第8話 怪しい薬学生

文字数 4,238文字

 さて、さーちゃんの話に戻ろう。
 お母さんが自分の仕事にさーちゃんを巻き込んだ話だ。

 さーちゃんは入学してすぐ、ずいぶん勉強に苦労していた。なにしろ、無勉の浪人生活を経ていただけならまだしも、高校時代に理数系の科目をほとんど選択していなかったため、一年の基礎授業についていけなかったのだ。しかし、周囲の助けや本人の努力の甲斐もあって、二年になるころには徐々に追いついてきた。そのうち薬学の専門教科も加わって、勉強は大変だったが、ますます学生生活が充実していたようだ。
 そんな大学二年の春休み、久々に実家に帰ってきたさーちゃんと夜遅くまでおしゃべりしていた。授業や友達のこと、彼氏のこと、バイトのことを面白おかしく話すさーちゃんは、楽しそうだった。ちなみに、我が家では久子の方針でオチのない話には厳しい。
 そんなよもやま話の最中に、お母さんがふと言った。

「あのさ、私、肝臓とか、膵臓、脾臓とかの区別がつかないんだけど、説明してくれない? そろそろ薬学の専門授業受けてるんでしょ?」

 さーちゃんの生物好きは、実はお母さんに起因していると思う。テレビで動物番組や人体にまつわる番組を好んで観ていたのはお母さんだ。ついでに言えば、マンガを含む家に数千冊ある本の9割はお母さんが集めたものだ。
 お母さんにそう言われて、少し考えながらさーちゃんは言った。

「んー、そうだなぁ。例えば肝臓さんは、ひとりはみんなのために、みんなは一人のために、と思って日々頑張ってる工場長みたいなもので……」

 なんだそれ。
 どうやら肝臓を擬人化して説明することにしたらしい。
 この頃、内臓や細胞を擬人化するアニメも漫画もまだひとつも世に出ていなかった。
 すると、そこにすかさず食いついたのがお母さんだ。

「なにそれ、肝臓さんってどんな人? これに絵描いてみて」

 そーか、どんな人か聞くのか。話しの例えだと流すところじゃないんだ。

「えー」

 お母さんのリクエストに文句を言いながら、さーちゃんは自分で考えた肝臓さんキャラを、ササッとノートに描き始めた。
 あ、描いちゃうんだ。
 見ているうちに、さーちゃんはお母さんに請われるままに、次々と色々な内臓キャラを描いてゆく。
 そういえば、さーちゃんは、大学に行くかデザインの専門学校に行くかで一瞬悩んでいたことがあったっけ。
 次々にノートに描かれたさーちゃんの内臓キャラは、どれもとても個性的で面白かった。そして何より、体の仕組みがとてもわかりやすく頭に入ってくる。

「あははは! 脾臓さん、スパルタなのにアフロでファンキーなのなんで?」

 さーちゃんの絵を見ながら、私とお母さんがゲラゲラ笑っていると、さーちゃんもつられて笑いながら言った。

「なんとなく」

 そうなんだ。
 キャラが増えるごとにますます面白がったお母さんは、その絵をとうとうパソコンで描いて色を付けろと言い始めた。話していて、自分でも楽しくなってきたさーちゃんは、お母さんに言われるままに、パソコンで絵を描き始めた。その時は、お絵かきペンタブなどなかったので、マウスだけで描いていた。

「さくら、これ、アニメの企画で持って行っていいかな?」

 お母さんは、モニターの絵を見ながら、突然、真剣な目で言った。

「え、いいけど」

 それがどういうことかよくわからないまま、お姉ちゃんは了承した。
 そして、私とさーちゃんが眠った後も、お母さんはパソコンに取り込んださーちゃんの絵を使って、何やら遅くまで書き物をしていた。ちょうど、お母さんの離婚騒動をネタにした、NHKの連続ドラマの最終回が迫っていたころのことだった。
 それから数か月後のゴールデンウィークのころ、東北新社という制作会社の、Oさんという女性プロデューサがお姉ちゃんに会いに来た。そしてあれよあれよという間に、お姉ちゃんの内臓キャラを、コミックにして出版することが決まったのだ。

「とりあえず、アニメ化するにあたって、原作コミックを作りましょう。こちらが祥伝社のTさん」

 紹介された地味な男性が、Oさんの横で頭を下げた。

「よろしく」
「さくらちゃん、マンガは描ける?」

 やり手のキャリアウーマンという感じの小柄なOさんは、てきぱきと鮮やかにさーちゃんに畳み掛ける。

「や、やります!」

 その雰囲気にちょっぴり舞い上がってしまったさーちゃんは、その一言で、今まで一度も描いたことがないマンガを描くことになった。このとき、お母さんがさーちゃんの横でにやりと笑ったのを私は見逃さなかった。
 さーちゃんの、多忙を極める崖っぷちスケジュールの中に、マンガ家生活が加わった。マンガを描くからと言って、いきなりお金がもらえるわけではないので、バイトしながら学校に行って、勉強しながらマンガも描いたのだ。

「お母さん、さーちゃん大丈夫かな」

 私がそう聞くと、お母さんは「大丈夫、大丈夫」と無責任に言った。

「連載マンガじゃなくて、全編書下ろしコミックだから、厳しい締め切りないし、テーマごとの病気の仕組みだけざっと描いてくれれば、私が話の筋整えるんだし、色も私がつけるんだから、大丈夫だって」

