2 『オートメーションとユートピア』

文字数 2,425文字

2 『オートメーションとユートピア』
 報告書自体を含めこうした議論は人間にとって労働が不可欠であることを前提にしている。しかし、ジョン・ダナハー(John Danaheror)はそれに異議を申し立てる。一連の議論は現在の状況を自明視した上で、機械化の是非を論じているだけであって、いかなる社会を目指すのかという問いが欠けている。そこで、彼はすべての生産労働がオートメーション化された社会を構想する。それが『オートメーションとユートピア─労働なき世界で人間は繫栄する(Automation and Utopia: Human Flourishing in a World without Work)』(2019)である。

 ジョン・ダナハーは、AI)やオートメーション、ロボット工学といった新興テクノロジーの倫理的・社会的影響に関する研究で知られる哲学者である。1982年生まれの彼はアイルランドのユニバーシティ・カレッジ・コーク(University College Cork: UCC)において博士号を取得、その後、アイルランド国立大学ゴールウェイ校(National University of Ireland, Galway)や英レディング大学などで学究生活を送っている。

 ダナハーは、『オートメーションとユートピア』において、自動化とAI によって人間の労働の必要性が大幅に削減される潜在的な未来について詳しく掘り下げる。彼はオートメーションが社会や経済、雇用に与える変革的な影響を説明している。確かに、自動化が広範な雇用喪失につながり、個人やコミュニティ、政府にとって重大な課題を引き起こす可能性がある。しかし、それは決して暗黒社会ではなく、「ユートピア」をもたらすと彼は主張する。

 「ユートピア」は人間の繁栄が優先される理想社会である。ダナハーは、従来の雇用が存在しない状況において、社会が仕事や余暇、個人の充足の価値をどのように再定義するかを考察する。そこは仕事の悲惨さから人間が解放され、創造性と探求の機会に満ちた理想郷だ。それは人類の繁栄の理想像で、人々が新たなものを発明したり、スポーツやゲームをしたり、仮想現実を探索したりするなどに時間を費やすことができるようになる。人間は個々人が抱く価値観に基づく幸福を追求できる。言わば、機械化による無制限労働が完全に自動化された結果、すべての人間が「有閑階級」(ソースタイン・ヴェブレン)になるというわけだ。それが労働の終わった世界というユートピアの彼のヴィジョンである。

 ただし、ダナハーはSF作家ではない。哲学者である。彼は一つの未来像を提示するだけですませない。彼の関心はいかなる理論的基礎づけを行ってその世界を目指すかだ。ダナハーは「正義と配分」や「意味と目的」、「社会構造と制度」をめぐるさまざまな問いを突きつけ、読者にどのような社会を追求するのか考えることを促す。そうした問いを考察せず、彼の青写真の欠陥を指摘することは建設的ではない。重要なことはどのような社会が到来するかではなく、どのような社会を目指すのかである。野村総研の報告書との違いはここにある。

 社会は正義、すなわち社会的公正に基づいていなければならない。自動化の恩恵の分配の原理をいかなるものであるのか、加えて、オートメーション・システムによって生み出された資源や富へのアクセス権はどうなるのかが問題になる。また、仕事は個人のアイデンティティや充実感を形成する役割を果たすこともある。そうした個人は、従来の労働のない世界で、どのようにして人生の意味と目的を見出すことができるのかも検討しなければならない。

 既存の社会構造と制度は人間が生産労働に従事することを前提に設計されている。仕事の終わった世界に適用するようにそれらを変更する必要がある。資源のみならず、機会への公正なアクセスを確保するために変革が不可欠である。また、自動化テクノロジーの開発と展開は倫理原則に従うわなければならない。潜在的な危害を軽減し、オートメーションによって人間の幸福を確実に向上させるにはどうすればよいかを吟味しなければならない。

 実際、ダナハーが提起した問いに抵触する事態はすでに生じている。一例を挙げると、AIが発明した科学技術に関する特許をその機械に認めるように求める訴訟が国内外で起きている。アメリカのコンピュータ科学者スティーブン・テイラーは、自作のAIが考案したとする「食品容器」と「点滅信号」について、AIを「発明者」として特許の出願をしたものの、2019年にイギリスの知財当局は「機械は発明者になれない」とそれを却下する。そこで、彼は訴訟に踏み切ったが、2023年12月、英最高裁は現行法が「発明者は人間でなければならない」としてAIが特許権を得ることを認めないとの判断を示している。この判決に対して、代理人弁護士は「イギリスの特許法がAIが生み出した発明を保護するのに不適格で、新技術の開発のため、AIに依存する産業を支援するのには全く不十分だと明確にした」と指摘する。また、知財当局者はAIの生成したものを「特許制度や知的財産としてどう扱うべきかという疑問は当然だ」とし、「政府が関連法を見直すか検討を続ける」と述べている。

 近代における公共の利益は社会でのコミュニケーションを通じて形成される。AIが急速に進歩して行く中で、目指すべき社会像に関するコンセンサスが必要である。ダナハーは、これらの問いに批判的に取り組み、労働なき社会を構築するための多様な可能性を考察することを読者に求めている。それは近代を超える社会を構想することだ。労働は近代を基礎づける体系的理論に組みこまれている。仕事が終わった世界を迎えるには、それを再構成する必要がある。従って、近代の克服が『オートメーションとユートピア』の真の目標である。

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