Gimme

文字数 2,935文字

 いつものハスキーボイスではない、アルトボイスの叫び声は、社が力の限り叫んでいる証拠だった。
「遊びでこういう書面を作成するとまずいという弁護士としての考え方ではなくて、ボス弁に見つかったらまずいからです! 私は、芳さんに辞めてほしくないから! 芳さんにずっといてほしいから、それで忠告したんです! 私を変態だと思うならそれでいいです!」
 社先生は、私のことを、必死で自分を引き留めようとしてくれているーー。
 でも、どうしてーー?
「芳さん!」
 私は、最低な女なのに。
「芳さんが必要です!」
 走る気が、徐々に失せていく。
「少なくとも私にはッーー!」
 このまま逃げ続けて、社が自分を追うのを諦めてしまったら。
 100パーセント。
 一生、後悔する。
 赤い靴を履いた足が勝手に踊って森に消えるような感覚で、足が、止まる。
 やがて、その足はガタガタと震え出す。
「私は! 心配だったんですよ! 今日、一日中芳さんのことが!」
 背後で、社が、はぁ、はぁ、と肩で息をしている。
 パンプスとアスファルトがぶつかる固い音。
 小走りで社が歩み寄ってくるのがわかる。
 自分以外の熱を背中に感じる。
 後ろから抱きしめられる。
 抱きつかれたという言い方のほうが、より正確かもしれない。
 社は、息は荒いものの、とても安らかに両目を閉じている。
「今日のことだけど、乱暴されたわけじゃないよね」
 社は、芳に抱きつきながら、いつものハスキーボイスで、優しく問いかける。
 社の胸が、膨らんだり縮んだりしているのを、芳は背中で感じた。
 芳は、夜空を見上げた途端、眉間に思い切り皺を寄せた。
 そして彼女の両目から同時に大粒の涙がこぼれ、あごに滴り、静かに胸に落ちた。
 社は本気で、今日の昼間の出来事を、不同意なんじゃないかと、心配してくれているのだ。
 泣き出すと、止まらなくなる。
「私は、コンプレックスがあって……それで、あのようなことに……のめりこんで……」
 社が、深く息を吐くのが聴こえた。
「私から、先生たちにお願いしたんです。半ば強引に……」
「芳さんの……心の隙間の埋め方を、とやかく言うつもりはないです。そんなのは人それぞれですし。ただ、芳さんと少しお話がしたいです」
「でも……」
「このあと、少しお時間ちょうだいできますか」
 芳は、頷いた。
 


