16 火の華

文字数 4,760文字

 花火大会の夜、涼太はバイクで愛菜(まな)のアパートまで迎えに行った。チャイムを鳴らすと、玄関に顔を出したのは、娘の聖良(せいら)だった。
「あ、こんばんは。」
 不意(ふい)を突かれて、涼太はドギマギしながら挨拶(あいさつ)する。
「こんばんは。母は今支度(したく)していますから、ちょっと上がって待ってて下さい。」
 外で待っていようかと一瞬迷ったが、近所の目がある。見掛けない男がうろついているのを見られたら、この親子に迷惑をかけてしまう。ここは素直に上がらせてもらう事にする。
「どうぞ、座って待ってて下さい。」
 ダイニングキッチンに涼太一人を残して、聖良は奥の部屋に消える。
 不用心だ。(いく)ら昔の知り合いだからって、一度やそこら訪問した事のある男を一人部屋に残して、誰もいなくなってしまうなんて。自分達が女所帯(おんなじょたい)という自覚が()りないんじゃないか。
 涼太は落ち着かない気持ちのまま、テーブルの椅子に浅く腰掛ける。この前夕飯をご馳走(ちそう)になった時以来だ。(わず)かな時間しか()っていないから当たり前だが、何も変わっていない。あの時は、せわしなく愛菜がキッチンで料理をし、自分は今と同じ場所に座り、その様子を後ろから見守っていた。
 まるで家族の(よう)だった。
 涼太は(うつむ)き、目を閉じる。
 奥の部屋から愛菜と聖良の声が(かす)かに()れてくる。何を言っているのか判然としないが、こそこそと、短く言葉を()わし合っている。突然ドアが開いて愛菜が姿を見せる。浴衣(ゆかた)姿。白地に(こん)一色で(がら)が描かれている。よく見れば、紫陽花柄(あじさいがら)だ。髪は(まと)めて()い上げ、無防備なうなじを(さら)している。思わず、涼太は椅子から腰を浮かした。
御免(ごめん)、待たせちゃった。」愛菜がへへへと笑う。「どうかな?」
 彼女は両方の(そで)を手で持って、くるりと一回転してみせる。
「ああ、綺麗(きれい)だ。」
 お世辞(せじ)ではない。でも、こんな科白(せりふ)が苦も無く出て来るのは、自分が歳を取った証拠だ。本心で言っても、空々(そらぞら)しく(ひび)かなかっただろうかと心配になる。和服姿の愛菜は、どこか飲み屋のママに見えなくもない。それも、きっと歳のせいだろう。そう思っても、それは言ってはいけない。涼太は笑顔を作る。
「あんまり、はしゃがないでね。」
 愛菜の後ろから出てきた聖良の声には、冷静な中にも思いやりが(にじ)む。
「涼太君、行こう。」
 娘の言葉を無視して、愛菜はテーブルの上の(かご)から車のキーを取り上げる。
「行こう。車、俺が運転するよ。」
「え?大丈夫なの?」
「その恰好(かっこう)で運転する方が危ないだろ。」
「そうかな…。免許証、持って来てる?」
「ここまで原付で来たから。あ、玄関の前に原付置かしてくれ。」
「良いけど、ちゃんと(かぎ)かけておいてね。」
「ああ。ま、あんなボロバイク盗む(やつ)はいないだろうけどな。」
 狭い玄関で互いに気遣(きづか)いながら、涼太は自分の(くつ)、愛菜は下駄を()く。二人の様子を聖良は黙って見ている。
「気を付けて行ってらっしゃい。」愛菜に向けて言った後、聖良は涼太を見る。「霧河(きりかわ)さん、お願いします。」
 その声には力が(こも)っている。その力に(こた)える(よう)に、涼太は黙って(うなず)く。
 玄関ドアを開ければ、昼の熱気が冷めきらない、湿った夏の夜の空気が周囲を満たす。
「愛菜が浴衣(ゆかた)着るなら、俺も合わせれば良かったな。」
 足元がおぼつかない愛菜の様子を気遣(きづか)いながら、涼太は(つぶや)く。浴衣など持っていない。でも、知っていたら、どこかから借りてでもそうしたかった。
「そんなの良いよ、別に。言わなかったし、私が勝手にそうしたかっただけだから。」
 (はず)む声から彼女の気持ちが伝わってくる。
 愛菜から車の鍵を受け取り、二人で車に乗り込むと、駅近くに愛菜が借りている貸し駐車場を目指す。花火大会のせいだろうか、道路が混んでいる。信号に引っかかってばかりでなかなか進まない。つい苛立(いらだ)ちかける気持ちを(なだ)めながら運転する。時計を見る。もう十九時だ。車が駅に近付くにつれて更に混雑は(ひど)くなる。車を貸し駐車場に置けても、その後、駅前から出ているシャトルバスに乗って、花火会場まで行かなければならない。
