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 三学期が始まってから涼は慈善活動に勤しむようになった。
 具体的にはこうだ。朝は最寄駅で佐久間と合流。二人で校門をくぐり、職員室まで向かう。これを週に二回。時間的余裕があれば人目のつく学生食堂などで一緒に昼食を取ったりもする。無論、佐久間の奢りである。
 深く考え過ぎたのだ。涼は自身に言い聞かせた。彼女のふりなど大したことではない。オペラだと思えばいい。舞台は学校、観客は噂好きの教師達と生徒諸君。上演時間は午前七時から午後の六時まで。途中休憩あり。
 しかし肝心の上演期間は決まっていない。次の演目に移るのはいつなのか、いまだに目処が立っていなかった。
「睨まれるんです」
 と、放課後廊下でばったり出くわした佐久間は泣きついてきた。
「蛇にですか?」
「私は蛙ですか。違いますよ」
 同じようなものだろ。お前が動けなくなる度に誰が助けてやっていると思っているのだ。いっそひと思いに呑み込まれてしまえ。涼は佐久間から手渡されたプリントを眺めた。
 話の発端は一月下旬に行われる全国模試にあった。来年の受験生である高校二年生を対象としたもので、全学科の生徒が強制的に受験させられることになっている。全国平均等も当然ながら出てくるわけで、学校としては一つでも高い順位、得点が欲しい。
 で、そうなると必然的に名前が挙がるのが、去年の模試での成績優秀生徒達――その中に鬼島天下はいた。学内トップ。全国でも五百位以内。やはり奴は化け物だ。担任の佐久間もさぞかし鼻が高いだろう、と思いきやそうでもなかったらしい。
「今年に入ってから射殺さんばかりに睨んでくるんです」
「授業中もですか?」
「さすがに、ずっとというわけではありませんが……」
 佐久間は言葉を濁した。
「黒板に文字を書いている時に悪寒が走るんです。思わず振り返ると鬼島が私を親の仇とばかりに睨んでいるわけでして」
 仇は仇でも恋仇だがな。天下本人に言わせるなら。
「授業妨害をするわけでもボイコットするわけでもないのでしょう?」
「まあ、そうですが」
「もともと眉間に皺寄せる癖がありますからね。寝不足とかで目つきが悪くなっているだけではありませんか?」
 佐久間は得心がいかないようだ。訝しげに首をかしげる。
「リョウ先生は、鬼島と親しいんですね」
 ようやく涼は佐久間が何故こんな話題を持ち出してきたのかを悟った。正月での天下の豹変ぶり。優等生面をかなぐり捨てた態度を怪しむなと言う方に無理がある。
「ご自分と一緒にしないでください」
 一段階低い声音で制しておく。
「そんなことよりも、どうするおつもりですか? 渡辺先生はまだ疑ってますよ」
 強気な渡辺民子の姿勢を思い出し、涼は気が滅入った。知らないの一点張りで窮地は脱したものの、根本的な解決にはなっていなかった。
「疑いを差し挟む余地のない証拠を突きつけられればいいのですが……」
 思案にふける佐久間の横顔。涼はきっかり三秒眺めて無理だと断じた。絶対無理嫌だ。だいたい、そんなことをしようものなら遙香に抹殺される。
 不意に涼は足を止めた。なるほど、これが殺気というものか。思わず振り向いてしまう気持ちもわからなくもない。しかし涼は全く逆の衝動に駆られた。
(……嗚呼逃げ出したい)
 どうしてこうもタイミングが悪いのだ。注意深く避けていたというのに。
「リョウ先生?」
 鈍感な佐久間は呑気なものだ。
「どうかなさ、」
「いいえ何でもありません」
 涼は競歩に近い速さで職員室へ向かった。逃げ込んだと言った方が的確だ。卑怯だと言いたければ言うがいい。これは正当防衛だ。色々な意味で涼は身の危険を感じたのだ。教師の領域に逃げ込んで何が悪い。
 安堵のため息をついたところで佐久間に肩を叩かれた。
「あの、呼んでますよ」
「いないと言って下さい」
「こっちを見てますから、さすがにそれは――」
 職員室の入り口に立つ生徒を盗み見て、涼は絶望的な気分に陥った。教師達の手前、頭をかきむしりたいのを堪えて、入口へ出頭する。
「何か御用で」
「お時間よろしいですか? 相談したいことがあるんです」
 事務的口調。だが、油断は欠片もできなかった。優等生面をしているが相手は鬼島天下だ。
「勉強の相談だったら、担任の先生の方がいいと思うけど」
「佐久間先生は忙しそうですし、俺としては先生の方が都合がいいんです」
 微笑さえ浮かべて天下は言ってのける。この似非優等生め。職員室でも不審に思うのは彼の本性を垣間見た佐久間だけだ。その佐久間も触らぬ神に祟りなし対応で見て見ぬふり。涼は完全に孤立無援だった。
「ここじゃできない話か?」
 せめてもの悪あがき。が、天下は爽やかな笑顔で退路を断った。
「場所を変えた方が、お互いのためだと思います」


 いつから自分はお悩み相談員になったのだろう。進路指導室の椅子に腰かけながら涼はそんなことを思った。
 会議があるとかで進路相談室は貸し切り状態だ。給湯室を挟んで隣は職員室。場所が吉と出るかどうかはわからない。が、さすがの天下もすぐそばに教師がたむろしている職員室があるのに無茶はしないだろうと見越しての選択だった。
「それで、相談というのは何だ」
 涼はぞんざいに口火を切った。
「受験に音楽が必要になったのなら忠告しておくよ。無理だ。せめて一年延ばしな」
「あんたって結構、裏表激しいよな」
「君にだけは言われたくない」
人目がないのは涼にとっても好都合だ。生徒だろうが遠慮なく叩き潰せる。気概を感じ取ったのか、天下は薄い笑みを消した。
「つまるところは勉強の相談です」
「いくら担当科目でも『六』にはできないからな。評価制度への抗議なら、もっと偉い奴にやってくれ」
「成績じゃねえ。勉強だって言ってんだろ」
 違いがよくわからない。全てとまではいかないが、大方、勉強の度合いは試験に反映され、試験の点数は成績に反映される。残る授業態度の要素も天下は十分以上に満たしていたはずだ。何を相談する必要がある。
天下がスポーツバッグから取り出したプリントを突きつけた。涼は腕組みしたまま一瞥する。
「何だこれ。自分がいかに優秀かというアピール?」
 思わず皮肉が口を衝いて出るほど、天下の成績は抜群だった。二学期末試験も中間も、そして一学期も学年一位。一年次となんら変わらない優等生ぶりだった。
 しかし本人は渋い顔をした。
「落ちているんですよ」
「どこが。ずっと一位じゃないか」
「偏差値」
 天下が指差す先には偏差値グラフがあった。相も変わらず高水準を維持しているものの、かすかに下降の傾向がある。
「あのなあ……」
 涼は額を片手で押さえた。
