2 ジェネレーションXの台頭

文字数 3,890文字

第2章 ジェネレーションXの台頭
 ジェネレーションXへの先入観が覆る出来事が起きる。1999年11月、WTOの総会が開催されるシアトルは、グローバリゼーションが環境破壊と世界の均質化を招くと抗議する若者たちによる5万人規模のデモで埋め尽くされる。シアトル市警はこうした大規模なデモをまったく想定しておらず、投票にさえろくに行かない若い連中が政治的行動を始めるわけがないと高をくくり、とんだことになったと慌てふためく。投票しない有権者など政治家は無視ないし軽視し、支持者の利益を優先して政策に反映させようとする。既成の二大政党は、大企業から献金を受け、商業主義に毒されている。しかし、ジェネレーションXは「消費は美徳」と商業主義に洗脳されてきたという自覚がある。『ジェネレーションX』も、「ぼくはターゲット・マーケットじゃない」や「買物は創造ではない」、「買った経験は数に入らない」といった反コマーシャリズム的なフレーズに覆われている。そんな政治に参加したいとは思っていないだけだ。

 近藤康太郎は、『「ジェネレーションX」の反乱~デンバー』にいて、1999年のジェネレーションXの反乱について次のように述べている。

 現状に不満がある。でも投票はしない。そんな二〇代から三〇代前半中心とした「ジェネレーションX」と呼ばれる人々は、政治の「つけ」を回される世代でもある。ベビーブーム世代が退職する時期が近づき、各種の年金や高齢者・貧困層向け公的医療保険は破綻の危機にある。一方で、インフラ整備や教育にかける連邦予算は、二〇世紀最後の四半世紀で一〇パーセントも減っている。
 「ジェネレーションXは最も少ない公的サービスのために、最も高い税金を払わなければならない世代、ということです」
 ワシントンにある研究機関ニュー・アメリカ財団のテッド・ハルステッド理事長は、そう指摘する。
 ハルステッドによれば、ジェネレーションXの政治行動は「従来型」のものでは測れない。
 「投票率や政党の集会への参加は確かに減っている.だが、地域のボランティアやデモ、商品ボイコットなど、新しい政治参加の意識は高い」
 シアトルやワシントンで突如として表われたかに見える、一九六〇年代そのものの「反抗する若者」は、実は長い間に準備されてきた現象だ。
 アライオも投票には行ったが、一票に大きな思いは込めなかった。
「むしろ私たちが本当に持っている『票』を生かそうと思う。それはお金と行動力。問題のある大企業の商品を買わない。インターネットを使って抗議行動を組織する。態度と行動が私たちの『票』だと思っているんです」

 ジェネレーションXが政治に関心を示さなかったのは、「合理的無知(Rational Ignorance)」の好例だと言える。アンソニー・ダウンズ(Anthony Downs)は、『民主主義の経済理論』(1957)の中で、「民主主義国における政治の政策には、ほとんどつねに反消費者、生産者支持の偏向が見られる」と言っている。ダウンズは政治的市場も、経済的市場と同様、すべてのプレーヤーは自分の利益の拡大を狙う合理的存在である前提から出発する。普通の人々は身近な出来事や直接関係することにはさほどの労力も払わなくても情報を入手できるが、それ以外に関しては誰かから伝えられない限り、知ることは困難である。政治はその典型だ。政府・与党が何を主張し、どのような政策を実施しようとしているのか、また野党がどこを批判しているのか、そもそも今いかなる政策が運用されているのか、そうした政治の動きが自分の生活にどう影響を及ぼしているのかはさまざまな手段を使って情報を収集・分析しなければわからない。しかし、それには時間もコストもかかり、一般の人々が生活と両立させることは非常に難しい。かりにそれだけの手間暇を費やして政治に精通しても、その個人の声を聞き入れることが支持率の上昇や選挙での勝利につながるとは思えないので、政府・与党が政策決定の際に、考慮する可能性はまずない。有権者として選択肢がない。ハイリスク・ノーリターンであるため、多くの人々は政治を詳しく知ろうとせず、合理的な選択として無知であることを選ぶ。ジェネレーションXは、こんな閉塞感から、政治に対し背を向けている。

 インターネットの普及はこの合理的無知である必要性を減らす。ネットを使えば、少なくとも、情報収集の点ではコストはあまりかからないし、また連帯するのにも手間要らずだ。しかも、ネットは何事にも手を加えたいというジェネレーションXの願望を可能にしてくれる。商業主義への嫌悪がある彼らは、政治運動でも、お仕着せのレディメイドを嫌う。自分なりにカスタマイズせずにはいられず、それは自己表現でもある。ネットは彼らにとってエクスカリバーである。ベビー・ブーマーの政治運動が参加型民主主義への希求だとすれば、ジェネレーションXはカスタマイズ型民主主義を志向していると言える。

