第4話 マナミ

文字数 9,286文字

 完全に平静を取り戻した僕は、先程の美少女と何故か世間話をしていた。腰下までのロングヘアは風を受けて揺れ、定規で線を引いたかの様に真っ直ぐで、月の光を反射しない夜の海の如き漆黒だった。そして、その眼もまた濡れた漆黒で、肌は僅かに黄味を帯びて光り輝いていた。僕が望む、僕自身が最も憧れた理想の美しさだった。
「あんた、この辺りでは見ない顔ね。何処から来たの?」
全くの遠慮も無く、単刀直入に訊いて来る。
「何で初対面の他人に説明しなきゃならないんだ?」
「あ、ごめん、自己紹介が未だだったね。私の名前はマナミ。H商業高校二年生で、部活動は……。」
別に個人情報を訊きたい訳では無く、売り言葉に買い言葉的な意味合いで言ってみただけだったのに……。その位に、この時の僕は他者との接触を拒絶していた。だが、何だか妙な事になって来たと思い、途中で会話を遮る。
「一寸、待ってくれないか。一体何で……。」
「あんた、此処に死にに来たんでしょ。どうせ死ぬなら、最期の人助けに私の殺人計画を手伝ってくれないかな……なんてね。」
そう言って、マナミは怪しく微笑み僕の手を取った。
「殺人計画って何だよ、あ……頭が可笑しいんじゃないのか?」
「あはは、自殺願望丸出しで、電車の硝子窓に向かってずっとガン飛ばしている人間の方が、よっぽど可笑しいんじゃない?」
自身の行動をズバリと指摘され、僕は反論の言葉を失う。確かに、死に場所を探して知らない土地を彷徨い歩くなんて、誰がどう見てもまともでは無い。僕にも解る道理だ。では何故、彼女には僕の自殺願望が解ってしまったのだろうか。
「同病、相憐れむ……だよ。この殺人計画が終わったら、私も死ぬつもりだから……。私の話を聞いて少しでも賛同出来る様だったら、是非とも協力して欲しいな。そうじゃ無かったら、今夜の事は綺麗さっぱり忘れて欲しい……。」
そう言って、彼女は語り始めた。

