あるもの
文字数 2,542文字
でも、別に。
よく考えたら。
弁護士と乱交したら法に触れるわけじゃないわよね。
じゃあ、いいか。
芳は開き直って、頼まれた書面を順番に作成していく。
カタカタカタカタ……芳がキーボードをタッピングする音が、夜の帳が下りた法律事務所内に響く。
ヘッドフォンを外す音がした。
そして「ふぅ」というかわいらしいため息。
社が席を立ち、伸びをしているのが、芳にはわかった。
陶器がシンクとぶつかる音がする。
社 は給湯室に向かったようだ。
あぁこのタイミングで仕事を終えて、「お先に失礼します」の言葉と同時にドアを閉めれたらーーどんなに幸せか。
ケトルに水を注ぐ音がする。
社は、パラリーガルや事務員にお茶汲みをさせず、自分でコーヒーを淹れる。
それだけではなく、事務所に溜まったゴミを集めて捨てたり、壊れたコピー機を新しいコピー機に手配したり、本来、法律の専門職である弁護士がやらなくていい仕事を、さりげなく率先してする。
社のそんなところに、芳は徐々に惹かれていった。
ここの弁護士たちは、皆優しいが、社だけは別格だった。
インスタントコーヒーの香りが漂う。
社先生。
私を、軽蔑しましたか。
ごめんなさい、ごめんなさい、あんな汚らわしいものを見せて、ごめんなさいーー。
気づけば芳は、頭を抱えて項垂れていることに、自分でも気づいていなかった。
書面を印刷する音を聞きながらキーボードを睨んでいると。
パタパタと足音がする。
え?
嘘でしょ。
社先生?
やめて。
来ないで。
会わせる顔なんて、もう、金輪際ーー。
「芳さん」
社先生が、どうして、ここに来るの?
身体中から力が抜けていく。
いっそ、軽蔑して、無視してよ、一生……。
「手伝いましょうか?」
「ん、やっ、だ、大丈夫です……これで終わりですから」
芳は、社の顔をまともに見ることができず俯いた。
肩に力がが入り、太ももの上に置いた手に汗が滲む。
「じゃあ、先生ごとのファイルにまとめておきましょう」
芳のデスクのすぐ隣にあるコピー機の前に立った社は、大量のコピー用紙を
「よっと」
ワンバウンドさせながら腕に抱え、小声で、
「ゼムクリップ貸してください」
片目を閉じて、申し訳なさそうな表情を浮かべ、片手で手刀を切る。
きゅんとした。
でもそんな資格、私にはもうーー。
私は、間接的に、先生にセクハラをしてしまった最低な人間なのだ。
芳のデスクのベントレー引き出しから、ゼムクリップのケースを取り出した社は、
「田原くんの机、借りるか」
いつものハスキーボイスで独りごち、弁護士1年目でまだ芳の裏の顔を知らない田原のデスクのキャスター付き椅子を引っ張り、書類をトン、と揃え、指サックを嵌めた親指で書類をものすごい早さでめくっていく。
通常、このタイミングで、礼を言わなければならないことは、芳にもわかっていた。
だが、昼間のプレハブ小屋の出来事のせいで、唇が、開かない。
自分とは全く無関係の仕事なのに、まるでボス弁のような鷹揚さでフォローする新人弁護士の社に普段なら見惚れ、憧れているところだった。
でも今は違う。
芳は、隣の社を見ることがきてないでいる。
数十枚の紙が一気によじれる、ぐわんぐわんという音。
紙を捲る音。
無言で作業する社。
あまりにも気まずい。
芳は意を決して、口を開いた。
ロングスカートの上で握りしめた拳は汗でびっしょりである。
「あ、あの、ありがとうございます……」
「いち、にー、さん、し……5枚っと……」
やはり社は怒っているのだろうか。
ボブヘアに隠された横顔は、いったいどんな表情なのか、芳は知るのが怖かった。
「ただの暇つぶしですよ?」
「えっ?」
「起案してると2、3時間経ったあたりからぼーっとしちゃうんで、全然違う作業をして気分をリフレッシュしてるだけです。……とか言いつつ、芳さんの仕事奪っちゃってますね」