 けれども、ジェネレーションXは素人の手法で政治参加をしているわけではない。メディア・リテラシーにも通じ、コミュニケーション技術を磨いた上で、活動を行っている。シアトルでの抗議活動を組織したNGOの広報担当者は、近藤康太郎によると、参加者に報道陣への受け答え指導をしている。

「言葉は短く、ポイントをはっきり。編集で大事なことをカットされないようにしなければだめ」
 自分が記者役になって、デモ隊に参加する若者に質問し、カメラの前で話させる。
「敵は巨万の富を持ち、政治家を動かす大企業。こちらは彼ら以上に賢く、プロフェッショナルにならなければ対抗できないんです」

 シアトルほどこのジェネレーションXの政治デビューにふさわしい都市はないだろう。ジェネレーションXの代弁者であるニルヴァーナが活動の拠点を置いていたからである。グランジ・ロックならぬグランジ・ポリティクスを世界に見せつけるにはうってつけの場だ。

 ジェネレーションXを最も表象するのはネットワーク化したコンピュータ・テクノロジーであろう。ベビー・ブーマーを象徴するのがロックンロールとコミック本(アメコミ)のカウンター・カルチャーだったとすれば、彼らにとってそれはインターネットとビデオ・ゲーム(テレビ・ゲーム)のオルタナティブ・カルチャーである。

 1980年代、コンピュータは人気ハードを販売する企業が市場を制している。アップル社のマッキントッシュやNECのPC98シリーズがその代表である。ソフト開発はハードに従属的でしかない。90年代に入ると、ソフトの季節が到来する。ハードをあまり選ばないMSのウィンドウズOSが市場を席巻する。ところが、2000年代には、GoogleやFacebook、YouTubeなどインターネット上でのサービスを提供する「クラウド・コンピューティング(Cloud Computing)」がICT産業の注目株と認知される。それは、換言するなら、ブラウザの季節である。ハードウェアからソフトウェア、さらにネットワーク・サービスと主役がめまぐるしく変わっている。前の二つの季節を担ったのは、スティーブ・ウォズニアックやスティーブ・ジョブス、ビル・ゲイツなどベビー・ブーマーであったが、今はラリー・ページやセルゲイ・ブリン、チャド・ハーリー、スティーブ・チェン、ジョード・カリムといったジェネレーションXが牽引している。

 ジェネレーションXが最初にその力を存分に発揮したのは、何よりも、ビデオ・ゲームである。ナップスターが事業停止に追いこまれたように、ベビー・ブーマーを表象するロック産業がネットに必ずしも友好的ではないのに対し、ゲーム業界はオンラインとは不可分な関係にある。あらゆる面でビデオ・ゲームほど彼らと相性のいいメディアもない。

 日本では、テレビ・モニターを使うゲームを「テレビ・ゲーム」と呼ぶが、アメリカにおいては、ビデオの入力端子を用いているため、電子ゲームを「ビデオ・ゲーム(Video Game)」と総称する。

 『ジェネレーションX』のサブタイトルにつけられている「物語(Tails)」は極めて示唆的である。と言うのも、この「テイル」はロマンスの短編形式であり、ビデオ・ゲームは、文学ジャンルに照らし合わせると、「ロマンス(Romance)」に属しているからである。もちろん、その傾向を逆手にとった「レジャー・スーツ・ラリー(Leisure Suit Larry)」のような流れもある。ノースロップ・フライの『批評の解剖』(1957)によると、ロマンスは世界の多様性を提示するジャンルである。作者の描き出す登場人物は現実の人間ではなく、作者の意識的・無意識的願望の分身、すなわちアバターであって、何かの象徴である。作品の傾向は内向的で、扱い方は主観的であり、願望充足がこめられ、時折、情緒的でさえある。登場人物は複数の世界を渡り歩ける選ばれた者であり、しばしば英雄的・超人的であるが、精神的な深みに乏しく、作者の操り人形にすぎないことも少なくない。構成は慣習的で、秩序立てられ、安定している。しかし、神々の物語である神話とは違い、近代小説と神話の中間に位置する。SFやアドベンチャー、ファンタジー、サスペンス、ホラー、バトルなどがロマンスに含まれるが、意識されないことも多いけれども、歴史小説や時代小説も近代小説ではなく、ロマンスの一種である。これらはゲームの題材として好んで使われている。
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