第5話 ユイ

文字数 8,201文字

 その日、僕は夢を見ていた。
 ベッドの上に横たわり、上からは強烈な灯りで照らされており、両手足と頭部は無数のコードで機械に繋がれている。突然手術でもされる事になったのかと思うが、手術に必要な筈のメスや鉤、鉗子等の器具が見当たらない。代わりに無数のモニタが有り、今現在も何か計測中のデータを必死に表示している。
「…………。」
「………………。」
「……!」
人の話し声は微かに聞こえるが、何を言っているのかまでは聞こえない。何人かの白衣を着た人物が見えるが、その中に一人だけ見知った容貌を、……僕の母親に似た容貌を見た気がした。

 眼が覚めると、酷く汗をかいていた。先程まで、嫌な夢を見ていた気がする。僕は無理矢理身体を引き起こすと、テーブルに置いてあった冷めたコップの中身を一気に飲み干す。
 僕は、マナミと初めて出会った夜から、例の橋の近くに在るビジネスホテルに長期で滞在していた。リバーサイドホテルと看板が出ており、外壁の様子が永い営業年月を物語っていた。客室内は狭いが、一人で宿泊するには十分の設備が有った。テーブル上の電磁サーバのコップ型ポットに水道水を入れると、ほうじ茶のティーバッグを投げ入れ加熱ボタンを押す。
 窓際に歩み寄り、僕はさっとカーテンを開けた。このホテルで一番気に入っている場所だ。窓からは市街地の景色が一望出来、マナミと出会った例の橋、そして昨夜マナミを送り出したあの河川敷も良く見渡す事が出来る。暫く、時間を忘れてその河川敷を眺めた。
 ふと、ほうじ茶を飲もうとテーブルに戻ると、既に電磁サーバの電源は切れており、中身は少し冷め掛かっていた。喉はカラカラに渇いていた筈なのに、何故か飲む気になれず、そのまま蓋をして電磁サーバの上に戻した。そして、リモコンを手に取りテレビのスイッチを入れる。ザッピングをしながら、昨夜のニュースに眼を凝らした。殺人事件的なものは何も報道されてはいない。マナミの遺体が発見されていないのは当然として、父親の遺体も未だ発見されていないのか?初めて殺人を犯したというのに、妙に落ち着き払って僕はテレビ画面を眺めた。
 そういえば、昨日マナミと買い出しに出掛けてから何も口にしていない。何か食べなくてはと思い、ベッド脇に投げ捨てた外套を羽織ると、テレビのスイッチを消して一旦ホテルを出た。

 ホテルを出て川とは反対方向に少し歩くと、ファストフード店の看板が在った。僕は其処で朝食……いや、時間的には昼食を取る事にした。それもかなり遅めの昼食だ。
 店内に入ると、バーガーとポテトとドリンクのセットを注文した。受け取ったトレイを持って一人用の座席に着くと、隣の席の親子が眼に入った。母親と保育園に通う息子といった所か。だが良く見ると、息子の前のトレイには、バーガーとサラダ、ドリンクに玩具が付いたセットが載っている。一方、母親の前のトレイにはドリンクのみが載っていた。先に食事を済ませていたのかとも思ったが、母親の湿り気を帯びた汚れたスニーカーが眼に留まり、つい先程まで仕事をしていたらしい事に気付く。職場から急いで保育園に息子を迎えに行き、その帰りにファストフード店に寄ったという所か。どう見ても十分な稼ぎが有る様には見えない。母親の注文がドリンクだけなのは、生活費の節約が目的である事に間違いは無かろう。
 その事に気付いた瞬間、僕はトレイの上の食べ物を一気に口腔内へ押し込み、良く噛みもしないで喉の奥へと流し込んだ。そして、逃げる様にして店の扉から出て行った。
 情けない。僕は、見ず知らずの子供に嫉みの感情を抱いたのだ。

 僕には母親と共に食事をした記憶が無い。いつも広いダイニングテーブルに僕一人だ。お手伝いさんが用意してくれる料理を、作業をこなすかの様に口に運ぶ。味は……感じた事が無い。『チチオヤ』とは食卓を囲む事は疎か、何処の誰かも知らない。
 抑、僕には始めから『チチオヤ』が存在しない。優秀な子孫だけを望む母親が、精子バンクで精子を購入し、計画的に僕を妊娠した。研究者であった母親は、出産時にも一切の産休を取る事無く、育児は全てシッターに任せて研究に戻った。僕は成長するに連れて、自身の容貌から『チチオヤ』が日本人では無いであろう事、そして『チチオヤ』として僕の前に現れる事は決して無いであろう事を悟った。この日の僕の眼には、いつもお手伝いさんが用意してくれる出来立てのフルコースよりも、冷めたバーガーの方がずっとずっと美味しく映っていた。

