第2話 デッド・オア・アライブ①

文字数 5,392文字

 ミカは目を大きく見開いて、一気に息を吸い込んだ。まるで水中に潜るダイバーが空気を求めるかのように。
 ミカが身体を起こすと自身の処置服と額についた電極で無事に夢から戻ってきたことに、ひとまず安堵した。
 やや薄暗い部屋の中、隣の処置台では同じように目を覚ましたジーンがすでに手元の透明なアクリルボードにマジックでハキームから聞き得た情報を記している。それを傍のスーツ姿の男へ渡すうしろでは、手錠に繋がれ薬で鎮静化されたハキームが頭から黒い布袋を被されて、他のスーツ姿の男たちに連れていかれる。
「どうだい? 体調の方は」
 それを目で追うミカの前に白衣姿の初老の男性が近づいてくる。
「ドク」
 ミカから博士(ドク)と呼ばれるこの男性はニューヨーク市警嘱託医のクイン・クエイド博士。救命医として高名であったドクは名誉職を歴任するだけの日々に嫌気が差して現在の職に就き、ミカと出会った。
「久々だったけど、問題なし」
 そう答えるミカのまわりには医療スタッフが手馴れた動作で額の電極と胸に貼られた心電図の電極を取り外していく。
「それは何より。無駄な心配


 ドクの話し方にミカが小さく吹き出す。ドクは反応に困るように目を丸くしている。
「何、その英国訛り」
「ああ、元々、私のルーツはイギリスだからね。緊張すると今でも訛りが出てしまうんだよ」
「緊張?」
「だって、ミカ。あのCIAだよ、本物のスパイが目の前にいるんだ!」
 ドクは声を押し殺しながら興奮した様子で話した。それを見てミカも頬が緩む。
警部(キャプテン)、お疲れさまでした」
 ドクの脇から現れたのは、エリオット・エヴァンズ。ジーンと同じく刑事部に所属する刑事で、かつてミカのチームの一員であった。
「どうぞ」とエリオットが差し出すコーヒーカップに馴染みの店のものだとわかると「わあ」と目を輝かせた。ミカはエリオットからそれを受け取ると飲み口の付いた蓋をあえて外し、カプチーノの香味を味わってからカップに口をつけた。
「どうです?」
 エリオットの問いに、ミカは髭のようなカプチーノの泡をつけ、親指を立てて「最高」と答えた。
 ジーンがスーツ姿の男が差し出す書類にサインをしてからミカに近寄ろうとすると、それを遮るようにひとりの女性がミカの傍へ歩み寄った。
「お疲れさま」
 その女性はショートカットのアフリカ系。モデルのような整ったスタイルをしており、誰からも美人と形容されるタイプで、口元には妖艶な微笑みを浮かべている。彼女はCIAの情報員でウィルマ・ワンダと名乗っていた。それが本名かどうかもわからない相手にミカは「どうも」とだけ返すとカプチーノに口をつける。
「さすが、ニューヨークの守護天使ね。あなたのおかげで次のテロの標的がわかったわ」
 その言葉を聞いたジーンはウィルマの陰で拗ねるように唇を尖らせエリオットを睨みつけ、エリオットは困ったように眉を潜めた。
「あなたにお願いして正解だったわ。どうかしら、その手腕をCIA(ウチ)で活かしてみない」
 唐突な誘いにミカはカプチーノを吹き出しそうになり、ジーンとエリオットは驚きに顔を見合わせた。
「いや、そんな。私なんてとても……」
 謙遜よりもわずらわしさから、そうかわそうとするミカを見つめるウィルマの目に一層力が増す。
「そんなことないわ。あなたなら十分通用する。それで、どうかしら。そのことについて、ゆっくり食事でも」
 ウィルマがそっとミカの肩に触れる。ジーンとエリオットが意外な展開に口元を緩める。ミカはウィルマの積極的なアプローチに押されて瞬きを繰り返していた。
「どうかな……。婚約者がニューヨークにいるから」
 しどろもどろになりそう答えると、ウィルマは「そう」と返すが、さらにミカに近寄ると顔をぐっと近づけた。キスでもするつもりかとまわりは慌て、ミカもわずかに顔を引いた。
 すると、いつの間にか手元にあった名刺をミカに差し出す。
「気が変わったら電話して」
 ウィルマはその間もミカから視線を逸らすことなく自信たっぷりに微笑むと、その場をあとにした。ミカの持つ名刺をジーンとエリオットが覗き込む。
「婚約者なんていないじゃないですか」
 面白がって言うジーンにミカは顔をしかめた。

