確かめるために、各班で誰かが唾液を試験管に入れて、湯で温めなければならない。他の班は、班長がすぐに唾液を落とし実験を始めていたが、祐典の班は、班長の女子が恥ずかしがって嫌だと言い、入れようとしなかった。かといって、代わりの誰かがしようともせず、祐典たちの班だけ実験が進まず、皆が押し黙っていた。
 理科の先生が「そろそろ時間が来るぞ。次の作業に進んでもいいか」と言って焦らせるものだから、祐典が思わず「俺がやるわ」と言い、試験管に口を近づけて唾液を落とした。
しかし、その後、問題が起こった。唾液を落とした後、唾が糸を引いてしまい、試験管から口を離した時、その唾が机の上に落ちてしまったのだ。そのハプニングによって、班員が奇声をあげて収集がつかなくなった。もちろん、クラス全員に知られることとなり、意地の悪い男友達からは「糸君」とあだ名され、しばらく笑いの対象になった。
 その時の理科の教員が、何となく角田に似ている。だから、角田を見るたび、そのおぞましい出来事を思い出す。角田に全く罪はないが、角田と理科への嫌悪感は、祐典の中で一体化してしまっていた。


 夏目は、教員出身の職員と上手くつきあっている。
 教員は、もともと町で採用された職員ではなく、県で採用された職員だ。その教員が、町の職員として教育委員会に入る時には、その大半が指導主事という現場の先生を教える先生のような立場になる。先生を教えるだけに若い人材は入って来ないので、若くても30代後半。だから、町の職員になった時点で、いきなり係長か課長補佐級の職員として入ってくることが多い。給与は、役場にいる間は町が払うが、何年かすると、現場の教頭に昇任したり、県の教育委員会や教育研究機関に異動したりする。その異動で県の職員に戻るので、給与は、再び県が支払うようになるという複雑な人事異動である。

 祐典は、教育委員会に所属するまで、教員にそういった様々な異動の道があるとは知らなかった。以前、職場内の指導主事に、希望して教育委員会に入ったのかと聞くと、自分は希望していなかったと言っていた。上部機関の異動命令で入るのかと聞こうとしたが、複雑な仕組みがあるようなので、それ以上は尋ねなかった。
 いずれにしても、教員出身の職員は、ずっと先生だったからか、やたら長々と説明をしたり、腕を組んで人の話をうんうんと子どもの悩みを聞いているような態度をとったり、上から目線の態度が多い。だから、あまり関わりを持たないよう、ほどほどの距離感でつきあってきた。
 しかし、夏目は異動した時から教員出身の職員と雑談をしていたし、時には打ち上げと称して飲みまで誘っていた。町役場の職員とは確かに違うタイプの人間だろうから、教育現場の話を聞くのは新鮮だと思うが、教員が苦手な自分にとっては理解を超えた振る舞いだ。
 後々になって分かるのだが、その振る舞いに夏目の秘めた過去が影を落としているとは夢にも思わなかった。
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