第7話

文字数 6,187文字

 最初はありえないと思った。たしか母方の親族は先月にきていたから、それが最後だと思っていた。
「お名前を聞いたのでまちがいありません。はっきり面会したいとおっしゃってます」
 三分で戻った看護師は神経を高ぶらせていたが、火が消えたようになって、さらにこう問いかけた。「お断りしてきましょうか」
 のみこみのわるい厚子が、その瞬間、痛みにふるえた。
 崇宏はその二人にかろうじて見覚えがあった。こんなところまで何をしにきたのだろう。今ちょうど世を去ろうとしている者がもう一人この病院にいるのだろうか? 母に回ってくるころにはひきとり手のない余り物になっているお裾分けだろうか? それをここまでもってきたとか? そんな馬鹿な! どうしてまだ見舞いにくるのか知らないが、向こうだって早く片づけてしまいたいにきまっている。高齢の二人がどこか気が進まないままついてくるのを見て、崇宏はそれを確信した。
 ところが、席に着いたとたん、あらかじめ紙に書いておいたみたいに伯母がしゃべりだした。周囲が騒がしいわけではなく、声もはっきりと聞きとれたが、すぐには話についていけなかった。
「兄姉の中でも遅くに生まれたほうやから妹は小さいときから苦労してきてるんです。ほんまはやさしいとこもあるのに、そんなん人はようわかろうとしてくれへんでしょう。悪気があってしてることなんかひとつもないのに損ばっかりして。厚子のほうにもあかんとこがあるからしかたないかもしらんけどね」
 伯母は、厚子はとくに誤解されやすいから、とも言った。――ごかい? それはこんな機会がいつかあるにちがいないと思い、崇宏が念頭に置いていた言葉のはずだった。ところがいざそのときがきてみると、頭が麻痺したように何も考えられなかった。
 壁の薄型テレビや電子レンジが設置されているオープンスペースが病棟の各階に設けられていて、今も四五人の入院患者が消灯までの短い時間を過ごしていた。伯母が身につけている簡素なジップラインの紺色の防水パーカーは、若いファッションをまねたとか、そんなものとは関係なしに、やや大き目だった。
「今いてる? 厚子ちゃんとしてる?」伯母はそう言って一人でうなづいた。「いつもあの通りやからね。ちょっと心配してたんです。ここのところ電話もないし、どうやろうと思て。こっちから電話するのもなんやし、家にいっておじいちゃんに迷惑かけるわけにもいかないし」崇宏は相槌をうって先をうながした。「みんなどうやろねえて気をもんでたんです。そう。それやったらもう大丈夫なんやね」
「おじいさんは電話の声がほとんど聞きとれないので」
「そうらしいね。姉もそんなことゆうてましたわ」
 隣の椅子にかけている伯父は、一言で言うと、さっぱりとした裏表のない外見だった。伯父は実の兄弟のせいで、若いころからさんざん金に悩まされていた。「わしなんか真面目にコツコツ働いて、人がつくった借金ぜんぶ返したんやで」つい先日、その兄弟と死に別れた伯父は、こんな自分でもここまでやってこれたのだからと崇宏を励ました。
 ――いったいこの話はどこまでつづくのだろう? なぜこんな昔話をするのだろう?
