2章 配偶子について

文字数 6,796文字

 1章が途方もなく長くなってしまいました。申しわけない。先手を打ってさらに謝っておきます。本章もたぶんそんなに短くはならないでしょう。だるい読者は読み飛ばすのも視野に入れたらよかろうかと思います。
 本章ではマッチングアプリを読み解くための鍵となる配偶子について述べております。堅苦しくならないよう注意を払っているので、時間のあるかたは目を通してみてください。高校の生物学程度の内容ですので、復習のつもりでご一読くださればこれ幸い。

1 生殖細胞の貴重さがすべてを決める
 この世はまこと男性にハードな世界でして、われわれ男性族は原則女性に選ばれる立場であります。医師や弁護士といった超高スペックな人は例外ですが、まれなケースですので除外して差し支えないでしょう。
 当たり前のように男性は不遇を甘受しているけれども、そもそもなぜこのような不平等がまかり通っているのでしょうか。男女平等を掲げる輝かしい理念とはなんだったのでしょうか? 順に解きほぐしていきましょう。

①単細胞生物の無性生殖
 生きものが単細胞生物だったころは気楽なものでした。生殖などという面倒ごとにわずらわされることもなく、増えたければ自身を分裂させるだけでよい。クローンが生成され、それで終了。分裂は性が介在しないので、無性生殖と呼ばれています。
 無性生殖の利点はなんといっても効率の高さでしょう。だってあなた、相手が必要ないんですよ。勝手に自分だけで増えてしまえる。これは指数関数的な増殖率を意味しています。すなわち、

 増殖率=2^n

ですね。2のn乗というのは爆発的に数が増えることで有名ですよね。n=1なら2、n=3なら8と最初のほうこそスロースタートですけれども、2の10乗ともなれば1,024にもなる。単細胞生物はたった10回の分裂でこれだけ増えるという意味です。ひとすくいの泥のなかに細菌が何億、何兆もいる理由はまさにこれですね。
 アムウェイに代表されるマルチ商法がインチキなのも、2のn乗で説明できますね。しくみはこうです。アムウェイ会員になり、(ものすごく高機能だとされている)商品をほかの人に売れば、一定の手数料が上層にいる会員に入るというのです。つまり下位会員が増えれば増えるほど、実入りが爆発的に増えるということになる。図式すると、

        1
    2       3
  4   5   6   7
8 9 10 11 12 13 14 15

こんな感じ。1会員が2と3会員に商品を売り、2、3会員がさらに2人へ売り……というあんばいで進んでいく。まさしく2のn乗ですね。あとこれが少し続けば、上層部はウハウハの大儲けになりそうです。コミッションが下位会員から吸い上げられてくるんですから。
 おそらく実際に上層会員は儲けていると思われます。そうでなくてはこんな商売自体が存在しないはずですから。でも新たに勧誘される最下位会員はまず無理です。4行めの時点で会員はまだ8人ですが、これが10行めになると実に1,024人という大所帯になる!
 たった2人勧誘すればよいという一見楽勝そうなルールでも、下位にいけばいくほど勧誘のハードルが爆上がりしてしまうのですね。人の交友関係なんて狭いでしょうから、新たに声をかける人みんながもうアムウェイをやっていて、互いに(ナル)アムウェイ人を血眼になって探しているなんてことになってしまう。32行めで40億に達してしまう点からも、新規会員が始めから儲けられないシステムであることは自明でしょう。

 のっけから話がそれたけれども、基本的に生物の成功度は

が指標となります。これを包括適応度というのですが、まあ細かい用語は枝葉末節ですので覚えなくてOK。
 包括適応度は――とかいいながら早速使ってるっていうね――以下の表の通りとなります。