 マナミの母親は生来病弱で、彼女を出産後に間も無く他界した。当初は男手独りで子育てをするも、次第に不安を覚えたマナミの父親は、母親が亡くなった翌年に若い女性と再婚をした。料理も掃除も何もまともに出来ない、若くて美しいだけの女性で、当然、育児等する気は端から無かった。授乳は疎かオムツの交換も蔑ろにされ、児童相談所の職員が近隣住民の通報に依り駆け付けた際には、屍骸かと見紛う程の衰弱振りだったらしい。その後、児童相談所に保護され一時は児童養護施設で生活をし、小学校中学年頃には自宅に戻されたそうだ。父親は先の女性とは離婚したらしい。
「此処からが本題だよ。」
そう言って、マナミは不気味な位に明るく笑う。
「義理の母親と離婚したのは、私の所為だって事になってね……。次第に酷く殴られる様になったんだ。」
「……。」
「私が居なければ、その女性とも離婚する事は無かったって。お母さんの事なんて、もうすっかり忘れちゃったみたい。……違うな。こんな荷物を残して逝ったからって、憎んでさえいたのかも……。」
『父親として、そんな事は有る訳が無い』と言おうとして、僕は思わず息を飲んだ。僕には『チチオヤ』が何なのかも解らない。そんな僕に、『チチオヤ』について何かを語る資格は無かった。
 悲し気に微笑んだマナミが、首を横に傾げた瞬間に見てしまった。サイドパートの豊かな長い黒髪が流れ、それまで隠れていた彼女の左顔面が露わになる。ケロイドだ。額から顎に渡る広範囲の火傷の跡だ。既に治癒後だと思われるが、一面に赤く爛れた皮膚に覆われている。月明かりに照らされ、皮膚表面の起伏が葉脈の如く存在を主張している。左眼は開いてはいるが、白濁したその眼は恐らくは見えてはいないだろう。
 僕の動揺を察したのか、マナミはさり気ない仕草で左顔面をその黒髪で蔽い隠すと、ゆっくりと遥か昔の事を思い出す様に語ってくれた。
「あぁ、これ?これはね……小学生の頃かな。冬の寒い日にね、灯油式のストーブに顔を押し付けられたんだ。お前の顔を見ていると、病気持ちの疫病神の顔を思い出すって。悪い事は全部、私の所為だって。本当、酷い話だよね。……凄く熱くて痛かったけれど、これは私の原罪なんだって思う事にしたんだ。」
まるで他人事の様に淡々と語るマナミに、僕はどうしても納得する事が出来なかった。他人事の様に思い込む事に依って、辛い現実から逃避している様に思えたのだ。
「そ、それで復讐をしようと……?」
「違うよ。これは私の原罪の所為。殺したい理由は別なの。」
 僕には益々、理解が出来なくなった。未だ若い女性、しかも実の娘の顔に、こんな大きな……一生消えない傷を付ける以上の仕打ちが存在するのか。若し僕が彼女の立場だったら、もっと早くにその父親を殺していたに違いない。それ程までに、この時の僕は話に聞く彼女の父親を嫌悪していた。
「軽蔑しないで聞いてくれる……?」
ふとマナミが、不安気な眼差しを此方に向けた。僕は反射的に頷く。彼女はゆっくりと俯き、暫く何かを思案している様だった。やがて、意を決して……。
「……私ね、穢されちゃったの。」
そう言って肩を小刻みに震わせながら、彼女は左手で下腹部を撫でた。
「三ヶ月前の出来事だった。必死に抵抗したけれど、全然駄目だった。無理矢理押さえ付けられて、私にはどうする事も出来なかった。」
「……。」
「翌月ね……生理が来なかったの。誰にも内緒で病院に行ったら、先生に妊娠ですって言われて。頭の中が真っ白になっちゃった。堕胎しか方法は無いんだって解っているのに、私、その時は何も決める事が出来なかった。抑、堕胎するお金なんて無かったしね。」
優しく下腹部を撫でながら、マナミは愛おしそうな眼をする。
「この子には何の罪も無いわ。でも、この世界では幸せに生きられない。だから、母親として、この手で殺してあげなきゃいけない。私には、堕胎なんて可哀想な事は出来ないから、せめてもの償いとして、一緒に死んであげたいの。」
 その瞬間に、彼女が抱えている殺意の意味を理解した。彼女は、己の不幸な境遇を嘆いて、父親に復讐を誓ったのでは無い。幸せな世界に生んであげられない、未だ見ぬ我が子への悔悟と憐憫の情から、父親への絶対的な復讐を誓ったのだ。未だ見ぬ我が子をこんなにも愛する事が出来る彼女ならば、若しも子供の父親が別の誰かであったなら、きっと素晴らしい母親になれたに違いない。
「良いよ、僕で良ければその殺人を手伝おう。いや……その依頼、確かに引き受けたよ。」
僕はさっと右手を差し出す。少し気障かと思ったが、その時の僕の心から自然と発露した言葉だった。