「君は変わらず九十点台を維持している。皆はその下の方で頑張っている。で、頑張った結果、学年の平均点が上がる。しかし君が取れる点数の上限はあくまでも一教科百点。それ以上は無理。よって、上がった平均点の分、君の偏差値は多少下がらざるを得ない。つまり――ものすごく当たり前のことじゃないか」
 理路整然と言ってやれば天下は口をヘの字にした。
「今度、模試があるのは知ってますよね。さっき佐久間と話してましたから」
「佐久間先生、です」
「その佐久間に次の模試では前回以上の結果を出すように言われたんです」
「だから『先生』をつけなさい」
 蛇に怯えながらも蛙は蛙なりに職務を果たしたらしい。
「それで?」
「いくら教師としても男としても、それ以前に人間としても尊敬できないし、むしろいいところを探す方が難しい野郎でも、教育委員会が教師と認めた以上、教師だ。だから俺も優等生らしく、先生の言うことに従って善処はしようと思います。思いますが、俺自身問題を抱えていますので解決するまでは、無理です」
「へえ」
 天下の成績表を手に取り、涼は気のない返事をした。音楽科教師には縁のない試験結果表。平均から前回との差まであらゆる分析がなされている。
「――と、言ったんです」
「なるほど」
 よくもまあここまで点数が取れるものだ。どんな勉強法なのだろう。ノウハウを教えていただきたいものだ。そこまできてようやく、涼は成績表から顔を上げた。
「……誰に?」
「佐久間」
『先生』をつけろ、と押し問答を繰り返している場合ではなかった。
「まさか、さっきの全部?」
「あいつ間抜け面さらして固まってたぜ」
 涼は開いた口が塞がらなかった。どんなに天下の事を取り繕っても煮え切らない態度だった佐久間を思う。てっきり元旦の件を引きずっていたのかと思いきや、とんでもない。佐久間が立ち直るよりも早く天下は追撃のストレートを食らわしていたのだ。
「どうしてまた事をややこしくするんだ」
 周囲には優等生と信じられ疑われていない。そんな天下の暴言を相談できるのは涼しかいなかったのだろう。ほんの少し佐久間が哀れに思えた。
「ややこしくしているのは先生です」
 持っていた成績表を取り上げられる。目の前には思い詰めた顔の天下。
「好きです」
 彼から告白されたのは一度や二度じゃない。が、今回は特に真情を吐露しているかのように真剣そのもので、誤魔化すのは不可能のように思えた。
「私、断ったよな?」
「でも好きなんです。このままじゃ勉強も手につきません」
 それは大問題だ。
しかし残酷なことを言えば、好きになってくれと頼んだ覚えはない。恋に現を抜かすのは自由だが責任は自分で取ってもらわなくては。
「君は私に自分の職を賭けて、恋心とやらに応じろと要求している。少し、身勝手過ぎやしないか?」
 天下は反論しなかった。佐久間と遙香の件を間近で見てきたのでリスクは十分理解している。
「確かに、君は本気かもしれない。真剣に考えているかもしれない。でもそんなことは周囲の人間には見えないんだ。ただの高校生と教師の火遊びにしか思われない」
「他の奴らなんか」
「周囲を顧みない言動。それでは佐久間先生と一緒じゃないか」
 もともと、聡い生徒だ。もし天下が大人だったら自分の想いに折り合いをつけることもできただろう。そして子供だったなら、もっと駄々をこねることもできた。佐久間と遙香の関係を盾に交渉することだってできたし、優等生であることを利用して白紙答案を出すなどリスクは高いが効果的に迫ることだってできた。
 そのどれもできないのは、天下が大人と子供の狭間にいるからだろう。彼は卑怯な手を使うには若過ぎて、なりふり構わず動くには大人になり過ぎていた。情熱だけで解決できると信じられるほど、天下は子供ではなかったのだ。
「……不公平だ」
 押し殺すような呻き声が漏れた。
「なんで、あんたなんだよ。彼女のふりなんて生徒じゃなきゃ誰でもいいじゃねえか。俺は、あんただけだと思ってるのに、どうしてっ」
 苦しげな表情で天下は吐露した。お門違いだと知りつつも責めずにはいられない。
「あんたが佐久間と付き合ってんなら、俺もここまではしなかった。でもな、自分にとって一番だと思ってる奴を代用品扱いされて黙ってられるかよ!」
 唐突に、涼は既視感を抱いた。幼い頃の苦い記憶が蘇る。
両親なんてウザいだけ、と公言してはばからなかったクラスメイト。悪口を黙って聞いているだけの自分。口を開かなかったのは、気を緩めたらすぐにでも言葉が出てきそうだったからだ。そんなに嫌なら。
 そんなにいらないのなら、私にちょうだい。
 自分が一生かかっても手に入らないものを手にしていながら粗雑に扱う級友。当然と受け止める周囲。一番忌々しいのは「そんな事」をいちいち気にする卑屈な自分だ。親がいないから何だ。級友の言葉尻を捉えて八つ当たりするなんて。それでも、思わずにはいられなかった。どうして、と。
 それだけに、涼は天下を無下にすることはできなかった。
「……わかった」
 ため息と一緒に言葉は出た。限界なのだろう。天下だけではなく、この状況も。半年前に後先考えずに始めてしまった嘘は、色々なものを巻き込んでしまった。学年の節目を迎えようとしている今が、潮時なのかもしれない。
 すなわち、嘘を吐き続けるか、それとも終わりにするか。
「前回の全国模試、何位だった」
 うつむきがちだった天下が探るように見てきた。質問の意図をはかりかねているようだ。
「去年の五月にやったんだろ? 学内ではトップだったそうじゃないか」
「全国相手じゃそうもいかねえよ。確か、四百五十……六十くらいだったか? あんま覚えてねえ」
 意外に素っ気ない反応だった。多少なりとも胸を張れば、可愛げがあったものを。全国で四百位台とくれば国立大だって十分合格圏内だ。しかも天下は成績を維持している。当然、学力も上がっている。天下が模試当日に急病で倒れるか、突然変異とかで天才が異常発生しない限り五百位以内は確実と見て間違いない。
「百位以内」
 それを考慮して条件を設定する。実際には不可能だが、そうは思えない――手が届くように錯覚してしまうような順位を。
「今度の全国模試で百位以内に入ったら、君の言う『ふざけた小芝居』をやめてもいい」
 途端、天下の目が輝いた。
「本当ですか?」
「これでも教師だ。生徒に嘘は言わないよ」
「別れるんですよね?」
 あまりの天下の喜び様に涼の良心が痛んだ。仕組んだこととはいえ、ここまで期待させてしまうと後の落胆が怖い。
「百位以内だからな。百一位じゃ駄目だからな。それと付き合うふりをやめるだけで、君と……どうこうなるつもりはない。勘違いしないように」
 念を押しても天下の笑顔が曇ることはなかった。
「わかってます」
 結果を楽しみにしてください、とまで断言する始末。話が終わるが否や鞄を背負って指導室を後にする。この変わり身の早さ。涼は茫然と見ている他なかった。
