第7話 セイイチロウ

文字数 8,345文字

 その夜は、なかなか眠りに就く事が出来ずに、暫く天井を眺めて過ごした。
 本当は助けたかった。いや、助けられた筈では無いのか?マナミを、ユイを、ヒロミを、ジュリを……。助ける事が出来なかったのは、いつも僕が手を拱いているだけの小心者だからなのか?僕は、自身の無力さを痛感した。考え出すと思考は止まらなくなり、僕が今まで出会った彼等の死は、全て自身の所為では無いかと思う様になっていた。
 僕は死ぬ為にこの街に来たのに……未だに、こうして生きている。それが全ての過ちの原因だったのだと気付き、一刻も早く自死するべきだとの結論に至った。
 翌朝、一睡も出来ず朦朧とした意識のまま、フラフラとホテルを出て行った。

 例の橋に到着し、其処から早朝の朝日に照らされた河川敷を眺める。マナミも、ユイも、ヒロミも、ジュリも、皆此処で出会った。マナミは当然の事として、他の三人の遺体が発見されたという報道は聞かない。奇妙は話では有ると思うが、その時の僕にはあまり問題にならなかった。皆と出会ったこの場所で逝く事だけが、残された唯一の救いの様に思われた。
 橋の欄干に片足を掛け、ゆっくりと上る……が、自身の意に反して徐々に身体が浮き上がって行った。何が起こったのか解らず、一瞬パニックに陥る。振り返ると、巨大な人間が僕の襟首を掴んで持ち上げていた。二メートルは有ろうかという大男だ。
「君、危ないじゃないか!落ちたらどうするんだ!」
親猫に首根っこを摘まれた子猫の様に、そろりと地上に下ろされてから、まじまじとその大男の顔を見上げる。厳ついゴリゴリの容貌を想像したが、それは果たして、年の頃は四十前後といった所であろうか、嘗てハリウッドで大活躍した日本人アクション俳優の如き美丈夫だった。思わずじっと見詰めていると、ニヤリと笑って大男が言う。
「悪いが俺はソッチの趣味は無いんでね。」
「ち、ち、ち、ち、違いますから!」
慌てて全否定をすると、さも解っているという風に白い歯を見せて笑う。
「あんまり大きいもんで、ビックリしたんだろう?」
コクコクと慌てて頷くと、大男はもう片方の手に持っていた紙袋を差し出した。
「少年、一緒に食べるか!」
中には、バーガーとポテトとドリンクのセットが、三セットも入っていた。
「毎朝、此処から朝日を眺めながら、朝食を取るのが日課でね。」
どうやら、これだけの分量を、いつも一人で平らげているらしい。二メートル近い身長に、筋肉質な体格を見ればそれも納得だ。
「いや、僕が頂いたら足りなくなりませんか?」
「問題無い!足りなければ、本日は途中で早弁だ!」
何とも豪快な様子に気圧されながらも、僕はポテトとドリンクを一つずつ頂いた。
 朝食をすっかり平らげると、大男は仕事の時間だと言って慌てて其処を立ち去った。去り際に、こんな言葉を残して。
「少年、そんな所から誤って落ちるんじゃ無いぞ!命は大事にな。」

 僕は、その日、その時間、何故その場所に居たのかを忘れてしまった。
 とても大きくて、とても温かかった。若し僕に『チチオヤ』が存在したなら、あんな感じなのだろうか。……解らない、僕には『チチオヤ』の概念なんて存在しない。理解出来ない感情を抱きつつも、何故だか心の中は少し温かかった。
「……また、会えるかな。」
先程食べたポテトの優しい塩味を噛み締めながら、僕は辺りの景色を眺めつつホテルの部屋まで戻った。未だ、昼前の時間だというのに、少し幸福な気持ちで午睡を堪能した。その後、夜中に一度目を覚ましたが、手洗いに行っただけでまた直ぐに眠ってしまった。お陰で、翌朝は辺りが未だ暗い内に眼が覚めてしまった。

