第9話 温泉旅行

文字数 4,362文字

 いよいよ福島県に入った。栃木県がこんなに大きいとは思いもよらなかった。高速道路を時速百キロで走り続けても、栃木はなかなか終わらなかった。
 窓から見える景色も単調なので、私とマリエさんはひたすら眠るのみ、時折起きて目を覚ましても景色は変わらなかった。
 前方では柴田と東山が楽しそうに話が弾んでいる。磐梯熱海の話をしているみたいだが、すぐに意識が飛ぶのでまったく分からない。

 結局、温泉旅行は新幹線ではなく、レンタカーを借りて行くことに成った。もちろんコロナ感染を考慮しての処置だ。感染多発地域の東京から行くだけに柴田は慎重で、行くと決まったらすぐにコロナ検査キットを手配し、四人分をまとめて予防会に送付し、全員陰性である証明書を入手した。

 行くと決めるに当たって、病院で奮闘している楓の顔と、人生の重大な決断を迎えた二人の顔が天秤にかかり、さらに都知事の言葉と柴田の恋が加わったが、なかなか天秤は傾かず、最終的な決め手に成ったのは、父親の後悔しても知らないぞの一言だった。

 今回、実家の旅館を利用することもあるだろうが、旅行費用は全て柴田が負担してくれた。まったく今や利用できないGOTOも霞んでしまう気前の良さだ。しかも安全を期して泊まるところは、柴田の実家の中でも最も高級な雪花の湯だ。
 柴田の実家が経営する三つの宿のうち、今回泊る雪花の湯だけ華ではなく花の文字が使ってある。こういう細かいところがどうも気に成って、柴田に理由を尋ねたら、この宿だけ母親の花江さんの名前からとっているらしい。なんとなく、柴田家の女性の地位の高さが窺えるエピソードだ。

 福島県に入ってから高速を降りるまで、三十分と掛からなかった。そこからまた三十分程度一般道を走るのだが、高速から降りて分かったのは、意外とマリエさんがうるさいことだった。
「ねぇ田んぼだよ。すごい、広いねぇ、向こうには山が見えるよ」
 という具合に観るもの全てに騒ぎ立てるのだ。普段のクィーンで見せる大人びた雰囲気とは百八十度変わる。
 冷静に考えれば高い建物がまったくないから見渡しいいし、関東と違って稲作が多いから田んぼがあって当たり前なのだ。最も私みたいに考えていたら、どこに行っても楽しくないし、旅に出たらマリエさんのように無邪気に楽しむ方がお得な気もするが。

 磐梯熱海に着くと、昼食をいただくために、まず柴田家が代々経営して来た老舗旅館「雪華荘」に向かう。旅館に着くとまず門構えに圧倒される。
 まず木の風合いが繊細で美しい。柱と柱の接合部はがっしりとはめ込まれて力強さを感じる。木造建築の重みと美しさを存分に感じさせてくれる建物だ。
 マリエさんはと見ると、しっかり写真を撮りまくっている。後でインスタにでも上げるのだろう。
 私はそういう趣味はないので、この目にしっかり焼き付け、柱に触れて木の感触を楽しみ、その荘厳さを表現する言葉を探す。

 玄関では、柴田の両親が挨拶に出て来た。お父さんは大柄な体格に加えて頭は坊主にしているので、迫力がある人だ。何よりもぎょろ目と表現するのがピッタリな、黒目の大きな目が印象的だ。
 お母さんは背の高い美人で、きりっとした口元がしっかり者の感じをよく出している反面、お父さんと正反対の笑うと無くなる細い目には優しさを滲ませている。よく見ると顎が突き出し気味なのは、マリエさんと同じだ。
 柴田は両親に結婚したいと思う人を連れて行くと告げたらしいから、今は二人でマリエさんの品定めをしている最中か。そんなこととは露知らず、本人は呑気に玄関に置かれた人形などのディスプレイを見て楽しんでいる。