「そんなことは言いません。今は会えるような状態ではないとしか」
「じゃあお父さんがゆうてるわけやないのね」
 聡一には会いたい人間が一人もいないから、これはおかしな発言だった。崇宏は聡一が朝までもつかあやしいとしつつ、まだ二三日、あるいは一週間永らえるかもしれないと言った。どうなるかは誰にもわからなかった。
 崇宏もそこを出ようとしたとき、数メートル先では、別のルートからきていたらしいグループがちょうど合流したところだった。どうして対面にこだわるのだろう? なぜそっとしておいてくれないのか? 二人の伯父の運転だ。その中でこちらを見ている伯母は、崇宏が接近しているかいないかを判断しきれないようだ。とくに目が弱っているようだ。崇宏は震えた。伯母たちの、たとえ一人であってもこの病院にいるということが、どういうわけか崇宏を落ち着かなくさせるのだった。
 とっくに八時を回り、すでに九時が近かった。もう一度席を立つと、伯母たちはまだそこに集っていた。出口をふさいでいることに気づいて、少し移動しただけのようだった。崇宏はここへきてふたたびその人数に驚いた。あそこまで顔を寄せてしゃべりたくなる何があるのか。まったく初見の人物もいる。崇宏はスマートフォンを消して六〇五号室へとひきかえした。
 何番目か確認しようにも、厚子が〝……ちゃんや〟としか答えないので、どっと押し寄せる疲労をうけとめながら、ついに崇宏は諦めた。結局母がそれでやってこれたのだから、一人一人の姓名なんてまったくどうでもいいことだと思い直した。
「――あれ? 姉ちゃんらまだおるんか? さっき崇宏が帰ったてゆうたで?」
 厚子がうつろな笑みを浮かべて出ていった。
 ――会いたくないと伝えてくれたのではなかったか?
「いま起きてる。そうや。それでちょっと水飲んだとこや」と厚子が言った。
 厚子が状況を説明した。彼らにとって、聡一が心地よく過ごしているというのは、本心から喜ばしいことだった。そこへ崇宏の名前が出たせいか、その反応はずいぶん抑えたものになってしまったが――
「崇宏がきてからや。崇宏が体拭いたときだけ、にこーてするねん。うちがしたってそんな顔いっぺんもせえへんのにやで」
 伯母たちが、気遣いや心配事や注意や、自分たちの事情からここにこれなかった姉妹のことまで、厚子に復唱させんばかりの迫力で事細かに伝えていた。崇宏は入り乱れたたくさんの足を見つめた。崇宏は子供のころからずっとそうやって扱われてきた。目の前の病室では彼らの話し声が筒抜けにちがいない。ナースコールを押さなければいいが。看護師がきたらますます色めきたつにきまっていたし、なにか絶対に許可することができない頼みごとを思いつくかもしれない。
「いるものがあったら買ってくるぞ。なんでもゆうてくれ」と長男の伯父が親身になって崇宏に言った。「もう無理に食べさせんでええねん。なんかあるだけでうれしいんやから」
 崇宏は愛想笑いも相槌もしなかった。ずっしりと重い紙袋に果物が入っているのを見て、自分が何をしているのかもわからずにとにかく口を開いた。
「ここまでにしてもらえますか。いま話せる状態にないので」崇宏はそう言うと、厚子のほうに目をやった。「ああやっていってますが、本当はあまりいい状態ではないんです。何度か危険な状態になったから消耗がはげしくて――」
 崇宏は急に激しい痛みや嘔吐はあって当たり前なのだと気づいた。意識の混濁があるのなら、まだ意識そのものはもちこたえているとも言えた。片時も不安が離れないのに、どういうわけか父が死に際にあることを伯父と伯母から教えられていた。「わかってる。わしらも病気で兄弟を亡くしてる」と長男の伯父が言った。崇宏だって祖母を亡くしていたが、それすら幼すぎたため、彼らの記憶にくらべると正確さに欠けるのだった。
「無理したらあかんよ。ちゃんと休んでよ」
 突然崇宏にそう言ったのは、二人の伯母だ。残りの三分の二は、まるで意見をもたないか、あるいは完全に無関心だった。
