第2話

文字数 1,478文字

 三十路になったのを機に、天海は所属していた芸能事務所を解雇された。
 無職になった彼女は途方に暮れ、重い足取りでデンジャラス徳永の家を訪れた。師匠である徳永の自宅を訪問するのは、彼の門下から半ば喧嘩同然で独立して以来、八年ぶりのことだった。
 震える手でインターホンを鳴らすと、しばらくして徳永の声が聞こえてくる。
「どちらさまでしょうか」懐かしい師匠の声に、身が引き締まる思いだ。
「御無沙汰しております。マーガレット天海です」
 暫しの沈黙のあと玄関の扉が開き、徳永が現れた。
 彼の肌はみずみずしく、顔のしわもほとんど目立たない。体も鍛えているらしく、隆々とした筋肉がシャツの上からでもはっきりと分かる。とっくに還暦を超えている筈なのに、きっと四十代と言っても充分通用ほど若々しかった。
 不義理を働いた天海はきっと歓迎されないだろうと覚悟を決めていたが、意外にも徳永は彼女を優しく迎え入れた。
 居間に通された天海は促されるままソファーに座り、徳永の妻から出されたお茶を一口すする。
「久しぶりだな。君の活躍はテレビで拝見させてもらっているよ」
 天海は神妙な面持ちで沈んだ声を発する。
「それはもう随分と前の話です。最近では何処からもお呼びが掛からず、先日、遂に事務所をクビになりました。今は貯金でなんとか食い繋いでおります」
「マジックは練習しているのか」
 徳永はローテーブルに置かれた煙草に手を伸ばすと、あいさつ代わりに空中からライターを出現させて火を灯す。彼の得意技の一つだ。天海は入門した時から何度もこの技を目にしているが、その手さばきはまったく老いを見せていない。
「それはもう一日も欠かさずに」天海は会釈をしながら答えた。
「それは良かった。マジシャンは練習を怠るとすぐに腕が衰えるからな」
「ええ、師匠からとことん鍛えられましたから」
 天海は負けじと右手を横にすっと伸ばし、手の平からカードを何枚も撒き散らした。ミリオンカードという技の一つで、相当な訓練が不可欠なテクニックだ。
「相変わらず見事な腕前じゃないか」
「まだまだ師匠には及びませんわ」
 徳永は煙を吐き出すと、今度は手にした吸いかけの煙草を消してみせる。彼の手腕は少しも鈍っていないと、天海は心の中で拍手を送った。
「ところで今日はどうして俺のところに? まさかただ挨拶をしに来た訳でもあるまい」顎を摩り、徳永は目を細める。
「恥ずかしながら、先ほども申し上げた通り事務所を退所して、現在無職なのです。マジックしか知らない私に、他の仕事が務まるとは思えません」
「そこで俺に仕事を紹介してもらおうとやって来た訳か」
「今さら図々しいと思われるでしょうが、師匠の他に相談できる人がいなくて」
「うーん、俺もキツキツだからな」
 徳永は腕を組みながら鎌首をもたげている。天海にも分かっていた。マジシャンというのは一見華やかだが、一部の有名マジシャンを除き、その需要はたかが知れている。
 彼のテクニックは超一流だが、テレビなどのメディアに出るのは数年に一度。アイドル的な扱いだったマーガレット天海とは違い、デンジャラス徳永の名は、一部のマニアにしか知れ渡っていない。
 以前はマジックバーの店長をしていたが、五年前に腰を痛めて、今は半隠居状態だったことは、天海も承知していた。それでも彼女は、かつての師匠に頼らざるを得ないほど追い詰められていた。
「分かった。もし君に合う仕事が見つかったらすぐに連絡しよう」
「よろしくお願いします」
 深々と頭を下げると、電話番号とメールアドレスの書かれたメモを残し、天海は徳永邸を後にした。
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