第5話 明日へのゆびきり
文字数 2,452文字
コットンキャンディーが家族に加わってから、我が家は賑やかになった。コットンが動くたびにみんなで写真を撮り、面白い仕草を見せれば1週間は話題にのぼり続け、疲れていてもその寝顔に瞬時に癒される。文字通り、幸せな時間を満喫していた。
コットンはすっかり日常の一部になり、当たり前にそばにいる存在になった。僕は母親との約束を守って世話係をしっかりこなし、トイレの掃除だって率先してやり、引っ掻かれながら獣医に連れていくのにも慣れた。そして甘え上手なコットンは、早々に僕の落とし方を会得していた。
「ダメだよ、コットン。そんなに見つめても、おやつはもうあげないよ。デブったらどうするの」
家族の中では僕に一番懐いてくれた。僕が動けば家中ついて来て、様々な表情を見せる。勉強机に向かえばそばで見守り、寝るときは僕のベッドに潜って、もちろん朝起きて一番におはようを言うのもコットンだった。辛い時も楽しい時も、その綺麗な瞳が僕を迎えてくれるから、何があってもこの子を守ると僕はひそかに誓っていた。
そしてあっという間に1ヶ月が過ぎ、1年が過ぎ、高校を卒業して、僕は大学生になった。
ヒロトは隣町の偏差値の高い私立大学に進学した。教育学部に在籍し、中校生の時からの夢だった数学の先生になるべく、着実に目標に向かって歩んでいた。僕はといえば、本に携わる方向をなんとなく目指して、地元の国文学科を有する大学に進学した。たとえ離れ離れになっても僕らの友情は変わらず、時間を見つけては会うようにしていた。
大学1年生の夏休み。1ヶ月ぶりに会うヒロトはだいぶ垢抜けて大人びて見え、僕は内心で驚いていた。ファミレスで最近の出来事を面白おかしく共有しながら、時間は過ぎていく。
「そういえば、コットンは元気してるか?」
「うん。相変わらず。そういえばこの前、リビングの窓をまる1日開けっ放しにしちゃってたんだけどさ。脱走もせず、庭にも出ないでずっと家の中にいたんだ。外には全然興味がないみたい。うちの居心地かなり気に入ってるのかも」
「そうか。あいつらしいな」
合計3時間のファミレス談話のうち、コットンに触れたのはほんの1分だった。
***
「本に携わる仕事がしたい」。その希望を胸に就職活動を経て出版社に就職を決め、ヒロトが言うところの目標達成を果たしたのだった。人生で初めて、夢を掴む喜びを味わった。ただ実家から会社に通うとなると片道2時間掛かってしまうため、この就職を機に、僕は一人暮らしを始めることになった。会社の近くにはペット飼育ができる物件が見つからず、泣く泣くコットンを実家に預けることにした。
引越しを終えて、あらかた部屋が片付いてきた頃。昼ご飯を作っていると、母親から電話があった。
「ユウ、いよいよ明後日が入社式よね?突然だけど、明日、前祝に家族でお花見でもどうかしら。あなたのアパートの近くに、桜の木が綺麗な公園があるでしょう。天気予報では明日も晴れるし、お外だし、コットンちゃんも連れていくね」
「うん。ありがとう」
集合時間を決めてから電話を切りスマホを傍に置いて、嬉々として料理を進めた。
ひとりで食べる昼食はすぐに終わり、あっという間に手持ち無沙汰になった。窓の外は快晴。せっかくなので外出することにした。よく晴れた日で、そよ風が背中を押して、新天地での快調なはじまりを予感させた。丘の上の公園へと続く坂道を心踊らせながら歩いていると、誰かが僕を呼び止めた。
『お花見に行ってはいけないよ』
聞き覚えのある、中性的で落ち着いた声音。いつか夢の中で聞いた声だった。しかし周囲を見回しても、ここを歩いているのは僕ひとり。
『絶対に、お花見に行ってはいけないよ』