 マンガは、ペン入れさえすれば、あとはデジタルで処理してゆくらしい。大学側も協力的で、そうそうたる教授陣が医療監修を買って出てくれたそうだ。
 しかし、いくらなんでも、マンガ描き未経験のど新人が、そんなにすらすらやれるものなのだろうか。
 いくら大学の偉い先生方が協力してくれると言っても、マンガの世界観はさーちゃんの頭の中だけにしかないし、ペン入れだけだとお母さんは言うけど、そんなに楽な作業なのだろうか。
 そもそも、肝心のそのペン画がなければ、マンガは絶対に完成しないのだ。
 しかし残念ながら、久子は私の言葉に素直に耳を傾けるタイプではない。

「なんとかなるでしょ」

 何を根拠に言うか。ああ、さーちゃんが心配だ。
 ももちゃんはこの頃、家を出て一人暮らしをしていたので、暴走機関車のストッパー役は私一人だ。荷が重すぎる。
 案の定、その後二人は作品の出来をめぐってケンカすることが多くなった。
 多忙なさーちゃんは、お母さんの無茶振りに腹を立て、次第に心を閉ざしてしまうし、その煽りで作品作りまで遅れがちになってゆく。
 そんなさーちゃんに対し、自分で巻き込んだくせにプロとしてあるまじき態度だと、腹を立てるお母さんといった具合で、関係性は悪循環に陥ってしまった。
 たぶん、親子だけに、甘えと厳しさのバランスが悪いのだと思う。
 二人の仲は一気に険悪になっていったが、それでも何とか、あとは表紙のイラスト一枚を残すだけにこぎつけたところで、今までの無理が爆発した。
 その日、お姉ちゃんとお母さんは、編集のTさんと渋谷で待ち合わせ、装丁デザイナーと打ち合わせをする予定だった。でも、前日から家に帰ってきていたさーちゃんの体調がとても悪そうだった。とにかく、何をするにも億劫で、歩くのもやっとという感じだったのだ。

「さーちゃん、大丈夫? どうしたの?」
「うーん、たぶん胃潰瘍かな。お腹も腫れてるし、痛み止め飲みすぎちゃったんだよね」
「そうなんだ。病院は?」
「うん、明後日予約入れてある。銚子の病院で紹介状書いてくれて、お母さんと一緒に大学病院に行きなさいって言われたしね。で、その次の日は、大学の友達とディズニー行くんだ」
「ふーん、いいなー」

 今にして思えば、親と一緒に大学病院へ行けとは穏やかじゃない。
 でもその当時は、大学病院が、家から車で二十分ほどの近所だったこともあって『おっきな病院でちゃんとした検査』ぐらいの認識しかなかった。
 さーちゃんを含む私たち全員、まったく深刻に捉えていなかったのだ。
 そもそも、まだ卵だとはいえ、さーちゃんだって薬学の学生なのだ。そのさーちゃんが、胃潰瘍だというならそうなのだろう。
 いろいろ多忙なさーちゃんのことだから、体調崩すこともあるよねと、深く考えることもなかった。
 そして翌日、だるそうに、お母さんと出かけていくさーちゃんの後姿を見送った。
 ところが、打ち合わせから帰ってきたその夜の午前三時、着信を鳴らす携帯片手に、お母さんがバタバタとさーちゃんの部屋に駆け込む気配で目が覚めた。

「さくら、さくら、大丈夫?」

 焦った様子でさーちゃんを呼び掛けているのが聞こえた。おそらく、具合の悪くなったさーちゃんが、自室のベッドから自分の携帯でお母さんを呼んだのだ。
 慌てて私もさーちゃんの部屋に飛び込むと、さーちゃんが苦しそうにベッドに横たわったまま、

「救急車呼んで……」

 と力なく言った。
 救急車はサイレンを鳴らしながらすぐにやってきて、ぐったりしているお姉ちゃんを乗せた。
 結果、お姉ちゃんはディズニーランドどころではなくなってしまった。やはりそのまま緊急入院だ。そして、いくつかの検査の結果、お姉ちゃんの病名は『先天性膵胆管合流異常(せんてんせいすいたんかんごうりゅういじょう)による、胆管膿腫(たんかんのうしゅ)』というややこしいものだということがわかった。
 つまり、お姉ちゃんは生れつき、膵管と胆管が合流する場所に、わずかなずれがあった。そこが何かのはずみで目詰まりを起こし、本来、肝臓から胆のうを通って、小腸に向かって流れ落ちるべき消化液が、わずか数ミリの細い消化管の中で溜まり続けた。そのせいで、外から見て明らかにわかるほどの腹部の腫れとなり、初見の銚子の医師を慌てさせたのである。
 各種臓器を繋げている管は、逆流した消化液のせいで、肝臓の中まで一杯に大きく膨れ上がっていた。つまり、はち切れんばかりにぱんぱんに膨らんだ消化管が、内臓その他を強く圧迫して、とうとう動けなくなってしまったのだ。
 お姉ちゃんは、医師になんでこんなになるまで放っておいたのだと叱られた。しかもこの体でディズニーランドに行こうなんてとんでもない。そのまま激しい乗り物などに乗って肝臓が破裂していたら、即死だとこってり脅されていた。

「胃潰瘍じゃないじゃん!」

 後日、逆流して体内で溜まりに溜まった消化液を抜くために、脇腹から管を刺して病室のベッドで横たわるさーちゃんに向かって、思いっきりツッコんだ。

「いやー、あはは、てっきりおっぱい爆発事件の余波かと思って……」
「おっぱい爆発事件?」

 お見舞いに来たももちゃんも加わって、例によって私たち三人は異口同音に言った。
 そして、あまりにもくだらない、お姉ちゃんの『おっぱい爆発事件』の全容を知ることになるのだ。


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