文字数 20,048文字


 修学旅行から帰ってすぐ、荷物整理よりも先に涼は琴音へ電話をかけた。
『あ、留守電聞いてくれたんだ』
「四件も入れられたらね。とりあえず応じてやろうとは思うよ」
 こちらの皮肉にも怯むことなく琴音は『だって涼が冷たいんだもーん』と甘ったるい声で責任転嫁。手強い奴だ。こいつも、そして――不意に頭に浮かんだ人物を、涼は即座に追い払った。
待て。どうして奴がそこに出てくる。
『京都だよね? いいなあ』
「代わってやりたかったよ」
 どこがいいものか。一日中生徒の面倒を見なければならなかった。こっちは五十分の授業ですら精一杯だというのに。京都の観光どころではなかった。その上、三日目の晩ときたら、もう……待て。落ち着け。
再び脳裏をよぎった生徒を即座に打ち消す。
『――で、どう?』
 琴音の声に涼は我に返った。
「え?」
『年末年始は涼も暇でしょ。良かったら二人で年越ししない?』
 それで涼はおおよその事情を察した。琴音は実家に帰りたくないのだ。
「愛しのお兄様は?」
 意地悪く訊いてみれば案の定、琴音は電話越しでもわかるくらい不機嫌そうに。
『演奏旅行。二人っきりで』
「いい加減兄離れしろよ」
『別に、お義姉様が気に入らないわけじゃないの。むしろ好きよ。でもね……いえ、だからこそお正月くらいは帰ってきてくれてもいいと思わない? 二年近く会ってないのよ?』
 このブラコンぶりには涼も苦笑する他なかった。琴音には八年歳の離れた兄がいる。世界的に有名なピアニストで、最近では多忙にかまけて実家にはほとんど顔を出さない。そのことを寂しがる可愛い妹――と言えば聞こえはいい。が、結婚して家庭を築いている兄に仕事も何もかも放り出して傍にいてほしいと願う二十歳過ぎの妹、というのはあまりにも大人げがない。
『とにかく、予定は空けておいてね』
「善処はするよ」
『オペラで年越ししましょう』
 不覚にも涼の胸は高鳴った。琴音は金持ちだけあって、貴重なCDや絶版になったレーザーディスクをいくつも持っている。
「マリア=カラスの『トゥーランドット』用意しといて」
『妙なのが好きね、涼ちゃんって』
 やや呆れた口調。
『普通マリア=カラスと言えば「カルメン」とかじゃない?』
 彼女の当たり役だ。故に大量に世に出回っている。涼でさえ持っている程だ。
「普通じゃつまらない。あとおせち。餅はこっちで用意する」
『はいはい。もれなくドミンゴ様も揃えておくわよ』
 涼は十二月のカレンダーに「オールナイト・オペラ」と書き込んだ。終業式以外何一つ予定が入ってなかった月に、とんだ楽しみが生まれた。一人大晦日に一人正月。毎年のことなので当然と受け止めていたが――
(あいつはどうするんだろうな)
 家に彼の居場所はない。親しい友人がいるとはいえ高校生が大晦日を家族以外の人間と一緒に過ごすとは考えにくい。親が許さないだろう。やはり一人なのだろうか。クリスマスも、大晦日も、お正月も――って。
 待て。だから、どうしてそこで奴が出てくるんだ。
 涼は頭を振った。修学旅行の間にずいぶんと毒されてしまったようだ。これはゆゆしき事態だ。
『ところで涼ちゃん』
 電話口からは呑気な琴音の声。
『修学旅行、どうだった?』
「聞くな」


 今学期最後の授業は終了。長ったらしい終業式も先ほど終わった。残るは要綱を見ただけでもつまらなそうな研修会が二日。それが終われば晴れて自由の身だ。ともすれば鼻歌混じりで机整理をしそうになる自分に涼は苦笑した。
同じ『お泊り』でも修学旅行の時とはえらい違いだ。それも当然。自由奔放に動き回る生徒の面倒を見る必要もないし、後先考えずに生徒と盛る教師の存在を誤魔化す必要もないし、ましてや相部屋にされることもない。それに、鬼島天下も――
(だ、か、ら、待てって)
 思わず手中の領収書を握り潰す。これは病かそれとも故障か。ヴァイオリンの弓と一緒にメンテナンスしてもらいたいものだ。誰か診断してくれ。
 帰り支度をしている涼の手元を恵理が覗き込む。