 街路照明のぼんやりとした灯が、夜の公園を照らしている。
「実は私も、弁護士になりたかったんです」
 公園のベンチに、芳と社が並んで座る。
 社は自販機で買った缶コーヒーのプルタブを開けた。
「“も”?」
「社先生と同じ」
「あぁ、そういうことか」
「でも、駄目だった」
「私は、いつも芳さんに憧れてるんですけどね」
「へっ?」
「敵を作らない性格っていうか、雰囲気に」
「そんな風に見られてたんだ、私……」
 芳は、母親に厳しく躾けられていたことを思い出した。
ーー不良になったら許さんからな。
 それは母の呪いの言葉で、まだそれは元気に生きていて、ビチビチと芳の記憶の中で跳ねる。
 芳は唇を噛んだ。
「私は、女性に限りますけど同業者と基本、ソリが合わないので……たぶん、私は客観的に見てだらしないから、特に女性はイライラきちゃうんだと思うんですけど……」
「……だらしがないなんて、そんな」
 芳は両手を前に出した。
 そんなわけ、ないーー。
 社に軽く見つめられる。
 イタズラっ子のような眼差しが、
ーーホントにそう思ってる?
 そう告げているような、気がして。
 芳は、ビチビチと跳ねる母の置き土産の存在を、一瞬忘れることができた。
「芳さんは、しっかりしていてスキがなくて……う〜ん」
 缶コーヒーの縁を前歯で軽く噛みながら、社は押し黙る。
 きっとその後に続く言葉を、選んでいるのだ。
 弁護士ゆえの、職業病。
 芳は、社の横顔に、じっと見惚れる。
「欲しいな」
 ぽつりとつぶやいた社は、缶コーヒーを一口飲んで喉に流し込んでから、芳を一瞥した。
「欲しいってどういうこと、ですか?」
 これは、恋の告白だろうか?
 それともただの聞き間違い?
 とっておきの悪戯を思いついた子どものように、だけど嫌悪を感じさせない笑みを浮かべている社の次の一言を、芳は聞きたくてしょうがない。
 目が合ったとき、社は挑発するように上まぶたを上げた。
「決して美しい感情じゃないよ?」
「それって」
 ドクンと、胸が高鳴り、両脚の間が反応し始める。
 目を細めて笑った社には、心を見透かされている。
「芳さんの今の心の状態を代言すると」
 虚空を仰ぎ見ている社の横顔だけで、くらっとする。
「司法試験に失敗して、卑屈になっている」
 確認事項を反芻するように、社は親指を折る。
「まぁ……そう、かな」
 社の言う通りだが、他人の前で認めるのは恥ずかしいことだった。
「そうでしょう?」
 それでも社は念押ししてくる。
 芳は観念して、頷いた。
 小さな返事が消え入っていく。
「芳さんは、私たち弁護士に見下されつつも、『人権』的なものは壊さないでほしくってて……つまり、ペットみたいな感じで“愛玩”されつつ、“大切にされてる玩具”みたいに自分の意思関係なく好きに遊んで欲しい」
「よくわかってますね。私のこと」
 まぁでもそりゃあそうか。
 明らかにヤってるところを見られたし、恐らく声も外に響いていたからセリフも聞いているに違いない。
 太ももの隣に置いた缶コーヒーがビールだったらよかったのに。
 芳は、缶コーヒーのプルタブを開けた。
「私からの提案なんですが」
 社の、ぼそっと独り言のような低い声。
 コーヒーを喉に流し込んでから、芳は社の方に首を向けた。
 おやつを目の前でちらつかせられた猫のように、期待が高まっていく。
 俯き気味の社の横顔は、不揃いのボブヘアに隠されて見ることができない。
「あのプレハブは、気をつけた方がいいですよ。時々所長も出入りしてるし」
 なんだ、そんなことか。
 要は、例の“遊び”をやめろと言いたいのだ。
「……そうですか。じゃあ場所を変えないといけないですね」
 残りの缶コーヒーを一気に飲み干し、近くのゴミ箱に捨てようと、ベンチから腰を上げようとしたときーー。
「明日、あるモノを持ってきます。芳さんのお気に召すかはわからないですが」
「へっ!?」
 今度は社が、ローヤーズバッグを肩にかけてベンチから立ち上がった。
「芳さんが欲しいのは、言葉より“行動”でしょう?」
 ふふーー。
 芳の心を見透かしたような悪戯っぽい微笑み。
「私はこれから事務所まで車取りに戻りますけど、駅まで送っていきますよ」
「え……いいんですか?」
「芳さんに何かあったら、どうにかなっちゃいそうで」
「え……」
「遠慮せず」
 社は手を繋ごうと、カルティエを嵌めた方の手を差し出す。
 座ったままの芳は上目遣いをせざるを得ない。
「私のこと、嫌いではないでしょう?」
 芳は黙って頷いた。
 社が差し出した手を取り、芳はエスコートを受ける。
「ずっと憧れてました。社先生に」
 芳よりも半歩先を行く社は、黙ったままである。
 フラれちゃったかしら。
 でも、手は振り解かれていない。
「なるほど」
 何を考えているかわからない声のトーンと返事の仕方に、芳の胸は初恋をしたときのようにソワソワと落ち着かなくなった。

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