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文字数 1,352文字


 ──美緒……

 猫の目女の掌の上の〝像〟を覗き込んでいた宏枝は、美緒の、良樹の方に向いて笑った目が変わらずに綺麗なことに、あらためて心が揺れている。


 美緒の目は綺麗だ。
 そのことに気づいたのは中学二年の夏で、そのときのことは、わたしの大切な思い出なのだった──。

 その頃のわたしは、いつも演技をしてた。
 誰にも彼にも、わたしの心の中を覗いて欲しくなかったから、わたしはずっと演技をして、誰からも後ろ指を指されないよう、良い子を演じていた。
 でも、一生懸命に演じてる自分のあちこちに綻びが生まれるたびに、わたしのこころは溢れてしまって、親しい人に向かってしまう……。

 そのときはひどかった。
 誰かの言った他愛無い一言に、簡単に溢れてしまったわたしは、学校の屋上に逃げ込んで、心配してついてきてくれた美緒に当たった。
 ──わたしの家庭にわたしが勝手に感じてた引け目をぶちまけ、それでもみんなには憐れんでなんて欲しくない、と感情的になるわたし。

 そんなわたしに、美緒は云ったのだ。

 そんなのわからないよ、と──。

 誰も本当にはわかってなんてあげられないよ
 あたしはひろえちゃんじゃないもの。ひろえちゃんだって、あたしじゃない……
 でも、あたしがひろえちゃんに寄り添ってあげたい、って、思った気持ちは、本当のことなんじゃないかな

 その時に、美緒の目はとっても綺麗だと感じた。
 涙がぽろぽろと零れてきて、気が済むまで泣き通したあとにも、美緒は隣に居てくれた。
 黙って、ただ肩を寄せてくれてた、その美緒の優しさが、触れた肩の温かさが、甦ってきて思い出させてくれる。

 わたしは確かに、生きていたんだ……ってことを…──。


  *

 新幹線は、15時42分発の新大阪行きだった。
 18時前には京都に着ける。

 新幹線がホームを出るに先立って、良樹は美緒から、彼女自身が病院に戻る電車賃を残して、残り全ての現金を手渡されている。
 そうして良樹は、美緒から後事を託された。信頼をされて。
 ホームでの別れしなの美緒の目は真剣で、あらためて良樹は、この信頼に応えたいと思った。


 新幹線の座席に着くと、良樹は母親に連絡しておいた。
 高校(がっこう)を早退したことの釈明と、帰りが遅くなること、心配の要らないこと…──どれも苦しい言い訳で、電話だと面倒なことになるのは必至だったので、母には申し訳ないと思いつつメールで済ませた。
 そうしてから暮れてゆく東京を窓外に見やり、〝おれはいま、何でこんなことしてるんだろう〟と自問した。

 多分、彼女の笑顔が欲しいんだ……。
 あの日の彼女の笑顔には、やはりどこか寂しげな思いが隠れていたと思う。──本当に笑えていなかったんじゃないかな、と思ってしまう……。
 おれの記憶の中の彼女が、そういう笑いなのは仕方ないのかもしれない。
 でも、お母さんとのことがそうさせていたのなら、せめて最後の瞬間には、笑顔になって逝くことができた方がいい。
 例えそれが、もう実際にはその顔に浮かべることができないのだとしても。
 自分勝手な想像かな……。そうかも知れない。
 でも、そうしたい。──そうしてやりたいんだ。
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