 雪華荘は今どき珍しく、玄関で靴を脱いで建物に入る旅館だ。最大で三十組のお客さんの靴を管理するのだから、そこに携わる人は大変だろう。靴を脱ぐと廊下の板の感触が、足の裏にダイレクトに伝わって心地よい。この建物だからこそ提供できる見えないサービスなんだろう。

 昼食会場は、二十畳の和室だった。雪華荘では、一般客への昼食のみの提供はしてないので、私たち用の特別メニューだ。
 魚料理が出てきたら上手に食べる自信がないので緊張したが、出て来たのは牛肉と野菜の御膳だった。牛肉の煮付けの甘辛な味は、もう一皿欲しいと本気で思うほど絶品だった。

 途中でお父さんが入って来て、自らお茶を変えてくれる。嫁候補が来ているからか、意外と緊張していたが、お茶を変える手つきは丁寧で柔らかさを感じた。風貌とは逆に、繊細な性格なのかもと思った。
「誠一は一人っ子で、堪え性のないところがあるから、迷惑をかけていませんか?」
 お茶を入れ替え終わったところで、ポツンと訊かれた。
 確かに強引だなぁと思っていたら、マリエさんがすぐに答える。
「とても親切で、会話も上手なので、いつも楽しいで
すよ」
――それはそうだ。柴田はマリエさんのお客だもの。
 お父さんはマリエさんの答えに、入ってから初めて笑顔を見せて、退出していった。

「優しそうなお父さんですね」
 私は今の笑顔に癒され、思わず思ったまま口にすると。
「どこが、俺にとっては今でも怖いおやじだよ」
 と、柴田が頭を掻いたので、思わずみんな笑ってしまった。
 柴田家、なかなか好印象だ。

 柴田家が経営するもう一つの宿「ホテル雪華」は、猪苗代湖湖畔と遠いので、明日行くことに成っている。長時間ドライブに疲れたこともあって、すぐに今日の宿に向かうことに成った。

 雪花の湯は、満室でも七組しか入れない高級旅館だ。磐梯熱海温泉の中では、入り口近くの雪華荘に比べかなり奥側にある印象だ。五百川を超えて山の中に入ると、民家の数は極端に減り、道も細くセンターラインは無くなる。
 雪花の湯と看板が指し示す横道に逸れて、三分ほど進むと柵で分けられた八つの建物が目に入る。

 一番手前の建物が受付と厨房で、奥の七つの建物が客室となっている。駐車場に車を停め、柴田が一人で受付に向かい鍵を貰ってくる。
 柴田は一番奥の建物に車を回し、柵を開けて車を中に入れる。車の中にいる人はまったく他の客から見られることなく宿に入れるしかけだ。

「親父と入ったモーテルにヒントを貰ったらしいよ」
 以前柴田は笑いながら説明してくれたが、確かにこの入り方は妖しさを感じる。
 何でも普通に予約すると、建物一つにつき一泊十万円のチャージがかかり、食事・サービス代として、宿泊客一人につき四万円が加算される。今日は四人泊まるから、合計二六万円の贅沢をこれから味合うわけだ。

 建物の中は、入ってすぐに簡単なキッチンと冷蔵庫、六人掛けのテーブルが置かれたダイニングが有り、廊下を真っ直ぐ進むと、十六畳のリビングがある。リビングの奥には木造のテラスと露天風呂がついている。
 リビングの隣は寝室になっていて、大きなダブルベッドが置かれていた。今日はここで柴田と東山が寝ると思うと、思わず笑ってしまった。

 二階は寝室が一つだけで、ここもダブルベッドだ。マリエさんと二人でこのベッドに寝ると思うと、なぜか顔が赤くなる。
 トイレは一階と二階の両方に有り、バスルームとランドリールームは一階にあった。バスルームは、大人が二人入れる大きさの檜の浴槽と広い洗い場が有り、バスルーム全体が木で作られてるので、温泉の雰囲気がたっぷりと味わえる。