「百位以内になったら、先生も信じてくれますよね」
「何を?」
 扉の取っ手に手を掛けた状態で、天下は振り返った。
「俺が本気だってこと」
 喰えない優等生スマイルで付け足す。
「あと、別れるついでにもう一度よく考えてくださいね。俺、結構いい物件だと思うけど?」
 その自信の根拠はなんだ。問う間も与えず天下は退室した。まるで勝利が決まっているかのような態度に、涼の不安は掻き立てられた。まさか。いや、いくら学年トップでも全国百位以内は無茶だ。この学校始まって以来の快挙だぞ。無理無理……とは思うものの、懸念は消えなかった。
 しかし、賽は投げられたのだ。後戻りはできない。
(それに付き合うと約束したわけではないんだし)
 万が一、もしも奇跡が起きて天下が百位以内に入ったら、自分も潔く手を引こう。結論付けたところで涼は給湯室へ繋がっている方へと向かった。可能な限り足を忍ばせて、だ。扉にはガラスの小窓がついており、中を覗けるようになっている。無論、こちら側からも。
涼は慎重に扉に足を引っ掛け、一気に蹴り開いた。見下ろし、艶然と微笑む。
「奇遇ですね、渡辺先生」
 中途半端に屈んだ状態で渡辺民子は目を剥いていた。
 同じ苗字。同じ高校の教師。同じ性別――共通点をいくら挙げても所詮、涼と民子は他人だ。双子のように相手の考えが手に取るようにわかることもなければ、同じ痛みを分かち合うこともできない。しかし、目の前の女性が何を思い、ここで盗み聞きをしていたのかは察することができた。
「どういうことですか?」
 民子は悪びれも無く立ち上がった。質問というよりは詰問だ。
「渡辺先生は、佐久間先生とお付き合いなさっているのでは?」
 口ぶりはあくまでも教師に相応しからぬ涼の言動を咎めている。が、その目は優越感に満ちていた。決定的証拠を掴んだことに。
「どうして鬼島君と二人っきりで指導室に?」
 民子は執拗に食い下がる。蛇を彷彿とさせる執念に、涼はなんだか面倒になった。
「お聞きの通りです」
「では、生徒と――」
「今の会話で私が鬼島と交際していると断じるのなら、渡辺先生の見識を疑わざるをえませんね」
 涼は大げさに肩を竦めてみせた。
「彼が私に好意を寄せているんです。毎回毎回しっかり断っているんですけどね。最近の高校生はずいぶん粘り強いようで」
「では、あなたの方にその気はない、と言うのですね?」
 民子は陰湿に笑みを浮かべた。
「校長先生の前でも、同じことが言えますか」
 どうしてそこで校長が出てくる。いちいち上の権威を借りなきゃ同僚の教師一人さえも咎めることができないのか。
「わざわざ自分からは言えませんね」
 認めれば民子の笑みが深くなる。それで涼は確信した。民子を突き動かしているのは教師としての義務感でも何でもない。
「ですから、渡辺先生の方から口添えしていただけると嬉しいですね」
 一転して民子は呆けたような顔になる。涼の言った意味を理解しかねるようだ。
「一般常識に欠けているとはいえ、普通科の優等生です。学科の違う私が咎めるわけにも、かと言って応じるわけには勿論いきません。正直、どうしたものかと扱いに困っていたんです。渡辺先生の方からそれとなく諭していただけると助かります。ついでに校長先生にも説明して下さるともっと嬉しいです。ありがとうございます」
 勝手に協力者にされた民子は、しばし呆然としていた。が、やがて盛大に眉をしかめる。
「何を言っているんです?」
「私に後ろめたい事は何一つとしてない、と申し上げているんです」
 経験上、民子のような相手には強気な姿勢が一番効果的だと涼は知っていた。
「ですから、どうぞご自由になさってください」
 そして突き放すように言ってしまえば、民子はどうすることもできなくなることも。そもそも彼女の目的は涼と天下の関係を公にすることではないのだ。
 案の定、民子は唇を強く引き結んだ。涼の強情さを不快に思っているのを隠そうともしない。世の中自分と同じ考えを持つ人間が多数で、少数派の人間は異常だと断じて疑ってすらいない表情だった。
「佐久間先生とのご関係は、どう説明なさるつもりですか?」
 強引な話題転換。本人は急所を突いたつもりなのだろう。
「リョウ先生のおっしゃる通りだとしても、実際は交際していない二人がさも付き合っているかのようにふるまう――何か理由があると考えるのが普通ではありませんか? 人には言えない理由があるのではないかと」
 勝ち誇るように他人のプライバシーに踏み込んでくる。民子の無神経さに涼はげんなりした。他人の色恋に首突っ込もうなど物好きがいたものだ。
「知っての通りですよ」
 誤魔化そうと考えなかったわけではない。例えば、天下があまりにもしつこく交際を申し込んでくるから、口実として佐久間に協力してもらった、とか。それが今になってバレてややこしくなった、だの。自分でも呆れるくらい嘘の言葉は浮かんだ。
 しかし、疑っている相手ならまだしも、確証を得ている相手にどう言葉を取り繕っても無駄だ。
「佐久間先生に関しては、渡辺先生がご覧になった通りです」
 涼が含めた意味を民子は察しなかった。言葉面をそのまま呑み込んで、注視しなければそれとわからないくらい微かな笑みを漏らした。が、気の緩みも一瞬で引き締め、冷静を取り繕う。
「では、校長に報告しなければなりません」
 白々しい義務口調。さらに民子は咎めるように目を眇めた。
「しかしリョウ先生までもがどうしてそんな軽率な真似を? 教師と生徒ですよ。常識的に考えれば止めるのが普通ではありませんか。何故、協力なんかしたんです?」
 土足で踏み込んできた挙句、説明を要求する。この身勝手さによって涼のただでさえ長くない気が限界を迎えた。
「もういい加減にしてくださいませんか」
 鈍痛がする頭を抑えて、半ば自棄気味に言い放つ。
「何故私がこんな馬鹿げた隠ぺい工作に付き合ったか。お知りになりたいですか? 端的に理由を申し上げれば、あなたのような方がいらっしゃるからですよ」
 民子は鼻白んだ。
「どういう意味です?」
「教師と生徒の恋愛なんて正気の沙汰じゃない。そんなこと、わざわざ言われなくてもわかっています。そのわかりきったことを、配慮もなく人目のつく場所で責め立てるような無神経な方がいらっしゃるから、私は内々に事を収めようとしたんです」
 涼の苛立ちの原因は民子の言動にあった。
 生徒と教師の密会現場を捉えたのなら、まず周囲の目の届かない場所に移動し、事情を問い質すのが普通だ。駅構内のあんな大勢の人前で、晒しものにする必要はなかった。そこに涼は民子の悪意を感じ取ったのだ。
 吊るし上げになった側がどれほど傷つくか。そこまで思い至らないくせに干渉してくる民子が涼には赦せなかった。