 眼が覚めてしまったのだから仕方が無いと、言い訳じみた理由を考えながら、僕は早足で例の橋に向かった。
「良かった。未だ来ていないみたいだ。」
片手には、サンドイッチとペットボトル飲料が入ったコンビニエンスストアのビニール袋を提げ、辺りに眼を凝らしてじっと待つ。すると、僕が泊まっているビジネスホテルの方向から、大きな影が徐々に近付いて来るのが解った。僕は、心臓の鼓動が高鳴って来るのを感じた。大きな影の方に駆け寄りたい気持ちを抑え、さも偶然を装って橋の欄干に肘を付いて待った。
「おはよう、少年!また会ったな!」
僕の隣に立つと、早速手に持っていた紙袋からバーガーを取り出し、勢い良く齧り付く。決して上品では無いが、彼の立派な体格からすると、寧ろ気持ち良くさえ感じる。僕も釣られて、サンドイッチを食べ始めた。
「何だ、それだけか?そんなんじゃ強くなれないぞ!」
そう言って、紙袋から出したビッグサイズのバーガーを僕に手渡す。流石に食べ過ぎではと思ったが、彼の気持ちが嬉しくてつい受け取ってしまった。
 「うぅ、食べ過ぎた……。」
サンドイッチとビッグサイズのバーガーを平らげ、僕は定員オーバーとなった胃を擦りながらホテルのベッドまで辿り着いた。食事に一切の興味を持てなかった僕が、今はその喜びを噛み締めている。食事は誰と一緒に食べるかがこんなにも重要だと、僕は改めて気付かされた。あぁ、何て幸せなんだ。ニヤけ顔のままベッドの上でゴロゴロし、いつの間にか深い眠りに就いていた。

 また、あの夢を見ている。
「ですが、これは安楽死の助長になりませんか?人の命の価値を……。」
「そんな心配は無用だわ。これは、既に死が確定した人間への、我々が成し得る最期の救済なのよ!神の携挙にも等しいわ!」
白衣を着た年配の女性と若い女性の二人が言い争っている。若い女性は、『それは、我々人類が成すには烏滸がましい事では?』と言おうとしたが、一旦言葉を飲み込んだ。
「……それは、所長の自己満足では?」
「何を言っているの?これは科学的にも立証された理論なのよ。今はそんな事を言っている場合では無いわ。現時刻の被験体の質量は?」
モニタを見ていた白衣の男性が答える。
「六万八千三百四十七グラムです。六グラムの減少が確認されました。」
「不味いわ!二十一グラム減少してしまったら、この計画は実効性が無くなる!未だ魂が此処に存在する内に完了させなくては……!」
「た……ま……しい?」
何とも非科学的な言葉の登場に、先程から静観していた男性も思わず声を上げた。
「……所長、この研究は、私達は……本当に正しい事を行っているんですよね?」
そう問い掛けた男性を一瞥すると、年配の女性はモニタに接続された機器に数値を入力し始めた。

 翌朝早く、またしても僕はサンドイッチとペットボトル飲料が入ったコンビニエンスストアのビニール袋を提げ、例の橋に向かった。今日はサンドイッチを二つ用意した。いつもバーガーばかり食べている様なので、時にはサンドイッチを薦めてみたかったのだ。だが、一番の理由は、僕も何かお返しをしたかったからだ。
 暫く待ってみたが、その日は例の大男は現れなかった。昼頃になって僕は待つ事を諦め、其処でサンドイッチを一つ頬張った。それ以上はもう食べる気がせず、残ったサンドイッチを持ってホテルまで戻った。悪くなるといけないと思い、冷蔵庫にサンドイッチを放り込むと、そのままベッドに横になった。何故だかその日は午睡が出来ず、ベッドから例の橋が見える窓の外をじっと眺めていた。

 夕方、それももう日暮れ間近の頃、例の大男と思しき人影が橋の上に見えた。僕は考えるよりも早く、外套を手に既に走り出していた。
 橋の近くまで来ると、人違いかも知れないという一抹の不安は掻き消され、あの大男に間違い無いと確信した。だが、どうした事かいつもの覇気が感じられず、身体も幾分小さくなって見える。
「こ、こんばんは……。」
僕は精一杯の勇気を振り絞り、大男に声を掛けた。
「……ああ、少年か。元気か?」
振り絞る様に声を出し、無理矢理に笑顔を作って大男は答える。
「あ、あの……何か有ったんですか?」
僕が話し掛けるも、大男は悲しそうに笑うだけだ。
「話……話だけでも聞かせて下さい!僕なんかじゃ、何も出来ないかも知れないけれど、話を聞く事位は出来ますから!」
そう言って食い下がると、大男は更に悲しそうな笑顔でこう言った。
「俺は……教え子一人救えない駄目教師なんだ。いつまで経っても真人間になれない!これが俺の原罪だ……。」

