第1話 初担任は問題クラス? 学級開きと学級運営の法則

文字数 16,862文字

「いよいよだな」
斉南斗飛(さいなんとうひ)は職員室の時計に目をやるとひとりごち、机上の児童名簿を手に取った。全校集会で中途着任の挨拶を終え、次はいよいよ担任する子どもたちとの初対面だ。
 夏休みが明けたとはいえ、まだ八月。九時を過ぎたばかりなのに、職員室はすでに生あたたかい空気に包まれている。
 斗飛は大きく息をつくと、職員室入り口にある時計に目をやった。あと五分にせまった始業チャイムは、斗飛にとって初担任授業の開始合図でもある。昨年度一年間は臨時採用教員として中学校に勤務したが、数学を教えただけで担任はもたなかった。
「よしっ、行こう」
斗飛は自らを鼓舞し席を立った。
 すると、初登板を迎える新米ピッチャーを心配するように、職員数名が斗飛に声をかけてくる。
「自分が思うように信念もってやりなよ。失敗おそれずやることさ」
六年担任の百出哲則が隣に来て斗飛の肩をポンとたたいた。百出は三十五歳、年は斗飛のひとまわり上だ。初対面の時から自分の教育理論を語ってくれた。斗飛は密かにセオリー百出と名づけている。百出の声かけを聞いた教頭の原賀九郎も斗飛のところに歩み寄ってきた。
「斉南先生、思い切りやるのもいいですが、担任にとって最初の三日間は黄金の時ですよ。失敗は今後にとって致命的にもなりますからね」
原賀は四角い顔を近づけハスキーボイスで釘をさす。塗り固められた髪からポマードの臭いが鼻をついた。相反する助言に斗飛は愛想笑いを浮かべるしかない。百出を横目で見る。百出はさらりとした髪をかきあげ苦笑いを浮かべていた。
「がんばって、五年生って面白い子たちばかりですよ。人数も十二人だから現代版の二十四の瞳よね」
三年担任の小松麗子が声をかけてきた。可愛らしい高い声にどきりとする。小松の顔に目を向けると、二重で切れの長い瞳がこちらを見つめていてさらにどきっとした。誰もが認める玉蘭小のマドンナ的存在だ。斗飛は初対面の時からマドンナ小松と名づけていた。
「あっ、は、はい」
斗飛はマドンナ小松とまともに目を合わせられぬままうなずく。
「二十四の瞳の背後には、百をこえる保護者や親族、祖先たちの瞳も光ってますけどね」
原賀が眉間にしわをよせてつぶやいた。ポマードの臭いが再び鼻を刺激し、斗飛は思わず鼻での呼吸をとめた。小松は苦笑いを浮かべて一歩下がる。
「そ、祖先にも気を遣うんですか……」
斗飛は鼻声でつぶやいた。すると小松と入れ替わるようにして、浅黒く日焼けした筋骨たくましい男が斗飛の肩を叩いてきた。四年担任の厚木心だ。年は三〇歳と聞いている。筋トレを趣味とするこの男は筋肉隆々で、まさにマッスル厚木と名づけるにふさわしい。斗飛が厚木に目を向けると、その右手にはなぜかプロテインバーが握られている。おやつなのか。
「斉南、何かあったら俺に言うんだぞ。なめたやつは俺が気合いを注入してやるから。ですよねぇ教頭先生、はっはっはっ」
マッスル厚木は豪快に笑ってみせるとプロテインバーを口にほおばった。噛みちぎられたプロテインバーが厚木の口の中でねちゃねちゃと音を発する。
「教頭の目の前でプロテインバー注入している君も私をなめてるよねぇ」
鼻を膨らませた原賀が首をかしげて厚木に鋭い視線を送る。厚木は原賀の目線に気づかないのか、にやけ顔のまま鼻の下をのばして小松麗子に「プロテインバーピーチ味、いかがです」とすすめていた。原賀は、厚木の視界に自らの仏頂面を入れようとするが厚木は気づかない。この男、小松を見るときの視野は一〇度以下くらいに違いない。
 斗飛は厚木の「なめたやつ」発言が気にかかり、厚木を見て鼻息荒くしている原賀にたずねた。
「教頭先生、前の担任の先生って心の病って聞きましたけど、まさかやんちゃな子どもとの関係に悩んでじゃないですよね……」
校長、教頭との面談では遠慮して聞けなかったことだ。もしそうであれば、自分と子どもたちとがうまくいかなかったときの言い訳やなぐさめにもなる。原賀は四角い顔を素早くこちらに向けた。ポマードで塗り固められた髪は全く乱れない。
「お、おう。もも、もちろん落ち着いている、子もいる。あわよくば大丈夫、かもしれん。ケセラセラだ、ファイト」
原賀は理解不能な言葉で煙に巻こうとしてきた。斗飛が原賀をじっと見つめると、原賀の目はせわしく泳いで見えた。水質の急変でショックを受けた熱帯魚のようだ。
「へっ? ケセラセラって何ですか?」
斗飛が問い返す。間もなく原賀がやぶれかぶれな感じで言い放った。 
「あっ、もう授業の時刻だ。教室へレッツゴー。これ職務命令だよぉ」
原賀は出口へ指を向けた。原賀は斗飛にとっていちおう中学時代の恩師である。斗飛の弱みをなんやかんやと握っている原賀にそれ以上の追求はできない。斗飛は百出や厚木に目を向けてみた。二人とも目を合わせようとしなくなった。他の職員にも箝口令がしかれているのだろう。
「じ、じゃあ、行ってきます」
斗飛は指導簿と筆箱を手に教室へ向かおうとした。すると厚木が斗飛の肩に手をかけてきた。厚木は真顔で諭すように言った。 
「斉南。何かあっても、子どものことで防犯ベル押しちゃだめだぞ」
「押しませんって」
斗飛は目をしばたたいて答える。続けて百出が声をかけてきた。
「安心しろ、愚痴は後でたくさん聞いてやるから」
百出は重々しくうなずいてみせる。
「愚痴出ること前提なんですね」
斗飛の顔はすでに苦笑の域を超えそうだ。 
「がんばって」
小松のアニメヒロインのような声が背後から聞こえた。思わず振り向いてみる。すると、小松はなぜか斗飛に向かって十字を切り、祈りを捧げるように手を合わせだした。まるで戦地にでも行くようだ。
「み、みなさんありがとうございます。でっ、では、行ってきます」
斗飛は敬礼をして見せると、荷物を手にとり職員室を後にした。