 秀子が自分を見て決まり悪そうに後退ったことに、崇宏は気づいていた。崇宏は秀子に目を向けると言った。
「まえにうちにきてましたよね。ここは病院なんです。おねがいですからもう少し静かにしてください」
 反応がない。どうやら抜き打ちテストみたいなまねをしたあの日のことは誰にも話さなかったらしい。話したとしても仲のいい一人か二人くらいのものにちがいない。しかし、同時にこうも思った。すでにあの中の一人か二人につたえたから、そろいもそろってここまで寝ぼけた顔ができるのだ。本当は血がつながっていないと聞かされても驚かない。どれをとっても自分の外見とかけ離れているじゃないか。
 長男の伯父が「何の話や?」と言った。
 彼らのあいだにさらなる無関心が広がった。
 厚子がすこし進み出た。「ごめんな。きてもらったのに悪いな。いまは静かにしてるだけでええねん。もうな、会ってしゃべるとか、そんなことしたないねん」
 長男の伯父が笑顔をつくり、「ええ、ええ」と頭を押さえつけるような仕草をしてとりなしたときも、厚子がすこし進み出た。
「兄ちゃんもごめんな。忙しいとこきてもらったのに。もう誰に会いたいとか、そんなんないねん。崇宏がおじいさんつれてきてくれたしな。それで仕舞いや。ほんまに会いたがってない。嘘ちゃうで。ほんまにうちがかってにゆうてるのとちがうねん」
「それはもうええ」と長男の伯父がきっぱりと言った。「あーどうや。腹減ってないか」
「おれはべつに。ここにくるまえに食べておいたので」
 崇宏は食事に出かけられるような気分ではなかった。厚子が姉たちのほうを二度見したからなおさらだった。厚子は自ら姉たちの伝書鳩となり、「そんなんゆうてもらってて悪いけど、うちもなんも食べとうない。いっこもお腹すかへん」と答えた。「せっかく誘ってくれてるのに。わるいなあ。兄ちゃんごめんやで。えらい愛想ないことゆうて」
「ええねん。ええから謝るな」
「ええか? ええか? えらい悪いなあ。あれやったらみんなで食べにいってくれてええんやで。うちはいらんからみんなでいってきてくれて」
「ううん。わたしらもちゃんと帰るよ。もう時間が遅いしね」
「うちのことは気にせいといて。いくんやったらいってくれてええねん」
「だいじょうぶ。あんたを置いていったりせえへん」
「そんなんゆうてるのとちがう。うちはべつにいきたないねん」
「そやからあたしらもいかへん。そうゆうてるでしょ」
 歯ぎしりが出る。崇宏は、この場違いで傍迷惑な一連のやりとりをまえにして、見るだけになっていた。突然、自分の発言を厚子が待っていることに気づくと、腹の底がずんと重く沈んだ。
 崇宏はこうして集まってくれたことにたいして礼を言った。彼らは返答に窮しながらもすぐさま息を吹き返し、こんなときだからこそ無理をしてはいけないとか、きちんと休息をとるようにと命じた。
 崇宏がふり返ると、長男の伯父が入り口からこちらを見ていた。聡一がそんなに遠くへ目を向けられるとは思ってもみなかった。聡一の眼差しは驚嘆そのものだった。
 横に立っているのは長男の伯父の娘だ。伯母たちからは〝めぐみちゃん〟の愛称で呼ばれている。年が離れているからいとこの実感はないし、伯母たちの妹と見るには面長な風貌が異質だった。恵は「おきてるおきてる」と鈴の音のような高い声で伯母たちに知らせた。「こっち向いて座ってるよ。明かりがついてないからそこまで見えへん。でもちゃんと座ってた」
 エレベーターにのって駐車場まで追いかけていたらしい厚子が「崇宏が追い返してくれた。兄ちゃんも崇宏にはなんもゆわれへん」と顔をほくほくさせて呟くと、崇宏は急に頭痛薬が飲みたくなった。
「いっしょについていってどうするねん。そんなことしてたら帰ってくれへんやろ」
「しゃあないやん。姉ちゃんらがしつこいにゆうんやから」
「むこうはまた帰りが遅なったって文句ゆうてるぞ」