「これじゃ、会場に着くのは、開始時間ギリギリだな。」
 信号待ちの車の中で、涼太は(つぶや)く。
「そうだね。私の支度(したく)が遅くて御免(ごめん)ね。」
「いや、」そんなつもりは無かったのに、愛菜を責める言葉になってしまっていた事に気づき(あわ)てる。「道が混んでいるからだ。俺だって、あの時間で充分間に合うと思ってた。」
 きっと、こんな田舎(いなか)でも、開始時間間際(まぎわ)に行ったら、観客用のスペースは全部群衆に占拠(せんきょ)されているだろう。しょうがないから、そぞろ歩きながら見物して、どこかスペースあれば、立ったままで良いから見れる場所を確保しよう。
 愛菜が借りている貸し駐車場に辿(たど)り着いたのは、もう開始十五分前だ。そのまま歩いて駅前ロータリーまで行くと、シャトルバスの前には人だかりが出来(でき)ている。これじゃあ、バスに乗るまでにも時間がかかり、バスの中で花火が始まってしまう。
「こりゃ、駄目だな…。」
 涼太の顔に落胆(らくたん)の色が(にじ)む。
「バスはやめて、歩いて行かない?」
 バスでも、河川敷(かせんじき)の花火会場までは、五、六分かかる。徒歩だと、その何倍にもなるだろう。
「歩いてるうちに花火始まっちゃうな。」
「良いじゃない。」
 涼太は愛菜を見る。愛菜がにっこりと笑う。
 ああ、そうか。愛菜はそんな事に(とら)われていない。
「…そうだな。」
 二人は、ロータリーの人混みを離れ、河川敷の方角に向けて歩き出す。駅前を離れると、周囲は急に静かになる。車の多い幹線道路を避けて、住宅に囲まれた狭い道を、愛菜のペースに合わせて歩く。車の騒音が遠ざかり、愛菜が(きざ)下駄(げた)の音が(ひび)いている。
 黙々(もくもく)と歩く。いつもなら、愛菜は聖良との生活の中であった出来事(できごと)を取りとめもなく話し、涼太は涼太で、ちょっと思いついたくだらない事を口にして、愛菜を困らせている(はず)だ。
「そう言えば、昔、花火会場で愛菜を見掛(みか)けたよ。」黙ったままの二人が苦しくなって、涼太は思いついたままを口にする。「今日みたいな、白地に染物(そめもの)の浴衣を着てた…」
 口に出してしまってから、後悔する。
「え~、いつの話?私が浴衣着て、花火を見に行ってたの?」
「あ、…いや、一瞬人ごみの中で見掛けたんだ。愛菜に見えたんだけど、人違いだったかも知れない。」
 あれは、高校時代の記憶だ。もし、本当にあれが愛菜だったとしても、その時を、今は思い出さないで欲しい。
「え~、行ったかも知れないけど、よく覚えてないなぁ。」
「いや、良い。大した話じゃなかった。」
「何?変なの。」
 涼太は、また押し黙る。
「あ!」
 慣れない下駄をはがれたアスファルトの(くぼ)みに取られる。愛菜は思わず涼太の(そで)(つか)む。
「おい、大丈夫か?」
「うん、ちょっとよろけた。」
 愛菜がへへへと笑う。
「危ないから、手。」涼太は片手を愛菜の前に差し出す。「(つな)いで歩くぞ。」
「うん。」
 やけにしおらしい。
 不意(ふい)に花火の(はじ)ける音。周囲の建物にそれが反射する。
「あ、始まった。」
 愛菜は顔を上げて、夜空に丸く開く(はず)の光の束を探す。続けざまに大きな破裂音(はれつおん)、それに重なってパチパチと小さな音が混じる。
「ここからじゃ見えないみたいだ。」
 花火会場と(おぼ)しき方を見ながら、涼太が口にする。花火が上がっている(はず)の空には、真新(まあたら)しい大きなマンションがそびえている。
「そっか、残念。」
 愛菜は、(かす)かに笑顔を見せる。
「もう少し行けば、大きな花火の頭くらいは見えるんじゃないか。」
 もう、涼太も(あわ)てない。愛菜の歩調に合わせて、ゆるゆると歩く。薄暗い夜道は、まだ(よい)の口というのにすっかり人影もない。T字路の角を曲がると、目の前に続く道の向こう、ビルとビルに(はさ)まれた隙間(すきま)の空に花火が開く。両脇(りょうわき)と下半分を建物で(さえぎ)られた火の(はな)。少し遅れて大きな破裂音(はれつおん)が聞こえる。
「あ、見えた!」
 愛菜が(うれ)しそうに、声を上げて指差す。まるで可憐(かれん)な少女の(よう)に。続けて、一つ、二つと少し小さな破裂音が聞こえて来る。破裂音だけで花火は見えない。
