六章 美しい蜘蛛

文字数 6,465文字

私はさっき、睡眠薬を飲む振りをした。錠剤が入ったシートをカサカサ鳴らして水を飲んだ。もし紫月さんが夜中になにかしていたら、これで気付ける。眠れないのはつらいが、どうしても紫月さんの謎を知りたかった。

むくり。

紫月さんが起き上がる。そして静かに部屋を出ていく。暫く待ってから私は薄く目を開き、耳を澄ませた。物音はしない。紫月さんの部屋は三階にあるからか、外から動植物の声も聞こえない。ドアの向こう側にも紫月さんが居る気配はない。こころの声は聞こえない。

そっと、ベッドから足を下ろす。洋館だから靴を履く。紫月さんは素足で寝室を出たらしい。大きくて高そうな靴が綺麗に揃えられている。足音を立てないよう細心の注意を払い、寝室のドアを開けた。


「あっ・・・」


紫月さんが、そこに立っていた。

私を見下ろしている。

両の目は見開かれていた。

しっかりと、私の姿を捉えて。


「どこに行くんだい?」


そう言って、笑う。


「こんな夜中に出掛けたら、切り裂きジャックに襲われるよ」

「し、紫月さん・・・」

「薬を飲んで、寝なさい」


ぱたん。ドアが閉められる。かちり。鍵も閉まった。紫月さんは私のポーチを勝手に開けて、薬のシートを取り出す。三種類。一回一錠が二つと、一回二錠が一つ。パキパキと音を立てて、一回分以上の錠剤を手の平に集めていく。まずい。この人、昔は医者だ。今もその関係の翻訳の仕事をしている。なら、どの薬がどんな効果を齎すか、知っていてもなんらおかしくはない。


「そ、そんなに飲んだら、死んでしまいます!」

「二人で半分こだよ」


にこりと笑うが、三日月のように細められた目の奥は確かに怒りを湛えていた。紫月さんは錠剤を全て口に含むと、私の首と肩を乱暴に掴んでベッドに縫い付けた。唇を重ね合わせ、舌で歯を抉じ開けられる。ざらざらと苦い睡眠薬が口の中に流れ込む。


「ううっ・・・」

「良い子だね」


『ダイヴ』したいのに、上手くできない。私が混乱しているからだ。


「食道に張り付かないように、液体で流し込まないとね」


紫月さんは寝室を出ていき、すぐに戻ってきた。手に握っているのは酒の瓶。直接口を付けてごくごくと喉を鳴らす。普段の上品な紫月さんからは想像できない光景だ。そのまま酒を口に含み、再び私に口付ける。酒で睡眠薬なんて飲んだら本当に死んでしまう。だというのに、抵抗できない。いや、しなかった。紫月さんの口付けで死ねるならなんと幸運なのだろうと考えてしまったからだ。

意識が白い闇の中に堕ちていく。


「おやすみ、俺の文香さん」


耳元で囁く声が聞こえた。

翌日。

私が動けるようになったのは正午の少し前だった。

紫月さんは何事も無かったかのように振舞っている。私は眠くて頭がガンガンと痛くて『ダイヴ』ができない。


「文香さん、具合はどうだい?」


紫月さんが時々様子を見に来る。


「大分良くなりました」

「嘘は駄目だよ。自分でもわからないうちに無理をしていたんだろう。ゆっくり休むんだよ」

「はい・・・」


恋人の匂いがする寝具に包まれるのは、これ以上ないほどの安心感を得ることができた。それと同時に、昨夜の、まるで別人のような紫月さんのことを思い出して、ドキドキしてしまう。興奮と恐怖が綯い交ぜになった胸の高鳴りだ。

あの目を思い出して。

ぞくり。

身体に甘い痛みが走る。

太腿に手を伸ばしかけていた自分にとてつもない嫌悪感を覚える。このままだといけないことをしてしまう。私はベッドから飛び出て、寝室から逃げた。


「文香さん?」

「お腹が空いたので、食事してきます」

「そうか。甘いものも摂って疲れを取りなさい」

「はい」


キッチンでは幸恵さんが梨花さんに仕事を教えている。


「あの・・・」


どちらに話しかけようか。

私は梨花さんに話しかけることにした。


「あの、梨花さんと少しお話がしたくて。あとでお時間を、」

「構いませんよ。梨花さん、お話が終わったら納屋の掃除をしてください。わたくしは失礼します」

「はいっ」


幸恵さんが去っていく。私は念のためキッチンの奥に行き、入り口が見渡せる場所に立った。


「文香さん、お話とはなんでしょう?」

「あの・・・。梨花さんの前で、紫月さんはどんな感じ?」


曖昧な質問をしてしまったが、梨花さんはにこりと微笑んでくれた。


「『近寄るな』って雰囲気は出されてしまっていますね。幸恵さんから聞いたんですけど、旦那様は女性が嫌いだそうで。でも、女性の幸恵さんと男性の誰かを雇うと問題になりかねないので、女性である私を雇ってくださったみたいです」

