第3話 橋

文字数 1,805文字

 自宅を出た僕は、大急ぎで最寄りの地下鉄の駅に向かった。行き先は決まってはいないが、取り敢えず、終点までの切符を買ってみる。駆け足でホームまで行き、最初に到着した電車に飛び乗った。

 この時間帯にしては珍しく、電車内には人影は疎らで、僕は余裕で座席を確保する事が出来た。暫くは座席に腰掛けて、先程の駆け足で乱れた呼吸を整える。
 電車内がこんなに空いていると、僕にはどうにも落ち着かない事が有る。向かいの座席に誰も座って居ない為、硝子窓に映った自分の姿を見る羽目になるからだ。予期せず見てしまった時程、気分が悪いものは無い。この世の全ての醜悪を集めた、汚物を見詰めている気持ちになる。
 陶磁器の様な色白な顔が、ぼんやりと其処には映っていた。薄茶色の頭髪に、色素の薄い眼。凡そ、日本人の僕の母親とは似ても似つかない容貌だった。『チチオヤ』の残した悍ましい負の遺産だ。
 僕は改めて硝子窓に映った自分の醜い顔を睨み付ける。額、眉、瞼、眼、鼻、頬、顎……そして口唇。その口唇には生まれ付き、悪魔の呪いの如き醜い傷跡が居座る。口唇口蓋裂の手術跡だ。実際には、向かいの硝子窓には、其処まではっきりと映っていなかったかも知れない。だが僕には、僕の眼にだけは、黒ずんだ膿を放出する腐乱死体の裂け目の様に映っていた。だが、これは僕の原罪が体現した姿に過ぎない。
 ふと、何処からか視線を感じた。僕は慌てて下を向き、自分の顔を隠す。無意識の行動だ。お願いだから、誰も僕の顔を見ないでくれ。そんな風に、下を向いている間中ずっと必死に願った。
 暫くして顔を上げると、先程感じた視線の気配は無く、自分の気の所為だったかと思った。この期に及んで、何と自意識過剰だったのだと思い、独り恥ずかしさを堪えた。見られていると思っているのは本人ばかりで、実際は誰もそんなに見向きもしていない。メイクやファッションを覚えたての若者に良く有る事だ。
 気付けば電車は、地下鉄から私鉄への乗り入れ区間に出ており、僅かながら沿線の住宅街の灯りを硝子窓に映していた。灯りは疎らではあるが、其処には確かに人々の生活の痕跡を感じられた。
 其処で唐突に終点を告げる車内アナウンスが流れる。何処まで行くか決めておらず、行かれる所までと思ってはいたが。案外、早くに終着地点まで辿り着いてしまったものだ。僕は網棚に上げておいたトランクを降ろし、忘れ物は無いかと降車の準備を始めた。

 駅舎から出ると、其処は閑静な住宅街だった。初めて訪れる場所で、全く地理感覚は無い。ポケットのスマートフォンで周辺地図を検索しようと手を伸ばしたが、ふと其処で手を止めた。この際だから、最先端の電子機器に頼るのは止めよう、自身の感覚だけで進んでみようと思ったのだ。特別な第六感が備わっている等とは思っていないが、科学に、文明の利器に逆らってみたいと思った。

 薄灯りの街灯の中を暫く進むと、少し幅の広い川に差し掛かった。手前には河川敷が緩やかに広がり、暗黒の川面が静かに夜を飲み込んでいた。時折、鋭く月光を反射して自己の存在を訴え掛けて来る。僕は何か不思議な力に誘われる様に、其処に架かっている古びた石造りの橋の上まで進み、徐にその橋下を覗き込んだ。
「あんた、死にに来たの?」
唐突に耳元で囁かれ、不覚にも僕は死ぬ程驚いて、思わず尻餅を着いて後ろに転んでしまった。『度肝を抜かれる』という言葉の意味を、これ程までに思い知った事は、この時が僕の人生で初めてだった。
 幾分平静を取り戻した僕は、その声がした方向をじっと見上げる。女の子だ。制服を着た女の子が立っていた。ミステリアスな雰囲気の美少女だ。何か言おうとするが、上手く言葉が出て来ない。彼女は優しく微笑み、さっと僕に手を伸ばす。
「ごめん、驚かせちゃったね。」
僕は条件反射の様に彼女の手を取り、ゆっくりと立ち上がった。女の子に手を借りるなんて、男の癖に何て情けない状況なのだと思った。でもそれ以上に、女の子の柔らかい手の感触が、いつまでも僕の心を占領した。
「何だか死に場所を探しているみたいだったから、思わず声を掛けちゃったんだ。」
「え……どうして、それを?……そう言う君は……?」
僕は咄嗟にそう叫ぶ。
「私?私は……殺した死体を沈める場所を探しに来ただけだよ。」
そう言って、美しい横顔は天使の様に優しく微笑んだ。

 そうして、僕と彼女は出会ったのだった。
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