「渡辺先生はご実家に帰るんですか?」
 ない実家にどう帰ればいいのだろう。想像さえしていない恵理にわざわざ訂正してやる必要性を涼は感じなかった。こういう性格だからいまだに「リョウ先生」と呼ばれているのだろう。学校で涼の本名を知ってるのは現時点でだた一人――
「どうしたんですか……わ、渡辺先生」
 机に勢いよく突っ伏し、涼は沈黙した。肩を揺する恵理の声も耳に入らない。駄目だ。ありとあらゆる意味で末期だ。
「渡辺先生?」
(いや、そんなはずはない)
 涼は起き上がって頭を振った。
 ありえない。プラシド=ドミンゴならばまだしも、何故アリアの一つも歌えない六歳下の生徒なんぞに心奪われねばならんのだ。自分はどうやら何かが不足しているようだ。そう、リリコ・スピントとか。テノールにしては太く強靭な美声とか。
 つまり圧倒的にプラシド=ドミンゴが不足しているのだ。間違いない。
「修学旅行から帰ってからなんか変ですよ」
「心配には及びません。原因は判明しました」
 すっくと立ち上がり、涼は帰り支度を終えた。何も大晦日まで待つことはない。一人上映会をしよう。ドミンゴを補給せねば。
「それでは、良いお年を」
 足早に退散。すれ違う音楽科の生徒と挨拶を交わしつつ職員用の玄関へ向かう。頭の中では既に選目に入っていた。『トスカ』もいいが、やはりここは『オテロ』だ。陰鬱を湛えた重厚な美声が際限なく発揮されるのはオテロを演じている時だ。
 早くも心躍らせていた涼だが、角を曲がるなりテンションは下落した。
「これは佐久間先生、奇遇ですな。それでは良いお年を」
「あ、はい、良いお年を……って待って下さい、リョウ先生」
 仕方なく涼は振り返る。この学校で二番目に逢いたくない人物だ。一か月前、京都での恨みはまだ根強く残っている。
「今度は高級ホテルで二泊三日ですか? 止めませんが協力もしませんよ」
「そのことに関しては、あの、本当に、すみません……」
 委縮した佐久間の謝罪にも涼の気は晴れなかった。むしろ苛立ちが募る。思えば佐久間はいつもこうだった。謝りながら涼を彼女に仕立て上げ、謝りながら禁断の恋愛とやらの片棒を担がせ、謝りながら面倒事を押しつけてきた。今までも、これからもきっとそうなのだろう。
「初めに言っておきますが、冬休みは予定が一杯でお二人のために割ける時間はありませんよ」
 佐久間が口を開く前に釘を刺す。途端、佐久間の顔が気まずそうに曇るのを涼は見逃さなかった。ほれ見ろ。全く反省していないじゃないか。本当に悪いと思っているのなら二度と頼み事などしないはずだ。
「今度こそ良いお年を」
 トドメとばかりに台詞を吐いて、涼は靴を履いた。さすがに佐久間も追ってはこなかった。自分の危機には敏感な男だ。涼の怒気もしっかり感知したのだろう。
学校で一番会いたくなかった奴が現れたのは、涼が佐久間に対する罵詈雑言を一通り胸中で言い終えた頃だった。
「今度は君か」
 言葉の意味を察した鬼島天下は片頬を歪めて笑った。
「また佐久間に何か押しつけられたんですか?」
「その敬語口調、腹が立つからやめてくれないか」
 いつになく機嫌が悪い涼に天下は神妙な顔になる。
「どうかしたのか、先生。授業でも弾き間違いが多いし、終業式の時も上の空だったし、なんつーか……最近変だよな? 何かあったのか」
 原因に心配されたくはなかった。元はと言えば、お前が――激情に任せて口を開きかけ、涼は我に返った。これでは八つあたりだ。
「別に、何も」
 天下の追究が入る前に涼は話題を変えた。
「校門前で待ち伏せして、何のつもりだ」
 天下は意外そうに目を見開いた。
「へえ、先生のことを待ち伏せしてたって思ってくれんのか」
「……どういう意味だ」
「あんた、俺があんたのこと好きだって認めようとしなかったじゃねえか。やれ思春期によくある一時的な迷いだの、大人に対する憧れだの、まともに取りあっちゃくれなかった」
「君が本気かどうかについては疑問を差し挟む余地が多々ある。でも重要なのはその点じゃない。どっちにしても私は応えられない、ということだ」