 斗飛が赴任した玉蘭小学校は九州地方の隈本県にある。県北の都市、玉蘭市に設置された学年一クラスの公立校だ。玉蘭小は南側の校舎に職員室や保健室、一年生教室が並び、児童玄関と中庭をはさんだ北側校舎の一階に二、三年生の教室、二階に四年生以上の教室がある。
 北側校舎へ向かう途中、中庭の花壇に目をやった。花壇のひまわりはすでに実となり、夏休み明けの教師たちの気分を表すかのように頭を垂れていた。対照的にマリーゴールドは輝くばかりに鮮やかな黄色やオレンジの花を咲かせている。まるでエネルギッシュな子どもたちを反映しているようだ。斗飛は八月中旬に教員採用二次試験を受けていた。小学校の試験倍率は八倍を超える時代もあったが、今は二倍程度に落ち着いている。斗飛の気持ちも、十月の結果発表次第ではマリーゴールドのように輝けるのかもしれない。
 採用試験は現役時代に受けた中学校ではなく、今年は小学校で臨んだ。昨年臨時採用で経験した中学校で部活動指導に悩み、小学校の方が向いているのかも知れないと考えたからだ。四月から八月までは勉強に専念していたため試験も昨年よりは自信がある。
 二階への階段にたどり着いた。一段ずつ上っていく。徐々に子どもたちの話し声が聞こえてきた。いよいよだ。二階への階段を上がり終えると、斗飛は五年教室へ続く廊下の手前で立ち止まった。少しドキドキしてきた。子どもたちは新しい担任をどのように迎えるだろうか。
「みんな面白い子だから楽しいクラスだ。大丈夫」
斗飛は小松麗子からの言葉を自分に言い聞かせ、五年教室へと続く廊下へ足を踏み出した。
 二階には手前から四年、五年、六年の教室だ。斗飛は整然とした四年教室を横目で見ながら歩いた。隣の教室から奇声じみた声が聞こえる。声の発生源はあきらかに五年教室だ。斗飛は五年教室の手前で立ち止まった。子どもたちに姿を現す前に、壁に背をつけ肩を何度も上下した。
 先生方の励ましの言葉が思い出された。校長にも「思い切ってやりなさい。少しぐらいの失敗の責任は、とれる範囲で私がとるから」と曖昧な感じで背中を押されている。まあ、雑談で繰り出される退職金の使い道を聞く限り「慎重かつ穏便に進めろ」と受け取れぬこともなかったが。
 腕時計を見る。始業まで残り一分を切っていた。
「始める!」
突然、背後の四年教室で厚木の野太い号令が聞こえて斗飛はびくっとした。大声にはじき出されるようにドアの前に出る。後ずさりするわけにもいかず、動揺を隠せぬまま教室のドアを開いた。
 子どもたちのはしゃぎ声が次々と耳に飛び込んでくる。斗飛は大きな声が出るようにめいっぱい息を吸ってから声を出した。
「おはよう!」
同時にチャイムが鳴り出した。間が悪い。チャイムと室内のざわつきが斗飛の挨拶声をかき消したようだ。斗飛に気づかずはしゃぐ子どもたち。懐かしい感じのチャイムが間延びして聞こえた。斗飛は黒板横の掲示物を直すふりをしてチャイムが鳴り終わるのを待った。
「おい、みんな、授業が始まったぞ。席について」
リーダーらしき男児がこちらに気づき、みんなに向かって声をかけた。それぞれの目が斗飛に向く。やっと斗飛の存在が知られたようだ。子どもたちの視線を感じると、斗飛は笑顔でうなずいて見せた。子どもたちが楽しさの余韻にひたりながら自分の席へもどっていく。斗飛は近くにいる子に「おはよう」と声をかけながら教卓の前に立った。さっきのリーダーっぽい子は、それぞれが席についたのを確認すると号令をかけた。
「起立」
けだるそうに立つ子が目立つ。
「気をつけ、朝のあいさつ」
張りのある号令が室内に響いた。
「先生、おはようございます」
号令と対照的に覇気のない声。統一感がないのは、挨拶の部分に「グッモーニング」とか「ナマステー」と言う他国言語が混じっているからだろう。「先生、シェーシェー」にいたっては、朝の挨拶になっていない。国際理解教育のやりなおしが必要だ。
「着席」というよく通る声で子どもたちが椅子に座る。
 さあ、プレーボールだ。斗飛はテレビドラマでよくあるように、黒板に自分の名前を漢字で書き始めた。字のきれいさはアピールポイントだ。とめはねまでを丁寧に書いていく。書き終えると、ちょっとしたどや顔を見せた。ただ、問題はこれからだ。斗飛は高めの知能に口の機能がついていけてないところがあった。次々と頭に浮かぶ話したいことをうまく伝えようとするとつい早口になり、滑舌が悪くなったりどもったりする。それを防ぐため、朝から発声トレーニングをしたり、固い物を食べてあごの筋肉を鍛えたりしてくるのだが、声を出してみるまではどうなるか不安なところはあった。特に初対面は緊張する。
 斗飛は子どもたちが自分を見ていることを確かめると乾いた口で自己紹介を始めた。
「せ、先生の名前は、さ、斉南斗飛といいます。去年は中学校で数学を教えていました。話し上手じゃないけれど計算は得意です。しゅっ趣味はちょっとした小話を書くことです。よろしく。みんなのことを知りたいので、今からみんなに自己紹介してもらいます。な、何か質問があったら残り時間で受け付けます」
夏休み明けというのはすることが多く自分の話に時間をとっている場合ではない。何より話し下手という弱点をさらさずにすむ。一方で子どものことは今後接していくなかで、できるだけ多く知っておいたほうがいい。斗飛は子どもたちの自己紹介のため、五年生の名簿プリントを取り出した。
「では、みなさんのことを知りたいので、自己紹介をしてもらいます」
「ええっ、何を話せばいいですか?」
号令をかけた子がたずねた。
「名前と特技くらいでいいよ」
「学年は?」
今度は一列目の男の子が挙手と同時にたずねる。机の名前札に波野仁と書いてある。挨拶でシェーシェーと言った子だ。
「みんな五年生だよね、省略で。エホン」
斗飛は咳払いをした。続いて二列目に座る女子が手を挙げる。
「じゃあ、スリーサイズは」
「いりません」