突風が吹きつけ、思わず目を瞑る。懐かしい石鹸の香りに包まれて再び目を開けると、見知らぬ色白の人が目の前に立っていた。中性的な顔立ちで、艶のある白髪を肩まで伸ばし、白いパンツスーツを着て上品な雰囲気を放っている。綺麗なオッドアイが、不安げにこちらを見つめている。
『約束、してくれる?』
「すみませんが、どちら様ですか?」
『君の、お友達』
「そうですか……」
どう記憶を辿っても、こんな目立つ人が友達だった覚えはない。それでもなぜか嫌悪感は湧きおこらず、むしろずっと前からの知り合いのような親近感があった。
『やっぱり君は優しいね、ユウ君』
「どうして僕の名前を……」
『もちろん知ってるよ。ずーっとずっと、お友達だから』
白い人は僕の右手をすくい上げ、両手で握りしめた。とても温かくて柔らかい手だった。
『僕は神様の祝福を受けたんだ。おかげで、ユウ君の明日を知ってる。その明日から、君を守りにきたんだ』
明日、いったい何があるのだろう。僕が疑問を口にする前に、白い人は続きを進めていった。
『ユウ君の過去も、もちろん知ってる。無条件に周りを優先しちゃうような優しい君だから、絶対幸せにならなきゃいけないんだ。これからは自分を大切にして、君の夢を生きてほしいんだよ。だからねユウ君、お願い。お花見にはいかないって、約束して』
状況がうまく飲み込めない中でも、この人が真剣に、そして本心で話していることだけは伝わってくる。僕は頭の中を整理しつつ、言葉を紡ぐ。
「なぜ止めるんですか?お花見に、いったい何があるんですか?」
『それは、言わない約束なんだ。言ったら、僕は消えて、君とお話しできなくなっちゃう』
「そうですか」
『僕は君に触れることができるけど、君の意思に反して行動を止めることはできない。1度だけ許された魔法は、もう使えない。こうしてお願いすることしかできない。それでも、僕はできることをするよ。君のために、僕は在るのだから』
柔らかく微笑んで、白い人はお互いの小指を絡めた。
『約束ね』
そう言い残し、また風に巻かれて一瞬のうちに消えた。
コットンはすっかり日常の一部になり、当たり前にそばにいる存在になった。僕は母親との約束を守って世話係をしっかりこなし、トイレの掃除だって率先してやり、引っ掻かれながら獣医に連れていくのにも慣れた。そして甘え上手なコットンは、早々に僕の落とし方を会得していた。
「ダメだよ、コットン。そんなに見つめても、おやつはもうあげないよ。デブったらどうするの」
家族の中では僕に一番懐いてくれた。僕が動けば家中ついて来て、様々な表情を見せる。勉強机に向かえばそばで見守り、寝るときは僕のベッドに潜って、もちろん朝起きて一番におはようを言うのもコットンだった。辛い時も楽しい時も、その綺麗な瞳が僕を迎えてくれるから、何があってもこの子を守ると僕はひそかに誓っていた。
そしてあっという間に1ヶ月が過ぎ、1年が過ぎ、高校を卒業して、僕は大学生になった。
ヒロトは隣町の偏差値の高い私立大学に進学した。教育学部に在籍し、中校生の時からの夢だった数学の先生になるべく、着実に目標に向かって歩んでいた。僕はといえば、本に携わる方向をなんとなく目指して、地元の国文学科を有する大学に進学した。たとえ離れ離れになっても僕らの友情は変わらず、時間を見つけては会うようにしていた。
大学1年生の夏休み。1ヶ月ぶりに会うヒロトはだいぶ垢抜けて大人びて見え、僕は内心で驚いていた。ファミレスで最近の出来事を面白おかしく共有しながら、時間は過ぎていく。
「そういえば、コットンは元気してるか?」
「うん。相変わらず。そういえばこの前、リビングの窓をまる1日開けっ放しにしちゃってたんだけどさ。脱走もせず、庭にも出ないでずっと家の中にいたんだ。外には全然興味がないみたい。うちの居心地かなり気に入ってるのかも」