「でもその様子だと、少しは意識してくれてんだろ?」
 少しどころか、授業に支障をきたす程だ。しかしそれを認めるわけにはいかなかった。特に本人の前では。
「話がそれだけなら私は帰るぞ」
「先生は実家に帰るんですか?」
 帰る実家がない。言い放ってやろうとして、天下も大して変わらない状況にあることを思い出した。
「いーや、友人と二人で過ごす」
「男ですか」
「残念ながら女だ。国立劇場で会っただろ? 琴音とオペラで年越し」
 天下は「そうですか」と小さく呟いた。落胆しているわけでもましてや不満を抱いているわけでもなかった。寂しげだが穏やかな笑み――彼が父親に見せたのと同じものだった。
 俺のことは気にすんな。大丈夫。あんたが悪いわけじゃない。
 軽く突き放すことで赦そうとしている顔だ。罪悪感に囚われることがないように。
そこまでしてやる義理があるだろうかと、涼は不思議に思った。恨み事は踏みつけられた者にのみ許される特権だ。涼が自分を捨てた母をなじる権利があるように、天下もまた自分を忘れた母とそれに追随する家族を責める権利がある。恨み事の一つぐらいは言ってもいいはずだ。でなければ不公平だ。
 そんな風に考えるのは、涼と母親との距離があまりにも遠いせいか。それとも天下の心が非常に広いせいか。どちらだろう。
(仮に母が目の前にいて、家族と幸せに暮らしていたとしたら――)
 母を赦せるだろうか。故意に自分を切り捨てて得た幸せに浸る母を。
「部活はいつまでだ?」
 不毛な考えを振り払うように涼は訊ねた。
「二十八日までです。新年は四日から」
 それまで鬼島天下は一人で過ごすことになる。今さらだ。もう二年以上、彼は一人で暮らしている。さすがに慣れているだろう。寂しがるなんて、天下らしくもない。
(……阿呆らしい)
 他人の正月を気にしている場合か。そう思うものの、涼はついに「良いお年を」と天下に言うことができなかった。


「で、結局何があったの?」
 予想はしていたが、琴音の興味は始終修学旅行にあった。都内有数のマンションに涼を招き入れ、茶をすすって一息。明日に向けておせちの準備を始めてもしつこく追究してきた。涼としては触れたくない話題。しかし三日間世話になる以上、譲歩はするべきだ。適当に琴音の興味を満たすことにした。
「まあ、なんというか、喰われそうになったんだ」
「肉食獣?」
「とびきり獰猛な」
 頷いてから、涼は小首を傾げた。時折見せる眼差しは明らかに獲物を狩る肉食獣のものだ。しかし六歳上の、それも教師を相手となると、守備範囲の広さを考えさせられる。
「雑食、かもしれない」
 重箱に黒豆を詰めていた琴音の手が止まった。
「所構わず?」
「いや、本人の面がいいからな。毎日眺めてる自分の顔を基準にしたらかなりの面食いになると思う。文武両道だし、その気になれば美女がよりどりみどりだろうな」
「その面食いさんに食べられそうになったんだ。よかったね。お眼鏡に適ったってことじゃない」
 作業を再開。あくまでも琴音は呑気だ。
「だから雑食なんだって」
 冷静に考えれば単純なことなのだ。
「毎日豪華料理食べていたらさすがに飽きるだろ? なんか粗末なもの食べたいなーとか考えていたら、ふと目についたカップラーメンだって美味しそうに思えるものさ」
「私、カップラーメン好きよ」
「奇遇だね。私もだ。しかしカップラーメンと高級フカヒレスープが並んでいたら、やっぱりフカヒレスープに手を伸ばすわけだ、結局は」
 琴音は複雑な顔で冷蔵庫からカマボコを取りだした。
「でもその雑食さんはカップラーメンがいいんでしょ?」
「興味本位で喰われかけたこっちは、堪ったものじゃない」
 ふーん、と気のない返事をして琴音は再び冷蔵庫を開ける。
「で、逃げてきたんだ」
「当然だ。相手にできるか」
「それなら大丈夫よ」
 他人事だと思っているのか琴音は軽く言う。
「まあ、喰われたいと思っちゃったら諦めるしかないけどね」
 涼は昆布巻きを詰める手を止めた。
「……『喰われたい』と思わなければ大丈夫?」