 「あんた、すんごく変わっているよね。」
翌日の昼頃に街を歩きながら、というか街を歩きつつ父親殺害の為の道具を確保しながら、マナミは僕に向かってそんな事を言う。
「いや、そっちも大概だと思うよ。初対面の見知らぬ奴に、いきなり人殺しの片棒を担がせるなんてさ。」
透かさず此方も言い返した。
「見知らぬ奴なんかじゃ無いもん。電車の中で一時間は観察していたもの。気付いていなかったでしょ。」
「!」
見られていたのか、しかも一時間も。電車内で感じた視線は彼女のものだったのだ。
「其処で目星を付けておいて、橋の上まで尾行した上で、後で声を掛けて来たって訳か。」
僕は幾分不機嫌な表情を作り、恨み節たっぷりに言い返してやった。
「違うよ、尾行なんてしていない。只単に、何処に行くのか気になって追い掛けて…。」
「世間ではそれを尾行って言うんだよ!」
あまりに奇想天外な彼女の発言と行動に対して、またしても度肝を抜かしつつ、それだけが理由では無かったのではと思いを巡らす。あの月夜の出会いに何かしら運命的なものを感じて……いや、感じたかったのかも知れない。……少なくとも、僕だけは。
「だって綺麗だったから。」
唐突にその様な事を言われ、僕の頭の中では理解が追い付かない。
「は?」
「ブラウンの柔らかそうな髪でしょ、ブルーにもグリーンにも見える眼でしょ、後、その透き通る様な白い肌!綺麗~って思って見詰めていたらね……。」
途中から彼女の言葉が耳に入らなくなっていた。この悍ましい姿の何処が美しいのだ。何度も何度もナイフで切り付けて、この顔の皮を剥がしてやりたいと思っていたのに。そう、何度も……何度も……何度も……何度も……何度も……。
「こんな容貌なんて……!君のその黒い髪と眼の方が、よっぽど綺麗じゃないか!僕なんかより、ずっとずっと綺麗なのに……!」
思わず僕は叫んでいた。
 僕等二人の間には、それから暫くの間、微妙な……何とも形容し難い沈黙の時間が訪れた。言ってしまってから気付く。今のは、若しかすると、場合に依っては、男女の間では告白に等しい発言では無かっただろうか。未だ春先で肌寒い季節の筈なのに、僕はダラダラと粘着質の汗をかき出している。彼女の方を見ると、此方も真っ赤な顔をして俯いている。
「……綺麗だなんて、初めて言われたんだけど、私。」
「別に……僕がそう思ったんだから、それで良いだろ?」
僕は恥ずかしさで、自動音声応答システムの様な不自然な喋り方になりつつも、何とかその場を遣り過ごした。

 拘束用のロープとガムテープ、返り血防止用の黒色のレインコート、殺傷用のアーミーナイフ、それ等を持ち運ぶ為のリュックサック等々、諸々の殺人計画用ツールを確保し終えて、何とは無しに夕暮れの街を僕等は歩いた。互いに口数は少ない。
「ねぇ、お腹空かない?」
唐突にマナミが言う。そう言われてみれば、二人して朝から何も食べていない。僕も空腹といえば空腹だったので、そろそろ何か口に入れるべきだとも思った。マナミに何が食べたいか訊こうとした、その時。
「ね、あれ食べない?一度、食べてみたかったんだよね。」
指差された先に在ったのは、ピンク色で外壁一面に装飾を施された、何ともファンシーなクレープ店だった。
「あそこ、絶対美味しいから。行こうよ!」
正直、僕は甘いものはあまり好きでは無かったが、燥ぐマナミに腕を引かれ、観念して渋々と店内に入った。

 クレープ店の店内は、此方もやはり一面ピンク色の内装で、甘い香りが店内を満たしていた。僕一人では、一生訪れる機会は無かったであろう場所だ。カウンターに並ぶと、予め決めて来たかの様な素早さで、マナミがオーダーをする。
「イチゴチョコクリームで!」
僕はメニュー表の見方も良く解らず、最初に眼に入ったものをオーダーした。
「じゃあ、……シナモンチョコをお願いします。」
 クレープが出来上がり、会計をしようと再びカウンターに並ぶ。
「一緒でお願いします。」
そう言って、僕は二人分の会計を済ませた。すると、財布を開き掛けていたマナミが、慌てて抗議をする。
「一寸あんた、何やってくれちゃってんの。自分で食べる分位は自分で……。」
マナミが言い終わらない内に、僕はクレープを二つ受け取ると、片方をマナミに差し出した。
「これは奢りじゃない。例の計画の前祝いだ。」
そう言うしか無かった。正直、女の子にご馳走するなんて僕には初めての体験で、クレープを渡した僕の手は盛大に震えていた。マナミが何も気付いていない事を心から願った。