「そうか。あいつらしいな」
合計3時間のファミレス談話のうち、コットンに触れたのはほんの1分だった。
***
「本に携わる仕事がしたい」。その希望を胸に就職活動を経て出版社に就職を決め、ヒロトが言うところの目標達成を果たしたのだった。人生で初めて、夢を掴む喜びを味わった。ただ実家から会社に通うとなると片道2時間掛かってしまうため、この就職を機に、僕は一人暮らしを始めることになった。会社の近くにはペット飼育ができる物件が見つからず、泣く泣くコットンを実家に預けることにした。
引越しを終えて、あらかた部屋が片付いてきた頃。昼ご飯を作っていると、母親から電話があった。
「ユウ、いよいよ明後日が入社式よね?突然だけど、明日、前祝に家族でお花見でもどうかしら。あなたのアパートの近くに、桜の木が綺麗な公園があるでしょう。天気予報では明日も晴れるし、お外だし、コットンちゃんも連れていくね」
「うん。ありがとう」
集合時間を決めてから電話を切りスマホを傍に置いて、嬉々として料理を進めた。
ひとりで食べる昼食はすぐに終わり、あっという間に手持ち無沙汰になった。窓の外は快晴。せっかくなので外出することにした。よく晴れた日で、そよ風が背中を押して、新天地での快調なはじまりを予感させた。丘の上の公園へと続く坂道を心踊らせながら歩いていると、誰かが僕を呼び止めた。
『お花見に行ってはいけないよ』
聞き覚えのある、中性的で落ち着いた声音。いつか夢の中で聞いた声だった。しかし周囲を見回しても、ここを歩いているのは僕ひとり。
『絶対に、お花見に行ってはいけないよ』
突風が吹きつけ、思わず目を瞑る。懐かしい石鹸の香りに包まれて再び目を開けると、見知らぬ色白の人が目の前に立っていた。中性的な顔立ちで、艶のある白髪を肩まで伸ばし、白いパンツスーツを着て上品な雰囲気を放っている。綺麗なオッドアイが、不安げにこちらを見つめている。
『約束、してくれる?』
「すみませんが、どちら様ですか?」
『君の、お友達』
「そうですか……」
どう記憶を辿っても、こんな目立つ人が友達だった覚えはない。それでもなぜか嫌悪感は湧きおこらず、むしろずっと前からの知り合いのような親近感があった。
『やっぱり君は優しいね、ユウ君』
「どうして僕の名前を……」
『もちろん知ってるよ。ずーっとずっと、お友達だから』
白い人は僕の右手をすくい上げ、両手で握りしめた。とても温かくて柔らかい手だった。
『僕は神様の祝福を受けたんだ。おかげで、ユウ君の明日を知ってる。その明日から、君を守りにきたんだ』
明日、いったい何があるのだろう。僕が疑問を口にする前に、白い人は続きを進めていった。
『ユウ君の過去も、もちろん知ってる。無条件に周りを優先しちゃうような優しい君だから、絶対幸せにならなきゃいけないんだ。これからは自分を大切にして、君の夢を生きてほしいんだよ。だからねユウ君、お願い。お花見にはいかないって、約束して』
状況がうまく飲み込めない中でも、この人が真剣に、そして本心で話していることだけは伝わってくる。僕は頭の中を整理しつつ、言葉を紡ぐ。
「なぜ止めるんですか?お花見に、いったい何があるんですか?」
『それは、言わない約束なんだ。言ったら、僕は消えて、君とお話しできなくなっちゃう』
「そうですか」
『僕は君に触れることができるけど、君の意思に反して行動を止めることはできない。1度だけ許された魔法は、もう使えない。こうしてお願いすることしかできない。それでも、僕はできることをするよ。君のために、僕は在るのだから』
柔らかく微笑んで、白い人はお互いの小指を絡めた。
『約束ね』
そう言い残し、また風に巻かれて一瞬のうちに消えた。