「嫌なんでしょ。じゃあ、食べられる心配はないよ。相手は生徒。あんたは教師。明らかに有利じゃない。こっちは成績握ってんのよ?」
 なるほど。全ては自分次第なのだ。涼は目から鱗が落ちるようだった。天下の動向ばかり気にしていたが、こちらが山のように揺るがない態度で毅然と応じれば、雑食獣の一頭や二頭、どうということはない。流されないことが肝心だ。安易な同情、余計な世話焼きは極力控えよう。
 時が経てば情熱も冷める。カップラーメンよりもフカヒレスープの方が断然良いことに天下も気づくだろう。
 来年の目標『風林火山』。書き初めよろしく方針を固めたところで、コタツの上に放置していたケータイが鳴った。ディスプレイを見たら知らない番号。警戒しつつも通話ボタンを押す。
『……先生?』
 其の疾きことは風のごとく。涼はすぐさま戦術的撤退に努めた。
「間違いです」
『いや、思いっきりあんたじゃねえか』
「おかけになった電話は現在電波の届かない場所にいるか、電源が入っていないため、かかりません」
『ンな愛想のねえオペレーターがいるか』
 愛想をふりまく必要性を感じないのだから当然だ。むしろふりまいたら危険だ。鴨がネギを持って人前で踊るようなものではないか。間違いなくステップを踏むことなく鍋行きだ。そしてご馳走様。鴨さん、さようなら――なんて展開はご免こうむる。
「機械ですから事務的に」
『ずいぶん応用が利くメッセージだな』
 電話越しに天下の低い笑い声が聞こえた。プラシド=ドミンゴとは全く違う声音にしかし、涼は抵抗する気力が削がれていくのを感じた。
「どこで番号を入手した。佐久間先生か、百瀬先生か」
『最初にかけてきたのは先生の方ですよ』
 記憶を辿る。思い出すのに時間はかからなかった。『カルメン』の時だ。失踪した天下を捜すべくクラスメイトから番号を聞いてかけたのだ。
「消しておけ」
『冗談だろ。あんたの番号だぜ?』
 なおさら消せ。今すぐ。こっちが番号を変えてやろうかと涼が密かに画策していたら、天下が言った。
『変えんなよ、番号。そんなに嫌ならもうかけねえから』
 見透かされた屈辱よりも、天下の物わかりの良さに情けなくなった。これでは自分が我儘を言っているみたいではないか。
「で、何の用だ」
 沈黙。
「鬼島?」
『良いお年を』
 次の言葉を待ったが、それきり天下は何も言わなかった。まさか、それだけのために電話してきたのだろうか。ともすれば無下にすることもできず、涼はケータイを持ったまま立ち尽くした。
「涼ぅ……」
 背後から情けない声。振り向けば琴音が悲痛な表情でうなだれていた。
「ごめん」
「何が?」
「初めに私は謝ったからね? だから怒らないでね。ねちねち嫌味を言うのもナシ。冷静に。誰だって失敗というものはあるものよ」
『先生? どうしたんですか』
 涼は耳からケータイを離した。
「本題に入れ。何がどうしたんだ」
「端的に言えば」
 琴音は重箱の空いた一角を重々しく指で示した。
「……伊達巻、忘れちゃった」
 ごーん。除夜よろしく重厚な鐘の音が一つ、涼の頭の中で響いた。昨日、デパートで必ず買っておくように厳命しておいたのに。
「買えばすむ話だ」
「九時過ぎよ? デパートなんて閉まってるし……」
「コンビニ」
「仮にあったとして涼、あなた市販の甘ったるい伊達巻で満足できる?」
「う……っ」
 涼は小さく呻いた。無理だ。でなければ、口を酸っぱくしてデパートで買っておくように言ったりしない。
『伊達巻?』
 いくら貧乏教師とはいえ、年始早々コンビニの伊達巻なんて悲し過ぎる。この状況を打破すべく涼は思考を巡らした。考えて考えて考えて――導き出された結論はただ一つ。
「……忘れるか普通?」
「だから最初に謝ったじゃない」
 琴音は口をとがらせる。涼は額に手を当てた。
「なんたることだ。我々に新年の夜明けはないというのか」
『いや自分で作れよ、伊達巻ぐらい』
 そういえば、まだ繋がっていたのだ。涼はため息をついた。
「重大な問題が発生した。切るぞ。良いお年を」