 厚子は病室を横切り、ペットボトルの水を飲もうとして、クククと笑った。「ほら、お父ちゃんも笑ってる」と囃し立て、しつこく指差した。
「見て。笑ってるやん。これがわからんか。お父ちゃんうれしいて笑ってるんやで」
 たしかに聡一がぷいっと顔を背けた。筋肉が極限まで縮み、なおかつ体重が失われたせいもあって、振り子がわずかに傾いたようなかんじだった。それは照れ隠しのように見ることもできるし、笑っているように見ることもできた。しかし、そんなのは、彼らがここへ乗り込んでくるまでの話だった。聡一は息が上がって軽いパニックを起こしていた。パルスオキシメーターのアラームが作動した。厚子がようやく口を閉じて、枕を直し、布団をどけてやった。聡一はじれったくなるくらいゆっくりと時間をかけて横になった。
 その後、かけつけた看護師が帰ったと見るや、厚子が囁いた。
「あんなときはいかんでええで。またきたらうちが一人でいくからな」
 まただと? 崇宏は反駁しかけた。またなんかあってたまるか! こんなにやられっぱなしでいいのか? しかし、高慢ちきが一人で突撃してきた日とちがって、次は事前に日時を知ったうえで、十分な準備と、今以上の人数で直接家にやってくる。たしかに母が正しい。最後のときが今夜にまで迫っているかもしれないことを崇宏は思い出した。
 ――そういう話をしているのだろうか? 父の葬儀のことを?
「でも、崇宏がゆうたってあかんなあ。崇宏があんだけゆうてんのにやっぱりあかんわ。そやけどゆわなしゃあないもんなあ」
 厚子のおしゃべりは、当分やみそうになかった。
 崇宏は小走りに道路を渡ってコンビニエンスストアのドアを押し、歩きつづけながら見回した。こんなときにかぎって菓子をねだる幼い子供と辞書くらいの財布をもった女親がいて、崇宏をただのコンテナか何かみたいにかわすと、ATMから現金を引き出しはじめた。あるとき人の子供に十円のチョコ菓子を買い与えている場面に出くわしたことがあって、その世慣れた誰かのように、自分も何かしていいような気持ちが急に募った。しかし、絶対にしない。おもむろに財布を開き、高雄と車椅子で買い出しに出かけたときの小銭がまだぎっしりと詰まっているのを確かめるまでしているのに、やはりしない、と思った。子供がパジャマ姿で走り回っていることにいい気がしないから? しつけの仕方が家族の数ほども存在するから?
 あんな年頃から自分は母の実家に呼ばれず、いとこは昨日の今日で鼠のように成人していき、祖母の葬儀のときですら声もかけられなかった。崇宏は誰一人姿を見なかったのに、どういうわけかほとんど全員がきていたのをあとで知った。見知らぬ他人より居心地が悪い。物心がつくよりも早く、そういうふうに仕向けられてきたのだが、それは母がしたことになり、今はおれがしていることになるのだろう。人のつながりのそこここに〝端っこ〟が存在している。でも、そういうものではないか、と崇宏は思った。
 崇宏は商品をえらんで時間をつぶした。親子が帰ると、何かから逃げおおせたみたいに、安堵感でいっぱいになった。
「それより牛乳が飲みたい」と厚子が言った。
 はやく日常に戻りたいということか。おそらく、時間にとらわれずにうちでゆっくりと大好きなパンを食べたいのだろうが、そんな願いは叶えてやれないし、聞きたくもなかった。
「崇宏もおるんやろ。朝までおるやろ。ちょっとだけ寝てきてええか」
 崇宏は今もタクシーが走っていることを脅すように言った。そんな気も知らずに、厚子は家に帰るのを拒んだ。そして優しい言葉をかけられたかのように微笑み、くすくす笑いさえして、うけとったホイップクリーム入りのあんぱんをかばんに入れた。「これおいしそうやん。またあとで食べるわ」
 厚子が家族控え室へいくと、崇宏はベッドの様子をうかがいながらパイプ椅子にどっと沈んだ。崇宏は自分に缶コーヒーしか買っていなかった。
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