第二十七話 完全なる廃人

文字数 933文字


 振り向いた一馬はまさに廃人であった。
 ヘラヘラと笑い、口からよだれを垂れ流している。
 そこに童のころに出会った凜々しい面影はない。

「…………」

 言葉を失って大地が茫然と突っ立っていると、

「兄はあの試合以来、ずっとこの調子なんです」

 留衣が悲痛な声でいった。
 あの試合とは、去年、鳥越明神で行われた暫定第一席を決める奉納試合のこと。若槻一馬は松浪剣之介の木刀を頭部にくらい、正常な機能を失ったのである。

「あなたをここにお連れすれば、過去の一端ぐらいは思い出すかもしれないと思ったのですが……」

 そこまでいうと、(こら)えきれなくなったのか、留衣が顔を背けて嗚咽(おえつ)を漏らした。
 いたたまれず、大地はその場に辰蔵と留衣を残したまま、部屋をでた。



「なしてだ、なして一馬はこっただことになっただ!」

 庭にでた刹那、大地は叫び怒鳴った。
 いいしれぬ怒りが胸にこみあげてくる。
 あのとき――芝増上寺の大門前で松浪剣之介は大地にいった。

 ――こたえを知りたくば、わたしと勝負することだ。

 若槻一馬は口にしてはならぬ言葉を吐いたという。その言葉とは一体なんなのか?

(松浪に勝たにゃならねえだ!)

 うずく右肩の痛みを圧し殺して、大地はあらためて決意を固めた、そのとき――

「風巻大地さまですね」

 後ろから声がかかった。
 大地が振り向くと、総髪を無造作に後ろで束ねた若侍(わかざむらい)がいた。()桁絣(げたがすり)の小袖をまとい、下は縞柄の平袴だ。

「おめさん……」

 どこかで会った気がする。目元が涼しくまつげが長い。女かと見まごうほどの美少年だ。

「あっ、そっだ、あのときの――」

 ようやく思い出した。若槻道場に乗り込んだとき、床に倒れていた留衣の弟ではないか。

「若槻祐馬です。あのときは助けていただき、誠にありがとうございました」

 祐馬が深々と頭を下げた。

「いんや、礼だばいらねっちゃ」

 大地が照れて扇子で顔を扇ぐと――

 バッ!

 祐馬がいきなりその場に土下座した。

「風巻さま、わたしを、わたしを弟子にしてくださいっ!」


   第二十八話につづく

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