 僕はファストフード店を出てからホテルに向かい、そのままホテルの前を通り過ぎると、例の橋の中程に差し掛かっていた。辺りは燃え盛る劫火の様な太陽に照らされ、間も無く日没を迎える。僕の惨めな嫉妬心も燃やし尽くしてくれと思った。
 すると、橋の中程には先客が居た。制服を着ているが、高校生にしては少し小柄に見える。中学生か。彼は滑らかな仕草で、制服のポケットから煙草を取り出すと、慣れた手付きで火を付けた。
「何をしているんだ!」
流石にこれは止めなければと思い、咄嗟にその少年に声を掛けた。
「!」
一瞬驚いた顔をしたが、直ぐに挑戦的な表情に変わり、僕に挑んで来た。
「何だよ、補導の警察官でも無い癖に、いちいち絡んで来るなよ!」
とても寂しい眼をした少年だった。僕は少年の手元から煙草を奪い取ると、それをどうするべきかと思案した。そのまま地面に投げ棄ててしまうのも良くない。仕方なく自身の口元に持って行き、そして軽く吸い込み……。
「う……ゲホゲホ……ゴホ!」
盛大に咽てしまった。
「あの……さ、吸った事も無い癖に、あんまり格好付けない方が良いよ……。」
至極同情めいた眼で見詰められ、僕の年上としての矜持はボロボロと音を立てて崩れ落ちた。
「僕はね、肺癌にでもなって死ねないかなって思ったんだ。死にたいんだけれど、いざとなると自殺する勇気なんて無くてね。」
苦しそうに咽ている僕の背中に手を添えながら、少年はそう弁解した。
「……何故、死にたいと……?」
肩で息をしながら、思わず僕はそう尋ねる。
「用済みだからさ。」
少年はそう言って、泣いているのか笑っているのか解らない表情を浮かべた。

 十五分後、僕等はまたしても先程のファストフード店に舞い戻っていた。
「何、食べたい?」
「え?奢ってくれんの?」
「……僕の方が年上だから。」
 其々の注文を終えて席に着くと、少年は真っ先に口を開く。
「僕はユイ。そっちは?ってか、何でドリンクだけなの?」
「ついさっき、此処でセットを食べたばかりなんだよ。」
少年のあまりの勢いの良さに、少々気圧されながら、胃の辺りを撫でる仕草をして見せる。
「あ、なぁ~んだ、ファストフード店に入り浸っているなんて、お兄さんも暇人なんだ。っていうか、あんな所で何をしていたの?」
直球の質問を投げ掛けられてたじろぐが、平静を装ってその質問はスルーし、先程から気になって仕方が無い本題に入る。
「用済みってどういう意味?」
僕がそう問い掛けると、つい先刻までの明るい表情とは打って変わって、不意に氷の様に冷めた表情でこう答えた。
「……そのままの意味だよ。僕の両親にとって、僕はもう要らない存在なんだよ。だから、用済みって言ったのさ。」