表1 包括適応度早見表
自分自身 100%
曾祖父母 12.5%
祖父母  25%
父母   50%
子ども  50%
孫    25%
いとこ  12.5%

 この表から明らかな通り、生物は少なくとも子どもを2人持つことでやっとトントンだということがわかります。念のため計算しておくと、

 50%+50%=100%

ですね。実際に人口維持のためには合計特殊出生率が2以上ないとあかんという点からも、これが裏づけられます。この包括適応度という概念はまこと汎用性が高く、

、といった抽象的な議論にも即座に答えを出してくれます。若干冗長になるけれども、以下に記しておきましょう。

父母=2人(50%×2=100%)
子ども=2人(50%×2=100%)
孫=4人(25%×4=100%)
いとこ=8人(12.5%×8=100%)

 先走って有性生殖の考察をしてしまいましたが、単細胞生物はといえば、分裂(もしくは発芽)ですのでクローンを生成するわけです。すると1体につき遺伝率は100%、2体なら200%です。包括適応度で見れば圧倒的に有利ですね。
 さらに重要な点として、性がないので相手を見つけるという手間を省くことができます。この相手を見つけるというのがどれほどコストのかかる作業なのかは、忙しい現代に生きる男女ならば即座に同意するはずです。わたしもまさに現在進行形で、それに汲々としているわけですから。
 無性生殖の利点をまとめておきます。①分裂頻度が速く、包括適応度的にも優れている②異性を探す手間を省ける。この方式を採用している細菌たちが地球上でもっとも成功した連中であるという事実を見るだけでも、無性生殖の威力はお墨付きでありましょう。

②多細胞生物の有性生殖
 こちらはわれわれ人類が行っている方式であります(まあみんながみんな行っているわけではありませんが。ことによるとモテない男性は生涯、市場から生殖の権利を購入し続けなければ手に入らないなんてことも……)。
 有性生殖をミクロ的に見るならば、それぞれ性に特化した遺伝子の入れもの(=性染色体)をオスとメスが持っていて、それらを組み合わせて次世代を作る、という説明になるでしょう。
 すなわち精子と卵子のことですね。精子はYかX染色体を1本持ち(=Y or X)、卵子はX染色体のみ持っています(=X)。これらが組み合わさると、

 XY、XX

となりますね。高校の生物で習った通り、XYは男性、XXは女性です。精子がどちらの染色体を持っているかで胎児の性別が決まるといってよいでしょう。Yが混ざれば男性、混ざらなければ女性。この時点で男性の運命は決しているように見えます。しょせん男性なんぞは生物のボディプランからすると、後出しじゃんけんみたいなものなのです。
 その証拠に男性胎児の発生過程を観察してみますと、Y染色体に乗っているSRYという遺伝子がキンタマ(失礼)を作り、キンタマが男性ホルモンを分泌して胎児を男性化しているのですね。なんらかの事情でこの過程が省かれれば、胎児は(Y染色体を持っているにもかかわらず)女性になります(染色体異常男性。映画「リング」の貞子もこの手の疾患を抱えているという設定でした)。
 この事例から即座にわかる通り、人類の胎児は

なのですね。男性はとかく男らしさを求められますが、すでに子宮内部の時点でそれを要求されているといえましょう。なんとハードな人生であることか!

 男性のかこつ不遇はとりあえず置いておいて、上記のように有性生殖では配偶子を合成しなければならない。いったいなんのメリットがあるのでしょうか。性は進化によって獲得されたものなので、自然淘汰が(少なくとも当時の環境では)有利だと判断した特質であるはずです。
 これが意外に一筋縄ではいかない難題でして、いろんな仮説が提唱されていますね。そのなかでも定番なのが、