「あ~、見えないな~。」
 愛菜は残念そうだ。
「まだ、遠いから、大きい(やつ)じゃないと、見える高さまで上がって来ないんだろ。」
「え~、まだ歩かなきゃ駄目?疲れたなぁ。」
 愛菜の反応に涼太は微笑(ほほえ)む。
「あ、あそこの公園で休もう。」
 涼太は、道の先、左手に公園を見つけて、指を差す。
 そこは何の変哲(へんてつ)もない、昼間子供達が遊ぶ公園だ。ブランコ、(ぞう)の形の(すべ)り台に砂場。ボール遊びが出来(でき)そうな芝生の広場もある。
「あ、ここからなら、もう少し見える。」
 愛菜は、背が低い建物の隙間(すきま)から、低い花火も頭を(のぞ)かせる位置を見付けて、ブランコに腰掛ける。涼太は、愛菜の後ろ、ブランコを囲む背の低い鉄パイプの(さく)に腰掛ける。愛菜の浴衣の背中越し、ビルのシルエットで切り取られた火の(はな)が咲く。
「一番大きい花火でも、下が切れちゃってるな。」
 もう少し探せば見える場所もあるだろうか。
「良いの、これで充分。人混みの中は暑くて。だから私には、このくらいの(なが)めが丁度(ちょうど)良い。」
「そうか。…俺にもこのくらいの花火が丁度良い。」
 愛菜が涼太を振り返り、顔をくしゃくしゃにして笑顔を作る。
「でしょ。」
 いつもそうだ。愛菜は笑っている。それはとっても素敵(すてき)な事だけど。
 破裂音にいざなわれ、愛菜はまた、火の(はな)が咲く夜空に目を向ける。
「こうしているのが良い。このくらいが幸せ。」
「愛菜、俺、提案があるんだ。」
 緊張で手に力が入らない。
「ん~、なぁに?」
「この前、愛菜は、狭くて古い今のアパートから出来(でき)れば引っ越したいって言っていたろ?」
「そう言えば、そんな事言ったっけ。まあ、ぼろアパートから引っ越したいとは思うけど。」
「…それで、良かったら、俺の家に住まないか?それなら家賃は()らないし、車だって庭に置ける。駐車場代もかからない。…俺は飯を作って(もら)えたら有難(ありがた)い。…その、それ以外は、お互いのプライベートを尊重(そんちょう)するので(かま)わない。そう、シェアハウスって(やつ)だ。二階、二階がすっかり()いているから、そこ使ってもらえれば。俺は、一階で生活する。…どうかな?」
 頭の中でシミュレーションした時は、もっとスマートに話せる予定だったのに、なんだかまるっきりカッコ悪い。四十を過ぎた良いおっさんが、こんな事じゃ情けない。
「えぇ~、ちょっと話が急過ぎない?」
 夜空を見たままの愛菜の声は笑っている。
「すまない。」黙っていられない。こんな時何を言えば良いのだろう。若い頃はもっと気の()いた言葉の一つも()けた気がする。「…せめて、一度、俺の家を見に来ないか?」
 愛菜の浴衣の背中は動かない。
 何か言ってくれ。この沈黙は(たま)らない。
「…そっか。ありがと。」愛菜は視線を下駄のつま先に落とす。「私が涼太君の家に引っ越すって言ったら、聖良はきっと、自分だけ今のアパートに残るって言うだろうな。あの子、一人暮らししたいって前から言ってたから。きっと大喜びで私だけ行って良いよって言う。」
「それじゃ、駄目だな…。」
 涼太は(うつむ)く。
「…考えてみるね。」
「愛菜は」辛抱(しんぼう)しきれずに、言葉が口からほとばしる。「愛菜は、俺なんかじゃ駄目か?」
 何か確かなものが欲しい。
 (さわ)やかなスポーツマンにも、屈強(くっきょう)な頼りになる男にもなれないうちに、無様(ぶざま)な中年になってしまった。
 愛菜は下駄を見たまま黙っている。どうしようもない不安が体中を埋め()くしていく。不意(ふい)に愛菜が涼太を振り返る。
「涼太君が嫌いだったら、夕食に招待なんかしないよ。」
 やられた、そうか。…良かった。
 続けざまに聞える破裂音(はれつおん)が、愛菜の視線を涼太から(うば)う。
「あ~、下の方で何か上がってる。全然見えない~。」
 愛菜は音ばかりで姿が見えない花火に悔しそうだ。
「きっと、仕掛(しか)け花火だよ。」
 涼太は、見えない花火を想像しながら、愛菜と同じ空を見上げた。

     了
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み