 ユイは元々、赤ん坊の時に児童養護施設の前に置き去りにされており、そのまま施設で育った少年だ。 育ったといってもほんの僅かな期間で、幼い頃に里親に引き取られている。本人が物心付く頃には、代議士とその妻という裕福な家庭の長男として育てられていた。
 代議士とその妻は、結婚後も長年不妊に悩んでいた。結婚七年目を迎えた年に不妊治療を諦め、養子を迎える事にしたのだ。
 始めは、ユイは実の子の様に育てられた。折々の行事には家族総出で祝い、記念の家族写真も残されていた。養子である事には薄々気付いてはいたが、問い質して両親の心証を悪くする事も無いと黙っていた。
 そんな折、結婚二十年目を迎えた今年、その母親が念願の妊娠を遂げたのだ。両親達は既に諦めていた事も有り、予想外の慶事に親族中が歓喜に沸いた。ユイも両親を祝い、共に喜んだ……いや、喜んだ振りをするしかなかったのだ。愛しい愛しいきょうだいが誕生すると。
「二十年も待ち侘びたんだ、嬉しくない筈が無いじゃないか……!僕は、僕には……父さんと母さんにこれ以上何かを望む資格は無い……!」
「でも、ユイ。君は……!」
僕がそう言うと、ユイは慌てて自身に言い聞かせるかの様に呟いた。
「生まれて来た事こそが、僕の原罪なんだ!親に棄てられた子は、神に棄てられたも同然なんだよ!そんな僕が、一瞬でも愛情を与えて貰えて……。」
そう言って、続きの言葉は涙で良く聞こえなかった。
 母親の妊娠発覚後、ユイの両親は息子が学校で遅刻をしても、学習塾で無断欠席をしても何も咎める事が無くなった。それまでは、事有る毎に息子の行動に気を配り、事有る毎に息子を叱責していたのに。徐々に無関心になって行ったのだ。

 或る日、いつもより早く学習塾から帰宅したユイは、リビングルームから両親の話し声がするのを聞いた。普段は帰宅時間の遅い父親が既に帰宅しており、久々に今夜は家族全員で食卓を囲めるのだと思い、無性に嬉しくなって足早にリビングルームに向かった。家族で一緒に食事をする時間は、ユイにとって一番に家族の温もりを感じられる時間だったのだ。が、其処で足を止めた。
「何も、問題は無いだろう!君はいつも神経質過ぎるんだ!」
「でも……貴方、私はあの子を実の子と同様に愛せる自信が無いの……!」
喧嘩をしている両親の会話なんて、ユイは聞きたくも無かった。事この内容に関しては、特に……だ。
「そんな事、端から言ってやしないじゃないか!これから生まれて来るであろう子供だって、健康で長生きするなんて保証は何処にも無いんだ。長男の俺がこの家を絶やす訳には行かない。なぁ、解るだろう?お前はこれまで通りに、ユイに母親として接するだけで良いんだ。いざという時の備えは、いつだって必要だろう?」
「貴方……それじゃ、あの子は……ユイは!」

 待っているのはスペアとしての人生だ。誰かのスペアとして愛している振りをされ続け、どんなに努力し恋い焦がれても、もう一生一番に愛情を注がれる事は無い。
「嫌だ……!こんな事、僕は気付きたくなんて無かった……。」
純粋に親の愛情を求めるユイの姿を、常に孤独だった自身の幼少期に、思わず重ねて見てしまった。得られぬ愛を必死で求める子供達……か。
 親は子を無条件で愛してくれる存在の筈なのに、何故僕等にはそれが与えられないのだろうか。世間一般の人ならば、当然に与えられる筈のものを与えられない僕等は、どうやってその穴埋めをして行けば良いのだろう?

 僕は、或る提案をしてみた。
「ユイ、君は用済みだから死にたいって言っていたよね?」
「あぁ、そうだけど。」
「じゃ、死ぬまでに何か予定は有る?」
「……有る訳無いじゃん。」
「だったら、それまでの時間、全部僕にくれないかな?」
ユイは涙を拭いながら、訳が解らないといった顔をして僕の話を聞いていた。そのまま、僕は強引に約束を取り付ける。
「ユイ、君は今から僕の弟だ!以後、僕の事は『お兄さん』と呼称する事!」
 これが馬鹿げた行為である事は、充分に理解していた。先程見た親子に僕等を重ね合わせ、家族の愛情を再現してみたくなったのかも知れない。本当に、馬鹿げた家族ごっこだ。