 荷物を二階に運び、ベッドに腰を下ろすと、あんなに車の中で寝たのに、もう眠くなってくる。
「下の露天風呂に入りませんか?」
「いいね。」
 同意を得たので、着替えの準備をして下に降りる。
 まだ午後二時なのに、男二人は既に部屋に備え付けの缶ビールを飲んでいた。
「露天風呂に入るから覗いちゃダメだよ」
「イエス、サー」
 東山が調子よく返事をする。こいつはともかく、柴田は信頼できる男だから、安心して入浴できる。
 リビングと露天風呂の間の窓ガラスには、断熱効果の高そうな分厚い遮光カーテンがついている。カーテンを閉めてから窓ガラスを閉める。これで完璧だ。
 私とマリエさんは、手早く服を脱いで脱衣用の籠に入れ、掛湯もそこそこに湯の中に飛び込む。身体に纏わりついていた嫌な汗や脂が、じわっと湯の中に溶けて気持ちがいい。
 時折春風が吹き込んできて、火照った顔にあたる。露天風呂がこんなにリラックスできるとは思ってもみなかった。
「ねぇマリエさん、きっと私に伝えて欲しいと思ってるのだろうから、要らぬお世話だと思うけど話すね」
「なあに、ミサちゃん」
「柴田さんね、お客さんじゃなくて、マリエさんをお嫁に欲しいんだって」
「分かってた」
 マリエさんは茶化さないで、まじめな顔で答えた。
「そうなの、だってお客さんだよ」
「たまにいるのよ。キャバ嬢と結婚したいって思う人。でも結婚できないまま年とっちゃった人だったり、若くても仕事がちゃんとしてなかったりする人が多いけどね」
「柴田さんはどうなの?」
「うーん、結婚と成ると遠い存在だなぁ。第一こんな大旅館の一人息子だよ」
 意外と現実的だと感じた。確かにシンデレラストーリーは観て憧れるだけでいい。

――カァ、カァ
 鴉の声が聞こえる。早く思ってること全部話せよと、急かされてるように聞こえる。
「ねぇ、マリエさん、柴田さんはこの旅館を継ぐために、今年中に会社辞めるんだって」
「えー、そんなの聞いてないよ」
「そうだと思った。あんなにお店に行ってるのに、肝心なことは話してないんだね」
「どうして今年なの」
「約束なんだって、三十才まで東京で世間を学んで、その後は帰ってきて旅館を継ぐのが。それにここもやっぱりコロナで客足減って経営は大変らしいよ。だから帰ってきて手伝いたいんだって」
「そうなんだ。ちゃんと考えてるんだね。でも余計ダメだよ。それならちゃんと勉強した人と結婚しなきゃ」
「柴田さんはその面でもマリエさんが一番向いてるって言ってたよ」
「買い被りよ。自分でもどうして柴田さんがそう思うのか分からないわ」
 うーん、何だろう、何かモヤモヤして来た。
「ねぇ、マリエさん、根性見せろよ! 柴田さんがこの人ならって言ってくれてんだから、その信頼に応えようと思ってもいいじゃん。そんなに想われるって、あんまりないよ」
「へっ」
 私の剣幕が凄い理由が分からなくて、マリエさんは意表を突かれたような顔してきょとんとしている。
 言い過ぎたかなと思って、私も黙ってしまった。
 顔を見合わせていたら、自然に二人とも笑い出していた。

「おかしい、ミサちゃん急にどうしたの?」
 言いながらも笑いが止まらないでいる。
 ようやく笑いが治まってきて、マリエさんはぽつんと呟くように言った。
「ありがとう。気持ち嬉しいよ。ちゃんと考えてみるね」
 私たちは身体も十分に温まったので、湯から出て部屋に戻ることにした。
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