1、過去からの亡霊

文字数 2,890文字

 閑古鳥鳴く探偵事務所の所長、宝生 世津奈。心配性の相棒・コータローの嘆き節を聴かされるのに飽き、事務所を出る。
 探偵の「飛び込み営業」など聞いたことないが、ともかく妖気の漂っていそうなビルを見つけドアを叩こうと商店街をぶらぶら歩く。
 前方から黒塗りのセダンが近づき、音もなく世津奈の傍らに停まった。後部座席のサイドウィンドウが開く。職業柄身構える世津奈に、二度と聞きたくなかった声が話しかけてくる。
「宝生警部補、貴様の事務所に行くところだ。乗せてやる」
警察庁生活安全局の理事官、佐伯警視正だ。階級意識で凝り固まった佐伯は、警察を辞めた人間も、警察での最終階級で呼ぶ。

「せっかくですが、これから商談ですので」
「商談? ウソつけ。貴様の探偵事務所は閑古鳥が鳴き、三か月も家賃を滞納している」
「えっ、いつの間に調べたのですか?」
「本当なのか? カマをかけたのだ。自分から認めるとは、相変わらず間抜けだな。私の推薦がなかったら警部補になど到底なれなかったぞ。感謝しろ」
 佐伯は警察庁から警視庁に出向して生活経済課長を務めていた。世津奈は、その下で産業スパイ事案――警察用語では「営業秘密侵害事犯」――を扱う捜査員だった。

「わざわざお越しいただくとは、なんの御用ですか?」
「仕事を持ってきてやった」
「仕事ですか? 私は、産業スパイ狩りからは足を洗いました」
「わかっている。産業スパイとは関係のない、普通の人探しだ。いいから、乗れ。うまくいったら、滞納している家賃を払えるぞ」
 二度と佐伯と関りたくない。しかし、家賃の滞納は心苦しい。迷っている世津奈に、
「元警察官が、家賃を滞納していいのか?」
佐伯が止めの一撃を放ってきた。世津奈は、仕方なく佐伯のクルマに乗り込んだ。

 セダンが宝生探偵事務所がある古びたビルの前に停まる。佐伯が建屋を見上げ、
「ひどい所だ。貴様は前の会社を逃げるように辞めて開業した。落ち着いて事務所を探す余裕など、なかったとみえる」
キャリア組で警察官というより役人の佐伯だが、人の本音や真相を探り当てる能力は備えている。

 佐伯は先に立ってドカドカ階段を上がり、ノックもせず、事務所のドアを開けた。
「すみません、今、所長が外出してまして」
と答えるコータローの声が、ゴクリと唾を飲む音に変わる。
「小僧、久しぶりだな。まだ宝生警部補にくっつきまわってるのか」
佐伯が世津奈を振り返り、ニタリとする。
「貴様ら、『出来て』いるのか?」
 
 世津奈は、天井をあおぐ。つい先日、コータローの妻、玲子からも同じことを言われた。コータローが仕事のない世津奈から離れようとしないので、コータローと世津奈が寝ているに違いないと怒りをぶつけに事務所に押しかけてきたのだ。
 世津奈が恋愛アレルギーなこと——これは事実——を話してお引き取りいただいたが、果て、どこまで信じたことやら。
 どぉして、君たちは、男女が仲良くしていると「出来てる」と思うのだね?

