第13話 酔っぱらいの論理

文字数 4,489文字

 マリエさんと入ったのは、六組も客が入れば満員に成る、フレンチっぽいこじゃれたレストランだ。
 私は仕事が終わって帰る前に、沖田に電話して新しい職場で働く意思を伝えた。
 他人に自分の本気を伝えることが、簡単なようで実は物凄くエネルギーがいることだと初めて知った。
 そのときの私は、まだ仕事を始めたわけでもないのに、大仕事を成し遂げたような不思議な高揚感に包まれていた。

「ミサちゃん、今日はなんだか鼻息荒くない?」
 マリエさんは笑いながら、私の興奮を感じたことを伝えてくる。
「あっ、今日新しい仕事をやりますって答えたので、そのときの勢いがまだ残ってるかもしれません」
 答える声も大きいのが自分でも分かった。
「やる気満々なんだね。なんだか羨ましいな」
 マリエさんは目を細めて喜んでくれた。

「本日はいかがないさいますか?」
 シェフがメニューを携えてオーダーを訊きに来た。
「ワインも含めてお任せできますか?」
 初めての店なので、マリエさんはシェフに一任した。
「承知しました。何か苦手なものとかございますか?」
 四十代後半だろうか。シェフは物腰が柔らかで、なかなかいい男だ。
「大丈夫です。ミサちゃんも平気?」
「はい、何でも食べます」
 私はまだ鼻息が荒い。
「かしこまりました」
 シェフはそのまま厨房に向かい、スパークリングワインを注いだグラスを持って戻って来た。
「食前酒でございます」
 私はマリエさんと温泉旅行以来の乾杯を交わした。

「ミサちゃんも新しい仕事か。みんなそれぞれちゃんと自分の道を見つけてるね」
 言い終わって、マリエさんはハ~とため息をつく。
「どうしたんですか? マリエさんはどうなんですか?」
「どうって?」
「柴田さんのことですよ」
 私の仕事なんかより、マリエさんの方がどう考えても大転機だ。
 柴田さんの申し出を受けたなら、まず結婚、そしてあの大旅館グループを仕切る女将さんを目指すわけだ。まさに人生が変わる瞬間を迎えることになる。

「それなんだけどね。お断りしようと思ってるの」
――なにー。
 てっきり受けるものだと思っていた私は、マリエさんの答えに心がざわついてしまった。
 理由を聞こうと色めき立ったときに、横からシェフの声がした。
「前菜でございます。鴨リエットのパケット添えです」
 出てきた料理は、とりあえず会話を中断するだけの魅力に溢れていた。
 赤ワインで似たプルーンが鴨肉とベストマッチで、粗挽きコショウのスパイシーさが、味をきりっと引き締めていた。

 幸福な気持ちになったところで、再び現実に話題を戻す。
「断るんですか? とっても素敵な旅館だと思ったのに」
 マリエさんの答えを待って、なぜか私の心臓はドキドキした。

「素敵すぎるのよね」
 意外な答えが返ってきた。
「素敵だとだめなんですか」
 私は思わず非難するように突っ込んでしまった。
「そうなの。自分じゃなかったらいい話だと思うわ」
――自分じゃなかったら……
 なんとなくマリエさんの心情を察することができるような。

「本日のオードブル、スモークサーモンと野菜サラダです」
 再び、シェフが登場した。
 会話を中断して、オードブルをいただく。スモークサーモンの豊潤な香りが食欲をそそらせる。
「次のお飲み物は何かリクエストがございますか?」
 グラスの中のスーパークリングワインは既に空になっている。
「軽めの白ワインでお勧めはありますか?」
 マリエさんが相談すると、シェフはにこっと笑ってワインセラーに向かい、少し吟味してから一本のボトルを手にして戻って来た。
「フランスロワール地方の『サンセール』という白ワインです。果実味と酸味が程よくて爽やかなお味ですよ」
「じゃあ、それをお願いします」
 グラスに注がれた黄金色の液体は、確かにフルーティで爽やかな味だった。
 思わずグイッと飲んでしまい、すかさずシェフが二杯目を注ぎ入れる。
「気に入っていただけたようで、よかったです」
 ワインに負けない爽やかな笑顔を残して、厨房に戻っていく。

「マリエさん、また詳しく訊いちゃいますけど、自分だと素敵すぎると駄目って、どう考えればいいですか」
「難しいわよね。一言でいうと、責任が重くてプレッシャーがかかる毎日が嫌なんだよね。もちろんやりがいのある仕事だと思うよ。でも私が周りの期待に応えられると思う? そもそも期待だって掛けられるとは思えないし」
 うーん、そこは難しいとこかもしれない。自分だって旅館業務なんてまったく知らないし、なんだか奥が深そうで覚えることも多そうだ。
「柴田さんのことは好きじゃないんですか?」
 別に柴田のことを応援するわけではないが、成り行きで私は攻め口を変えてみた。

「好きよ。お嫁に貰ってくれると言われたときは、正直嬉しかったわ。でもあの旅館をやりくりする現実を見せられたときに、柴田さんは私のこと何も知らないことに気づいたの」
 何も知らない、確かに言われてみれば、私だってマリエさんの名字だって知らない。
「それってやっぱり大きいですか?」
「そりゃもう少し若ければすぐやり直せるけど、私ももうすぐリーチかかるし、考えちゃうよね」
 マリエさんの表情は頑なではなかった。もし強く押せば考えが変わりそうな感じもしたが、それは私の役割ではない。私の人生ではなく、柴田とマリエさんの人生なんだから。
「何となくマリエさんの言いたいこと分かります。これってまだ前に進むための十分な気持ちがないのに、大きな責任と苦労が待ってる現実を見せられて、引いちゃった感じですよね」
「そう、さすがはミサちゃん、分かりやすくまとめてくれる。柴田さんが私をいいって理由もなんかボヤっとしてない? まだお前とHしたいって言われる方が分かりやすいよね」
 酔いも回って発言が過激に成ってきた。
 でも同意はしないが、本音としては共感できる。