 大男の名は、セイイチロウといった。誠実で立派な男子に育って欲しいと名付けられた名だ。僕は、親御さんの深くて優しい愛情を感じた。
 彼は、板金塗装工場を営む両親の元に生まれ、貧しいながらも四兄弟の長男として家族を助けて育った。早朝には新聞配達のアルバイト、夕方には下の三人の弟達の世話、深夜には板金塗装工場の工具類の整備にと、寝る間を惜しんで長男としての役目を果たした。
「辛くなんて無いさ。俺はこの家の長男だからな。」
 暫くして、セイイチロウは大学に進学した。家計の事も考慮し、本人は高校から先の進学を望んでいなかったらしいが、末弟の言葉で考えを変えたそうだ。
「兄ちゃん、兄ちゃんはてんさいだから、いっぱいべんきょうして、うんとえらくなってね。がっこうのおかね、たくさんいるんだったら、せつやくしなきゃだよね。ボク、今日からおやついらないから!」
未だ小学校低学年だった末弟の言葉に、セイイチロウは大粒の涙を流しながら抱き締める事しか出来なかった。この時、家族を守る為ならばどんな艱難辛苦にも耐えてみせると心に誓った。進学先は、この国の最高学府、主席での入学だったそうだ。……学歴に拘る僕の母親が、僕に赦した唯一の進学先と同じであった事を思い出した。
 それから数年後、彼は大手商社の内定を獲得し、愈々卒業を迎えるという時期だった。

 それは、突然の出来事だった。
「卒業式の前日に、封書が届いたんだ。」
セイイチロウの握った拳は微かに震え、その日の出来事を反芻している様だった。
「……俺の内定の取り消しの知らせだった。選考結果の連絡の際、同姓同名の人が居て、誤って合格の連絡をしてしまったと。」
そんな事は有り得ない。
「有り得ないって思っているんだろう?その通りだ、そんなのは大嘘だ。……俺はそれから暫くして、その企業の部落地域出身者の採用選考排除の噂を聞いた。俺は被差別部落の生まれだ。俺の本籍地は、企業へのエントリー後に市町村統廃合がなされたが、俺は統廃合前の本籍地でエントリーしたままだった。恐らく、最初の担当者が統廃合後のリストでしか照合していなかったのだろう。本来ならば書類選考の段階で排除されている筈なのに、内定まで進んでしまったんだ。……とんだ、とばっちりだ。」
「……今のこの時代に、そんなリストが……?」
僕は、そんな事で彼程の優秀な人材が採用されないとは信じられなかった。
「あぁ、存在するんだ。旧時代の差別は未だに終わらない。旧態依然とした、企業の差別体質は変わる事が無いんだ。そして今現在も、そのリストに依って人々は選別され、差別される側は苦しめられ続けている。」
「そんな……政府は、日本政府は一体何をしているんだ!」
「その政府が根源なんだよ……。」

 就職浪人をせざるを得なくなったセイイチロウは、アルバイトを掛け持ちしつつ家計を助けながら、翌年の就職活動に精力的だった。そうして翌年、現在の公立高校の教師という職に就いた。彼の学歴からすれば、幾分役不足とも言えなくは無かったが、それでも彼はその仕事に遣り甲斐を見出した。
「あいつ等の『うっせぇ』は『寂しい』、『構うな』は『話を聞いて欲しい』っていう意味なんだ。本当に悪い奴なんて一人も居ない。只、大人達ときちんとした意思疎通が成されなかった所為で、心を閉ざしていただけなんだ。」
彼は何人もの不良と呼ばれる生徒達と対峙し、対話し、その後の彼等の将来を切り開いて行った。二次方程式もまともに解けなかった生徒が、偏差値七十超えの有名大学に進学し、今では大手銀行の次期支店長候補だ。喧嘩ばかりして傷だらけだった生徒が、地元大学の医学部に進学し、今ではその大学病院で指名の絶えない名医となった。
「あいつ等は原石の様なものなんだ。とんでもない才能を持っているのに、無自覚な大人や理不尽な社会や、偏見に満ちた環境が、彼等の才能を殺して行くんだ。俺は、それを止めたい!一人でも多くの才能を救いたい!教師になると決めた時、心に誓ったんだ。」
それはきっと、彼自身の大手商社から受けた理不尽な内定取り消しという経験から、強く学んだ事なのだろうと……。
「なのに俺は、またしてもあの時と同じ敵に対峙し、何も出来ないままだったんだ。」