 佐伯に自分の恋愛アレルギーを打ち明ける気はしない。
「親指と親指が赤い糸で結ばれているのです」
と、誤魔化す。
「それは、『小指と小指』だろう」
佐伯がソファーに腰を下ろしながら言う。
「いいえ、『親指同士』と言う所がミソです。コー君、警視正に飲み物をお出しして」
 
 世津奈が佐伯と向かい合わせに座り、コータローが麦茶のグラスを3つ、盆に乗せて運んでくる。盆がカタカタ鳴っている。
「坊主、今でも私が恐いか? 結構なことだ。警察は民間に恐れられてナンボだからな」
コータローが盆を取り落とし、ジーンズをびしょびしょにする。
「相変わらず、粗忽な奴だ。私にかからなかったのが、不幸中の幸いだ」

「コー君、座ってて。私が入れてくる」
世津奈は考えなしにコータローに頼んだのを後悔する。彼の面子をつぶしてしまった。
 佐伯が言う。
「私なら構わん。話を始めるぞ」
「いえ、わ・た・し・が、喉が渇いているのです」
世津奈は答え、冷蔵庫に足を運ぶ。
 佐伯は常に自己中で強引。もっとも、佐伯に限らず警察のキャリア組は、少なくとも下に対しては大概そうだ。
 
 世津奈は警察に嫌気がさして辞め、スパイ狩り専門の探偵会社「京橋テクノサービス」で働いていた。そんな世津奈に、昔の上司である佐伯が近づいてきた。企業が警察に隠して「京橋テクノサービス」に持ち込む産業スパイ情報を佐伯に流すスパイになれと言うのだ。
 それを「京橋テクノサービス」の社長、高山ミレに打ち明けると、高山は、佐伯の依頼を受けたふりをして警察の内情を探って来いと言う。
 
 世津奈には二重スパイになる気は、さらさらなかった。「京橋テクノサービス」を辞め、個人で探偵事務所を開いた。
 同じころ、コータローは、玲子との結婚をめぐって社長であり実の伯母でもある高山とモメていた。世津奈が会社を辞めると、コータローもすぐに会社を辞めて合流した。

 世津奈が二重スパイにされかけたのは、産業スパイ事件をめぐる法改正と関係がある。
 2015年まで、産業スパイ事件は親告罪だった。被害企業が警察に告発して初めて捜査されていたのだ。警察が立件して裁判になると、スパイに盗まれた機密情報が公になるというのが理由だった。企業は産業スパイの危険を察知すると、「京橋テクノサービス」のような民間調査会社を雇ってスパイを摘発させ、水面下で処理していた。

 2016年に法が改正され、産業スパイ事件は非親告罪になった。被害企業が告発せずとも警察が独自に捜査できるようになったのだ。と言っても、警察は企業内に情報網があるわけではない。企業が言ってこなければ捜査が始まらないの改正前と同じ。企業は相変わらず民間の産業スパイ・ハンターを頼りにしていた。
 
 業を煮やし、民間調査会社と企業に密告者を忍ばせ情報を手に入れようと考えたのが、生活経済課長だった佐伯だ。そのころは、まだ警視だった。世津奈は佐伯から密告者のスカウトを命じられ、それが嫌で警察を辞めた。
 それなのに、佐伯から世津奈みずからスパイになれと迫られ、社長の高山からは警察の内情を探る二重スパイになれと言われ、つくづく嫌気がさして「京橋テクノサービス」も辞めた。
 佐伯が余計なことを思いついたばかりに、高給が約束されていた「京橋テクノサービス」を退き、家出ネコ探しや浮気調査で日銭を稼ぐ身になったのだ。

 世津奈はそういう恨みつらみを顔に出さぬよう気を付けながら、佐伯の前に麦茶のグラスを置く。
「本当に、産業スパイ狩りをしている民間調査会社を邪魔しない仕事でしょうね?」
世津奈は念押しする。家賃のためであっても、これだけは譲れない。辞めた業界だが、義理はある。
「相変わらず、変なところで律儀な奴だな。安心しろ。産業スパイがらみの話ではない。だが、」
佐伯がコトバを切り、威圧的な目で世津奈を見る。
「宝生警部補、民間調査会社がどれほどあがいても、最後に勝つのは、我々警察だ。官は、常に民より強い。そのことを忘れるな」
佐伯が威圧的な視線のまま、ニタリと笑った。世津奈は顔をしかめたくなるのをこらえた。

〈つづく〉


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