斗飛は苦笑いで返す。波野仁が席を立って抗議した。
「ええっ、帽子とズボンと靴下のサイズですよ。あっしはSS二十二ですけど」
仁は頭、ズボン、靴下を指しながら記号と数字を伝える。
「なおさら必要ありませんね」
斗飛は納得を示すようにうなずいて答えた。さらにあちこちから手があがる。このままでは質問だけで終わってしまう。
「とにかく、自分が思う自己紹介を三十秒くらいでお願いします」
そう言ってベランダ側の最前列を見た。空席だ。ネームプレートに華恵と書いてある。
「あれ? 健康観察では全員出席になってるけど。綾小路華恵さんはどうしたの?」
斗飛は子どもたちを見渡しながら反応を待った。誰も反応しない。すると、廊下の扉が開き、黒い燕尾服を着た五〇歳くらいの男が声をかけてきた。
「華恵様は現在、化粧室で身だしなみを整えていらっしゃいます」
「へっ? 化粧室? あっ、トイレのことですか」
「トイレではありません。手前の化粧室です。体育館からお戻りになるさい、渡り廊下で突風により髪型に乱れが生じましたので整えていらっしゃいます」
「はあ。で、あなたは、どっ、どちらさまですか?」
斗飛はどもりそうになりながらきいた。
「失礼いたしました。私は綾小路家の執事、炭屋嘉と申します」
慇懃にお辞儀をしてくる。
「執事?」
斗飛は目をしばたたいた。炭屋嘉と名乗る男は、斗飛をまっすぐ見据えると説明を加えた。
「本日は新しく着任する教師がどのような者か見てこいというご主人様の使命により参りました。どうぞ、お気になさらず子どもの自己紹介を進めてください」
執事の炭屋嘉は華恵の後ろの席を指して言う。次の者から自己紹介させておけということらしい。
「わ、わかりました。じゃあ、華恵さんの後ろの人から自己紹介して」
斗飛は前から二番目に座る男の子を指名した。指名された子はぶっきらぼうに「うぃっす」と言って立ち上がった。
「俺は岩(いわ)須(す)武(ぶ)威(い)。モットーは『ブイブイ言わす』っす。よろしく」
武威はポケットに手を突っ込んだまま立っている。立てたえりに出しっぱなしのシャツ。身だしなみだけでもツッコミどころ満載だ。
「なんか自己紹介を兼ねた口癖ですね。とりあえずポケットから手を出しておこうか」
斗飛は苦笑いでうながした。身だしなみを整えさせた後で「じゃあ、自己紹介を続けて」と伝える。武威はポケットから手を出すとハンドルを持つようなしぐさをしてから言った。
「特技はドリフト。この間もエンジンふかせてブイブイ言わせたぜ。ドリフトは難しいぜ」
「ええっ、バ、バイクとか乗り回しちゃだめだよ」
小学生で無免許運転か。斗飛はおろおろとして頬を引きつらせた。すると、波野仁が首を横に振りながら武威をフォローした。
「武威くん自分ちの畑で耕運機を動かしてるんですよ。じいちゃんの手伝いで」
武威も否定する様子がない。
「じいちゃん孝行っ。耕運機なら前輪しかないからドリフトし放題」
斗飛は重々しくうなずいた。
「先生、耕運機ばかにすんなよ。後ろに補助輪つけたら三輪だぜ」
武威は華麗にハンドルをさばくしぐさを見せて言った。その名の通り、言動行動ともにブイブイ言わせている。斗飛は心の中で「イワス武威で覚えよう」と本名まんまのニックネームを与えた。
「武威くん。これからもおじいちゃんのために華麗なドリフト走行で畑をきれいに耕してくれよ。じゃあ次の人、自己紹介お願い」
つづいて号令をかけていた男の子が席を立つ。近くに座るふくよかな感じの女の子が投げキッスをしているのが見えた。ファンがいるらしい。
「江(え)久(く)瀬(せ)廉(れん)人(と)です。学級委員長してます」
さすがは学級委員長、はきはきとした口調だ。中高の鼻が彫刻のようにはっきりしている。
模範のような姿に斗飛はエース廉人と名づけた。廉人は紹介を続ける。
「ぼくの将来の夢は医者で、特技は黒板の漢字間違いや計算間違いを見つけることです」
話し終えると廉人は俊敏に着席した。斗飛は黒板の文字を二度見した。さすがに自分の字は間違えていない。
 次に後ろの女の子が、これまた俊敏な動作で跳ねるように立った。二重まぶたの線が言いようなくきれいだ。
「江利伊都です。同じく学級委員です」
言い終えると美しい口もとがきりっとあがって白い歯がみえた。凜とした姿はヒロイン伊都といったところか。伊都は紹介を続ける。
「将来の夢は弁護士で、特技は話の文法的誤りや論理的矛盾点を見つけることです」
そう言うと伊都はおじぎしてさっといすに座った。二人の特技を聞く限り、授業中も気が抜けなさそうだ。斗飛は微笑みを見せつつ頬をぴくぴくさせながら言った。
「がっ学級委員さん、な、なんか頼もしいね。授業中のプレッシャーはかなり感じそうだけど、ははは……」
特に国語と算数は気が抜けなさそうだ。動揺を隠せぬまま次の子を指名しようとしたとき、江久瀬廉人が手を挙げて意見した。
「先生、さっき自分の名前を書いたとき、飛の漢字の書き順が違いました」
斗飛は片眉をあげて先ほど書いた黒板の文字に目をやる。
「えっ、ああ、あれはサイン用の独自の書き順なんだ、ごめんごめん」
斗飛はテンパりながら答えた。すると今度は江利伊都が立ち上がって発言した。
「先生、サインというのは様式化、つまりあるがままじゃなくて単純化や抽象化したものをいうはずです。先生が書いた文字は明らかに楷書であり、発言に矛盾があります」
さすがは弁護士を目指すだけあり、知識が豊富で論理的思考力に優れていそうだ。
「わ、わかった。正しい筆順に直します」
そうは言っても子どもから教えてもらうわけにはいかない。メンツがまるつぶれだ。斗飛はとりあえずチョークを手にとり黒板に体を向ける。その際、チョークをわざと落とした。「ああ、チョークが粉々だ。拾わなくちゃ」そう言って、ポケットから取り出したスマートフォンで「飛」の書き順を調べる。今は手軽に筆順を調べられるから便利だ。しかもアニメーションでわかりやすい。こういう書き順だったか。斗飛は最初にど真ん中に縦棒を書いていたが、それが間違いだった。小学時代の漢字練習の適当さを今更ながら後悔した。覚え立ての書き順で、筆圧濃いめに文字を書き直す。