「成程。梨花さんは紫月さんをどう思う?」

「昨日来たばかりですが、紳士的で素敵な殿方だと思いました。女性嫌いと聞かされて覚悟していましたが、邪険に扱われたことはありませんから。お仕事のことで恐る恐る質問をしても優しく答えてくださいましたし」

「そっかあ・・・。ありがとう、梨花さん」

「いえいえ。私は納屋の掃除に、あっ、納屋ってどこでしたっけ?」

「玄関から出て屋敷の真裏」

「ありがとうございます! では、失礼します」


梨花さんはぺこりと頭を下げて、キッチンから出ていった。私は少し迷ってから、紫月さんの部屋に戻った。


「おかえり」

「ただいま戻りました」


そういえば、今朝からなにも食べていない。紫月さんの部屋を出る時の言葉は完全な嘘ではなかったことを、今になって思い出した。


「紫月さん」

「うん?」

「昨日の夜、私に二度もキスしたこと覚えてますか?」


まだ『ダイヴ』はできないので、こうやって探るしかない。


「に、二度も?」

「寝惚けてたんですか? 覚えてない?」

「・・・覚えてない」


演技なら、大したものだ。


「結構甘えん坊なんですね」

「申し訳ありません・・・」

「あはっ、怒ってないですよ」


足音を立てて近付き、肩に手を置いて、そっと、頬に唇を寄せる。


「勉強しなくちゃいけないから、部屋に戻ります」


紳士は初心な少女のように微笑む。

部屋に戻った私は、一人考える。


「紫月さんは、目が見えない振りをしている・・・?」


あの目は、切れ長の美しい目は、確かに私を捉えていた。食虫植物の棘のような睫毛に彩られた、凛とした瞳。ぶくぶくと不潔な泡が沸き起こり脳の隙間に染み込んでいく。不安。私は紫月さんに対して不安になっていた。それと同時に、紫月さんがどんな秘密を持っていようと構わないと考えるようになっていた。


「惚れた方が負け、か」


どっちが負けているのだろう。集中できないがやるしかない。私は参考書とノートを開いた。

数日後。


「見送りに来てくれなくてもいいのに」

「見えないよ」

「すぐそうやって自虐する。駄目ですよ」

「フフッ、ごめん。君に叱られたくてね」


今日、私は、この屋敷から、この島から、自分の家に帰る。


「寂しくなるな・・・」

「春にまた会えますよ。再試にならないようにしっかり勉強しますから」

「待ってるよ」


私は紫月さんの手を両手で包み、爪にキスをした。普段は紳士なこの人は意外と乙女だ。こういうロマンチックなことが好きらしい。


「どこで覚えたんだか・・・」

「両親共にドラマが好きなので」

「ドラマ・・・。確かにこういうこともするか・・・」


紫月さんは顔を赤くしている。


「また春に、紫月さん」

「またね、文香さん」


自宅に帰り、勉強漬けの日々が始まる。


「愛の力やねえ」

「愛があればなんでもできるからねえ」

「うっせーな!」


食事のたびに両親に揶揄われるので頭が痛かった。受験以来、久しぶりに死ぬ気を出して試験に挑み、合格を掴む。紫月さんへ手紙を送る。盲人へ手紙だ。でもそれしか手段が無い。手紙を送って数日後。返信が来た。