「馬鹿の一つ覚えみたいに正論を何度も振りかざさないでください。おっしゃる通り、生徒と教師の恋愛は大問題です。分別すれば『悪い事』になるのでしょう。しかし、佐久間先生が間違っているから、あなたが正しい、ということにはならないんですよ」
 佐久間と遙香は軽率だった。しかし、その非を責め立てる権利は民子にはないのだ。それを、まるで鬼の首でも取ったかのように、これ見よがしにかざし、いやしく貶め踏み躙る。涼に言わせれば民子の心ない言動にもまた、非があった。
「渡辺先生」
 色を失うほど唇を噛みしめる民子に、涼は剣呑な視線を向けた。
「大義名分が自分にあるからといって、他人のデートの後をつけたり、ましてや職場に脅迫文紛いのものを送りつけるのは、いかがなものでしょうかね」
「一体何の……」
 民子が取り繕うように笑う。
「どうして矢沢さんと佐久間先生が交際していると知っているんです?」
 笑顔は無視して涼はたたみかけた。
「二人で会っているところを見た。おまけに親しげでただならぬ雰囲気だった。たしかに、怪しいと思える状況であることは認めます。しかし確信がないのなら、平然を装って話しかけるか、後日事情を聞いてみるのが普通でしょう。怪文騒ぎがあったのならなおさら慎重に行動するものです。いきなり喧嘩腰で当人に問い詰めたりなどしません。もし誤解なら赤っ恥ではありませんか」
「見ればわかります。だいたい、新年早々二人きりで会っているなんて不自然ではありませんか」
「不自然な状況ではありますが、決定打には欠けます。あなたは二人の様子を見て疑惑を抱いたんじゃない。最初から疑っていたんです。状況がその疑惑を裏付けただけです。いや、確信していたと言った方が的確ですね。でなければ、いくら匿名とはいえ、お三方に告発文を送りつけるような大胆な真似はできないはずです」
 民子は一瞬、虚を突かれたかのように涼を見つめ、それから唇を震わせた。
「それではまるで、私が二人を陥れようとしたみたいではありませんか」
「みたい、ではなく明確な悪意を持ってなさったと私は推察いたします」
 他人の色恋を職場で暴露。正気の沙汰ではない。我を失っていなければできないことだ。
「一体、何の証拠があってそんなことを……っ! 無礼にも程があります。私を侮辱なさるおつもりですか」
 顔面蒼白で民子がわなないた。
「では、矢沢さんが佐久間先生と会っているのを見かけただけで、例の怪文と結びつけたのですか?」
「当然皆そう思うでしょう? 匿名とはいえ、怪文の通り矢沢遙香は二年三組の女子生徒です。ここまで重なっていたら疑うなと言う方に無理があります」
 民子は濃い目の口紅を施した唇を挑発的につり上げた。
「誰が見ても二人は怪しいです。なんでしたら、他の先生方のご意見を伺ってもかまいませんよ」
 どこまでも強気な姿勢。それは過信に近かった。
他の先生方も味方してくれるはず。だから自信を持って言える。逆を言えば、誰かの後ろ盾がなければ動けないということだ。その証拠が、先ほどからやたらと民子の口から出てくる『校長』だの『皆』だの、直接関わりのない第三者の名だ。『皆』の支持がなければ自分の考え一つ言えやしないのだ。
「その必要はありません。もう十分です」
 涼はため息を吐きたいのを堪えて言った。
「渡辺先生、あなたは何故あの怪文にあった佐久間先生の交際相手が矢沢遙香を指していると知っているんですか?」
「前にも言いました。学年主任から聞いたんです」
 質問の意図を探るように民子は睨みつけてきた。だからというわけではないが、涼は早々に結論を言った。
「怪文には『二年の女子』とありましたが『二年三組』とは一言も記されていません」
 民子は二の句が継げなかった。目を見開き、驚愕とも憤怒ともつかない歪んだ表情のまま硬直する。それは、言葉よりも雄弁な返答だった。
「……私の言い間違いです」
「言い間違いで済ませるのはどうでしょう。校長の使いで私を呼びに来た時すでにあなたは『二年三組の女子』だと言っていました。あの時点で佐久間先生の交際相手が『二年三組の女子』だと知っているのは、当事者でなければ怪文を送りつけてきた人だけです」
 決定打。確かな手ごたえを涼は感じた。民子の視線が行き場を求めて彷徨う。やがて逃げ場のないことを悟ったのか、真っ直ぐに涼を見据える。見ているこっちが危うくなるほど直情的な眼差しだった。
「私は嘘など書いていません」
 堰を切ったように民子は饒舌に語り出した。
「全て本当の事です。リョウ先生だってご存知でしょう。あの人は教師でありながら、よりにもよって生徒と関係を持ったのです。十も歳下の小娘にですよ? 相手は火遊び程度にしか思っていないのに、恥も外聞もなく女子高校生の気まぐれに付き合って……っ!」
 佐久間達を貶めれば自らの正当性が証明されるかのようにまくしたてる。しかし、そんなことはなかった。生徒と教師の恋愛がいかに常識外れだろうと、騙しうちのように怪文を送りつけるのは卑怯な行為であって、それ以外の何物でもないのだ。
「私は、間違ってはいません」
 民子は断言した。が、根拠がなかった。
「そのお言葉、あなたの好きなお三方の前で言ったらどうです?」
 容赦なく涼が突けば、民子は脆くも崩れ落ちた。言えるはずがない。でなければ校長、教頭、学年主任のお三方に匿名で怪文を送りつけ、騒ぎを引き起こしたりなどしない。
 生徒と教師の恋愛はご法度。しかし不用意な行動で騒ぎを起こした事とはまた別問題だ。涼に指摘されてようやく民子はそれを悟ったらしい。事が公になれば佐久間と遙香はもちろん糾弾されるが、民子もまたただでは済まないことを。
(まだるっこしいことなんてせずに、学年主任にでも相談すれば良かったのに)
 そうすれば、生徒と教師の恋愛問題で話は済んだ。一方的に責めることだってできたのに。民子の行動は理解に苦しむ。
 民子は力無く顔を上げた。
「佐久間先生に言うんですか?」
 どうあっても他人の目が気になるらしい。涼は心底呆れた。
「私は生徒が平穏無事に卒業できれば満足です。それ以上は望みません。波風さえ起らなければ何も申し上げる必要もないでしょう」
 暗にこっちも目を瞑るから、あんたも黙っていろと言ったのだが、民子は縋るような目をした。この変わり身の早さ。呆れを通り越して感心さえしてしまう。
「私は、どうすれば……」
「ご自分で考えてください」
 佐久間といい民子といい、先輩教師の不甲斐なさに涼は軽い眩暈を覚えた。他人依存にも程がある。これがいい歳した大人か。
 しかし涼も他人のことを言えた義理ではなかった。清算はしなくてはならない。模試の結果を待つまでもなかった。涼の中で結論はもう出ていたのだ。


 小芝居から降りる旨を伝えると、佐久間は呆けた顔になり、数拍後にようやく意味を理解して狼狽した。
「ちょっと待って下さい、リョウ先生」
