第6話 ユウ君とコットンキャンディー

文字数 4,552文字

翌朝。僕はのそのそと起きて歯磨きをしながら、窓の外を見ていた。丘の中腹に立つこのアパートからは、街並みが遠くまでよく見渡せる。不思議なことに、その光景にデジャヴのようなものを感じた。

口をすすいで、クローゼットを開く。今日の洋服を選ぶ前に真新しいスーツに目が止まり、取り出してハンガーに掛けたまま体にあて、姿見に映してみた。そして明日から始まる新しい人生に思いを馳せ、淡々と仕事をこなす自身の姿を想像してみる。大好きな本に囲まれて仲間と学びを重ねる日々、たくさんのプロジェクトをチームで乗り越えていくのだろう。楽しい妄想が止まらなくなり、自分で自分に笑いながらスーツをクローゼットにしまい直した。

着替えを進め、ライトグリーンのカーディガンに袖を通しながら、ふと蘇る昨日の言葉。

『約束ね』

正直なところ、花見に行こうか踏ん切りがつかない自分がいた。何かを恐れているからではなく、白い人の言葉が、心の奥深くまで届いていたからだ。

『君の夢を生きてほしいんだ』

僕は明日から、僕が掴んだ夢を生きる。きっと新しい世界では、その先の新しい夢も描いていくだろう。その明日を確約するために、僕はここに留まるべきなのだろうか。

不意にスマホから流れる通知音。画面にはヒロトの名前が表示されており、僕は迷わずメッセンジャーを開いた。

「ユウ!お互い明日から社会人だな。本当におめでとう。もし今後、社会の荒波に揉まれて挫けそうになったら、俺の肩貸してやるよ。レンタル料、1日100円な!」

メッセージを読み終えて、思わず画面に向かって呟く。

「ハハハ。友人割引してよ」


僕らは新しい道を歩む。だけど、変わらずに僕を支えるものが、確かにある。背中を押してくれる家族がいる、かけがえのない友人がいる、僕の手を引く夢がある。だから、何があっても、大丈夫。そのまま身支度を整えて、アパートを後にした。


丘の上の公園へと向かう坂道の途中、昨日と全く同じ場所で、白い人が姿を現した。

『ユウ君、僕とお家に帰ろう。今からでも遅くないから』

白い人は今にも泣き出しそうな表情で僕に訴える。今日は僕からその手を迎えにいき、両手でぎゅっと包み込んだ。

「大丈夫。まっすぐに僕の夢を生きると、そう覚悟を決めましたから」

『違う、違うんだ。それだけでは、同じになっちゃう。ダメだよ、ユウ君。帰ろうよ』

「ご忠告はありがたいのですが……あ、そうだ。心配ならあなたも一緒にどうですか?僕の家族しかいない、全部で4.5人の小規模なお花見ですけど」

『4.5人?』

「はい、小さな家族がいるんです。真っ白でふわふわだからコットンキャンディーって名前の、可愛いネコなんです」

『……せっかくだけど、僕はユウ君のお友達だから、ユウ君にしか見えないんだ』

「そうなんですね。じゃあまた今度、2人でお花見しましょう」

『うん……どうしても、行くんだね?』

「はい。明日に向けて、みんなに気合い入れてもらわないと」

『わかったよ、ユウ君。だけど、もしこの後、僕が君を呼んだら、立ち止まってほしい。絶対に、動かないでほしい。たとえそれが、君の心に反するとしても』

「立ち止まる?」

『そうだよ。僕にできることはもう、それくらいだから』

「わかりました。あの、ありがとうございます。よくわからないけど、僕のためにそんなに真剣になってもらえるなんて。何かお礼させてくださいませんか」

『お礼なんていらないよ。そばにいさせてくれれば、僕は満足だよ』

「ハハハ。不思議な方ですね。では僕はそろそろ行かないとなので、また後ほど」

『うん』

相手が誰だかわからない。連絡先も交換していない。だけど必ずまた会えると根拠のない確信を抱いて、僕は公園へと続く道を急いだ。


公園に着いたのは集合時間の5分前。駐車場で、両親が車から荷物を降ろしているところだった。僕はそれを手伝い、準備を進めた。日曜だと言うのに公園に人は少なく、犬の散歩をする人や、数組の親子連れが遊具で遊んでいる程度だった。誰もいない桜の下に陣取り、レジャーシートの上には母の手料理が並んだ。