『おめでとう。君を待っています』


たったそれだけの言葉で、嬉しくて堪らなくなる。


「綺麗な字やねえ」

「うわっ!? 部屋入る時はノックせえや!!」

「したでえ何回もお。手紙に夢中で気付かんかったんは文香ちゃんやろうにい。ほれ、お菓子食べなあ。脳みその栄養にはお砂糖やて昔から言うやろお」


母は駄菓子がたっぷりと入った籠をテーブルに置くと、私の部屋から出ていった。


「全く・・・」


春休み。


「文香さん!」

「おわ、出迎えなくても・・・」


紫月さんが抱き着いてくる。私はもうこの人のことが好きで好きで仕方がない。抱きしめ返し、髪に指を滑らせる。


「紫月さん、梨花さんも居るんですから」


私はそう言って梨花さんを見て、ぞっとした。小動物のリスを思わせる可愛らしさはどこにもなく、温度のない表情に私への拒絶を滲ませていた。


「お久しぶりです、水無瀬様。お荷物をお部屋にお運びします」


無機質に、にこりと笑う。

『ダイヴ』しなくても聞こえてくる。


(なんでこんな人が・・・)


強い、嫉妬。


「さあ、文香さん。私の部屋へ」

「はい」


荷解きもせず、紫月さんの部屋へ向かう。


「今日のことを指折り数えたよ」


手でソファーに座るよう促されたので、大人しく座る。


「紫月さん、あの、来年からは、春は来られないかもしれません」

「わかっているよ。医学生として本格的に忙しくなるからね。そうそう、渡したいものがあるんだ」


紫月さんが立ち上がる。私はそこで気付いた。白杖をついていない。幸恵さんが来る以前のように。紫月さんが鍵付きの棚から取り出したのは、高そうな紙袋。それをテーブルの上に置く。


「開けてごらん」


ごそごそ、と小さな音を立てて中の物を取り出す。


「あっ・・・。これ・・・!」


白いフリルがついた、水色のワンピース。


「ずっと渡し損ねていたからね」

「ありがとうございます!」

「恥ずかしくて外で着られないなら、寝巻にでも」

「そんな・・・。夜に着て一人でニヤニヤしますよ」

「文香さんは本当に可愛いね」

「・・・正直、嬉しい」

「フフッ。君のことが大好きだよ」

「わ、私も・・・。あ、そうだ。紫月さんの毛先も揃えましょうか」

「お願いしようかな」


しゃき、しょき、と髪を切る。四十代の男性の髪とは思えないほど綺麗だ。屋敷の外に出ないからだろうけど、肌も白くて肌理が細かい。


「紫月さん、髪も肌もかなり綺麗ですけど、どんなお手入れしてるんですか?」

「手入れ? いや、なにも」

「えっ! やっぱ金持ちは食べてるものが違うからかな・・・」

「それはちょっと偏見では・・・」

「私は必死に髪にオイル塗り込んだり肌に化粧水叩き付けてるっていうのに・・・」

「君の髪も肌もとても綺麗だよ。努力の賜物だね」

「紫月さんのためですからね」

「フフ、ありがとう」


髪を切ったあとは夕食の時間までお喋りに興じる。


「そっかあ。イギリス訛りだから駄目かあ。まあ確かに、日本語を覚えたい人に関西弁で教えるようなものですね」

「文香さんはいつから関東に?」

「大学進学と同時に。両親が一人暮らしを許してくれなくて、あの人達こっちに家を建てちゃったんですよ」

「随分と思い切りが良い御両親だね」

「思い切りが良いと言うより、母が子離れしないし、父は母の言うことにはなんでも従ってしまうんです。父なんて『自分は再婚してまだ三年だからお父さん歴も三年だ。だからあと十七年はお前の面倒を見ようと思う』なんてことも言っていたし」

「有難いことじゃないか」

「お説教なら結構ですぅ」

「フフ、ではこのへんでやめておこう」


なんだか不思議だ。私達はなにもかもが程遠いはずなのに、産まれる前からお互いを知っていたような安らぎすら感じる。

こんこんこん。


『旦那様。夕食の時間です』

「今行く」


二人で紫月さんの部屋を出て、食堂に行く。用意されているのは三人分。この家では執事もメイドも主人である紫月さんと共に食事を摂っていた。ということは。


「あれ? そういえば幸恵さんは居ないんですか?」

「ああ、彼女は、」

「切り裂きジャックに殺されました」


紫月さんの言葉を遮り、梨花さんが言う。


「・・・もう一族は私には近寄らなくなったよ。さあ、そんなことより食事をしよう」


静かな食事が始まり、終わった。

私は自室に戻り、荷解きをする。少し混乱している。幸恵さんが切り裂きジャックに殺された。去年の夏に、紫月さんの姪の誠さんも。執事をしていた実父はそのことで自殺。切り裂きジャックと紫月さんに、なにか関わりがあるとしか思えなかった。