「ご指摘ありがとう。正しい筆順これだよね」
斗飛はどや顔を見せる。
「先生、授業中のスマートフォン使用は禁止ですよ」
廉人が冷静に指摘した。斗飛は口をへの字にして首を横に四回振った。
「はい、では次の人お願いします」
追及がこないうちに次の子を指名した。
 つづいて、前髪を長く下ろした女の子がぬれっと立ち上がった。腫れぼったい目は開いているか閉じているかわからない。肉付きのよさはクラスで一、二位を争いそうだ。  
「城零と申します。特技は霊視です」
城零は消え入るような声で自己紹介をはじめた。
「れいし?」
斗飛は首をかしげて聞き返す。すると突然、零の目がカッと見開いた。おののくような表情で声を大きくする。
「おああっ! せっ、先生の背後に守護霊が見えまする!」
そう言うと、零はいきなり目の前に両手をかざした。手が小刻みに震えている。斗飛は右左と首を一八〇度回転させて自分の背後を見た。人の姿は見えない。
「先生、城零さんは霊視ができるんです」
波野仁が甲高い声で説明した。 
「えっ、せ、先生の守護霊が見えるの? だ、誰ですか? まさか戦国武将?」
斗飛は今度は右肩と左肩のすぐ後ろを交互にのぞき見た。やはり誰もはりついていない。
「違います。あなたの守護霊は……クリオネ!」
斗飛はずるけ落ちた。クリオネといえばたしか、クラゲのように透き通った体を持ち、羽のような足で羽ばたくように泳ぐ体長一、二センチくらいの海の生物だ。日本語ではたしかハダカカメガイとかいうちょっと恥ずかしい名前だ。
「うぅん弱いっ。人間じゃなかったかっ。守られてる気しませんね。というか地上で力発揮できるのかいささか疑問です」
斗飛は率直な感想を告げ、肩を落として見せた。
「うあはっ、先生の背後に邪悪霊も見えます!」
城零はイスの上に立ち、斗飛の背後を再び指した。
「えっ、じゃ、邪悪霊? も、もしかして悪い影響与える霊のこと? えっ、今度はどんな霊?」
斗飛は横目で背後を見る素振りをした。今度は悪霊だけに直視できない。
「先生、邪悪霊が何者か零さんに教えてもらうと、もれなく三千円です。除霊するとさらに三万円です」
波野仁が専属のセールスマンのごとく解説した。斗飛はそれを聞くと、いぶかしげな目を霊に向ける。
「うぅん、お金ないので聞かないでおきます。間違いなくクリオネより強そうですから」
斗飛はそう言って、いまにも発言しようとする城零に、手で拒絶の意思を示した。すると、城零はかまわず斗飛の邪悪霊をハスキーボイスで公表した。 
「先生の邪悪霊は……校長先生ですっ」
城零はぴしゃり言ってのけると、斗飛を力強く指さし閉じていた目をばねで弾いたように開いた。斗飛は意外な回答に目をしばたたく。 
「ええっ……うぅん、嫌だとも言いづらい人物ですねぇ。というか、守護霊と入れ替えてもらっていいかな。。えっ、でも、お金もらわずに教えてくれてよかったの?」
「声が届いた時点の着払いです」
城零は穏やかな口調にもどると、手の平を斗飛に向け「三千円」と言った。
「クーリングオフでお願いします」
斗飛は城零に向けてシャッターを下ろすしぐさをしてみせた。零の首が生気を失ったように前に倒れた。その姿はまさに霊媒師だ。斗飛はレーバイ零と頭に刻んだ。
「城零さんありがと。次の人にお願いするから、とりあえず座って」
斗飛はなだめるように言うと、手で次の子に立つよううながした。
 つづいて、めがねをかけて細身の男の子が立ち上がった。 
「平目清です。特技は発明です」
清は人差し指で鼻の下をこする。発明オタクらしい。斗飛はオタック清と名づけて覚えた。
「へえ、今までどんなもの発明したの?」
斗飛は一転して平和な雰囲気の特技に表情をなごませた。
「ロケットを無事に発射運航するために必要な部品です」
清はそう言ってドヤ顔をした。
「うおぉ、すごい。ロ、ロケットの部品作るの?」
「これがないとロケットは確実に墜落します」
「おおっ、すごいねぇ特許物じゃない。で、どんな部品?」
斗飛はエサをもとめる山羊のように頭をぬっと前に出してきいた。
「はい。ロケット専用お守り札です。城零さんと共同開発しました。材料費千円、城零さんの祈祷費五千円支払って作りました」
清は親指を立てて見せた。再び城零の登場に、斗飛の表情が一瞬で曇る。疑わしい表情を見て取ったのか、波野仁が清のフォローをする。
「零さんのお守りは効くんですよ。あっしも千円で除霊札を買ったら邪悪霊が消えました」
「えっ、仁くんの邪悪霊って何だったの?」
「ドラキュラです」
フィクションの世界から霊の登場だ。しかも海外からはるばるやってきたらしい。城零を見ると、「わたしのおかげです」とばかりに重々しくうなずいている。
「あ、安価で退治しましたねぇ。将来、悪徳商法に引っかからないことを祈ります。はい、次の人」
斗飛は深入りしないよう話を切り上げ、次の子を指名した。
「笹津益代です。祖父は元教育長、父は将来の教育長候補、母は教育委員会指導主事です。先生たちの査定を担当してます。よろしくお願いします」
その左手にはメモ帳、右手にはペンが握られている。江久瀬廉人が国語や算数のミスを、江利伊都が指導方法の過ちを指摘し、笹津益代が査察する。ストレス環境は最悪だ。
「おっ、お手柔らかにお願いしますね」
斗飛の頬が自然と引きつる。
「先生、授業時間をしっかりマネジメントしないと、このままでは時間が足りませんよ」
益代はそう言って時計を指し示し、ささっとメモに何やら書き込みだした。ささっと査察する姿からササッツ益代という名が浮かぶ。斗飛はあわてる素振りで時計を見る。たしかにこのままでは時間が足りない。すると、仁がササッツ益代に追従してきた。
