第1話

文字数 2,027文字

 マラソンランナーの堀川ありさは絶望の淵に立たされていた。

 オリンピック代表を掛けて挑んだアジア選手権。彼女は女子マラソン界での将来を有望視されていて、日本中からの注目の的であった。専門家のみならずマスコミからも代表入りは確実視され、ありさ本人も絶対の自信があった。そのために過酷なトレーニングを積み重ね、恋にうつつを抜かすこともなく、ただひたすらにマラソンへの情熱を燃やし続けてきたのである。

 いよいよ大会の火ぶたが切って落とされる。
 序盤から先頭集団に入り、ありさは自己ベストを更新する勢いで残り五百メートルまで迫っていた。順位は当然のごとく一位。誰もがトップでゴールテープを切る事を疑わなかった。そう、ありさ自身でさえも。ゴールを目前に勝利を確信していた。
 ところがである。
 油断したのか疲れが出たのか、突然足がもつれ出した。気が付いた時はもう遅い。ありさはそのまま転倒し、意識を失ってしまう。
 目覚めた時は病院のベッドの中。医者の話ではありさは転倒の際、右足の半腱様筋を損傷しており、意識が回復しないまま手術が行われたというのだ。
 当然アジア選手権は無念のリタイアとなり、走るのはもちろん、一人で立つことさえままならない状態のありさ。復帰は絶望とされたのだった。

「どうして私がこんな目に……」
 失意の中、それでもありさは応援してくれているファンのために、何より自分のために復帰を目指してリハビリに励んだ。
 辛い毎日だった。
 過酷なリハビリはありさの想像を絶するものだった。何度もくじけそうになると、その都度ファンからの手紙に励まされ、コーチや選手仲間たちからは引退をそそのかされつつ、持ち前のガッツで三か月後にはようやく歩けるほどまで回復した。それは担当医も驚くほどの驚異的な回復力といってよかった。

 そして一年後。ありさは努力のかいもあり陸上トラックに立つことを許されることに。
 久々の舞台に胸が躍る。
 初めは軽くジョギングからこなした。まだおぼつかない足取りではあったが、それでもトラックを一周する事が出来た。多少違和感があったものの、足の痛みは全くない。だが無理は禁物だ。医者からはいつ再発してもおかしくないと言われ、コーチやありさも慎重だった。
 その後、トラックを五周軽く流し、程よい疲れでその日は練習を終えた。感触は悪くない。
 ありさは走る喜びを再確認し、その後も練習にいそしんだ。だが、足に爆弾を抱えたままの練習は危険が伴う。やる気とは裏腹に、コーチは慎重の構えを崩さない。
 練習内容をめぐり、ありさとコーチは何度も衝突を繰り返した。それでも復帰に向けての準備は着実に積みあがっていく。
 一度に走れる距離もぐんぐんと伸び、気が付けば半年後にはハーフマラソンに参加できるほどにまでなっていた。
 だが、問題はタイムだ。膝を気にしてか全盛期のような走りは出来ない。イメージトレーニングは完璧と思えたのだが、いざ、スタートを切ると痛みを感じる度にどうしても足がすくむ。
 最初は世間から奇跡の復活として注目されていたありさだったが、伸び悩む記録にマスコミやファンたちからは次第に見放されるようになり、コーチからも冷たい目で見られるようになっていった。
 悔し涙があふれてくる。
 ありさはこのまま走れなくなってしまうのだろうかという不安に駆られ、次第に練習すらも億劫になっていった。

 そんなある日の事。突然の雨で練習が中止となり、ありさは帰宅の途に就いていた。
 降りやまない雨は勢いを増し、気が付けば、ある骨董屋の中にいた。そこはまるで別世界のような雰囲気で、過去とも未来ともいえる不思議な空気を醸し出している。
「何か、お探しかね」
 口ひげを生やした小柄の老人が声を掛けてきた。ありさはりながら、丁寧に頭を下げる。
「素敵なお店ですね。私、この前を何年も通っていたはずなのに、正直いって初めて知りましたわ」
 すると口髭の老人は「ほっほっほ」と不敵な笑みを浮かべ、一旦は奥に消えるものの、すぐさま戻って来た。手には一足のスニーカーを持っている。
「これを履いてみんしゃい。あんたの悩みはこれ一発で解消じゃ」
 ありさは断った。いくら何でも突然そんな事を言われて『はい判りました』とはいかない。
「せっかくですけど、シューズは間に合っています」
 はっきりと断るありさに、謎の老人はまだ食い下がる。
「ええから。騙されたと思って一度履いてみてはどうじゃ。マラソンには最適なシューズじゃよ」
 どうしてその事を。ありさは自分がマラソン選手だとは一言も発していない。
「まあ、無理にとは言わん。今は雨だから今日は無理じゃろうが。きっと明日には晴れるじゃろう。これは一先ずお主に預けるから、気に入ったら一週間後にでもまた来るがいい」
「気に入らなかったら?」
 すると老人は藪にらみの目をした。
「捨ててもらっても構わん。ただし、このシューズのことは誰にも言うでないぞ。絶対にな」
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