こんこんこん。ノックの音。私はドアを開ける。


「梨花さん」

「水無瀬様、少しお話を」

「はい。中にどうぞ」

「失礼します」


以前は『文香さん』と呼んでくれていたのに、今は『水無瀬様』だ。紫月さんにそう呼ぶよう命じられたのでなければ、梨花さんは私のことを嫌っている。


「調子に乗ってますよね、貴方」

「えっ・・・」

「深夜三時。私の部屋にお越しください。良いものを見せてあげますよ」


梨花さんは手描きの地図を強引に渡すと、そのまま去っていってしまった。

なん、だろう。この胸のざわめきは。

一秒でも早くここから逃げろと、脳が、動物的な本能が警鐘を鳴らしている。

それでも私は、深夜三時、梨花さんの部屋に行った。こんこんこん。ノックをする。出てきた梨花さんは嬉しそうに笑っていたのに、私を見ると一気に顔を歪ませて、私を睨み付けた。


「なんであんたが来るのよッ!」


わけがわからない。来いと言ったのは梨花さんだ。


「あんたなんて・・・! あんたなんて・・・!! 切り裂きジャックに殺されちゃえばいいんだッ!!」


死を望むほど、いや、無残に殺されるのを願うほど、梨花さんは私のことを嫌っている。私に心当たりは全くない。


「梨花さん、私、貴方になにか、」

「貴方は『なんにもしていない』!! 『なんにもしていない』からムカつくのよ!!」


はっ、と梨花さんが口元を両手でおさえた。視線は私の背後、遥か上。私は恐る恐る振り返る。紫月さんが立っていた。梨花さんが私を見るよりも冷たい目で、梨花さんを見下ろしている。


「なんの騒ぎだ?」

「あ、あ、あの・・・、だ、旦那様、私は、そ、その・・・」


紫月さんは私の肩を掴んでドアの前から遠ざけると、信じられないことをした。片手で梨花さんを思いっ切り押したのだ。


「きゃあっ!」


どたん、と梨花さんが倒れ込む音。それと同時にドアを閉め、ポケットから鍵を取り出すと外側から鍵をかけた。


「ど、どうして鍵を・・・」

「俺は屋敷の主だからね。持っていても何ら不思議ではないだろう?」


どうして鍵を持っているのか。どうして鍵を閉めたのか。聞きたい答えの半分は返ってきた。


「文香さん」


紫月さんの瞳は、琥珀のように色素が薄い。


「こんな夜中に出掛けたら、切り裂きジャックに襲われるよ」


初めて紫月さんの瞳を見た夜に聞いた台詞を、にやりと笑って言う。


「紫月、さん、まさか、目が、見えているんですか・・・?」


少し骨ばった長い指が、美しい蜘蛛のように紫月さんの横顔を這う。なにかを考えている。妙に色っぽいその仕草に魅入られ、逃げようという気が完全に失せた。


「回りくどいことをしたよ」


『ダイヴ』できない。したくない。

本当のことを知るのが、今は怖い。


「・・・逃げないんだね?」


両の二の腕を掴まれて、顔を覗き込まれる。

紫月さんは捕食者の目をしていた。

私は、捕食されたい、と思った。

薄く笑った顔が、甘い香りと共に離れていく。


「おやすみ、俺の文香さん」


紫月さんが去っていく。私はその場にへたり込み、心臓がある位置のシャツを掴んだ。恐怖、謎、そして色香にあてられて、呼吸が整わない。かちゃ、と小さな物音に反応して私は竦み上がった。梨花さんがドアを開けて、そっと、外の様子を伺いながら出てきた。梨花さんは泣いていた。


『こっちに来て』


そう書いた紙を私に見せる。私は黙って頷き、梨花さんの部屋に入った。


『ごめんなさい』


梨花さんが紙にそう付け加える。


『明日、全て話します。掃除をする振りをして、納屋に手紙を置いておきます』


私は頷いた。


『演技をして』


再び頷く。


「水無瀬様、申し訳ありませんでした・・・」

「いえ。怒っていませんから」

「本当に、申し訳ありません」

「梨花さん、泣かないでください。私は部屋に戻ります。おやすみなさい」

「はい。おやすみなさい」


私は部屋に戻った。睡眠薬を飲める時間はとっくに過ぎている。悶々としながら朝を迎えた。
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