『なあ――』
 電源ボタンにのせた涼の指が止まった。
『俺、作ってやろうか?』


(私は反対した)
 誰に言うともなく涼はコタツの中で主張した。
(たかが伊達巻……いや、伊達巻は重要だ。正月を迎えるにあたって欠かせないキーアイテムであることは私も認めよう。だが、しかし――)
 涼は台所へ目をやった。黒エプロンに青のバンダナ。格好も、そして簾を扱う仕草も非常に様になっている。実に結構なことだ。
彼が鬼島天下でなければ。
「呼びつけるか? 九時過ぎに」
「だって来てくれるって言ったんだもん」
 ねー、と隣に立つ琴音に同意を求められ、天下は如才のない笑顔で応じた。
「押し掛けてきてすみません」
「まったくだ」
「涼、なんてことを言うの!」
「気になさらないでください。いつものことですから」
 人の良いフォローを入れる天下。琴音の中で鰻登りの如く天下への好感度が上昇していくのが、リビングからでもわかった。反比例して涼の株が下落していくのも。
「少しは見習いなさいよ」
 冗談ではない。涼はミカンに手を伸ばした。台所の二人は伊達巻に没頭していて、涼のことなど放置状態だ。鼻を鳴らしたところで、天下と目が合う。
 反射的に身構える涼に対し、天下は小首を傾げた。そして――
 にやりと。琴音の前で見せた好青年の笑顔とはまるで違う、不敵な笑みを浮かべたのであった。皮を剥いていた涼の手が止まった。
 おい、ちょっと待て。オーブンの卵に夢中の琴音に涼は内心呼びかける。気付け。そいつは似非優等生だ。獰猛な雑食獣だ。無害な山羊のふりをしているが実は狼で牙を剥いているんだ。
「ちょっと焦げましたね」
「わあ、いい匂い……」
 とか平和な会話を交わしつつ、伊達巻作り続行。ほのかに甘い匂いがこちらにまで漂ってくる。天下は手際良く巻き簾で形を整え、輪ゴムで固定した。
「冷まして切れば出来上がりです」
 子供のように琴音は目を輝かした。
「涼も見なよ。凄いよ、本物よ!」
「はいはい良かったな」
 涼はミカン一切れを口の中に放り込んだ。コタツの上は消費したミカンの皮で山が出来上がっている。ふと手を見れば指先は黄色く変色。
 そのことに気を取られていると、傍らに天下。いそいそとエプロンを外してスポーツバッグにしまい込む。バンダナを外した髪はところどころ癖がついてはねていた。
「用が済んだらさっさと帰れ。電車がなくなるぞ」
 涼としては精一杯の優しさを込めた台詞。が、琴音は我が耳を疑うとばかりに非難に満ちた視線を投げかけるてくる。
「あなたそれでも人間? 作ってもらって『ハイさようなら』はないでしょう」
 打って変わって愛想良く。
「狭いけど我が家だと思ってくつろいでね」
 今度は涼が耳を疑う番だった。天下も天下で「すみません」とか口では言いながらコタツの中に根を張る始末。遠慮しろ。
「いや、でも電車が」
「泊まればいいじゃない」
 事もなげに言ってから琴音は「あ、でも着替えとかはどうしよう」と今さらなことを口にした。問題にすべき点はそこではなかったが、これ幸いに涼は便乗することにした。
「さすがに、服を貸すわけにはいかないよな。やっぱり」
「でもお兄様のが何着かあったと思うわ」
 なんで妹が兄の服を一人暮らしの自宅に置いておくんだ。絶対お前実家から持ってきただろう。何着か失敬してきただろう! とか、そういう突っ込みはさておき。愛しの愛しのお兄様の服をあっさり貸すほど、天下に懐柔された琴音が信じられなかった。伊達巻を作っている間に一体何があった。
「お、おかまいなく」
 さすがの天下も琴音の勢いに気圧され気味。良い傾向だ。
「そうだ。借りる側の気持ちも汲んでやれ。無理に押し付けるのはよくない」
「合宿用の着替え一式持ってきてますから。大丈夫です」
 涼は積み上げてきたミカン皮の山に突っ伏した。
「……着替え?」
「合宿セットです」
 澄ました顔で天下はスポーツバッグを脇に置く。簾を持ってくるにしては大きい荷物だとは思っていたが、まさか。
(最初から泊まり込むつもりだったのか……っ!)