「あれ、アキとコットンは?」

おしぼりで手を拭きながら、僕は辺りを見回す。

「アキは急にバイトが入って来れなくなったの。コットンちゃんは、いまお父さんが連れてくるわよ。ほら」

父はバスケット型のキャリーバッグを手に駐車場から歩いてきた。

「この子がうちに来て以来、こんなに長く離れるのは初めてだろ。感極まって泣くなよ」

「泣かないって」

僕は父からキャリーバッグを受け取り、いそいそと蓋を開けて相棒を抱きしめた。

「コットン、久しぶり」

にゃあ、とひと鳴きして頬ずりをするコットン。大好きなふわふわの感触と柔らかな温もりに触れて、全身が幸せで一気に満たされた。しばらく2人きりの時間を満喫していると、父がせっついてきた。

「ほらユウ、早く食べるぞ。お前の好きないなり寿司もあるからな」

「はーい」

コットンをそっとバッグに戻して、お花見は穏やかに始まっていった。風に揺れて優雅に舞い散る花びら、遠くから響く子どもの笑い声。美味しいご飯と、僕の話を嬉しそうに聞いてくれる両親。そばには大事なコットンがいて、そして僕を手招く明日がある。とても幸せだった。最高に綺麗な世界だった。幸せを噛みしめるとは、まさに今感じているこの気持ちなのかもしれない。僕は頬が緩んで仕方がなかった。


「もうお茶ないの?」

あっという間に弁当箱はカラになり、2リットル烏龍茶のペットボトルも飲み干していた。

「あらほんとだ。車にまだあるから、取ってくるわね」

「いいよ、僕行ってくるから」

「ありがとう。じゃあついでにコットンちゃんも連れていってくれる?トランクにお出かけ用のおトイレ積んであるから、入れてみてあげて」

「オッケー」

僕は車の鍵を受け取って、キャリーバッグを片手に駐車場を目指す。この季節にしては珍しく気温が上がり、木陰を出て浴びる日差しは初夏の頃を思わせた。車道を走る車はそのほとんどが窓を開け、風を切って走るバイカーも多い。

駐車場に面した車道を適当に眺めながら、あっという間に車にたどり着く。3台しか置けない駐車場の一番左端にバック駐車してあり、几帳面な父の運転を思わせた。さっそくトランクを開けて、お出かけ用トイレにコットンを入れる。しかし慣れない場所だからか、コットンはそわそわと僕に身を寄せた。そこへ軽自動車がゆっくりと進入し、2つ隣の区画に駐車した。若い母親と5歳くらいの女の子が降りて「こんにちは」と挨拶してくれた。

「こんにちは」

母親が助手席に回って荷物をまとめている間に、女の子がこちらに寄ってきた。どうやら僕の動きが気になっているようだ。

「お兄ちゃん、何してるの?」

「ネコと遊んでるんだよ」

女の子はトランクを覗いてコットンを見るなり、満面の笑みを浮かべて飛び跳ねた。

「かわいいー!」

「触ってみる?」

「いいの!?」

「もちろん」

僕はコットンをしっかり抱きかかえ、女の子が触りやすいように片膝をつく。

「どうぞ」

女の子はゆっくりと手を伸ばし、コットンの背中をひと撫でした。その手触りが想像以上に気持ちよかったらしく、また飛び跳ねて喜んでいる。そしてもう一度背中を撫でながら、かわいいねとコットンを褒めてくれた。当の本人は、特に相手に興味を持つでもなく、ただ大人しく撫でられるのだった。