「ええ、待ちますよ。あと何日ですか? 別れる理由も考えなくてはなりませんね」
 適当にあしらって、涼はスタンウェイの鍵を開けた。昼休み。次の五限は普通科の音楽の授業。鑑賞室は涼の貸し切り状態だ。密談を行うには丁度いい。
「それは、鬼島のせいですか?」
 涼とて佐久間が素直に引き下がるとは思ってはいなかった。が、食い下がる部分が予想と違った。何故いちいち天下が出てくるのだ。
「彼は関係ありません」
「失礼ながら彼とあなたは、ただの生徒と教師には見えませんよ。元旦の時だってそうですし、先日職員室で呼び出されましたよね?」
「佐久間先生には関係のないことです」
「それでは納得できません。おかしいではありませんか。どうしてそんな急に……」
 急ではない。限界は来ると最初からわかっていたことだ。きっかけは元旦の一件だが、前々から感じていたことだ。小芝居がいつまで続くはずがない、と。
「鬼島が言ったんですか? だから止めるんですね?」
 佐久間は決めつける。原因が自分にあるとは微塵も思っていない口ぶりだ。勝手に三文芝居の舞台上に引きずり出しておいて、降りることすら許さない。なんともいい御身分だ。
「何度も言わせないでください。鬼島君は関係ありません」
「しかし、彼はあなたに好意を寄せていますよ?」
 そんなこと、お前に言われなくてもわかってる。涼は怒鳴りそうになった。他人の色恋を案じる暇があったら自分の事をどうにかしろ。
「ご安心ください。私はどこぞの後先考えない教師とは違って、生徒に応じたりはしません」
 怒鳴りこそはしなかったものの、口調は完全に喧嘩腰。苛立ちのままに涼は言葉を紡いだ。何もかもが厭わしかった。
「まだわからないんですか? 迷惑なんですよ。頼んでもいないのに踏み込んできて、振り回して、どうにもならなくなったら私に押しつける。鬼島も勝手ですが、あなたはそれ以上に勝手です」
「私は……」
「『私は』『私は』って自分のことしか考えてらっしゃらない。隠すのには一生懸命なようですけど、万が一バレた時のことを考えているんですか。最終責任は教師が取るしかないんですよ? なのに渡辺先生に問い詰められた時だって、黙ってらっしゃるだけで自分からは何一つしようとしない。隣で矢沢さんが責められていても助け舟すら出してやらない。本気で生徒と恋愛するんだったら――同僚を巻き込んで恋愛するくらいなら、自分の職を懸けて庇ったらどうなんですか」
 半分以上八つ当たりだ。わかってはいたが止められなかった。弁明をするなら、これまでの鬱憤が募っていたのだ。天下といい、佐久間といい、自分の想いを貫くと言えば聞こえはいいが、結局は周囲を全く顧みてないだけだ。
「覚悟もないくせに他人を巻き込まないでください」
 仮に、天下とそういう関係になったとしても、発覚した際に咎められるのは教師である涼の方だ。間違いなく免職。それだけならまだいい。無責任な教師を雇った学校はどうなる。学校を信頼して預けた天下の父は? 何よりも、教師とデキていたと一生後ろ指差される天下は一体どうなる。彼がこれから歩むであろう未来は。
 考えて、考えて、堪らなくなるのだ。どうしようもなく惨めになる。
(……どうして、私ばっかり)
 遙香も佐久間も天下も、涼には理解できなかった。涼があれほど望んでも、願っても手に入らなかったものを掴んでおきながら、どうして簡単に投げ出そうとする。
――必死に護ろうとしている自分が馬鹿みたいではないか。
「話はそれだけです」
 絶句した佐久間を余所に涼は鍵盤へ手を伸ばした。いつもなら授業の伴奏を練習するのだが精神的にそんな状態ではなかった。
 薄氷を割ったような一打目。そのまま叩きつけるようにエチュードを描いた。繊細とは程遠い荒々しい旋律。左手の激しいアルペッジオに乗せて和音を奏でる。
 観念して佐久間が立ち去っても涼は弾き続けた。
 さすがはピアノブランド最高峰スタンウェイ。指先の意思が鍵盤に、弦を叩くハンマーに、そして空気へと伝わり響く。ひたすらに指を滑らせることだけに集中した。
重要なのは情熱ではなく冷静さであることを知ったのはいつだろう。無論、情熱が不要というわけではない。毎日毎日ひたすらに練習を続けるには情熱が必要不可欠。が、演奏面においては情熱的である必要はあっても、情熱は必要ない。むしろ邪魔だ。
では何が音楽家たらしめるのかというと、情熱をコントロールする技術と冷静さだ。情熱的に弾いていながらも、心の一部は冷めていなければならない。人はそれを余裕とも言う。
だから駄目なのだろうな。涼は自嘲した。余裕を残せない。自分のことで精一杯で。それは音楽でも日常生活でも言えることだ。
「先生」
 演奏終了の余韻を低めの声が打ち砕いた。金曜の五限目は普通科の音楽だ。天下なら早めに来るだろう。教科書を携えた状態で、ゆっくりと口を開いた。
「俺は迷惑ですか」
 聞いていたのか。いつもいつもタイミングの悪い奴だ。笑おうとしたができなかった。こちらを見つめる天下の眼差しは壊れそうなほど儚くて、必死だった。見ている方の息が詰まる。
 不意に涼の中でこれまでのことが思い起こされた。
 やめろ。目を覚ませ。諭すように拒んではいたが、迷惑だとは言っていなかった。寄ってくるのは自由だ。でも自分は応じられない。傍にいることだけは許していた。
「迷惑だよ」
 本心だった。このところ、天下に振り回されてばかりだ。おかげで自分にまで疑いがかかっている。これを迷惑と言わずして何と言う。
「君は情熱だけで突っ走れるからいい。でも私はどうなる? 君の将来とか、世間体とか、自分の職とかを考えなきゃならない私はどうなるんだ」
 庇わなくてはならない。護らなければならない。天下が蔑ろにするものを、本人の代わりに――でも、そんなのは惨めだ。
「大変なんだよ、君が傍にいると」
「そんなもん――」
「私にとっては、そんなものじゃない。今まで積み重ねてきたものが崩れてしまうかもしれないんだ。同じだけのものを君は懸けられるのか? 大人に護られているだけの高校生に、そんな真似はできない。してはいけないんだ」
激昂するかと思いきや、天下は冷静だった。表面上は。込み上げてくる何かを堪えるように「そうですか」とだけ呟いて席に着いた。
「ご迷惑かけて、すみませんでした」
 深々と頭を下げる。机に置いた教科書。その上に模試の参考書が重ねられているのを発見し、涼は目ざとい自分を恨んだ。知らなければ良かった。高校生なりに努力していることなんて、知りたくはなかった。
 大変だと言った言葉に嘘はない。天下が傍にいると辛い。輝かしい将来とか、夢とか、あっさりと捨ててしまう天下が憎らしくさえ思えてくる。傍にいると苦しいのだ。
 でも、離れてしまうと寂しいのもまた、事実だった。


「あんたが悲しいのはよくわかったわ」