 街を歩きながら、僕等は先程のクレープを頬張った。歩きながらとは行儀が悪いとも思ったが、二人で並んで歩きながら食べるクレープに、こういうのも時には悪くないと思ってしまった。
 半分程クレープを食べ進めた頃、マナミがジトッとした視線で此方を見て来る。何だろうと思っていると……。
「それ、美味しい?」
「あ、あぁ……まぁ、美味しい……よ?」
訳が解らず曖昧な返事をしていると、唐突にマナミが僕の手を掴んで、僕の食べ掛けのクレープを齧った。
「ん、シナモンチョコも美味しいね。スパイスの香りが絶妙にチョコの甘さを引き立てて……。」
純粋にクレープの味を評価しているマナミの声は、今の僕には全く届かなかった。何故なら、これは所謂……世間で言う所の、間接キスというものでは無かろうか?僕はこれまでに接吻の経験は無い。という事は、これが初めての接吻……いや、たかがクレープだ。食べ物だ。でも、食べ物を介して唾液とかが……。
「私のも美味しいよ。食べてみる?」
僕のそんなカオスな心情なんて知りもしないで、マナミが明るくそう言い、自身の食べ掛けのクレープを差し出した。僕は、禁断の果実を差し出されたアダムとイヴの気持ちを、世界中で一番理解している人間だと思う。楽園に追放されても構わないと思い、僕はそのクレープを一口だけ齧った。

 空腹が満たされ、二人共良い気分で街を歩いた。一緒に街を歩いている間中、僕はマナミの手を気にしてチラチラと見ていた。手を……繋いでも、……いや、繋げるかな、……いや、繋ぐべきだろうか、と一人で自問自答をしながら苦悩していた。マナミはそんな僕の気持ちには、少しも気付いていない様子だった。いや、気付かれても、それはそれで恥ずかしいのだが。
「ねぇ、一緒に撮らない?」
またしても、唐突にマナミは声を掛けて来る。彼女が示した方向を見ると、証明写真機の様なボックスが立っていた。だが、やたらとボックス周りの装飾が派手で、此方も凡そ僕一人では絶対に近寄る事の出来ない雰囲気を醸し出している。マナミは僕の腕を引くと、迷わずカーテンを潜ってそのボックスの中へと入って行った。
 ボックス内はとても眩しく、様々な装飾と共に一台のタッチパネルが在った。さも手慣れている様子で、マナミがポケットから取り出したコインを投入し、タッチパネルを何度か操作すると、カウントダウンの機械音が響いて来た。彼女は僕の左腕に、そっと右腕を絡めて来た。
「はい、撮るよ~。」
「え、え、えぇぇ?」
僕が良く理解出来ないまま、そして左腕に触れる温かい感覚に意識を集中させられている内に、何度かフラッシュが強く発光し、写真が撮られてしまっていたらしい。正直、写真を撮られる事は死ぬ程嫌いなのだが。
「あっはははは!何これ、最高!」
僕の間抜け面が写った写真がプリントされたシールを見て、マナミが盛大に笑う。
「何……だよ!そんなに馬鹿にするんだったら、棄てろよ!自分一人で撮れば良いだろう!」
「違う、違う、そうじゃ無いの。私、滅茶苦茶幸せそうな顔をしているなって。未だ、こんな風に笑えるんだなって……。」
そう言うと、複数枚の写真がプリントされたそれを、ボックス脇に備え付けられていた鋏でさっと半分に切り分ける。
「ハイ、こっちはあんたの。大事にしなさいよね、私が誰かと一緒に写真を撮る事なんて有り得ないんだから!」
渡された半分を受け取りながら、徐々にマナミの言葉の意味を理解して行った。左顔面のケロイドの所為で、彼女もきっと写真を撮られる事は苦手だったに違いない。それなのに、僕とは撮ってくれた。正直に言うとこの時……僕は死ぬ程嬉しくて、飛び上がって叫びたい程に有頂天になっていたのだ。
 「……来世では、あんたみたいなのと一緒になって、ちゃんと子供を産んであげたいな……。」
そう呟いたマナミの言葉は、突然に吹き降ろした春の風に掻き消され、僕の耳には届かなかった。