「そうですよ。ぼくっちのぼうこうダムも崩壊寸前ですから。ちゃんと時間をマネジメントしないと」
仁は硬直した表情で股間を押さえている。我慢させて膀胱炎になってもらっても困る。
「それは休み時間のうちにマネジメントしておきましょう」
斗飛はそう言ってトイレの方角を指し示した。それを見て仁はすごすごと教室を出て行った。仁のおかげでさらに時間が遅れた。斗飛は急いで次の自己紹介を促した。
 色白で細面の子が席を立つ。
「名丹亭といいます。先生、僕の名前はなんと読むかわかりますか?」
そう言って名札を見せた。「複家」と書いてある。
「ふくや?」
「残念、違います。複家と書いてホームズです」
「へっ?」
斗飛はきょとんとした。
複家は勝ち誇ったような表情で説明を加える。
「家は英語でホームでしょ」
家をホームと読む。流行のキラキラネームというものだ。教師にとっては読み違えの恐れがあり受難といえるが、世間に名前にも個性が認められた時代になったともいえる。
「ああ、当て字か。英語で読むわけね。えっ、じゃあホームズのズはどこ?」
「ほら、複は複数の複でしょ。家の複数形だからホームズです」
これは考えるまでもなくニックネームはシャーロック複家に決まりだ。
「ああ、なるほど、古典のレ点使ったみたいな読み方だなあ。面白いですね。もしかして兄弟にも名探偵にあやかった名前が使われてるのかな」
「はい」複家は用意よくポケットから名前を書いたカードを見せた。「兄は金太一です」
斗飛は目を細めて字を確認して言った。
「ああ、金田一耕助の金田一、って名字からとったのね。へえ、ほかにもいるの?」
「はい。妹は美須と言います」
複家は同じく名前を書いたカードを斗飛に見せる。
「えっ、みす?」
斗飛は首をかしげた。
「先生知らないんですか。ミス・マープルですよ。アガサクリスティが作った探偵」
「あああ、敬称の方つけちゃったわけね」斗飛は聞こえぬ声でつっこんでおいた。「名前の由来はわかりました。じゃあ最後に趣味とか特技とか教えて」と複家にうながす。
「もちろん、趣味は盗聴、盗撮、尾行です」
「……かなり特殊な趣味ですね」
斗飛は目をしばたたいた。
「勘違いしないでくださいよ。一般人に対してそういうことは犯罪になる恐れがありますからしません」
「えっ、じゃあどういう人たちにするの?」
「担任の先生です」
「……そっちも問題ですね。というか先生も一般人に属しますが」
「いえ、先生は僕たちにとっては特殊な存在であって一般人ではありません。先生、子どもの将来のためです。僕の仕掛ける盗聴、盗撮、尾行を見破ってみてください」
「でも、職員室にはたくさん児童の個人情報があるからだめだよ」
斗飛が諭す。
「いえ、目的は斉南先生の知られたくない個人情報だけですから。情報収集活動は学校外が中心です」
「無理無理無理無理……」
斗飛は一週間分の無理を乱発して拒否した。
「おほん、えへん」
次に控えるふくよかな女の子が咳払いをした。早く切り上げろというサインらしい。斗飛はちらりと腕時計を見る。複家とのやりとりが長くなりすぎたようだ。
「あっ、ごめんごめん、待たせちゃったね。次の人どうぞ」
ぽっちゃりとした女の子が席を立った。江久瀬廉人に投げキッスをしていた子だ。
「福与佳代です。わたしはバレンタインのチョコの数がクラスナンバーワンです」
福与佳代は上目づかいで斗飛を見てくる。顔の輪郭をはじめ、鼻、目、口、そのほとんどがまるっぽく、かつ顔全体が平べったい印象だ。男子にもてそうではない。
「バレンタインチョコ? 女の子でもらったの?」
「あげた数ですよ」
佳代が即答する。斗飛は納得して思わずうなずいた。 
「ちなみに、いくつ?」
「四十九個」
クラスの人数は十二人である。女子にあげてもあまりが出る。 
「へえ、クラスだけじゃないんだ。お世話になった人に義理チョコあげるって感心だね」
「わたしは本命にしかあげませんっ」
佳代は声を大にした。
「えっ、本命四十九個? ある意味すごいね」
「もちろん。玉の輿婚に向けての準備は小学生からです。将来の年の差婚も考えて、十才年下の子にまであげてます」
佳代は胸をはった。
「十才下ってゼロ才だよね」
斗飛は片眉を上げた。
「あと、六年生の黒地圭英くんにもあげました」
佳代はうれしそうに言った。 
「へえ、よっぽどのイケメンなんだろうね」
「イケメンというか、大金持ちです。二十五個あげました」
佳代は臆面もなく言い放つ。
「う、ううん、四十九個の過半数だね。さすが玉の輿狙い……」
斗飛は頬をぴくぴくさせた。
「ホワイトデーでは圭英くんからお返しに高級クッキー五十個もらえたんですよ」
そう言うと佳代は胸の前で手を合わせ思い出にひたりだした。
「ナイス投資。利息つきで返ってきたみたいだね」
斗飛はとりあえず右手の親指を立てて「グッジョブ」のサインを見せた。
「えぇと、ほかに言い残したことはありませんね」
斗飛は思い出にふける間に次へ進めようとした。すると、我に返ったように佳代が付け加えてきた。  
「あっ、それからわたしの将来の夢はウルトラアイドルです」
「ウルトラ? スーパーアイドルとかなら聞いたことあるけど、なかなかエキセントリックな形容詞をつけますね……」
斗飛は試しに視界をぼかして佳代を見たが、どう見てもアイドルの卵には見えない。
「二年後にアイドル事務所に家族が履歴書を送る手筈ですから、楽しみにしていてください」
「いやあ、楽しみだ。がんばってね」
斗飛は目を泳がせながら棒台詞をならべた。そろそろ時間だ。しかし、時計を見て次を促そうとする斗飛の機先を制して佳代は夢の続きを語った。
「ちなみに三〇歳までアイドルとして活動したら女優に転身して、海外に羽ばたきます」
「ゆ、夢が大きいねぇ。日本にとどまらない活躍を目指すんだね」
斗飛は腕時計をガン見しながら言った。明らかに時間オーバーだ。