 とりあえず最初の一時間は黙っていた琴音だが、ついに堪忍袋の緒が切れたらしい。音楽雑誌を閉じて、半眼でこちらを見る。
「だからって私の家に来ないで」
 涼は指先に力が入らないことに気が付いた。普段あまりピアノを弾かないせいだ。授業での伴奏はともかく激しいタッチの曲を弾き続けられるほど鍛えられてはいない。
「疲れただけだ。悲しくはない。むしろ安堵しているね。これで私の平穏が戻ってくる」
「じゃあウチに上がり込んで延々ピアノ弾き続けないでよ。しかも何? さっきから『革命』ばっかり。ショパンになんか恨みでもあるの?」
「今、エチュードでまともに弾けるのこれだけなんだよ」
 専攻はあくまでも声楽。ピアノは副科だ。自宅にピアノを置けるほど裕福でもなければ必要性も感じなかった。が、衝動的に演奏をしたくなると不便だ。琴音の家へ行くしかない。兄から受け継いだスタンウェイのグランドピアノ――は絶対に触らせない琴音だが、隣に置いてある電子ピアノは自由に弾かせてくれる。今のように多少乱暴に扱っても、目を瞑っていてくれる。
「面倒な子ね、涼ちゃんって」
 琴音は深々とため息を吐いた。
「自分で振っておいて傷ついていちゃ世話ないわよ」
「少しセンチメンタルになっているのは認める。けど、決して傷ついているわけじゃない」
「それを世間では傷心って言うの」
 涼は鼻を鳴らし、鍵盤を軽く拭いた。電子ピアノとはいえ立派な楽器だ。扱いが変わるわけではない。スタンウェイだろうと中古のピアノだろうと楽器だという一点で尊重すべきものになる。それは琴音も一緒だ。
 しかし、彼女にとってスタンウェイだけは別だった。高級ブランドであるのも理由の一つだが、一番は兄が愛用しているものだからだ。帰国の際は必ず弾いているという。敬愛する兄が使うピアノ――それだけでグランドピアノは琴音にとって特別な価値を持つ。
「成長ないわよね。『カルメン』の時だってそう。自分が犠牲になればいいとか、格好いいこと考えて勝手に諦めるの。そのくせ、いちいち傷ついて」
 黒光りするグランドピアノが視界に入る。どうしてだろう、と涼は思った。同じピアノなのにどうして差が出てしまうのだろう。
「価値がわからないんだ」
涼は呟いた。選ばれた理由がわからない、と。
「きっかけはたしかに先輩に反対されたことだけど、理由は別だ。私がカルメンをやることで波紋を呼んでいる。それでもなお私がカルメンをやることに意味を見い出せなかった。私がやろうと他の誰かがやろうと変わらないと思った。私じゃなければいけない理由が見当たらなかった。だから降りた。それだけ」
 偽善でもなんでもない。いつも最善の方法を考えてきただけだ。『カルメン』だって琴音が主役を全うしてくれたおかげで成功を収めた。間違ってはいなかった。誰も傷ついていない。
「でも本当はやりたかったんでしょ? カルメン。一生懸命練習してたじゃない」
 口調は責めるものだったが、それを言う琴音は苦しげだった。
「鬼島君は別にあんたが嘘を吐き続けているから責めているわけじゃないのよ? あんたが自分を蔑ろにしてるから怒ってんの。正直、私も呆れてる。クビになるからだか何だか知らないけどね、普通同僚に『僕はあなたのことは好きでも何でもないですが、僕らの都合上彼女のふりをしてください。好き合っているふりをしていてください』なんて頼まないわ。どんだけ他人のこと馬鹿にしてんのよ」
 愛しのお兄様が表紙を飾る音楽雑誌。それの上に琴音は音が出るほど乱暴に手を置いた。
「でね、普通は頼まれてもそんな馬鹿げた頼みは引き受けないの。プライドってもんがあるじゃない。たとえ生徒の一生に関わることでも断るの。身勝手極まりない小芝居に休日返上で付き合ったりはしないの、普通は」
 一気に言って肩を落とす。琴音は興奮と息を落ち着かせた。が、苛立ちは消えていない。兄に似て整った眉は寄せられたままだった。
「そうじゃなきゃ惨めじゃない。涼は一体何なのよ? 散々利用されて、悩まされて、好きでも何でもない男のために苦労する涼は一体何なの?」
 その程度の人間だということですよ、榊琴音さん。
 口にしたら最後、烈火のごとく怒り狂うのは目に見えていたので、涼は黙りこくった。人類皆平等なんて嘘だ。琴音のように理解ある両親と兄弟、何不自由ない生活を生まれながらに持っている人もいれば、生まれて息をしただけで不必要と捨てられた人だっている。
 無価値な人間などいない。しかし人それぞれの価値に差はあるのだ。誰が否定しようと厳然と存在する差が。
「人には分ってものがあるんだよ」
「あんたが勝手に作った分がね。自分を卑下するのも大概にしなさいよ。傍から見てて苛々する。涼は昔っからそうだった」
 変わる要素がないのだから当然だ。何年経とうと涼の生まれが変わるわけでもない。
「勝手に分を決めて、そこから出ようとしない。欲しいものがあっても指をくわえて見ているだけ。手を伸ばす前に諦めている。それも全部、自分の分のせいにして」
 誰も決めてくれなかったから、自分で身の程を決めただけだ。
 生まれて最初に覚えたのは、諦めるということだった。自分が力を尽くしても決して手に入らないものがある。それを涼は幼い時から知っていた。同時に、そんな努力をしなくても手に入れられる人もいることも。世の中は、そんな人が大半を占めることも。
「欲しいものがあるなら力を振り絞って掴んでみなさいよ。努力している人に失礼だと思わないの?」
 正論だ。しかし涼には詭弁にしか聞こえなかった。努力さえすれば手に入るものしか欲しがったことのない琴音だからこそ言えることだ。最初から用意されていた側の言い分に過ぎない。
「じゃあ、どんな努力をしたら」
 琴音の言う通りだ。自分は昔から何一つ変わっていない。二十年以上経つのに自分の決めた分から一歩も踏み出せずにいる。涼は悪意を込めて琴音に訊ねた。
「どんな努力をしていたら、私は捨てられなかったんだろうね?」
 自分の失言に気がついたのか、琴音は気まずげな顔をした。
「ごめん。言い過ぎた」
「私も、急に押し掛けてきて悪かったよ」
 会話の終了を示すつもりで涼は立ち上がった。ここにいても琴音も自分も不愉快になるだけだ。鞄を手に取り、コートを羽織った。
「涼」
 途方に暮れたように琴音が名を呼ぶ。
「本当にごめん。私、そういうつもりじゃ」
「知ってるよ」
「でもね、今のままがいいとは思えないの。もっと自信を持ってほしいの。やっぱりおかしいよ」
「わかってる」
 涙を湛えた琴音の瞳は潤んでいて、涼は綺麗だと思った。
見目の美しさだけない。他人を思いやることのできる心が、だ。残念ながらそのどちらも自分にはなかった。泣くことすら虚しくてできやしない。見ているのも苦しくなって涼は玄関へ向かった。
(なあ、どうしたら君みたいになれる?)