 天下の用意周到さに涼は戦慄した。
「じゃあ問題ナシね」
大アリだ。
「二人とも一体何を考えているんだ。仮にも一人暮らしの女性の家に」
「出たよ化石思考。教師の鑑というか、相変わらずというか……あんたさあ、世の中の男は全部危険だと思ってない?」
 呆れの混じった眼差しを注ぐ琴音。涼は口を噤んだ。別に、全人類の半分を警戒しているわけではない。そんなことをしていたら気が滅入る。天下だから危険なんだ。いつの間にか隣に陣取った似非優等生を涼は指差した。
「私は教師、こいつは生徒っ!」
「あんたは客人、私はこの家の主。決定権は私にあるわ」
 一切の反論を許さず琴音は背を向けた。足取りも軽く寝室の方へ。予備の布団を出すつもりだ。涼は空いた口が塞がらなかった。
「先生がやり込められているところ、初めて見ました」
「そうか良かったな。じゃあ帰れ。ここは私の憩いの場だ」
「ミカン食べ過ぎです。伊達巻の分は空けておいてくださいよ」
 全くかみ合わない会話。一年が終わろうとしているこの時も、天下と涼は大して変わらなかった。
「言っておくが、ここで紅白が観れると思うなよ」
「観ねえよ」
「第九も駄目だからな」
「興味ねえって」
「オペラで年越し。プラシド=ドミンゴ万歳だからな」
「お好きにどうぞ」
 横顔からも天下が上機嫌なのはわかった。いきなり呼び出されて伊達巻を作らされて、何故そこまで喜べるのか理解し難い。
「観ないんですか?」
 天下に指摘されて涼はレーザーディスクを再生した。琴音お秘蔵のオペラコレクション。全てはピアニストの兄から引き継いだものだ。単調とも言えるアリアを独特の声で歌い上げるマリア=カラス。その声はまさに魔性だ。
「はーい、お待たせ」
 別に待っていたわけでもないが。琴音がコタツに入ったのは、マリア=カラス演じるカルメンが衛兵を誘惑しているシーンだった。余裕かつ大胆なアプローチ。艶然と微笑む姿は粗忽な衛兵の十人や二十人くらいならば簡単に虜できるほど魅惑的だった。
「懐かしいね、カルメン」
 琴音は赤ワインを注いだグラスを涼の前に置いた。さらに天下の前にも同じものを置こうとするのを涼は阻止した。未成年飲酒を見過ごすわけにはいかない。
「お二人は大学の同期ですよね?」
「同じ声楽科でおまけに同じソプラノ」
「腐れ縁だよ」
 その始まりがこの『カルメン』だ。
「最初は涼がカルメンやるはずだったのに降りたのよ。その代役がめでたく私にまわってきて――」
「感謝の気持ちとしてミネラルウォーターをぶっかけてくれたわけだ」
「まだそれを言うのね」
 琴音は不貞腐れたようにワインを一気に飲み干した。
「理由もなく降りられたら屈辱と感じて当然よ」
「何度も言わせるな。私の声音はカルメンに向かなかったんだ。アルトにすればいいものを『ソプラノから出したい』とか意地を張る教授が悪い」
「声音というより、性格が向かなかったんじゃないの?」
 琴音は意地悪く七十インチの大画面で歌うカルメンもといマリア=カラスを指差した。お色気でまんまと衛兵を骨抜きにし、脱走を果たした悪女。
十秒ずつ、テレビのカルメンと涼を交互に見た後に天下が呟く。
「……先生が演じる姿が想像できません」
 そんなこと、言われなくても自分が一番良くわかっている。だから降りたんじゃないか。涼は赤ワインを二杯立て続けに飲んだ。
「もともと私は『トゥーランドット』をやりたかったんだ」