「でも20時まで残ってらっしゃるし、お疲れではないですか?」
社は、ゼムクリップでまとめた書類の束を胸に抱き抱え、立ち上がった。
「芳さん、ちょっとお話があって……」
「え、お話って……」
社は、何も言わずに、所員全員の専用ファイルが収納されている棚へ向かう。
なるほど、今から罵倒されるわけね。
そして軽蔑され、私はこの事務所を去る。
社先生にだったら、何を思われても、別にいいわ。
芳も席を立ち、社のあとを追う。
「はい。何かありましたでしょうか」
いつものように、振る舞うことは、自分を支える唯一の手段だった。
「ちょっと待ってください」
棚に向かった社は、棚の引き戸を開けようとはせず、書面の束をすぐ側のデスクにそっと置く。
「ちょっと個人的に気になるものがありまして」
仕事のことではなく、個人的なご相談がありましてーー。
そう言い残し、社は自分のデスクへ小走りで駆けていく。
社の用件は、はっきりとしない。
今日、プレハブ小屋での出来事を見られてしまったあとでの、“個人的な用件”。
なんだか胸が、ざわざわする。
社がまとめてくれた書類の束が置いてあるデスクに近づき、芳は、各弁護士ごとの色付きファイルに仕舞いながら窓際の社の様子を盗み見た。
彼女は、デスクのファイル引き出しの鍵を開けて、何かを探している。
そして、縦にぎっしりと詰まったファイルの中から、とあるグレーの薄いファイルを抜き出した。
芳は、書類と先生の名前のファイルを取り違えないように集中することにする。
やがて、社が駆け寄ってくる。
例のファイルを胸に抱いて。
「芳さんのためにも、忠告した方がいいかなぁ?と思って」
その一言で、逃げ出したくなった。
「……いったい、なんのことでしょう?」
芳はミュールのつま先をモゾモゾさせずにはいられなかった。
帰りたいーー。
「ん〜、ゴミ集めしてたのは、このためじゃないですからね。ただ、たまたま見つけてしまったうえ、数がそれなりにあるので、溜まったらちょっとお話しようかな、と。これなんですけど……」
ファイルの表紙をゆっくり開いた社は、法律相談にやってきたクライアントに対して言いにくいことを報告するように、申し訳なさそうな顔で、まぶたを伏せ気味にーー。
その“中身”を芳の方へ向けた。
よく考えたら。
弁護士と乱交したら法に触れるわけじゃないわよね。
じゃあ、いいか。
芳は開き直って、頼まれた書面を順番に作成していく。
カタカタカタカタ……芳がキーボードをタッピングする音が、夜の帳が下りた法律事務所内に響く。
ヘッドフォンを外す音がした。
そして「ふぅ」というかわいらしいため息。
社が席を立ち、伸びをしているのが、芳にはわかった。
陶器がシンクとぶつかる音がする。
あぁこのタイミングで仕事を終えて、「お先に失礼します」の言葉と同時にドアを閉めれたらーーどんなに幸せか。
ケトルに水を注ぐ音がする。
社は、パラリーガルや事務員にお茶汲みをさせず、自分でコーヒーを淹れる。
それだけではなく、事務所に溜まったゴミを集めて捨てたり、壊れたコピー機を新しいコピー機に手配したり、本来、法律の専門職である弁護士がやらなくていい仕事を、さりげなく率先してする。
社のそんなところに、芳は徐々に惹かれていった。
ここの弁護士たちは、皆優しいが、社だけは別格だった。
インスタントコーヒーの香りが漂う。
社先生。
私を、軽蔑しましたか。
ごめんなさい、ごめんなさい、あんな汚らわしいものを見せて、ごめんなさいーー。
気づけば芳は、頭を抱えて項垂れていることに、自分でも気づいていなかった。
書面を印刷する音を聞きながらキーボードを睨んでいると。
パタパタと足音がする。
え?
嘘でしょ。
社先生?
やめて。
来ないで。
会わせる顔なんて、もう、金輪際ーー。
「芳さん」
社先生が、どうして、ここに来るの?
