第2話

文字数 2,606文字

 次の日、晴れ上がった空の下で、ありさは半信半疑ながらも昨日手渡されたシューズに足を入れた。
 とりあえずサイズはぴったり。だが何となく違和感があった。シューズの重さをまるで感じないのだ。
 一先ず立ち上がって足踏みをしてみると、地面への感触はあるものの、足への負担は全く感じない。まるで空中を歩いているかのような感覚だ。
 試しにトラックを一周してみるも、これまで感じたことのない爽快さだった。
 それからコーチが止めるのも利かず、トラックを何周も走り続けた。もちろん体への疲労感はあったものの、懸念していたひざの痛みはまったくない。
 これはどういう事だろうか?
 
「これは古代、中国に伝わる『梁寧譜』という植物から抽出された繊維を使用し、作り上げられた、いわば究極と言っていいランニングシューズといえよう。独自のルートで仕入れた品じゃ」
 三日後、ありさはあの骨董屋にいた。口髭の老人は声高々にシューズの解説を始めている。
「つまり、どういう仕組みなんですか? その植物の繊維にはどういった効果があるのでしょうか」
 首を捻るありさに口髭の老人は解説を続ける。
「ワシも詳しい原理はよう判らんのじゃが……お主、ドラえもんは知っておるかな?」
 唐突な質問にありさは憮然とした顔つきを見せた。
「ええ、知らない人はいないと思いますけど。それが何か?」
「以前、アニメを見ていた視聴者から、テレビ局にこんなクレームが入ったそうじゃ。『ドラえもんは外でも裸足のままで靴を履かない。そのまま土足で家に上がるなんて、教育上宜しくないのではないか』というものじゃったそうだ」
 ありさはこれまで疑問に思ったことは一度もなかったが、言われてみれば確かにおかしいと言える。思い返してみればドラえもんは足も洗わずに、平気で堂々と家へ上がっていた。
「別にアニメなんだから、そんなことなんて気にも留めなかったわ。それでそのクレームはどうなったの?」
 老人は口をにんまりと歪ませて軽く首を鳴らす。
「今さらドラえもんに靴を履かせるわけにもいかない。そのテレビ局は作者である藤子・F・不二雄氏と相談し、苦肉の策としてドラえもんに対してある設定を付け加えたんじゃ」
「どんな設定?」
「『実は地面から一センチ浮いていて、外でも足が一切汚れない』というものじゃった」
 なるほど。その手があったか。未来から来たロボットだからできた強引な設定。まるでとんち問答のようであるが、子供の夢を壊さぬよう、辻褄を合わせようとしたスタッフの勝利といえよう。
「ところでその話とこのシューズと、どんな関係が?」ありさは疑問を呈した。
「まだ判らんのか? 鈍いお嬢さんじゃ。このシューズは地面から浮いておるのじゃよ。五ミリほどじゃがな」
「えっ!?」
 ありさは言葉が続かなかった。開いた口が塞がらない。まさかそんな空想世界の物語が現実として自分の身に起こっていたなんて……。
「信じられんといった顔じゃな。だが、実際に体験して興味が湧いたから、今、ここにおるんじゃろう? 違うかね」
 そうだった。確かにこのシューズはこれまでのどのシューズよりも最高に素晴らしい。出来れば一足とは言わず、二足、三足と手に入れたかったのである。だがその原理は想像を絶するものであり、到底信じられる代物ではなかった。しかし、仕組みはどうであれ、この快適さを味わった以上、以前のシューズには戻れないのもまた事実である。
 ありさは恐る恐る訊いた。
「ちなみにおいくらですか? できれば予備も含めて三足ほど欲しいんですけれど」
「一足百万円と言いたいところじゃが、お嬢さんの可愛らしさに免じて、五十万でどうじゃ。いかがかね?」
 五十万!! 安くはないとは思っていたが、まさかそれほどとは! 確かに効果に見合うだけの見返りはあるかもしれないが、とても払える金額ではない。
「浮かない顔じゃな。ならば二十万でどうじゃ?」
 最初に百万と言われた品が、いきなり五十万になり、今度は二十万と言い出した。原価は果たしていくらだろうか。ボッタクリもいい所だ。
「それくらいなら何とかなると思います」ありさはポツリと言った。
「ただし、一つだけ欠点がある」
「欠点?」
 それから老人はその唯一の欠点を説明した。
「それくらいならば欠点とは言えませんわ」
 それからありさは何とか二十万円を工面すると、意気揚々とそのシューズを手に、爛々とした目で『松極堂』と書かれたガラス戸を閉めた。

 それからありさは人が変わったかのように記録を伸ばしていった。連日のようにアベレージを更新し、それでいて足への負担は全くない。いくらでも走れそうだった。ありさは期待に応えようと懸命に走り込む。やがてフルマラソンにもチャレンジし、女子部門で見事三位を獲得した。医者の危惧していた再発も今のところ兆しは見えない。全ては順調だった。
 シューズの耐久性も抜群でいくら走っても全く傷まなかった。直接地面に触れないから当然と言えるが、汚れはもちろん、靴底がすり減る事は無く、いつの間にかその快適さから、練習を離れた普段の外出でもそのシューズを履くようになっていたくらいである。却って家の中の方が疲れるくらいだったので、本音をいうとシューズを履いたまま家に上がりたかったのだが、家族の目が気になり、さすがにそれは、はばかられた。

 周囲の目も変わった。
 これまで過去の人といった冷ややかな対応だったマスコミたちも、ありさが記録を伸ばすようになると、手のひらを返したかのようにありさを持ち上げるようになった。
 ファンレターは全盛期にも増して届くようになり、本当の意味で奇跡の復活を遂げたありさは、いよいよ前回しくじったアジア選手権の切符を手に入れることとなった。

 選手権を一週間後に控えたある日、ありさは大会前最後の休日を仲間の選手たちと一緒にくつろいでいた。
 その日は午前中からショッピングに出かけ、食事制限をこっそり破って、ちょっぴり豪華なランチに舌鼓を打つ。これまで過酷な練習漬けの毎日だったありさにとって、まさに至福のひと時といえた。
 久しぶりに映画を堪能し、仲間たちと一緒に合宿所へと戻ろうとしたその時だった。ビル群の中を歩いていたら、突然大きな音が響き渡る。
「ありさ、危ない!!」仲間の声だった。
「えっ? 何!?」ありさは訳が分からず立ち尽くしていると、突然視界が真っ暗になった。
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