 暫く後、僕等は出会った橋の上へ戻り最終計画を練っていた。
「やっぱり……僕が仕留めるんだよね?」
「そう、私は正面から囮になるから、隙を突いてアイツを拘束して欲しいの。家の裏口の鍵を開けておくから、其処からこっそり入って来て。止めは私が刺す。」
 正直、僕は体力に自信が無い。格闘戦にでも持ち込まれようものなら、此方の方が逆に殺され兼ねない。僕のその不安な気持ちを察知したのか、マナミはしたり顔でポケットからさっと何かを取り出す。
「最強秘密兵器X~!」
何処かの猫型ロボットが言いそうな台詞を、ドヤ顔で決めて来る。
「あのさ、Xって何……?」
軽く引きつつも、一応尋ねてみる。
「これが有れば万事成功よ。因みに、XはExtremeのXだからね!」
何と答えたら良いのか解らず、一先ず渡された物を受け取る。それは、古びて至る所が解れ掛けの桜色のお守りだった。僕は、後で中身を確認して知る事になるが、マナミの母親がマナミを妊娠した時に、安産祈願の為に身に着けていた物だった。
「怪しまれるといけないから、私は一旦自宅に戻るね。決行は本日フタヨンマルマル。成功を祈る!」
父親を殺そうというのに、妙に軽快な様子のマナミに一抹の不安を覚え、僕は思わず訊き返した。
「本当にこれで良いんだよね?」
「……この計画が成功したら、あんたに伝えたい事が有るんだ。」
僕の問いに答える代わりに、消え入りそうな小さな声でそう呟くと、マナミは僕の腕を引き寄せて、そっと僕の頬にその柔らかい唇で触れた。

 当初の計画通りに、僕は二十四時少し前に、指定された一軒家を訪れた。僕は、雨も降っていないのにレインコート着用という出で立ちだが、黒色のマットな素材の所為かそれ程の違和感は無い。未だ肌寒い春先の季節だという事も有り、傍目にはスプリングコートを着ている様に見えただろう。
 目的の建物は築五十年は過ぎているだろうか、至る所に修繕の跡が見られる古びた平屋だ。東側の部屋に微かに灯りが見える。僕は指定された通りに、裏口に廻り其処から進入を試みる。意を決したかの様に、僕は口唇の端をきつく引き結び、レインコートのフードを目深に被る。
 だがしかし、裏口扉の取っ手をそろりと回した所、開いている筈の鍵が開いていない。マナミがうっかりと鍵を開け忘れたのか?いや……この期に及んでそんな事は有り得ない。嫌な予感がして、咄嗟に裏口扉の硝子窓を素手で叩き割った。そのまま中に手を突っ込み裏口扉の鍵を開錠する。右の拳からは血が流れていたが、そんな事は全く気にならなかった。
 東側の部屋を目指し、一心不乱に駆け込んだ。そして、其処で見た光景に僕は戦慄した。

 マナミの父親と思しき壮年の男性が、下半身を露わに息を切らせつつ激しく腰を振っている。愉悦の余りにハァハァと気持ち悪い喘ぎ声を漏らしていた。此方の様子には全く気付いていない。その隙にそっと横から廻り込む。すると、その男性が夢中で馬乗りになっているものが見えた。
 マナミだった。
 頭から血を流し、白目を剥いている。着ている服は無造作に引き裂かれており、半裸状態の皮膚からは至る所から血が滲み出している。息をしているかどうかも解らない。
 その瞬間、何かが勢い良く振り下ろされ、その男性の頭部に鈍い音を立てて減り込んだ。スツールが意思を持って、勢い良くその男性の頭部にぶつかった。……違う、咄嗟に手近に在ったスツールを手に取り、男性の後頭部目掛けて殴り付けたのだ。……僕が。
 そのまま手を緩めずに何度も殴り付ける。二度、三度、四度、五度、六度、七度、八度、九度、十度、十一度、十二度、十三度、十四度。殴り付ける度に、鮮紅色の血が飛び散り、辺り一面に醜い血の花を咲かせた。其処で僕が一旦手を止めると、血塗れの男性が泣きながら赦しを乞うて来た。
「お、おね……おねはひでふ……。ゆるひ……へ、くらさ……。こ……れを、どう……ぞ。」
先程の殴打で口の中を怪我でもしたのだろうか、ハヒハヒと息を吐く聞き取り辛い声でそう言って、先程まで夢中で甚振っていたマナミの身体を僕に差し出した。まるで小さな子供が、ガキ大将に脅されて仕方無く、お気に入りの玩具をポイと明け渡すかの如く。
 僕は一瞬の迷いも無く、尚も何かを言おうと大きく開いた男性の口腔内目掛けて、勢い良くスツールの脚を突き立てた。そのままスツールに全体重を乗せる。『ギャッ』と一瞬だけ醜い声を立て、それきり男性は動かなくなった。