「海外進出して映画製作数ナンバーワンのインドか、ハリウッドならぬノリウッドと呼ばれるナイジェリアで名女優の名をほしいままにします!」
佳代はなぜか腕をまくして力こぶを見せた。インド女優を目指すならヒンドゥー語も興味があるはず。ここに挨拶で「ナマステー」と発した女子が判明した。
 斗飛は目を泳がせながら言葉を返す。 
「か、海外ですか、大きな夢だね。こ、幸運を祈ります。シットダウンプリーズ」
思わずジェスチャーを交えた外国語になった。またもや時間がのびた。斗飛は「こりゃナルシス佳代だな」とつぶやいてから次の子を指名しようとした。
 そのとき、教室の前方の扉がすっと開いた。何事かと見ると、黒い燕尾服の男が立っている。さっきの炭屋嘉と名乗った綾小路家執事だ。その背後には女の子が立っている。最初に自己紹介する予定だった綾小路華恵に違いない。みんなの視線が集中する中、炭屋嘉のエスコートを受けて女の子が教室に入り斗飛の前に歩み寄ってくる。斗飛の前で立ち止まると上品にお辞儀をしてから言った。
「遅くなりました。自己紹介中だそうですね。次、わたしがしますよ」
小学生から発せられているとは思えない高級感のある香りが華恵から漂ってくる。斗飛はゴージャス華恵と名付けて覚えることにした。
「お待たせいたしました」
横で片膝をついた炭屋嘉が渋い低声で言った。斗飛があっけにとられていると、炭屋嘉は華恵の机へ向かい、イスをひいて華恵を待った。華恵はパリコレモデルのような歩きで自分の机へ向かう。波野仁をはじめとした男子たちは高級香水の香りを逃さんとばかり鼻を膨らませて匂いを吸い込んでいた。教室に高級香水の香りを振りまいた華恵は自分の席に着くと「下がってよい」と炭屋嘉に伝えて席に座った。炭屋嘉は片膝をついてお辞儀をし、悠然と廊下へ出て行く。入れ替わるようにしてトイレに行っていた波野仁が入ってきた。
「先生、次は華恵さんが自己紹介ですよ」
仁の声が教室にひびく。一部始終をぽかんと見ていた斗飛は、我に返ってゴージャス華恵を指名した。
「じゃっ、じゃあ次に綾小路華恵さん、自己紹介お願いします」
「はいっ」
透るような声の返事とともに、華恵が立ち上がった。その机には高級そうな文具が整然と並んでいる。洋服は新調したかのようにしわひとつない。
「綾小路華恵です。趣味は海外旅行と海外ブランド品集めです」
斗飛は「えっ、これ小学生のプロフィールだよね」とつぶやき目をしばたいた。
「華恵さんとこは、サブレなんです」
仁がつけくわえた。斗飛が理解に苦しむ表情を浮かべると、廉人が「セレブだろ」とすぐに訂正した。
「セレブだなんて、たいしたことありませんよ。家と庭を合わせても敷地がバチカン市国くらいしかありませんから。別荘を合わせてモナコ公国をやっと超える程度です」
「た、たとえが国レベルですね……」
斗飛は二の句が継げない。隙をついてナルシス佳代が声を上げた。
「わたし、華恵さんにもチョコあげたら、ホワイトデーでブランドバッグもらいました」
佳代の発言に斗飛は「あざといなあ」と頬をぴくぴくさせた。
つづいて仁の解説が入る。  
「赤い羽根共同募金のときは募金箱を持って児童会役員が立ちますよね。華恵さんが来る時間にはその横にずらりとダミーの募金箱をもつ子が並びます」
「先生も並んでいいかな」
斗飛は言ったあと、あわてて口をふさいだ。
「先生、うちの親からお中元とお歳暮が、ちゃんと送られますから。よろしく」
華恵は微笑みながらおじぎをすると、しとやかに席に着いた。
「あっ、いや、心遣いはいいよ。というか公表しないでもらっていいかな」
斗飛は泳ぐ目で他の子たちの顔色をうかがった。
「きっと高級品が贈与されるのよ」という羨望のまなざしを浴びている気がする。笹津益代にいたっては、「賄賂罪容疑」とつぶやきながら冷静にメモをとっている。「公表しないで」発言が墓穴を掘ったようだ。
「あっ、みんな、いただきませんからねぇ。おうちの人にそういうの受け取りませんって言っといてぇ」
「まっ、華恵さんとこと比べたらうちの贈り物なんて粗品にも及ばないしね」
ササッツ益代がぼそりと言ってメモを閉じると、ゴージャス華恵への羨望のまなざしとともに教室内がざわつきだした。「先生は買収されませんから大丈夫ですよぉ」斗飛は収拾するのにやっきとなる。すると、教室後方の扉が開き、炭屋嘉がバッグを抱えて入ってきた。ざわつく児童に「これやるから静かに」とつぶやきながら何かを手渡していく。
「あっ、レアな消しゴムだ限定品だぞ」
仁が率直な意見を大声であげる。
「おとなしくしないと没収です」ボディーガードが冷たく言い放つ。すると、教室内があっというまに静かになった。ボディーガードは事態を収拾したことを確認すると、悪びれる様子もなく背筋を伸ばしたまま教室を出て行った。華恵がピンチのときには、あらゆる手段を講ずる準備を整えているらしい。斗飛は満面の笑みを浮かべる子どもたちに向かって両手のヒラを見せながら言った。
「はい、先生はもらってませんからね。レア消しもらってません。先生は何ももらいません。じゃあ、次の人いきましょう」
みんなに潔白を訴えると、次の子を見た。波野仁だ。斗飛は「君は十分発言したよね」と言いそうになるのを押さえて指名した。
「僕の名前は波野仁です。趣味はつっこむことで、特技はボケることです。ボケるといってもIQは九十五点もありますけどね。ははは」
仁は胸を張って見せた。IQは百点満点と思っているらしい。斗飛はとりあえず仁の趣味からツッコミ仁と名づけた。
 続いて日焼けした女の子が席を立った。
「兼梨忍といいます。趣味はスリーアール活動です」
華恵の制服が新品のようだったためか、忍の制服は色があせてみえる。机にのっている筆箱も破れが目立つ。
「スリーアールって、リデュース、リユース、リサイクルのことかな」
斗飛が聞き返すと、忍はこくりとうなずいた。エコ忍といったところか。