つい訊ねてみたくなる。榊家に生まれていたら、せめて親に不要もの扱いされなかったら、琴音のようになれたのだろうか。
「大丈夫だよ。君が悪いわけじゃない」
 むしろ原因は自分にある。何でもかんでも生まれのせいにしてしまう卑屈さが涼の全てだった。
「でもな、わからないんだ」
 ドアノブに手を掛けた中途半端な状態で、涼は振り返った。
 琴音は怒って当然だと言う。彼女のふりだなんて、同僚を馬鹿にした行為だと。二年生だという理由だけで主役を降ろされるなんて不当な扱いだと。しかし、当の涼自身は怒りを覚えなかった。
 代用品扱いに天下は激怒した。全国模試百位以内という無謀な試みに挑んでも、自分の将来をふいにしても構わない、とさえ言った。しかし涼はそうは思えなかったのだ。天下が寸暇を惜しんでまでしなくてもいい勉強に励み、待ち構えているであろう輝かしい未来を捨てる。そんなことをする理由が見当たらない。
「自分にそれだけの価値があるとはどうしても思えないんだ」
 スタンウェイのピアノが最高級のものであると価値付けられるのは、生み出した『スタインウェイ&サンズ』が最高の価値を付け、世の音楽家達がその評価を支持したからだ。人間ならば親がそれに相当する。どんな人間であろうと、親にとっては無条件で愛すべき存在であり、最高の価値を付けられる。
ではその親に不要なものと――無価値であると断じられた自分の価値は、一体誰が決めるのだろう。


 積み上げたものを崩すのは簡単だ。たった一週間の間に民子とは半ば敵対関係になり、佐久間とは絶交し、琴音とは気まずくなり、天下に至っては目すら合わせないようになった。自分がいかに脆い関係で繋がっていたかを涼は改めて実感した。
 周囲は相変わらず涼と佐久間が交際していると思い込んでいる。涼もあえて否定はしなかった。佐久間にはああ言ったが、遙香が三年になるまでは小芝居を続けてやるつもりだ。
 表向きは職場恋愛だ。浮ついていると先輩教師から嫌味を言われることもある。生徒にからかわれることもある。天下には軽蔑されただろう。しかし全て、涼が我慢すればそれで済むことだった。
 大したことではなかった。もっと酷い扱いだって受けてきた。悔しくて眠れなかった時だってあった。でも涼はしぶとく生きている。ピアノだって弾くし、授業だってできた。心労で倒れることもない。
 だから、大したことではない。
 そうして折り合いをつけて数週間。模試も終わった月曜日の朝、涼が寝ぼけ眼を擦り職員室へ向かっている際に、その匂いは鼻を掠めた。学校にはそぐわない微かな香り。
「煙草」
 反射的に口に出すと、見覚えのある背中が振り返った。高校生にしては鋭い双眸。授業以外でまともに顔を合わせるのは久しぶりだ。
「匂い、また残ってる」
 内心の動揺を悟られる前に涼は踵を返した。職員室とは反対方向。それでもこの場から逃げ出すことの方が重要だった。
 背後で舌打ち。
「相変わらず細けえ」
「学校は禁煙ですから」
「煙草も駄目。恋愛も駄目。だから不登校が増えるんじゃねえの? 窮屈過ぎんだよ」
 何故ついてくる。意地でも振り向くまい、止まるまいと涼は足を速めた。
「望ましくないんだ。やるならバレないようにこっそりと。バレた際はペナルティを甘んじて受けましょう、自己責任で」
「じゃあ俺が責任取るから付き合って下さい」
「再就職先の斡旋でもしてくれるわけだ。どうもありがとう」
「待てって」
 中央廊下に差し掛かったところで天下が痺れを切らした。肩を掴まれて、涼は仕方なく立ち止まった。
「頭は冷えたのかよ?」
 神妙な顔でそんなことを訊ねてくる。
「冷やすのは君の頭の方だ」
いっそ氷水にでも頭を突っ込んでくれ。そうすれば教師に交際を申し込むなどという馬鹿げた考えも吹っ飛ぶだろう。そうだと全力で期待したい。
「一人で勝手に盛り上がって。迷惑だって何回言えば理解するんだ」
 感情を乗せずに、静かに、取り付く島を与えない。涼は極めて冷静に対処した。目論見通り天下の神経を逆撫でることに成功。眉間に皺が生まれる。
「責任なんか取れるわけないじゃないか。自分の面倒すら自分でみれない高校生が偉そうに口を利くな」
「伊達巻一つ作れない先生に言われたくはありません」
「卵焼き作れる程度で調子に乗るんじゃない。料理ができようと全国模試で百位だろうとあくまで君は高校生で、生徒で、子供なんだ」
 天下は眉根を寄せた。
「……またそれかよ」
 苦々しげに顔を歪める。
「二言目には教師だ生徒だ。ていのいい言葉並べて逃げやがって、結局あんたはどうなんだよ」
 不貞腐れているような、不機嫌そうな、なんとも表現しがたい険しい面持ちで訊ねた。
「俺が、嫌か?」
「対象外なんだよ。好きも嫌いもない。興味がないんだから」
「嫌かどうか聞いてんだ」
 返答に窮していたら、やたらと得意げに天下が顔を覗き込んできた。期待に満ちた眼差しが気に障る。
「じゃあ好きか?」
「いや、それはない」
 即答。しかし天下は怒るわけでもなく鼻を鳴らした。
「好きでもない、興味もない生徒を自宅に上げたりするのかよ。だとしたら、とんだ悪女だぜ? あれだけ思わせぶりな事しておいて、期待させて、カルメンだってそこまでしねえよ」
「気を遣っているんだ。これでも教師だからな。繊細な少年少女の心を傷つけないように、何事も穏便に済ませようと思っていたんだ」
「にしては、上手くいってねえのな」
 何の事を指しているのかは明白だ。佐久間達の件も破綻寸前。どんなに上手く取り繕ってもどこか綻びはある。民子には半ば脅迫まがいの手段で口止めをしたが、いつまで続くかはわからない。それに危機感のないバカップルのことだ。二人の軽率な行動を気に留めている者が他にいないとは限らない。
「先生、またあの二人のことを考えてますね」
 天下の口調は怒りを通り越して呆れていた。
「君に責められる筋合いはない」
「責めてませんよ。でも、約束は守ってくださいね」
