文字数 2,606文字

   2

 来週にはもう死んでいるんだし、と語尾につけることで正気でいられた。たとえば口座の残高額がはなくそみたいになっていようが、奥歯のつめものが取れていちいち痛くなろうが、バイト応募の電話をかけることが億劫であろうが、毎食後の服薬をないがしろにしようが。死のうと決めたから仕事も辞められた。他人に冷たいことも言えた。思ってもないようなことを言えた。
 けれどもバット、その来週という時間はもうとっくに先週のことになっていた。この肉体も目立った傷もない、綺麗な状態でたずさえたままである。執行猶予期間を終えてなお、執行されず怠惰に呼吸をひきずっている自分に辟易とした。絶望した。なぜ生きている? 死ななかったからです。自分の胸に訊ねる間もいらないほど、シンプルでありながら完全(パーフェクト)な解答を、宇宙に告げられていた。このままでは、ばかみたいに生き延びていたら、それはあまりにも生き恥である。いま僕がいる時間軸は、もうすでに余白部分である。ここに下手な物語を落とすべきではないのである。はやくやめたいのである。終了するべきなのである。
 その確信めいた意思を片手にもちながら、なぜかもう片手でポケットをまさぐっている自分がいることにさえ、僕はもうとっくに気づいているのであった。ポケットの中には、まだ理由が残っていないかと探しているのである。たとえばやり残したこととか、欲しいものとか、叶えたい夢(笑)だとか。希望じゃなくていい、(笑)でいい。いざとなれば首にくくりつけてあきらめることもできる、ロープのようなものでいい。そんな理由が、まだポケットにはないかとやみくもにこねくり回した。
 けれどもバット、生きるための理由探しに興じると、思い浮かぶようなものはどれも過去の栄光ばかりであると気づいてしまうのである。結局は、僕はもうずっとこんな感じで続けてきていたのだ。なにか走るために出来損ないの理由をニンジンにして前に吊るし、なんとか奮い立たせては失って、ここまで流れついた現在地なのである。生きるための理由探しは、いつのまにか自分が失くしてきたものの追悼に変わっているのだ。そしてそのたび途方に暮れては、「もう終わりたい」と、ふりだしのような到達点にたどりつく。いざとなれば首にくくりつけてあきらめられるロープさえ、僕はもう手にしているのだと。そして、それによってあきらめる時であるのだと。
 僕にはなにもない、のではなく、ぜんぶあったのだ。もう。それはあったものだから、いまはない。けれども、無ではなくて空っぽであるという概念だった。そこにあった、という空っぽばかりを抱えていた。事実ばかりを抱えていた。そして喪失は増えていく。呼吸をつづけるかぎり。失くしていくものに、出会っていくし、失くしていくのだ。
 思考から息継ぎするように生活にもどると、数分前よりも躰が軽く動いた。死ねる。いまなら。そんなように、思う。ひとまず、家のなかで死ぬのはやめよう。たとえば川だとか、森だとか、できるかぎり人間を感じない環境にいきたい。そしてあわよくば土に還りたい。地層にまぎれて、ささやかな歴史のその切れ端くらいに残れたら素敵ではないだろうか。
 歯を磨く。舌もみがく。顔を洗う。シェービングクリームで無精ひげを埋めるように覆い、T字の剃刀をすべらせる。三日ほど放置していたひげが、クリームに巻きこまれながら剃刀によって削ぎ落とされていく。そして冷たい水をぶつける。化粧水をつけ、水とドライヤーで髪を整える。ヘアワックスを手のひらに塗りひろげ、かきあげるように髪の全体につける。それから部分を整えていく。鏡には僕がうつっている。やけに甲斐甲斐しい顔をしているようにみえる。こうして自分であろう人物の顔をまじまじと見つめていると、いまいちこの目の前にいる男の内側の所有者であるという自覚が鈍る。はたして本当に、とやかく感じたり考えたりとやかましすぎるこの頭の外壁は、目の前にいるお前なのだろうか。この鏡は、真実なのだろうか。目の前でうつっているこの男から、僕の編んだ言葉だとか素振りがくりだされているのだろうか。もしも死ぬ際に、魂と躰が乖離する現象がほんとうに起きるのであればぜひ確認してみよう。たしかめてやる。お前が、だれなのかを。
 自殺におもむいていく途中、そこはかとなく映画をみたくなった。どんな映画でも構わなかった。ためしに映画館にぶらり寄って、なんとなく興味のひく題名だとか、ビジュアルのものがあったら見てみよう。僕は映画館をしつらえている商業施設の立体駐車場に車をとめて、映画館へむかった。
 上映中の作品一覧をみわたすが、とくにこれといって目にとまる作品はなかった。そもそも、数分前にやんわりと発作的に起きたあの映画がみたい衝動は、いまとなっては波をひいていた。なんなら若干乾きはじめている砂浜であった。なかなかにくだらない時間だと冷静になり、実は世界はのんびりと回っているのだと感じた。
 そして同じように、僕のとなりで上映作品の一覧をながめている女がいた。彼女もまた、すべての作品のポスターに目をとおし、つまらなそうにしていた。黒い髪は、肩にかかるくらいの長さで若干パーマがかかっているようだった。気だるげな目つきをしており、チークがいささか濃かった。髪の隙間からのぞく小さな耳には、雫のようなピアスがみえた。白いシャツの上から紺色のベストを重ねており、膝丈くらいのチャコール色のスカートからは、するりとした足がのびている。黄色いソックスにローファーを履いていた。年は僕と近そうだった。
 彼女は映画をあきらめたのか、目をそらし、その空間を後にしようとした。僕はそんな彼女の背中をしばらく目で追い、なんとなく魂と躰を乖離させて「いけ」と自分の背中に体当たりして押した。魂で。
「あの、すみません」
 ん、と彼女はこちらを向く。「あたし?」人差し指で自分のあごをさしていた。
「そうそう、君」
「はいはい。なんでしょう」
「映画をみないなら、お話でもしませんか?」いかんせん、僕はこんなこと人生で一度もしたことがないのだ。いったい、どうしてしまったのだ。あまりにも軽率で、大胆ではないか。あの鏡にうつっていた男が、やっているのか? それとも魂か? なぜ彼女に声をかけようと思ったのか、僕はまったく自分を把握しきれていなかった。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み