「あっ、先生。忍さんの机の横に袋があるけど、あれリサイクルボックスです。使わなくなった消しゴムとか鉛筆とか入れてください。忍さんがリサイクルしますから」
波野仁が机をさして解説する。綾小路華恵が筆箱から新品の鉛筆を取り出しながら言った。
「私は鉛筆けずるの面倒だから授業で使い終わった鉛筆入れてますよ」
その鉛筆も毎日執事がそろえているに違いない。 
「君はもうちょっと物を大事にして」
斗飛は苦笑いで応え、次の児童に自己紹介を促した。 
「矢吹星丈馬です。将来の夢はプロ野球の選手、メジャーリーガーです」
しゃきしゃきと話す姿は、いかにもスポーツマンらしい。そういえば、朝の挨拶でグッドモーニングと言っていた声だ。将来に向けて英語の勉強をしているのかもしれない。
「へえ、どんな選手になりたいのかな?」
斗飛は腕組みをしてたずねた。
「二刀流の選手になりたいです」
「なるほど、ピッチャーとバッターの二刀流ってわけだね」
「違いますよ。右手と左手にそれぞれバットを持って打つんですよ。こうやって」
丈馬はそそくさと掃除道具入れから二つのほうきを取り出して、実際に構えて見せた。
「ああ、本当の二刀流だね。宮本武蔵みたい……」
斗飛は開いた口を塞げない。
「そうです。そして、まず左手の小型バットで投球をバントして勢いをとめる。浮き上がったボールを右手の大型バットで跳ね返してホームランを打つんです」
丈馬はほうきをバットに見立てて実演した。
「なるほど、革新的だね。片手でバットが操れるように鍛えまくってね。ただ、一つ懸念なのは、まず野球協会にバットの二本同時使用と二度打ちの認可というルール改正を申請しないとね。うぅん、無理かな」
斗飛は首をひねって見せた。
「大丈夫です。変えてみせます。最終的には右手のバットをテニスラケットでもオッケーにしてもらうつもりです」
そう言って右手のほうきでテニスの素振りをしてみせた。
「ああ、百パーセント無理だねぇ」
斗飛は聞こえない声でつぶやいた。丈馬はつづける。 
「それから、走攻守三拍子そろった選手になるためには盗塁技術も必要です。先生が黒板に文字を書いている間、机を離れてリードする練習してもいいですか。先生がこちらを見たらベース、いや机にヘッドスライディングでもどりますから」
丈馬はそう言って机から三歩ぶん離れて帰塁のヘッドスライディングをして見せた。見事に机の脚に頭をぶつける。さらに不運にも机上の筆箱が落下し後頭部を直撃する。「いたっ」という丈馬の声がむなしく響いた。
「学習上も安全上も百パーセントだめですね。板書をノートにちゃんと書いて」
斗飛は書く仕草をして見せた。
「あっ、書くといえば俺、メジャーに行くためグッドモーニングの英単語を毎日五十回ずつ一年くらい書いてます」
丈馬が高らかに言った。
「ど、努力家ですね……。でもそろそろ次の単語を覚えた方がいい……かな」
さらに話をしようとする丈馬の機先を制して言葉を発する。
「はい、丈馬くんで自己紹介は終わりですね。丈馬くん、バットがわりのほうき片付けて」
斗飛が指示すると、丈馬はすごすごとほうきを元にもどしに行った。
「これで全員の自己紹介が終わりましたね。あと一〇分かあ、クラスの目標を決めるのには時間が足りませんね」
「先生への質問タイムはどうしたんですか?」
エース廉人が声を張る。
「ああっ、そうだね。先生への質問ある?」
「ありまぁす」 
斗飛の声に反応してあちらこちらで手が挙がる。誰も彼も濃いメンバーだ。
「よしっ、わかった。ここは男気ある先生が時間まで全部の質問に答えよう。じゃあ、まず武威くん」
「先生、前科あるっすか」
イワス武威は親指と人差し指で手首をつかむ仕草をして言った。
「ありませぇん。あったら教師なれませぇん」
斗飛は即答する。さらにメモ帳に何か記入しようとするササッツ益代に「前科なし、ですよ」と念を押して言った。続けてあちこちで手があがる。
「つぎっ福与佳代さん」
男女バランスよくあてる配慮も忘れない。
「わたしのセクスィーポイントを教えてください」
ナルシス佳代は立ち上がって悩ましそうなポーズを見せる。この時間の趣旨がわかっていない。
「えっ、あっ、そうだねぇ、鼻の下のホクロッ」
斗飛は目を閉じてやけくそ気味に答えた。
「先生、あれホクロじゃなくって佳代さんの鼻くそっすよ」
一番前に座るツッコミ仁が斗飛に顔を近づけ忠告してきた。斗飛は口が三角形にゆがんだ。
「もっ、もといっ、ほ、骨だね。骨美人」
「えっ、わたしレントゲンとか撮ったことないですけど」
佳代は首をかしげる。
「いや、先生には骨の様子まで想像できるんだ。いやあ、顔の骨とかまさに美人のつくりだ」
「先生、なに生徒の服の下の姿を想像しているんですか」
ササッツ益代が新聞記者のようにメモ帳を手にして抗議した。 
「ち、ちがう。服の下じゃなくて肉の下。骨限定です。いやあ、佳代さん、レントゲン写真とったお医者さんが惚れて告白されるかもね。はい、次、最後、名丹亭複家くん」
斗飛は最後はどもるようにしてシャーロック複家を指名した。
「新しい先生の生態を調べるよう父から言われているのですが、家はどこですか?」
斗飛は人としての扱いを受けていないような気がしたが、複家はいたって真摯な目を向けてくる。その目に負けて家を知らせると張り込みとかされかねない。
「うぅん、生態って昆虫の自由研究みたいですねぇ。先生は脱皮も産卵もする予定ありません。プライベートは探らないように」
斗飛はジョークを交えて煙に巻く。
「えっ、すでに午後七時に兄の金太一と妹の美須が、先生の尾行とはりこみをするべく配置につくことになってますけど。先生がおっしゃらなくてもアジトの判明は時間の問題ですよ」
「やめてぇ」
斗飛は頭を抱えた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