身体中から力が抜けていく。
いっそ、軽蔑して、無視してよ、一生……。
「手伝いましょうか?」
「ん、やっ、だ、大丈夫です……これで終わりですから」
芳は、社の顔をまともに見ることができず俯いた。
肩に力がが入り、太ももの上に置いた手に汗が滲む。
「じゃあ、先生ごとのファイルにまとめておきましょう」
芳のデスクのすぐ隣にあるコピー機の前に立った社は、大量のコピー用紙を
「よっと」
ワンバウンドさせながら腕に抱え、小声で、
「ゼムクリップ貸してください」
片目を閉じて、申し訳なさそうな表情を浮かべ、片手で手刀を切る。
きゅんとした。
でもそんな資格、私にはもうーー。
私は、間接的に、先生にセクハラをしてしまった最低な人間なのだ。
芳のデスクのベントレー引き出しから、ゼムクリップのケースを取り出した社は、
「田原くんの机、借りるか」
いつものハスキーボイスで独りごち、弁護士1年目でまだ芳の裏の顔を知らない田原のデスクのキャスター付き椅子を引っ張り、書類をトン、と揃え、指サックを嵌めた親指で書類をものすごい早さでめくっていく。
通常、このタイミングで、礼を言わなければならないことは、芳にもわかっていた。
だが、昼間のプレハブ小屋の出来事のせいで、唇が、開かない。
自分とは全く無関係の仕事なのに、まるでボス弁のような鷹揚さでフォローする新人弁護士の社に普段なら見惚れ、憧れているところだった。
でも今は違う。
芳は、隣の社を見ることがきてないでいる。
数十枚の紙が一気によじれる、ぐわんぐわんという音。
紙を捲る音。
無言で作業する社。
あまりにも気まずい。
芳は意を決して、口を開いた。
ロングスカートの上で握りしめた拳は汗でびっしょりである。
「あ、あの、ありがとうございます……」
「いち、にー、さん、し……5枚っと……」
やはり社は怒っているのだろうか。
ボブヘアに隠された横顔は、いったいどんな表情なのか、芳は知るのが怖かった。
「ただの暇つぶしですよ?」
「えっ?」
「起案してると2、3時間経ったあたりからぼーっとしちゃうんで、全然違う作業をして気分をリフレッシュしてるだけです。……とか言いつつ、芳さんの仕事奪っちゃってますね」
「でも20時まで残ってらっしゃるし、お疲れではないですか?」
社は、ゼムクリップでまとめた書類の束を胸に抱き抱え、立ち上がった。
「芳さん、ちょっとお話があって……」
「え、お話って……」
社は、何も言わずに、所員全員の専用ファイルが収納されている棚へ向かう。
なるほど、今から罵倒されるわけね。
そして軽蔑され、私はこの事務所を去る。
社先生にだったら、何を思われても、別にいいわ。
芳も席を立ち、社のあとを追う。
「はい。何かありましたでしょうか」
いつものように、振る舞うことは、自分を支える唯一の手段だった。
「ちょっと待ってください」
棚に向かった社は、棚の引き戸を開けようとはせず、書面の束をすぐ側のデスクにそっと置く。
「ちょっと個人的に気になるものがありまして」
仕事のことではなく、個人的なご相談がありましてーー。
そう言い残し、社は自分のデスクへ小走りで駆けていく。
社の用件は、はっきりとしない。
今日、プレハブ小屋での出来事を見られてしまったあとでの、“個人的な用件”。
なんだか胸が、ざわざわする。
社がまとめてくれた書類の束が置いてあるデスクに近づき、芳は、各弁護士ごとの色付きファイルに仕舞いながら窓際の社の様子を盗み見た。
彼女は、デスクのファイル引き出しの鍵を開けて、何かを探している。
そして、縦にぎっしりと詰まったファイルの中から、とあるグレーの薄いファイルを抜き出した。
芳は、書類と先生の名前のファイルを取り違えないように集中することにする。
やがて、社が駆け寄ってくる。
例のファイルを胸に抱いて。
「芳さんのためにも、忠告した方がいいかなぁ?と思って」
その一言で、逃げ出したくなった。
「……いったい、なんのことでしょう?」
芳はミュールのつま先をモゾモゾさせずにはいられなかった。
帰りたいーー。
「ん〜、ゴミ集めしてたのは、このためじゃないですからね。ただ、たまたま見つけてしまったうえ、数がそれなりにあるので、溜まったらちょっとお話しようかな、と。これなんですけど……」
ファイルの表紙をゆっくり開いた社は、法律相談にやってきたクライアントに対して言いにくいことを報告するように、申し訳なさそうな顔で、まぶたを伏せ気味にーー。
その“中身”を芳の方へ向けた。