 負け惜しみにしかならなかった。自分は途中で投げ出したのだ。違う。投げ出す以前に、手を伸ばそうともしなかった。定期公演の主役。誰もが憧れる晴れ舞台の中心。届く場所にいながら諦めたのだ。
「どーせプラシド=ドミンゴのを観て相手役がしたくなっただけでしょ」
「そんなに凄い人なんですか?」
 無知は時に罪となりうる。今の天下がまさにそれだ。
「世界三大テノールの一人。元バリトンの声質を生かした厚みのある歌唱をする。音域も広いからレパートリーも豊富。オールマイティーな歌手だ」
「そんでもって顔もスタイルいいのよ。オペラ歌手にしては」
 琴音が断りもなく上映途中の『カルメン』を消してDVDを挿入。『トゥーランドット』だ。もちろんカラフ王子役はかの三大テノール、プラシド=ドミンゴ。
「だからこの子、昔から面食いで年上趣味だったってわけ」
 天下は平然を装っていたが、涼にはわかった。少なからず動揺している。しかしまさか、涼が今まで色恋には目もくれずにひたすら音楽街道まっしぐらだと思っていたのだろうか。失礼な話だ。ブラウン管越しとはいえ、人並みに恋心だって抱く。
聞き逃してしまうほど小さな声で天下が呟いたのが聞こえた。
「……年上趣味」
 そこかよ。突っ込もうとして涼は舌が回らないことに気がついた。飲み過ぎたようだ。中和したいところだが、こたつからは離れ難かった。天下と目がかち合う。不安の入り混じった表情はまるで子犬のようで、なんだか可愛らしかった。ふてぶてしい似非優等生の面影などどこにもない。
 涼は天下に手を伸ばした。跳ねている髪を直すつもりで撫でる。指の隙間から零れ落ちる艶やかな黒髪。感触が気持ちいい。何度か梳くと天下が大きく目を見開いた。
「せ、先生?」
 ああ、瞼が重い。重力には逆らえず、涼は突っ伏した。
「そういえば、意外にお酒弱いのよね」
「これだけ飲めば普通、酔いつぶれると思いますけど」
 肩に柔らかくて温かいものがかかった。毛布か何かをかけてくれたらしい。どちらだか知らないが、どうもありがとう。つんと鼻にくる煙草の香りが珠に傷だけど。
「本当はね」
 遠巻きに琴音の声。
「周囲に反対されたの」
「どうして? 誰に?」
「あんまり練習にも顔を出さなかったし、二年生のくせに先輩を差し置いて主役でしょう? やっかみよ、要するに。おまけに涼は昔からこういう性格だから」
「わかります。可愛い後輩っていうタイプじゃないですよね」
 大きなお世話だ。
「しおらしく涙の一つでも見せればいいのに意地張るし……生徒にもあんまり好かれてないでしょ」
「そうですね」
 あっさり言いやがったな。嘘でもいいからそこは否定しておけ。顔を上げる気力もわかなかった。耳元にはトゥーランドットの美しさに心奪われたカラフ王子の情熱的な歌声が響いていたが、それもやがて遠のいていく。
「でも嫌われてもいませんよ。生徒だって馬鹿じゃありませんから、一生懸命やってることぐらいわかります」
 末期だと涼は思った。プラシド=ドミンゴの声よりも天下の声が心地よく感じるなんて。


 トゥーランドットが駄々をこねる声で涼は目が覚めた。時計を見れば既に年は明けている。
馬鹿デカいテレビではちょうど、カラフ王子もといプラシド=ドミンゴが見事トゥーランドットの個人的極まりない謎かけを解き明かし、民から賛歌を浴びていた。約束では、トゥーランドット姫は謎を解いた者の妻になるはずだった。が、彼女はいざカラフ王子が全ての謎に答えると「私は誰のものにもならぬ」と我儘を言いだすのだ。