 ファストフード店で話をしている内に、辺りはすっかり夕闇に包まれていた。自宅には帰りたくないと言うユイを、僕は自身が宿泊しているビジネスホテルに一先ず連れて行く事にした。シングルルームでの滞在で、僕の持ち合わせも余裕が無いので、こっそりと裏口からユイを招き入れる。
「何か、イケナイ事をしているみたいだね。」
「シッ!」
充分イケナイ事をしているのに、全くといって良い程に緊張感の無いユイに向かって、僕は鋭く睨み付けながら人差し指を立てる。何とか無事に部屋まで辿り着き、着くなり二人してベッドに座り込んだ。
「何かスリルが有って楽しかった~。何かさ、ハリウッド映画の……何だっけ?あの、スパイ映画!」
さも楽しそうに燥ぐユイを横目に、僕はバスルームを指差してシャワーを浴びる様に促した。その後、ユイと入れ替わりに僕もシャワーを浴びる。
 シャワーを浴び終えてベッドルームに戻ると、何やらユイが必死な顔をしてリモコンを操作している。
「何やってんだ、お前……。」
「いや~さぁ、この映像って途中で終わっちゃうんだよね。折角良い所なのに~!何とかならないのかな~?」
ふと見ると、如何わしい有料チャンネルの試聴をしていた様だ。僕が今まで怖くて押せなかったあの試聴ボタンを、いとも簡単に押してしまった事に驚愕しつつも、平静を装って答える。
「あぁ、それは別にカードを購入しなくちゃいけないんだよ。」
「ね、お兄さん……!」
キラキラと輝く眼で芝居じみた呼び方をされ、僕はその要求を断る機会を逸した。廊下で誰かと擦れ違いはしないかとソワソワしつつ、僕が自動販売機の有料のテレビカードを購入しに行った事は言うまでも無い。その後、二人してベッドで目を充血させながら、明け方まで有料チャンネルを堪能した。互いに絶対内緒を条件に、背中を向けて自慰をした。
 暫くして、ユイがモゴモゴと何かを言いながら眠り始めたので、テレビのスイッチを切って僕も眠る事にした。

 僕はユイと同じベッドに横になり、眠りに就くまでの時間を、暗闇を見詰めながら過ごした。すると、眼が暗闇に慣れて、次第に眠るユイの顔が見えて来た。弟になれなんて言っておきながら、兄は振り回されてばかりだと憎らしく思いつつ、じっとその寝顔を見詰める。すると、涙が頬を伝っているのが見えた。窓から差し込む月の薄明かりに照らされて、それはこの世の物とは思えない位にとても美しかった。僕は、親指でそっと涙を拭い、ユイの頭を優しく撫でてやった。その時に、彼の口唇がそっと微かに動き、恐らくは『母さん』と言った事を、僕は絶対に本人に伝えてはならない気がした。

 「おに~い~さ~ん!」
昨日の夜更かしが祟ってまともに機能しない僕の脳を、ユイの元気な声が突如として襲撃する。
「あ~、未だ眠いんだ。もう少し寝かせてくれよ。」
「僕の時間をくれって言った癖に、相手してくれないんだ。何だか騙されちゃった気分だな~。」
恨みがましい『弟』の言葉に、僕は渋々と眼を開けてゆっくりと起き上がる。昨夜は明け方まで有料チャンネルの鑑賞をしていたのに、現在の時刻は未だ午前九時前だ。
「何だ、何がした…。」
「ねっ、遊園地に行こうよ!ユ・ウ・エ・ン・チ!」
言い終わる前に僕の言葉は遮られ、ユイに強制的に本日の予定を決められてしまった。

 ホテル前のバス停から市内バスに乗り、僕等二人は一路遊園地に向かった。何も無い大通りを只管進み、少し道路が細くなって来た所で一つ目の信号を右折した。その後は暫く暗闇のトンネルが続いた。トンネルを抜けると、車窓から見た其処は別世界だった。左手には一面の碧い海が広がり、右手には遊園地のアトラクションに陽光が反射して光り輝いている。遊園地の軽快な音楽のリズムが、徐々に大きく聞こえて来た。朝早くにユイに起こされた時には、ユイの唐突なおねだりを心底恨んだが、この瞬間に本当に来て良かったと思い直した。
 入場券を購入して園内に入ると、僕は早速園内マップを手に入れて凝視し始めた。僕等の現在地の把握と、一番効率良く園内を廻るルートを計算する為だ。
「地図なんて要らないよ。ぜぇ~んぶ、僕が案内するから。」
そう言って、ユイは僕の手を取って足早に歩き出す。立ったままで乗るコースターや、後ろ向きに進むコースター、垂直に上下するコースター、挙句の果てにはバンジージャンプとフルコースをこなし、僕は内臓を吐き出す寸前だった。