 性は遺伝子の多様性をもたらす

というもの。無性生殖は自分自身のクローンを作るので、遺伝的には100%同一です。包括適応度としては優れているかもしれませんが、環境の激変やウイルスの進化などにはてきめんに弱い。当該生物が寒さに弱いとして、その方向へ環境が変化すれば早晩、彼の運命は死あるのみでしょう。
 対照的に有性生殖は遺伝子の多型(アレル)が非常に多い。兄弟が同じ親から生まれているのにちがっているのはなぜかといえば、相同組み換えというシステムがあるからです。
 精子・卵子は2倍体から減数分裂する際、部分的に遺伝子を交換して入れ替えております(子どもは両親から遺伝子を引き継ぐけれども、両親の遺伝子とは厳密には、〈祖父母の遺伝子を組み替えたもの〉と定義できるでしょう)。
 この入れ替わった染色体が減数分裂で1つになるので、すべての精子・卵子は遺伝的に異なっています。したがって生まれてくる子どもたちはクローンにならない。世界中探してもまったく同じ遺伝子を持つ人間はいないでしょう(もちろん一卵性双生児は除く)。
 ただねえ、個人的にはこの仮説には納得できないのですよ。遺伝子の多様性が本当にウイルスの攻撃や環境の激変に対応できるのでしょうか。ウイルスの変異速度は文字通り桁ちがいのスピードでしょ、とうてい勝負にならないと思うのですよ。
 環境うんぬんはありうるかもしれないけど、それだったら細菌だって抗生物質を克服した耐性菌がいるじゃないですか。連中の遺伝子プールは確かに乏しいけれども、世代交代の早さで変異率を補っている。もう有性生殖の勝てる見込みがないような……。

 まあそのへんは哲学に近くなってくるので放っておきましょう(興味あるかたが万が一いたときを考慮して、巻末に参考文献を挙げておきます)。有性生殖の要点をまとめておきます。①異性を見つける必要がある②配偶子を合成しなければならない。以上の2点となります。

③なぜ女性が優位になるのか
 やっとこの問いに答える準備ができました。有性生殖では配偶子、すなわち精子と卵子という(いささか余分な)ファクターがあったのでした。読者も体内にどちらかいっぽうをお持ちかと思います。これも順に見ていきましょう。

⑴ 精子
 男性読者が毎日ティッシュに何億と放出している例のしろものです(放出先はオナホかもしれませんが……)。その圧倒的な数からわかる通り、精子は非常に低コストで産生されており、品質も悪いものが多い。まさに安かろう悪かろうを地でいっている。
 精子の目標はだたひとつ、卵子に結合すること。これのみであります。したがって構造も単純で、推進力を得るための尾、頭部には減数分裂後の染色体一式、そしてエネルギー産生用のミトコンドリア。たったこれだけ。
 大東亜戦争末期、日本軍はトチ狂って特攻専用兵器なるしろものをいくつか開発しました。93式酸素魚雷をベースにした

魚雷〈回天〉なんかは映画にもなったので知っている人もいるでしょう。実はほかにも特攻ボート〈震洋〉とか特攻潜水艦〈海龍〉とか、それはもうバラエティに富んでいたのですよ。

。軍部の戦争指導方針がいかに計画性がなかったかわかろうというものです。
 さて特攻兵器のなかでも最悪の逸品がありまして、その名も〈桜花〉。桜花はすごいですよ。エンジンもなく、もはやただのロケット弾なんですね。一定量の火薬を使って自力推進したあとは、滑空による体当たりが残された攻撃手段であります。パイロットは桜花を操作し、敵艦船に体当たりを敢行、弾頭に詰まった爆薬で被害を与えるというしろもの。
 ロケット推進しているあいだはそれなりの速度が出るでしょうけど、燃料が切れたらあとは滑空ですよ。こんなの対空砲の餌食以外のなにものでもない。連合軍からも〈BAKA BOMB〉という非常に不名誉なあだ名を奉られておりました。ただこのあだ名を聞くたび、わたしはこみ上げる怒りを抑えられない。これに乗せられて国のために殉じた若者がいたんだぞと。それを知っていてそんな名前で呼んだのか、アメ公どもよ?
 さらに悪いことに、運用母機が

一式陸攻という最悪の組み合わせ。一式陸攻は被弾後即発火という戦慄すべき特性を持った爆撃機でして、これに吊るされて敵地まで飛んでいくのですね。桜花は1機あたり2トンはありましたから、完全に過積載、ただでさえ鈍重な機体はカタツムリとどっこいどっこいといったありさま。むろん敵の邀撃機に撃墜され、桜花もろとも散っていったのでした。
 大幅に話がそれましたが、精子はまさにこの桜花といってよいでしょう。必死必殺、片道切符の特攻兵器。品質は悪く、志なかばで落伍する者多数。けれども数が多いので、ひとつくらいは敵地へ到達するのがいる。そうした思想であります。