「ママー!見て、ネコちゃん!」

「え、なにー?ごめん、もうちょっとで行くから」

母親は重い荷物を取り出すのに苦労しているようで、助手席でまごついている。僕が手伝いを申し出ようとした瞬間、通りすがりの散歩中の犬がこちらに向かって吠えてきた。そして突然の威嚇に驚いたコットンが暴れ出し、僕の腕の中から必死に抜け出して車道の方へと駆けて行ってしまった。

「ネコちゃん待って!」

連なるように、少女もコットンを追って走り出す。迫り来る黒いスポーツカーがクラクションを鳴らした。


『ユウ君!!』


白い人の声が僕を呼んだ。これが言っていた合図だろう。けれど迷う間もなく僕は駆け出し、目の前の幼い命を守ろうと必死に手を伸ばした。


『……ん……ユ……君……ウ君!ユウ君っ!!』

白い人がすぐそばでこちらを見下ろしていた。気づくと僕は硬いアスファルトに横になり、白い人に膝枕をしてもらっていた。遠くに青い空が見えて、そしてなんだか、異様に身体が重い。

「……コットンと、女の子は?」

『君のおかげで、無事だよ……前と同じようにね』

大粒の涙が、僕の頬にポタポタと降ってくる。

『一生懸命、過去を変えてきたのに。どうしてだろう。また君を、守れなかった』

「どういう、ことですか?」

『僕は、前に一度、君を失ったとき、神様の祝福を受けたんだ。そのとき神様にお願いしたんだ。僕を、ユウ君がいる過去に戻してくださいって。神様は願いを叶えてくれたよ。ユウ君と話せるこの体と一緒に、ユウ君と最初からやり直すチャンスをくれたよ。だからね、僕は、過去の君が過去の僕に会わないように、世界を変えてきたんだ。僕らが出会わないように、こうならないように、必死だったんだ。だけど、ダメだった。どう頑張っても、出会いは防げなかった』

白い人は泣きじゃくりながら、こちらを真っ直ぐに見つめ、僕の頬を優しく撫でる。

『君の幸せが、僕の幸せなのに。僕だけ残っても、僕は嬉しくない。ユウ君、ずっとそばにいてよ。ずっと、僕の名前を呼んでよ。これからも、コットンって呼んでよ』

「そっか。やっぱり君は、コットンだったんだね。ずっと、そんな気がしてた」

息をするのが辛くなりむせ返る。コットンは僕の上体をゆっくり起こし、抱きかかえてくれた。

「ねえコットン。僕らが出会うのは、運命だったんだよ」

『運命?』

「そう。必ず出会って、必ず幸せな時間を紡ぐことが、約束されていたんだ。だから、コットンは何も悪くない。むしろ僕は嬉しいよ。ありがとう、僕と出会ってくれて」

次第に瞼が重くなり、コットンの顔がかすんでいく。

『ユウ君、目を開けて。僕を置いていかないで。ユウ君、ねえユウ君!』

僕はコットンの頬に手を伸ばして、優しく撫でた。間近で見るその瞳はとても綺麗なオッドアイだった。いつだって僕を優しく迎えてくれるその眼差しは、僕の大事な宝物。

「ダメだよ、コットン。泣かないで。ほら…いつもみたいに、僕にだけ…笑ってみせてよ。君が…泣いたら……僕まで…悲しく……」

コットンは僕の名前を呼びながら、いつもみたいに僕に頬ずりをした。どこかで、にゃあ、と僕を呼ぶ声もする。待っててね、コットン。目を覚ましたら、めいっぱい抱きしめてあげるから。







ねえユウ君。僕は、ずーっとずっと、君のお友達だよ。それが、運命だからね。ねえユウ君。離れていても、大好きだよ。






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