 セイイチロウは、勤務する高校で手芸部の顧問を受け持っていた。僕は聞き間違いでは無いかと思い、何度も聞き直した。彼の恵まれた体躯から、柔道部かラグビー部辺りが適任だと思っていたからだ。
「気持ち悪いだろ。こんな大男が、チマチマ裁縫や刺繍に勤しんでいるなんてな。」
「そ、そんな事無いですよ!芸術的な感性は、偉大な才能なんです!凡人には、やろうと思って出来る事じゃ無いです!」
僕は手芸部と彼の体躯のミスマッチに未だ驚きつつも、敢えて彼が手芸部の顧問という選択肢を選んだ理由が気になった。恐らく、数多の体育会系の部の顧問を打診された筈だ。
「少年!ほんっと解っているよなぁ。よし、解る奴にはこれを授けよう!俺が刺繍したハンカチーフだ。」
スーツの上着の内ポケットから取り出されたそれは、緻密な桜の刺繍が施された淡いピンク色のハンカチーフだった。百貨店で販売されている高級な物に負けず劣らず、それどころか、明らかに一点物の手縫い感に魅了された。これが、この美しい物が、セイイチロウが本当に好きな事なのだと。
「……綺麗だ……。」
それだけしか言葉にならなかった。
「良いか。好みの女に出会ったら、そしてその女が涙を流していたら、優しくこれを差し出せ。花の刺繍で落ちない女は居ない!俺の最後の作品だからな!」
「え……こんなに綺麗なのに、もう作らないんですか?」
それだけの情熱を注げるものを何故止めてしまうのか、僕には理由が想像出来なかった。この技術を教えて欲しいと願う人達は沢山居るだろうし、量産は出来ないにしても、雑貨店に委託して販売をしても良い代物だ。
「作らないんじゃ無い。もう俺には作る事が出来ないんだ。俺にはこれから、他にやらなければならない事が有る。俺にしか出来ない、俺がやるべき事なんだ。」
セイイチロウは握り締めた拳に眼を落とし、それから黄昏時の空を確固たる信念を持って見上げた。

 一昨日、手芸部で部費の盗難騒ぎが有ったそうだ。或る生徒が真っ先に犯人として疑われた。彼は、母子家庭で学用品も満足に購入出来ず、身長が伸びて身体に合わなくなっても、制服を新調する事も出来ない程の経済状況だったらしい。でも、どんなに貧しくとも、部費に手を付ける様な生徒では無いと、セイイチロウは言う。その生徒には、人としての誇りが有ったのだと。それなのに、まともに反論もしないまま、本日未明、高校の校舎屋上から飛び降りたのだそうだ。朝になって発見された時には、既に生徒の身体は冷たくなっており、救急搬送された病院で死亡が確認された。死因は落下時の内臓破裂だった。
「……そんな……、どうして彼は何も反論もせず……。」
「無意味だと知っていたんだよ。彼は被差別部落の生徒でね、何かが有った時に犯人に仕立て上げられるのは、決まって部落地域出身者だ。」
握り締めたセイイチロウの拳からは、あまりに強く握り締めた所為で爪が食い込み、一滴、二滴、と血が滴り落ちていた。こういう時に、何と言葉を掛ければ良いのか、今の僕には見当も付かなかった。
「俺は身上書でその事を知っていたから、何かと気にはしていたんだ。過去の俺の二の舞いにならない様、何か困った事が起きた時には助けてやらなければってね。教師が一人の生徒に入れ込むのは良くないと解ってはいたが、どうにも感情ばかりが先走ってしまって。なのに、俺は今日になって初めて、彼が長年虐めに苦しんでいた事、それが彼の出自に因るものである事を知ったんだ。俺は彼の事情を知っていながら、何も気付かず何も出来なかったんだ。教師として最低だ……!俺には教師を続ける資格なんて無い!」
セイイチロウの心の叫びにも似た真実の陳述が、僕の心を深く抉った。
「犯人……真犯人を見付ければ、彼の汚名を雪ぐ事が出来るんじゃ……!」
僕は咄嗟に思い付き、セイイチロウの腕を引きながら叫んだ。何とか彼の罪悪感を少しでも軽くしてあげたかったのだ。
「……ありがとう、少年。でも、それは無理なんだ。これは仕組まれた事件だったんだ。」
僕には、どういう意味なのか良く理解出来なかった。
「犯人は高校側って事さ。」
 セイイチロウは事件後に、校長に事件の調査をする様に掛け合った。だがそれは即座に却下された。激昂したセイイチロウに胸倉を掴まれ、漸く校長が白状したらしい。この手芸部部費盗難事件は、高校の校長及び副校長と、数人の教諭で画策していた事だった。より選別された上位の高校を目指し、出自や素行、経済面に問題を抱える生徒を弾く為の計画だ。
「明らかに成績が合格圏内の奴を入学時に落としたら、高校に依る入学差別だとマスコミに叩かれ兼ねない。だから、入学後に不祥事を起こして『自主』退学って事にしたかったんだ。その筈が、想定外にその生徒が自殺をしてしまって、高校側が右往左往しているっていうのが本事件の真相だよ。」
僕がその話に、怒り心頭の思いで震えていると、セイイチロウがゆっくりと此方に向き直り声を掛けて来た。
「俺はこれから、俺の最後の仕事に向かう。だから少年、頼まれてくれないか?これを預かっていて欲しい。少年が適当だと思う時が来たら、適当だと思う方法で、この内容を世間に公表して欲しい。……頼む。」
 そう言って差し出された物は、一通の長形三号の封書であった。