⑵ 卵子
 こちらは精子とは対照的に、徹底した品質管理が行われています。なにせ胎児の体内にはもう、生涯使う予定の卵子(厳密には卵原細胞)が用意されているのですから。毎日キンタマから検品もなしで出荷されている大量生産品とは質がちがう。
 サイズも精子の比ではないし、中身も染色体、ミトコンドリアのほかに受精卵を生育するための栄養源、果てはエピジェネティックな変異を取り除くリフレッシュ機構まで備えており、さながら保育要塞といった趣であります。
 アメリカ軍は日本軍と異なり(またなんか始まったな)、戦闘機や爆撃機の粗製乱造はやらず、じっくり設計や実験をくり返してこれぞという名機を狙って作るというスタイルでした。ゼロ戦にボロ負けしたF4Fワイルドキャットも、実は防弾性能が非常に高く、パイロットの生存率は相当高かった。
 ここに精神論でごり押しする日本と、長期戦を想定したアメリカの差があったのですね。ゼロ戦は空戦性能はむちゃくちゃ秀でていたけれども、空の格闘戦はパイロットの技量に負うところが多く、新米には厳しい戦闘機でした。事実パイロットの損耗が激しくなる末期にしたがい、ゼロ戦は第一線から退いています。機体の旧式化もあったでしょうが、ベテランパイロットに頼りすぎた設計だったのですね。
 対するアメリカは搭乗員をおろそかにしない思想でしたから、撃墜されてもパイロットは生き残ります。毎回新兵をいちから教育するより、経験者を再出撃させるほうが効率がよいに決まっています。
 そうした設計思想が結実したのがみなさんご存じ、B-29スーパーフォートレス爆撃機ですね。東京大空襲、原子爆弾の運搬手段、その他都市部への無差別絨毯爆撃を担った機体としてあまりにも有名であります。日本を敗戦へ追い込んだ張本人といえるでしょう。
 B-29の頑丈さは並大抵ではありません。ちょっとやそっとの被弾ではびとくもせず、過給機(ターボ・スーパーチャージャー)による高高度飛行の実現、あれだけの爆装で巡航速度350 km超え、全身に張り巡らされた機銃座、信頼性の高い四発エンジン。まさに超空の要塞(スーパーフォートレス)、惜しみなくコストをかけた最強の爆撃機でした。
 例によって話が大幅にそれたけれども、卵子はB-29のようなものです。これでもかといろんな投資がなされた貴重品。女性の排卵日に1個しか供給されないのも納得がいきます。コストのかかった品は慎重に運用する。まあそういうことなのでしょう。

余談 とはいえ女性は卵子が大量に余ったまま閉経を迎えるというのも事実であります。なんぼ貴重でも使わないと意味がない。預金残高が増えていくのを眺めてニヤニヤしている守銭奴の心理なんでしょうか。
 そもそも著者は閉経自体が進化的に有利だとは思えないのですが。おばあさん仮説とかいろいろ説明はあるけれども、どれもしっくりこない。これさえなければ女性は年齢差別されなかったのでは、とも妄想してみたり。閉経の進化的な説明からは目が離せません。どなたか詳しいかたがみえましたら、参考文献などぜひお示しください。

 さて上記のように、精子と卵子はそもそも設計思想が異なることがわかりました。精子は生産コストが安いので粗製乱造可能、めくら滅法にばらまくのが有利となります。毎分600発発射可能のマシンガンをちまちま狙って撃つのは正しい運用方法ではありません。それと同じことです。
 対する卵子は貴重品なので、生産コストが桁はずれに高い。集客効率を上げたいからといって、手間暇かけて作ったお手製のパンを大量生産品のパンと似たような価格で売れば、赤字になるのは目に見えています。貴重品はそれ相応の価格で売らねばならないし、安売りなんてもってのほかです。
 もう読者にもなんとなくわかってきたのではないでしょうか。次章では配偶子の生産コストの高低による表現型への影響を見ていきましょう。
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