 時刻は深夜を回ろうとしていた。三人は着替えを済ませ、駐車場へ向かうために市警本部庁舎の廊下を進んでいた。
「あのミカ・マイヤーズがスーツとはねえ」
 前を歩くパンツスーツにコートというミカの背中を眺めながらエリオットが言った。刑事部に所属していた頃のミカは現場での動きやすさから頑なに私服でいたが、三五歳になり、異例の若さで警部として総務部へ異動となった現在はスーツでいることが日常であった。元々、エリオットはスーツで勤務しており、ミカに習ったジーンだけが黒のフライトジャケットにタイトなジーンズ、スニーカーとラフで動きやすい私服姿でいた。
「色々あるのよ」
 そう返すミカが遠い存在になったようで寂しくなり、エリオットはついミカをからかいたくなる。
「それにしても彼女、警部に夢中ですね」
「うるさい」
「もったいない、滅茶苦茶いい女(ホット)なのに」
「いい加減黙って」
 ミカがうんざりするように言うと、ミカとエリオットのやり取りにジーンが可笑しそう笑った。それを見たミカがジーンを睨む。
「あんたこそ、どうなのよ。前に言ってたカレとは」
 ミカの鋭い質問にジーンは咄嗟に笑いを収める。
「警部、それが聞いてくださいよ」
 エリオットが悪戯っぽく笑うとジーンは顔をしかめた。エリオットは口をミカの耳元へ近づけ、ミカも興味津々に耳を傾ける。
「ゲイだったの?」
 廊下に響く大声でミカは言うと、エリオットとふたりで大笑いを始め、ジーンは手で顔を覆った。