 実際に模試を受けてもまだ自信を喪失していない。その図太さに涼は開いた口が塞がらなかった。百なんて生ぬるい。五十位以内にしておくべきだったか。
「わかってる」
「俺のこともですよ」
「何回考えても答えは一緒だけどな。迷惑で面倒なだけだ。お互いに」
「またそうやって立場を持ち出す。卑怯ですよ、先生」
 卑怯とは心外だ。こっちはどう事を収めようかといつも考えているというのに。苦労も知らないで好き勝手やりやがって。天下も、佐久間も、遙香も、みんな勝手だ。
「立場をわきまえずに動ける君がうらやましいよ」
「あんたが教師の職にしがみついてるだけだろ」
 元旦にも同じことを言われた。教師面するな。そんなに良い教師でいたいのか。耳の痛い言葉だ。生徒と教師の交際に反対していながらも手を貸している中途半端さを、天下は軽蔑している。
生徒に嫌われても間違いを正すのが教師の役目だ。その点、涼がやっていることはただ佐久間と遙香を甘やかしているだけなのかもしれない。
では、どうしたらいい。引き離すこともできず、かといって校長に報告することもできない。仮にも生徒だ。見捨てられない。
「仕方がないだろ。私から教職を取ったら、何も残らない」
「なんでそんなにネガティブになるんだよ」
 天下が苛立たしげに頭を掻きむしったその折だった。
「渡辺先生」
 酷く慌てた様子で恵理が呼ぶ。
「こんなところにいたんですか」
 涼は努めてさり気なく天下から離れた。天下が不快に思うのも知っての上だ。誤解を招く行動はできるだけ控えたかった。
「何かあったんですか?」
「至急、職員室まで来て下さい」
 それだけで何の説明もない。つまり生徒の前では言えないことなのだろう。涼の胸に嫌な予感がひしめいた。
「わかりました。すぐ参ります」
 しかし逃げる選択肢などあるはずがない。涼はどうしようもなく教師だった。それ以外にはなれなかった。


 朝の会議等で職員室には毎日訪れるが、音楽科準備室に机があるため、長居はしない。ゆっくり紅茶を飲むのも、授業の準備するのも全て準備室でだ。改めて入室すると、意外に職員室は広く感じた。
 教師の数が少ないせいかもしれない。その十数名の視線が一斉に向けられ、涼は面食らった。場所を間違えたのかと一瞬思う。が、その考えはすぐさま消えた。
 教師に囲まれている女子生徒がこちらを振り返った。途方に暮れたような眼差し。いつもの小生意気さは鳴りを潜めていた。その隣に立ち尽くしているのは佐久間。それだけで涼が全てを察するには十分だった。
 ついに破綻したのだ。
「何事ですか」
 白々しいと思いつつも涼は何食わぬ顔で近寄った。
 対峙する形で立つ学年主任は無言で写真を突きつけてきた。画像が荒い点からしてケータイで撮ったものだろう。それをわざわざ現像する辺りに悪意が伺えた。しかし、重要なのは誰がどう撮ったかではなく、何が映っているかだ。
 どこぞの教室内(空き教室だろう)で抱き合う二人。
 もはや言い訳のしようもない。状況が許すなら涼は笑い出すところだ。よりにもよって学校で。電車の中なら「よろけたのを咄嗟に支えました」で誤魔化せたものを。
人気のない校内で制服姿の教え子を抱きしめる教師――適当な説明などできるわけがなかった。
(終わったな)
 幕引きだ。古今東西、秘密事が明るみにならないケースは極僅かだ。『ローエングリン』の白鳥の騎士の名だって明らかになるし、トゥーランドットに挑んだカラフ王子だって最終的には自分の名を自ら明かす。オペラの役者たるもの、潔く幕を引くべきだ。涼の小芝居は終わった。
 しかし、これはオペラでも小芝居でもない現実だった。『悲劇』の一言で幕が下りるわけじゃない。どれほど悲劇的で苦痛に満ちたものであってもその先を続けなければならないのだ。ならば精一杯足掻くしかない。
「何ですか、これは」
「私が聞きたいくらいです。佐久間先生と矢沢さんが抱き合っているように見えますが、一体どういうことです?」
 見ての通りです、学年主任。
 ぶちまけたいのを涼は堪えた。許されるものなら逃げ出したかった。遠慮なく注がれる軽蔑と胡乱の眼差し。耐えがたい屈辱だ。それでも涼は折れるわけにはいかなかった。
「お二人は何と?」
 学年主任は無言で顎をしゃくった。本人から弁明しろと言わんばかりの態度だ。佐久間は唇を引き結んだまま、何も言おうとはしない。その隣にいる遙香が逡巡の後に口を開いた。
「……先生は、悪くありません」
 と、一言。それ以上は何も言おうとしない。本人は佐久間を庇っているつもりなのだろうが、逆効果だ。意味深な態度にますます疑惑は深まる。
「渡辺リョウ先生、あなたはこのことをご存知だったんですか?」
 ここで何も知らなかった、と言えば、涼が咎められることはない。交際相手に浮気されたという大恥はかくことになるが、責任を問われることはない。半年近くも隠ぺいに協力した教師も共犯だ。教師ではいられなくなる。
 涼から教職を取って後に残るのは、幼いままの渡辺涼だ。母親が秤にかけて捨て去った。その程度の価値しかないものだ。
 遙香が切羽詰まった声で弁明した。
「渡辺先生は、関係……」
「存じ上げていました」
 涼がそれを遮った。呆れかえる学年主任を正面から見据える。
「九月頃でしたか、彼女から相談されました」
 慎重に言葉を選ぶ。決定的な発言は避け、突破口を探った。何か、適当な言い訳はないか。もっともらしい正当な事情を言おうと涼は頭を捻った。
教室内で熱い抱擁を交わす生徒と教師の事情――どんな事情だ。再就職先を探した方が有益のような気がする。そうだ。そうしよう。
「何を相談されたんですか?」
「元旦にも、お二人は会ってましたよね?」
 追随するように民子が訊ねる。質問よりも確認に近かった。わざわざ声に出して訊くことでこちらに認めさせたいのだ
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