文字数 2,688文字

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 時計を確認すると、午後四時が折り返しをすぎようとしていた。河川敷の人の具合は空いていた。たとえ今日が祝日の月曜日であったとはいえ、この肌寒さをおびはじめた夕方の秋の河川敷が人でにぎわう理由などなかった。空はうすい雲が高くぬけていて、色が褪せつつある青空が落ちついている。芝生のうえをいささか涼やかな秋の風がすべり、ついでに僕らの髪や服にささやかに話しかけた。芝生からそれると遊歩道をはさんで河原へとつづいている。背丈をのばしたすすきが一律に肩をゆらしており、折れて朽ちた樹木がよこたわっている。川は小気味いいせせらぎの音を秋にふくませている。川釣りの人が数人いる。
「なんだか、最高かも」彼女はその風景をぐるりとみわたしながら、気分の良さそうな調子の声で言った。「いいところを知っているんだね、君」
「それはよかった」僕は彼女をみて言った。
「君のナンパに乗ってよかったと、言ってあげる」彼女はおもむろに自分のスマホを鞄から取りだし、河原と空を写真におさめながら、言った。
 ありがとう、と僕は礼をいう。芝生を何歩か踏み、遊歩道をよこぎって、河原へと歩く。河原に敷きつめられた石はどれも丸みを帯びている。靴底につたわる感触のギャップを気にせずに川の方へと進んでいく。せせらぎの音がより明瞭に僕の耳へとどく。すこし後ろから、彼女もついてきて、「いい音」とつぶやいている。
「ここに、今日の君はつづいていたのか」彼女が川面を傍観しながらいう。
 うん、と僕は一応こたえる。ここに今日の僕はつづいていた、らしい。
「川をながめながら、君はどんなことを考えるの?」
「宇宙のこととか」
 へえ、と彼女は息混じりの声をこぼした。「川をみながら、宇宙のことを考えている君と、海という名前のあたし」
「なにか予感のする文字列だ」僕はこたえる。
「うん、予感がする」彼女はこたえる。
 僕は、今日生きることをあきらめたかった。片手にあるその確信に、従いたかった。先週になってしまった来週を、僕は死なずに過ごしてしまった。本来であれば余白部分である場所で、こうして初対面の海という名前の彼女と呼吸をしている。すべての事象は、宇宙である。それにうんざりしても。それを認められなくても。目にするかぎり、触れるかぎり、聴くかぎり、つづくかぎり、僕らの生活は宇宙である。
 「おっ」彼女の声が前方からきこえた。目をやると、彼女は気だるそうな目つきの、朗らかな表情で僕に教えてくれた。「河川敷の仙人がすわっているのであろう綺麗な岩を発見したよ」彼女はまるく美しい小さな岩をゆびさしている。
 彼女はその仙人の岩に腰をかけ、僕はとなりにあった若干面積の足りない岩に腰をおろす。しだいに空が夕日をこしらえる。はじめはやわらかく繊細な光である。時計を認めて、ゆっくりと確実にその色味の彩度を増していく。背中の芝生を夕方の色がひたしていく。遊歩道に夕方が引っ張った僕らの影がのびていく。川面のきらめきに夕方が混ざっていく。せせらぎの音に夕方のやるせなさが紛れていく。
「はやくも星がみえるわ」
 星がみえる、実は僕には彼女がのべたその星を見つけられていないのである。
「宇宙のことが好きな君の期待にこたえられる自信はないけど」彼女が言う。「一回は耳にしたことがあるような宇宙の話をしてもいいかしら?」
僕は恥ずかしくなる。「かまわないよ」
 そして(仮)みたいな間がある。
「あたしたちが見ている星って、過去のものらしいわね。とても見当つかないくらいに広い宇宙のなかで、星の光が地球の片隅にいるあたしたちの目に届くまでの距離は、光だとしても一瞬ではたどりつけない。たしか地球から一番近い星だったとしても、光が届くまでに数年はかかるんじゃなかったかしら。聞いたことある?」
「聞いたことある」僕はうなずく。
「だから、あたしたちが見てる星は、同じ時間軸に存在しているものではない。なんなら、もうとっくのとうに消滅しちゃってる星もあるらしいの。はやく見積もったとしても4~5年前に放っていた光が、ようやく現在地のあたしたちに見えている」
「聞いたことがあるけど、不思議な話だよね」僕はうなずく。
 「もう消えちゃった星の光をみているって、寂しい話じゃない」彼女はいまでは消えた星の光について思いながら話す。「それであたしは思うの」
 なにを? 僕は訊ねる。すこし沈黙があり、迅速にせせらぎの音がそれを埋める。
「じゃあ、あたしたちはどうだろうって」彼女はつづける。「いま君はあたしのとなりに腰をおろしている、さっきはテーブルを隔ててあたしと向き合っていた」
「そうだね」
「あたしが君に届くまでのこの数メートルだろうと、宇宙といえないかしら?」
「この隙間は、宇宙?」
 そう、と彼女はうなずく。「あたしはいま、君をみてる。あたしが見ている君は、ほんとうに君だっていえるのかな」
「僕が、海ちゃんをみている。僕が見ている海ちゃんは、海ちゃんなのかなって?」
 僕は洗面台の鏡にうつった僕であろう男の顔をおもいだす。
「あたしの目には、君は冗談で笑ったり、会話を楽しんだりしているようにみえた」
「うん」
「だけど、それはあたしにようやく届いた光なだけ。君のすべてじゃない」
「数メートルの宇宙をかけて、届いているだけ」
 そう、彼女はうなずく。川がながれている。夕日を割れ物みたいに抱きかかえている川面のゆらめきがある。
「君は、簡単に束ねたくないからね」
 そう、彼女はすこし笑ってうなずく。「あたしは簡単に束ねたくない」
 町にもたれかかった影が、よりふくらんでいく。夕日を煮詰めて黒くなってく。生きることあきらめたかった今日が過ぎていく。生きることあきらめたかった今日がつづいていく。僕の片手は、ポケットのなかをまさぐっている。だれかだとか、なにかを思い出そうとしている。気配がする。予感がしている。
「君って、僕かもしれない」僕は彼女に伝える。
 すると彼女は「ははは」と声をだして笑う。「たしかに突然言われると驚くね、その言葉は」
 「今日、実はさ」僕は彼女に、僕のことを話したくなった。先週になってしまった来週のこととか、今朝の鏡にうつる男のこととか、ポケットのなかのこととか。
「ねえ」
 しかし、海ちゃんはその僕の言葉をさえぎってしまう。星をみている。この数メートルの宇宙から届いている、星をみている。秋はせせらぎの音に夜を滲ませはじめている。
「なに?」
「みせてよ。君のつづきを。あたしがここで見ているからさ」

                                END
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