 マナミは既に死んでいた。
 脈拍も無ければ呼吸も止まっている。鼓動も聞こえない。恐らくは、お腹の中の子供も……。そして既に、顎や首の辺りの筋肉は硬直を始めていた。
 僕は着ていた黒色のレインコートを脱ぐと、そっと冷たくなりつつあるマナミの身体に被せた。そして、開いたままで乾燥し始めていた眼を、優しく閉じてやった。あのお守りは、やはりマナミ自身が持っているべきだったと、今になって思う。
「待っていて、後片付けをするから。」
もう聞こえはしないだろうが、僕は彼女にそう呟いた。そして、隣に横たわる醜い男性の屍骸に、ゆっくりと向き直った。僕はリュックサックからアーミーナイフを取り出し、その切っ先で男性の顔をすうっと優しく撫でる。刃先の軌跡をなぞる様に、紅い血がじわりと滲み出した。僕はアーミーナイフを逆手に持ち直し、勢い良くその男性の左眼を目掛けて突き刺し、グリグリと周囲の組織を抉って行く。ブチブチと鈍い音がして、組織が切断されて行く感覚が手に伝わった。眼窩下縁の骨を利用して、梃子の原理で一気に眼球を抉り出す。もう片方の右眼も同様に処理をした。
「天国に帰る事が出来ない貴方には、その道中を眺めるべき両の眼はもう必要無いよね……。」
僕は抑揚の無い声でそう告げると、マナミの身体を抱えて其処を後にした。

 僕は彼女と初めて言葉を交わした橋まで辿り着くと、其処から河川敷を見下ろした。今夜は満月だ。月明かりに照らされ、辺りは一面に光り輝いていた。彼女を抱えてそのまま河川敷まで下って行った。僕は川岸にマナミの身体を横たえると、自身が着用していたニットを捲り上げ、その下に着ていたシャツの裾を引き裂いた。それを川の水に浸し、丁寧にマナミの身体を拭いて行った。この世の全ての穢れを祓うかの様に。
「とても綺麗だよ……。」
女性の裸を間近で見るのは初めてだったが、全くと言っても良い程に欲情はしなかった。それは、とてもとても神聖な儀式の様で。
 そして、此方も綺麗に拭いた黒色のレインコートを、改めて丁寧にマナミに着せて行った。引き裂かれた着衣のポケットの辺りから見付かったあの時の写真は、レインコートのポケットに入れてしっかりとジッパーを閉じる。彼女がこれからの道行きに迷う事が無い様に。その後、リュックサックから取り出したロープで、マナミの手足と近くに転がっていた大きめの石を強く結ぶ。誰にも発見されない様に。もう二度と、誰にも穢されない様に。

 全てを終えた頃には、東の空が徐々に白み始めていた。
「伝えたい事、聞いてあげられなかったね。来世でちゃんと正座して聞くから、先に逝って待っていてよ。」
マナミの美しい黒髪を優しく撫でる。
「もう夜が明け始めてしまったけれど、今夜は月が……とても綺麗だったね……。」
そう囁いて、僕はマナミの左顔面のケロイド跡に、そっと口付けた。
 その瞬間、強い春風が吹き付けて来た。マナミの顔に桜の花弁を残して。僕はその時になって初めて気付く。辺りの河川敷には、桜の木々が植わっており満開に咲き誇っていた。最期の生命の輝きを主張するかの如く穢れなきその姿に、僕は無意識の内に涙を流していた。

 僕は、マナミの身体を抱いて川の中を少し進み、そっとその流れに彼女を任せた。
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