「今日のメインですが、牛フィレ肉のソティと太刀魚のムニエルを選べますが、どちらになさいますか?」
「牛フィレ肉のソティ」
 さすがに肉食の二人は、答えるのにも声が揃う。
「かしこまりました」
 厨房に戻って行くシェフの後ろ姿を見ながら、マリエさんが囁く。
「シェフって独身かなぁ?」
「えー、だいぶ年上ですよ」
「いいわよ。ああいう渋い感じの人から、お前が欲しいとか言われたら、すぐその気になっちゃいそう」
 実際にはすぐその気にならないのだが、酔いは発言を大胆にする。

「なんか柴田さん四月には実家に帰るみたいですよ」
 途端に酔ってたマリエさんの目が正気に返る。
「えー、七月ぐらいって言ってたけど、早まったんだ。誰に聞いたの?」
「東山です」
 答えてから、東山の言葉を思い出した。
 会っておいて肯定も否定もしないのは無責任だという意見、確かにその理屈も分かる。このまま流していて、やっぱりちゃんと考えれば良かったとマリエさんが思えば、その責任は私にもあることになるんだろう。会って話すってそういう責任を持つということかもしれない。

「マリエさん、このまま何となくこの話が流れて、後で後悔しませんか?」
 ホントに何気なく、自分でも深い意味を込めないで訊いた言葉だが、思いのほかマリエさんの心には深く刺さってしまった。
 マリエさんの顔から、急に元気が無くなっていく。
「するかもしれない」
 今までと全然違う小さな声で、マリエさんはポツンと一言呟いた。その呟きは私の驚きを伴ってテーブル全体に広がって行く。

「お店ね、今週から閉めてるんだ」
「あっ、コロナで」
 私はそう言うだけで精いっぱいだった。
「私もね、辞めようと思うんだけど、次に何をすればいいのかよく分からないんだ」
「やっぱり、柴田さんと一緒になった方がいいですよ」
 自分でもびっくりするぐらいはっきりと言葉が出た。
「でも、何もないから結婚するって、うまくいかない気がする」
「うまくいかせるんです。柴田さんを信じればいいじゃないですか」
 どうしたんだろう、私、急に強気で話し始めた。
 マリエさんの言葉が無くなった。

「牛フィレ肉のソティです。赤ワイングラスで飲みますか?」
 シェフが気を利かせて訊いてきた。
 見ると白ワインのボトルはもう残りわずかだ。
「赤ワイン何か適当にボトルでください」
 私は急に飲む気になった。
「かしこまりました」
 シェフが持ってきたのはシラーズだった。
 優雅だけどパワフルな味わいで、私の言葉はさらに勢いがついた。
「マリエさん、これから柴田さん呼び出そう!」
「えっ」
「決めるのは早い方がいいよ。時間が経つとめんどくさくなっちゃうから」
 私はマリエさんの返事も待たずに、さっさと電話をかけた。
 幸い、三コールで柴田は電話に出た。
「もしもし、森山です」
「そう、飲んでる、今マリエさんと一緒」
「うん、飲もう。じゃ、八時にあそこで」
 私が電話を切るとマリエさんも覚悟決めた顔をしていた。
「さあ、後一時間でこのボトルを開けよう」

 私たちは急ピッチでボトルを飲み干し、若干足元がおぼつかないながら、待ち合わせのバーにたどり着いた。時間は八時十分。柴田は既に来ていて、先に一杯飲んでいた。
「オー」
 私は柴田にハイタッチして、マリエさんを横に座らせる。
「それじゃあ、ミキは先に帰ります」
 戸惑うマリエさんを横目に、私はバーを出てバス停に向かった。
 これで良かったのかどうかは分からないが、いずれは決めなきゃいけないことだ。
 
 帰宅すると、どっと疲れが出た。いわゆる飲み疲れだ。
 ベッドに横に成ると、ついうとうとと眠気が身体を包んで、心地よい世界に誘われそうになる。目を開けるといつものように天井が見える。
 まだ寝るには惜しい気がしてテレビを点けると、コロナ報道をしていた。政治家の判断ミスとか、他人への批判が満載だ。
――そういえば、クィーンは今週から閉店してるって言ってたな。
 ちょっと頼りない店長や、ボーイの顔が浮かんでくる。みんなの困った顔が浮かんできて頭の中でくるくる回る。

 テレビはオリンピックの話題を始めた。
――すごいな、まだやる気あるんだ。
 先がほとんど見えない中で、粘り強くあきらめない関係者たちには、引くに引けない理由があるんだろうなと、勝手に想像する。
 テレビでは識者の先生が、もっともらしく中止を語っていた。

 それにしてもテレビ局って逞しいと思う。きっと大どんでん返しで開催ってことになれば、大々的に中継して感動をバラまくのだろうし、それで国内に感染が拡大したら、オリンピックが原因だという批判を垂れ流ししそうだし、それがいいとか悪いとかじゃなくて、どんな場面でも無敵の強さに敬服してしまう。

 それに比べれば、マリエさんは責任や義務感を感じる必要はさらさらなくて、この機に乗じて新しい人生を送るべきだし、私だって背中を押した責任を感じる必要はまったくない。
 東山だって、アメリカに行って思い残すことなく頑張ればいい。
 変に賢く考えて目的を失うのが一番損する、というのが私の結論だ。

 明日はいよいよ新職場への初お目見えだ。悔いなく頑張るために自分に言いたい。
「根性見せろよ!」

(了)
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