 望んだ夢を見るために作られたドリームダイバー。試行段階で数件の事故が起き、公表前の機器を当時ニューヨーク市警の凶悪犯罪、テロ対策を担当する広域対応局長で現市警副本部長のスティーブ・スミスが入手したことから、その技術を応用して犯罪者の夢に潜り、情報を奪取するという作戦が秘密裏に立案された。
 数名の候補者の中からミカが選ばれ、ミカは市警で唯一ドリームダイバーの使用が許されることとなった。
 時が経ち、ミカのチームに配属された若手刑事ジーンがミカの跡を継ぐこととなったが、極秘扱いであったドリームダイバーがある経緯から明るみになり、それを聞きつけたCIAから、逮捕したハキームのテロを防ぐための情報奪取の依頼があった。ミカは刑事部から異動となり現場を離れていたが、ウィルマのたっての希望から、今回特別にミカがドリームダイバーの任務に加わることになった。
「そんなことより」
 エレベーターに乗り込みながら、ミカが口を開く。ジーンはすぐに今回の任務のことだと肩をすくめる。
「いつもあんな無茶してるの」
「いやあ、こいつ、いつもはちゃんとストーリーにならって慎重にやってますよ」
 答え辛そうにするジーンに代わり、エリオットがフォローするように入る。
 夢に潜入する際、あらかじめ「ストーリー」という流れに沿い、そこへ誘導し、何らかの形で提示させるか、隠し場所を作り、そこから情報を得る。それを潜入する対象者に勘づかれることなく行うのがセオリーだった。
 今回の任務もCIAの情報から、ハキームの好みに近いジーンが囮となり、その隙にパーティーに紛れ込んだミカがハキームのコーランからテロの手がかりを探すというストーリーだった。しかし、ジーンはCIA主導の作戦で、ジーンだけではなく現場を離れたミカにも任務に参加させるCIAに腹が立っていた。
「あんな風に暴れて。あいつが死んでもしたらどうするつもり」
 ミカは過去に、ドリームダイバーの潜入により対象者を死に至しめてしまうことがあった。夢の中でも本人が死を自覚するダメージやショックを与えてしまうことでそれは発生してしまうと考えられていた。
「そんなことにはなりません」
 自信満々に答えるジーンに対して、ミカは苛立ちに眉間にしわを寄せる。
「対象者が夢であることを強く認識すれば、多少強引であっても、死んだりはしないですよ」
「そんなことしたら、相手が潜入に気づいちゃうじゃない」
 今回のハキームがそうであったように、対象者に潜入を悟られてしまうと、途端に夢の形が不穏で危険なものへ変わる恐れがあった。まるで夢が悪夢へ変わるかのように。
「私、腕がいいんで。警部みたいなことにはなりませんから」
 ミカの心配をよそに、どこか小馬鹿にするようにジーンは微笑む。しかし、不思議と嫌な気はしない。ジーンはかつてはミカの率いる刑事分隊の一員として配属され、自らドリームダイバーの後継者を名乗りでた。負けん気の強さは人一倍だったが、警察学校を主席で卒業する優秀さは現場でもいかんなく発揮された。
 これまでひとり孤独に任務に就いていたミカの苦労をねぎらうように、自らその技術を発展させ、ミカの心の傷を和らげようとしてくれていると想像させる。すでにふたりにはそういった信頼関係で結ばれていた。
「感じ悪いわね」
「こいつ、CIAの仕事で拗ねてるんですよ」
「違います」
 エリオットの軽口をジーンがきっぱりと否定する。
「もしくは、久々に警部と一緒できて嬉しかったりして」
「違います」
 エレベーターが駐車場である地下一階に着きドアが開く。
「それにしても『特命捜査班』とはね」
 ドリームダイバーは「極秘」であり、ニューヨーク市警の中でも限られた数名しか知るところではなかったが、その存在が明るみになったことで、「部外秘」となり、ニューヨーク市警本部庁舎の地下階にあったドリームダイバーの施設は刑事部のフロアの下階が整備され移動した。
「そんなの名ばかりで、こいつとふたりで留守番ばっかですよ。まるでモルダーとスカリーだ」
 駐車場を進み、三人は足を止める。
「でも、あそこよりかはマシでしょ」
 ミカは地下駐車場でさらに足元を指差し、エリオットは「まあ」と頷いた。
 二九歳のエリオットと二七歳のジーン。若くて優秀な、かつての教え子のような部下が、こうして立派に自分のあとを継いでいる。同じ分隊の仲間にも明かせない孤独な任務も、今では刑事部の任務のひとつとして認められた。たくましく成長したふたりの姿にミカはなんだか感慨深くなった。
「頑張んなさいよ」
 ミカがエリオットの肩を小突き、それが解散の合図になる。
「ところで、例のモノは?」
 ミカに言われ、ジーンはすぐにジャケットの内ポケットを探ると封筒を差し出す。それはバスケットボール、ニューヨーク・ニックスのペアチケットだった。
「はあ? コートサイドじゃないじゃないよ! ちゃんとCIAに頼んだの? それが参加の条件だったはずよ」
 答えあぐねるジーンの様子にミカは目を細めた。
「これ、まさか?」
 これがジーンの自腹で買ったチケットだとミカは勘づく。
「だって、言えないですよ! 恰好悪くって」
 ジーンは口を尖らせ慌てて弁解する。
「まったく。あんた、予定開けときなさいよ!」
 ミカはコートのポケットにチケットをしまうと、自分の車の方へと進んでいった。
「オーケー、おばあちゃん(グランマ)
 離れていくミカの背中を見送りながら、ジーンはエリオットにだけ聞こえる声で言う。それを聞いてエリオットは吹き出した。
「聞こえてるわよ!」
 背中を向けたまま言うミカに、ふたりの顔は引き攣った。
了解(アイアイ)船長(キャプテン)!」
 ジーンは遠ざかるミカの背中に言った。ミカもまた、それを嬉しそうに背中で受けた。
「警部、お疲れさまです」
 駐車場を進むと、見た顔の駐車場係の男がミカに声をかけてくる。
「お疲れさま。鍵を貰えるかしら」
 本来なら停められない場所に今回の任務のために駐車を許されたミカは、車の鍵を駐車場係へ預けていた。
「警部のマスタングなら、トニーがここへ持って来ますよ」
「トニーが?」
 トニーも駐車場係の初老の男性だった。ミカが車で通勤すると、明るい朝の挨拶で迎えられ、必ずと言ってもいいほど声をかけられる。油断して話し込んでいると、うしろの車からクラクションで注意されるのもしばしばだった。
「こんな時間まで働いているんだ。きっとお疲れだろうからって。トニーは警部のファンですからね。きっと、何か恩を売っておきたいんでしょう」
 その心遣いに笑顔になるミカが愛車の七一年型黒のフォード・マスタングへ目を凝らすと、確かに駐車場係のトニーが運転席に座り、こちらに手を振っている。ミカも笑顔でそれに応えたそのとき、ミカは頭に電流が走るように何かを感じた。
 刑事の勘、それはあまりに非科学的であったが、その感性がときに大きく結果に作用することをミカは知っていた。
 何かがおかしい。マスタングに目を移したときに何かを見た。ミカは急いでその違和感の正体を探した。すると、マスタングから離れた位置に駐車している車の運転席に人影がある。これまで車のエンジン音は耳にしていない。運転席の人物は他に何か目的があってそこにいる。
「トニー! ダメよ! すぐに降りて!」
 ミカはトニーの乗るマスタングに向かって慌てて駆けだした。すると、マスタングから一気に大きな炎が上がり、爆音と爆風がミカを襲う。ミカはまるで見えない壁にでも激突したかのようにうしろへ吹き飛ばされた。
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