斉南斗飛……大学卒業後、中学校講師を経て玉蘭小学校に臨時採用教員として赴任する。

百出哲則(ひゃくで てつのり)……6年担任で斉南斗飛をサポートする。35歳の男性教諭。独特の教育哲学を持っている。

厚木心(あつきこころ)……4年担任。筋肉とプロテインを愛する体育主任。斗飛におせっかいとも思えるアドバイスをしてくる。そのほとんどは教師としての肉体強化に関することであり、教育に関しては精神論が多い感じである。熱い心を持つ猪突猛進型熱血漢。

小松麗子……3年担任で斗飛と同じく臨時採用。斗飛にとっては唯一の年下の教師である。容姿端麗でマドンナ的存在。

名丹亭複家(めいたんていほうむず)……斗飛が担任する5年生児童。探偵一家の次男坊。兄は金太一(きんだいち)。妹は美須(クリスティが生んだ女性名探偵ミスマープルの敬称のほうを名にもらったようだ)。複家でほうむずと読む理由は、家がホームで複はその複数形ということでホームズだそうである。名前に負けじと、数々の事件に頼まれなくても自らの推理を披露する。趣味は盗聴、盗撮、尾行で担任の斗飛をターゲットと宣言しているのが頭痛の種。

城零(じょう れい)……斗飛が担任する5年生。霊媒師のごとく、霊が見えるという前髪を目の下まで垂らした女子。その特技から斗飛はレーバイ零と密かに名づける。初対面で斗飛の守護霊がクリオネだということを指摘する。事後請求の三千円はまだ払っていない。

岩須武威(いわす ぶい)……斗飛が担任する5年生。特技はドリフト走行(ただし使うのは祖父の耕運機らしい)。モットー? は『ブイブイ言わす』自称ヤンキーだが根は優しい?

江久瀬廉人(えくせ れんと)……斗飛が担任する5年生男子。学級委員を務める。エース廉人と密かに呼ぶ。将来の夢は医者で特技は板書された漢字間違いや計算間違いを発見することである。ゆえに板書中に廉人の声が聞こえると斗飛はビクッとしてチョークを折りそうになる。

江利伊都(えり いと)……斗飛が担任する5年生女子。廉人と同じく学級委員を務める。将来の夢は弁護士で、特技は話における文法的誤りや論理的矛盾点を見つけること。この特技により、斗飛は話している最中に伊都の声が聞こえるとビクッとして舌を噛む。

波野仁(なみの ひとし)……斗飛が担任する5年生男子。特技はボケることというがほぼ天然である。その発言はツッコミどころ満載なため、斗飛は密かにツッコミ仁と名づける。

平目清(ひらめ きよし)……斗飛が担任する5年生男子。特技は発明というが実際に発明した物についてはぶ厚いベールに包まれている。

綾小路華恵(あやのこうじ はなえ)……斗飛が担任する5年生女子。綾小路財閥の一人娘。赴任した初日から執事の炭屋嘉(すみやか)を同伴し驚かせる。斗飛は密かにゴージャス華恵と命名。誰も邪魔できない我が道を行く、お嬢様。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み