7(最終回) 片付かない事

文字数 2,807文字

 佐伯がまだ椅子に座ったまま、声をかけてきた。
「宝生警部補、今、『一件落着』と言ったな」
そう言って、世津奈を見上げる。
「はい」
「この世界に『一見落着』なんて都合の良い話は、ない。一度起こったことは、色々に形を変えて、いつまでも続くのだ」

「どういう意味でしょう?」
世津奈は問い返す。これ以上のリスクを回避できたと安心している所に、『いつまでも続く』などと不穏な事を言って欲しくない。
 佐伯の目尻と唇の端に小さな笑みが浮かぶ。
「言い出したのは私ではない。夏目漱石が、『道草』で主人公に言わせている。どうせ、読んだことはないだろうが」
「ありません」
「では、この機会に読んで意味を考えるといい」
 世津奈はウソはつきたくないので『道草』を読む・読まないには触れず、
「では、失礼します」
 とだけ言って、部屋を出た。

 事務所に帰るクルマの中、ハンドルを握るコータローが尋ねてくる。
「宝生さん、蒸し返して申し訳ないんすけど、2倍の成功報酬を蹴っちゃったのは、惜しいっす」
「私は、コー君と私の命の方が、もっと惜しい」
「え?」
「サツキさんを救出した時点で、私たちは地獄の釜の縁に立ってたのよ。もう一歩進んだら、間違いなく地獄の釜に落ちてた」
「どうして、そんな風に思うんすか?」
「佐伯警視正は、私たちが消防を巻き込んだことで怒っていたわよね」
「ええ、言いがかりもイイ所でしたけど」

「でも、私が男の頭を撃ったことには、一言も触れなかった。非殺傷性のプラスチック弾とはいえ、至近距離から頭を撃ったのよ。殺してしまったかもしれない。命はあっても、本物の救急車を呼ぶ必要のある大怪我をしたのは間違いない。それなのに、その話を全く持ち出さなかった」
「話が見えないんすけど」
「誰かが、死体または重傷者をあの家からこっそり連れ出して、処分したか処置したのよ」

「あぁ、そういうことっすか。処分または処置したのは、あの家にいた4人の仲間でしょう」
「だとしたら、その仲間は、重傷者を見殺しにする冷酷さを備えているか高度な医療処置を提供する力があるということになる」
「だとすると、高度に組織化された危険な相手ってことになりますね」

「それだけじゃない。重傷者を処置したか殺したかしたのは、『あっち側』の人間じゃなくて、『こっち側』の人間とも考えられる」
「どういうことすか?」
「佐伯警視正は、私が現場にショットガンを置いてきたことを全然気にしていなかった」
「あぁ、そう言えば。撃ち合いになったことに文句付けたのとツジツマが合わないっすね」
「警察が現場で隠ぺい工作した可能性がある」
「いやぁ~、それはヤバいっす」
コータローが声を震わせる。

「断らなきゃいけない理由は、まだある。私の情報屋だった西村さんはサイエンス・ライターだっし、今も現役なの」
「すると、佐伯警視正が西村さんから引き出そうとした情報っていうのは?」
「研究機密がらみの情報と考えた方がいい」
「これ以上佐伯に付き合ったら、『京橋テクノサービス』や同業者のビジネスを邪魔することになりそうだ。そういうことっすね」
「ええ。初めからヤバイ話だと思ってた。でも、どうしてもお金が必要だったから仕方なく引き受けた。欲しかったお金が手に入った所で抜けないと、泥沼にはまって動けなくなる」

「うーん、宝生さんって、普段は何も考えてないけど、ここぞという時にはちゃんと頭を回転させてるんすね。感心しました」
「普段も、ちゃんと考えてるわよ」
「なけなしの2万円をカメラでなくお賽銭に使っちゃった人が、良く言いますね」
「今回の成功報酬で、高性能のカメラを買えばいいじゃない。それとも、まだお金が足りない?」
「いえ、十分っす。高性能のミラーレス一眼レフカメラと暗視レンズつきビデオカメラを両方を買った上に、事務所用と我が家用の電動自転車も買えます」

「あら、会社のお金で自宅の電動自転車も買うの?」
「だめっすか?」
「原則はダメだけど、今回だけ許す。事務所の収入が少ないこととコー君と私のありもしない『関係』のことでは、玲子さんに心配かけたから」
世津奈は、「関係」という言葉に力を込める。

「宝生さんも意外にしつこいっすね。玲子の勘繰りのことは、忘れてくださいよ」
「それは、今後のコー君の働き次第……ということで」
 コータローが顔を世津奈に向けてくる。
「宝生さん、棚ボタの仕事で一儲けしたことで気が大きくなってませんか? 次の仕事のあて、あります?」
「ない。少なくとも、今のところは」
「じゃ、『ボクの働き次第』とか、大きなことを言わない方がいいっすよ」
そう言って、コータローが顔を前に向け直す。
 やはり、コータローは玲子と結婚して性格が悪くなった。

 それから数日後、警察庁生活安全局から宅配便が届いた。発送人個人の名前はない。中には、夏目漱石の『道草』と『門』がそれぞれ2冊ずつ入っている。
「これ、間違いなく佐伯からっすよ。これじゃ、宝生さんのストーカーじゃないすか」
「コー君の分も入ってるわよ。佐伯警視正は、単純に読書仲間を増やしたいだけだと思う」
「あぁ、出た。いつもの『考えなしの宝生さん』に戻ってる」

 世津奈は、『道草』と『門』、それぞれの終わりの方に付箋紙がついているのに気づく。そのページをめくると、付箋紙に佐伯が手書きの小さな字で「『門』から先に読め」と書き込んであった。

 佐伯が世津奈に読ませたかった一節はここだろうと思う部分を、世津奈はコータローに読んで聞かせる。

御米は障子の硝子に映る麗らかな日影をすかして見て、
「本当にありがたいわね。漸くの事春になって」といって、晴れ晴れしい眉を張った。
宗助は縁に出て長く延びた爪を剪りながら、
「うん、しかしまたじき冬になるよ」と答えて、下を向いたまま鋏を動かしていた。
                   (夏目漱石『門』ワイド版岩波文庫より)

細君の顔には不審と反抗の色が見えた。
「じゃどうすれば本当に片付くんです」
「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起こった事は、何時までも続くのさ。ただ色々な形に変わるから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ」
健三の口調は吐き出すように苦々しかった。
                   (夏目漱石『道草』ワイド版岩波文庫より)

「今ので、なんか、分かりました?」
コータローが尋ねる。
「わからない。初めからちゃんと読んでみる」
「ボクは結構です。下の古本屋に売ってきます」
コータローが2冊の本を持って事務所を出て行く。

 世津奈は、ソファに座って『門』から読み始める。

……秋日和と名のつくほどの上天気なので、往来を行く人の下駄の響が、静かな町だけに、朗らかに聞こえてくる。肘枕をして軒から上を見上ると、綺麗な空が一面に蒼く澄んでいる。
(夏目漱石『門』ワイド版岩波文庫より)


宝生探偵事務所/危ない人探し 《完》





 


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