3 近代と労働

文字数 2,652文字

3 近代と労働
 ダナハーの企ての意義を理解するために、労働が思想史においてどのように位置づけられてきたかを見てみよう。労働は前近代と近代ではそれが大きく異なっている。

 前近代は共同体主義の時代である。共同体が先にあり、それの認める規範を共有する個人が内属する。個々人の行動は道徳的に判断される。労働も例外ではない。前近代における世界各地の共同体の規範は多様であるけれども、こうした認知行動の構造は共通している。

 勤勉さが共同体で尊ばれることが多いのはそれが規範の説く美徳に適っているからである。しかし、勤労を認めつつも、労働よりも余暇に意義を見出す規範もある。アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の中で「スコレー」を得ることこそが人生の目的と延べている。「スコレー(σχολή)」は古典ギリシア語で「閑暇」を意味する。けれども、それはたんなる暇ではない。共同体で共有されている規範に基づいた学問や芸術に専念し、幸福を実現するための自由で満ち足りた時間である。そうしたスコレーの有意義な活動をすることが市民の幸福である。働き詰めであることは幸福ではない。

 アテナイは民主主義の普及した都市国家であると同時に、奴隷労働を利用した経済体制を採用している。アリストテレスの主張はそれを前提にしている。市民も働く。だが、労働しかできない奴隷と違い、政治参加や知識を愛することができる。だから、労働などというものは、本来、奴隷が担えばよいとなる。

 しかし、16世紀の欧州で、自らの道徳の正しさに基づいて殺し合いを繰り広げる宗教戦争が起きてしまう。この経験を教訓に、17世紀英国のトマス・ホッブズは政教分離を提唱する。

 規範は美徳を実践することでこの現実が理想に到達する、もしくは近づくと教える。政治も道徳の説く徳を行い、理想を目指す。けれども、その結果として凄惨な宗教戦争に欧州が覆われる。こうした事態を避けるために、ホッブズは政治の目的を平和の実現に変更する。平和でなければ、よい生き方もままならない。それには政治から宗教を分離することが不可欠だ。政治は公、信仰は私の領域に属し、相互に干渉してはならない。これにより個人に価値観の選択が委ねられる。こうして個人主義の近代が始まる。

 近代において行動の根拠を道徳に見出すことはできない。労働も同様である。そもそも近代人は自由で平等、自立した個人で、相互に主体として扱わなければならない。奴隷は客体であり、近代では人間をそのように取り扱うことなど認められない。近代人は自らの意思決定に基づいて労働をする。

 そこで、ジョン・ロックが近代の原理から労働を理論的に基礎づける。ロックは労働を価値中立的に扱い、それを不可侵の基本的人権との関係により考察する。自然物を利用可能な資源に変えるのは人間の労働である。野山に落ちている栗は人間が拾うことによって食料となり得る。拾うという労働が自然物の栗を資源に変えたというわけだ。他ならぬその人がそうした行為によって獲得したものだから、そこには占有権がある。誰もが自由で平等、自立した個人である以上、これを奪うことなどできない。そのため、労働を通じた所有の権利、すなわち私的所有権は不可侵の人権である。

 同意があれば自由で平等、自立した個人として所有物を取引することができる。この理念を体現しているのが市場である。売買はもちろん、参加も自由である。ところが、ここで決まる価格は誰にも思うようにできない。売り手として参加するなら、高く売りたい。しかし、加わると、供給が増えるので、価格が下がってしまう。逆に、買い手で参加すると、同様のメカニズムによって価格が上がる。参加者は誰もが平等で、自立している。

 このようにして労働と私的所有権、市場経済が近代に位置づけられる。仕事の終わった世界はこうした理論に変更を迫るものだ。

 個人は自由で平等、自立しており、価値観の選択が認められている。いかなる善を信じてもかまわない。けれども、そういう個人が集まって近代社会を形成する。その社会が正義に立脚して機能する目的に基づき、権利の一部を信託し国家を構築する。政府は権利の一部を信託されたのだから、社会のために働く義務を負い、公共の利益の実現に取り組む。ただ、社会的近代の原理を参照しつつ、コミュニケーションを通じて公共の利益が何であるかを動的に形成する必要がある。

 以降の思想家も労働の意義を理論的に基礎づけて行く。コミュニタリアンのG・W・F・ヘーゲルは近代の個人主義・自由主義を批判する。ただし、彼は、『精神現象学』において、近代を踏まえ、あくまで個人から出発し、その意識の発展過程の中で国家に属する認識を獲得すると論じる。前近代のような共同体が先にあり、個人が内属するという考えをとらない。彼は労働を意識の発展過程における「陶冶(Bildung)」の営みとして位置づける。仕事は賃金を得るためだけではなく、社会の中で他者から承認を得るためにも行われるものである。人間は労働と教養を積むことで自己を高め、個人と社会や国家との調和的関係を会得するようになる。

 これを批判したのがカール・マルクスである。労働にそういう役割があるとしても、資本主義が人間疎外を引き起こすので、そのような認識を獲得することは困難である。こういった状況を脱するために、労働者階級は革命を通じて社会構造を変革するほかない。ただし、マルクスは資本主義における労働の実態を糾弾したが、労働自体には肯定的である。実際、彼はロック以来の労働価値説に基づいて自説を展開している。

 そのマルクスと対照的に、主流派経済学は労働に対して消極的意義しか認めない。これはジェレミー・ベンサムの功利主義を踏まえている。近代は価値観の選択を個人に委ねているため、近代人は理想を必ずしも共有していない。しかし、いずれの価値観であっても幸福を求め、不幸を避けることでは共通している。個人は平等なのだから、価値観の間に優劣はない。それならば、社会における幸福と不幸の総量を計算できる。社会が追及する公共の利益は幸福を増やして不幸を減らすこと、すなわち最大多数の最大幸福である。幸福は個人によって異なる。ただ、そうした効用の追及には概してコストがかかるものだ。それを用意するためには働かざるを得ない。労働は効用獲得の手段である。それは苦痛で、効用ではない。主流派経済学の労働観はこのように否定的である。

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