 それから丸二日が経ったが、彼はあれからあの橋に現れる事は無かった。僕は気になって仕方が無く、朝、昼、夕、夜とを問わず、ホテルの窓から橋の辺りの様子を確認し、時には橋まで行って暫く其処で彼を待っていた。だがあの日以降、彼が其処に現れた形跡は無かった。
 その時、付けっ放しにしていたホテルの部屋のテレビから、ニュース速報が流れた。市内の公立高校で、男性教諭が屋上から転落死したという内容だった。男性教諭は屋上での清掃作業中に、誤って転落したとの事だった。自殺した生徒の指導方針に悩み、思い余って自殺か、とも報じられていた。テレビ画面に映し出されたその男性教諭の顔写真に、僕は息を飲んだ。嫌な汗が顎先を伝う。信じたくは無かったが、セイイチロウに間違い無い。
 でも、妙だ。手芸部の生徒の飛び降り自殺の一件で、屋上には未だ規制線が張られている筈だ。そんな中で、一教諭の彼が清掃作業なんてするだろうか。清掃では無く何か別の目的で其処に行き、其処で何か……高校側に不利な物証でも見付けたのでは無いだろうか。それに、彼は最後に会った時、残された仕事が有ると言っていた。僕にはどう考えても、彼が自殺を図ったとは考えられなかった。
 僕は、震える手でセイイチロウから受け取った封書を開封した。それは、教育委員会宛てに綴られた手記だった。今回の手芸部生徒飛び降り自殺に関して、事の発端から経緯、結論、原因までが実名で詳細に記されていた。今思えば、自身の身に何か有った時に備え、これを僕に託したのだろう。
 少し考えて、僕はそれを某タブロイド紙に流す事に決めた。当の教諭が死亡した今となっては、教育委員会に持ち込んでも揉み消され兼ねない。セイイチロウは多くの人々に差別の実態を知り、そして考察して欲しいと願っている筈だ。僕は暫く考えた末、凶悪事件等のセンセーショナルな記事を、喜んで取り上げる事で有名な、某タブロイド紙の新聞社にコンタクトを取る事に決めた。
 僕は震える手で、ネット検索をして調べたその新聞社の電話番号をダイヤルした。五回の呼び出し音の後、打切棒な男性が面相臭そうに電話に出た。
「はいはい、此方日刊……。」
「今一番、旬のネタを提供します。但し、条件が一つ。告発の内容を、原文ままに報道する事……。」
「はぁ……?」
「先程テレビ速報で流れた高校教諭転落死事件の真実ですよ……。一言一句、違えないでお願いします。必ず……!」

 ホテルの開け放たれた窓から、ハラリと桜の花弁が数枚舞い込み、そっとセイイチロウの手記の上に舞い降りた。
「貴方の遺志は、僕が継ぎます……。」
僕は彼の手記の上にそっと手を重ね、ホテルの窓越しに煌々と明るい月を睨んだ。
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