 途中でユイがお腹が空いたと言うので、遊園地内のレストランに入る事にした。昼時を少し過ぎている事も有り、意外にも混雑はしていなかった。
「何でも好きなのを頼め。」
あれだけの隘路を通過しておきながら、ユイの食欲はとても旺盛だった。ハンバーグや手羽先、唐揚げ、ホットドッグといった、ユイの肉々しいオーダーを聞くだけでも胃が重くなり、僕はレモンスカッシュのみをオーダーした。
「あれ?兄さん、それだけ?」
透かさずユイが、僕に訊いて来る。
「僕は……その……ダイエット中なんだ。」
何とも信憑性に欠ける言い訳を連ね、僕はレモンスカッシュでさえ漸くの思いで飲み干した。どうせ残すだろうと思っていたあの肉々しい大量の料理を、ユイは一欠片も残す事無くペロリと完食し、更に僕を驚愕させた。色々な意味で、ユイはとんでもない大物になりそうな予感がした。
 僕はゲッソリと、ユイは艶々とした面持ちでレストランを後にすると、早速、ユイが嬉々として声を上げた。
「次はコレね!」
またかと思い絶望の表情で見上げると、予想外のアトラクションが眼の前に聳えていた。観覧車だ。
「今日ね、本当に一番に乗りたかったのはこれなんだ。ラストミッションだよ。」
待っているのはカップルだらけのその行列に、僕等は男二人で悠然と並んだ。

 日は沈み掛け、赤みを帯びた斜め横からの光が、ユイと僕の横顔を照らす。つい先程までは明るく燥いでいた少年が、美術室の石膏像の様にじっと動かない。その横顔は、とても美しくて、とても悲しかった。其処に何か決意めいたものを感じ、僕はユイの横顔から眼が離せなかった。何でも良いから、何か……ふざけた事でも良いから、何か言って欲しかった。
「……ありがとう。」
不意にユイが言葉を発した。
「何が?」
何でも無い振りをしながら、素っ気なく答える。
「兄さんで居てくれて。今日、此処に連れて来てくれて。とてもとても楽しかったから、もう、思い残す事は何も無いんだ。」
突然の告白に、内心、僕の方が慌てる。
「どう……いう……意味なんだ?」
「死への足枷は無くなったって事だよ。今日、この日、僕はこの世に何も未練は残さない。」
まさかとは思っていたが、一番聞きたくなかった言葉だった。弟からは……。このまま、僕の弟として一緒に居ると言ってくれるのでは無いかと、少しだけ期待をしていたのだ。
「此処ね、小さい時に両親に連れられて来た事が有るんだ。凄く楽しくて、ずっとずっと此処に居たくて、過ごした全ての時間が夢の様だった。……全てが夢だったんだ。今日、兄さんと一緒にまた同じ夢を見られて、凄く幸せだった。ううん、あの時よりも、今日の方が幸せだって実感出来たんだ。……だから、この幸せな気分のままで、今日、この世界にお別れしたいんだ。」
 止めたい……絶対に阻止したい筈なのに、僕の五感が全身全霊の力を込めて訴え掛ける。彼の……弟の願いを叶えろと。僕はそっと席を立ち、ユイの隣に腰を下ろす。
「解った。希望は?」
僕は必死で平静を装った。
「ありがとう、兄さん。最期はあの橋で迎えたいんだ……。」

 遊園地からの最終バスに乗り、僕等は最初に出会った橋まで戻って来ていた。帰りのバスが、やけに早く到着してしまった様に思えた。辺りは既に夕闇に包まれ、月の明かりだけが頼りだった。軽い足取りで橋の欄干に登ると、ユイは無表情で下弦の月を眺めた。
「兄さん、見て!月が……凄く綺麗だ……。」
そう言って振り向くユイの表情は、月の逆光の所為で上手く読み取れない。何とかして止められないかと、この期に及んで思わず手を伸ばす。
「ユ、ユイ……!」
「今まで……本当にありがとう。短い間だったけれど、僕は貴方のお陰で幸せなままで死ぬ事が出来る。……ありがとう、兄さんに出会えて嬉しかったよ……。」
月の光を浴びながら、ユイの身体は美しく……この世のものとも思えない程に美しく虚空を舞った。

 それからどれだけの時間が経っただろう。正気を取り戻した僕は、覚束ない足取りで河川敷まで下りて行った。
「……ユイ……ユイ……ユイ……ユイ……。」
冷たくなりつつある弟の身体を抱き締め、朝日が昇るまでの時間を其処で過ごした。桜舞い散る河川敷で僕は思う。恐らく、僕にとっては初めての、本当の家族らしい存在だったと。
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