 なら最初からそんな条件出すなよ、と涼はトゥーランドットの必要以上に長い髪を掴んで説教をかましてやりたかった。謎に答えられなかった求婚者は次々と斬首しておきながら自分は破るんかい。
「ん?」
 そこでようやく、涼は自身の肩にジャケットが掛けられていることに気がついた。ほのかな煙草の匂い――未成年喫煙だ。
「まだ帰ってなかったのか」
「泊まっていけと言われましたから」
 悪びれもなく天下は涼の隣に腰掛ける。その手には缶コーヒーと緑茶。近所のコンビニで買ってきたのだろう。
「喉渇いてんだろ?」
 妙に気の利く奴だ。コタツに放置しておいたワイングラスも山積みだったミカンの皮も跡形もなく片付けてある。一人暮らしのせいか、それとも長男気質と言うべきか。
 涼は財布から百二十円を取り出して天下に渡した。
「別にこれくらい」
「生徒に奢られてたまるか」
 天下は愁眉を顰めた。
「学校じゃあるまいし」
「残念ながら教師は二十四時間年中無休なんだよ」
 渇いた喉に冷たい緑茶が沁みる。天下もプルタブを開けてコーヒーを一口。約束は守るべき、と周囲に諭されるトゥーランドットに、カラフ王子が優しく手を差し伸べる様をぼんやりと観ていた。
「琴音は?」
「ついさっき寝室に」
「客を放置して、さっさと寝床に入ったのか」
 薄情な奴め。風邪をひいたらどうしてくれる。
「俺がこのままでいいって言ったからな」
 まあ、なんと心の広いこと。天下の下心を知っていながらも涼は半ば感心した。男に限らず、人間というものは結構単純にできている。相手の気を惹きたいと思ったら大抵の無茶は平気でするものだ。
『私は何としても拒む』
我を通そうとするトゥーランドット。反対する周囲の中で唯一彼女の味方になったのは当の本人であるカラフ王子だった。
『あなたは三つの謎を出し、私はそれを解いた。私は一つだけ謎を出そう。あなたは私の名前を知らない。その名を当てていただこう』
 おいおいプラシド=ドミンゴよ、いくら惚れているとはいえ、そこまでやるか。無茶にも程があるだろう。命を賭けた誓いがある以上大義名分はカラフ王子にあるというのに。彼が譲歩する必要も義理もない。
『私の名を夜明けまでに。そしたら私の命を差し上げよう』
優しく包み込むようなテノール。私がトゥーランドットならば、と涼は不意に思った。まず間違いなく惚れている。たとえそれが舞台にいる間の夢だと知っていても。
「先生」
「今いいところなんだ。黙って観てろ」
「明けましておめでとうございます」
 涼は思わず天下の顔を見た。ふざけている様子はない。プラシド=ドミンゴの張りのある歌声。『トゥーランドット』で一番の聞かせどころのアリアが涼の耳を通り過ぎた。
「……あ、明けましておめでとうございます」
「今年もよろしくお願いします」
 折り目正しく一礼。何がどうよろしくなのかは突っ込めなかった。
 プラシド=ドミンゴが歌う『誰も寝てはならぬ』。テレビではカラフ王子が高らかに勝利を宣言していた。


 琴音が起きてきたところで、お雑煮を作った。贅沢にも鶏肉でだしを取ったものだ。費用と手間を考えれば正月でなければできなかっただろう。おせちには伊達巻が収まり、人並みの新年を迎えた。
「――で」
 涼は弾力のある伊達巻を嚥下した。
「どうして君はさも当然のようにここにいるんだ」
「食べていけと誘われましたから」
 遠慮なく天下はお雑煮をすする。おせちにも箸を伸ばしカマボコを一口。箸の持ち方に妙な癖があった。
「社交辞令って言葉を知っているか」
「涼、新年早々生徒を苛めないの。だから嫌われるのよ」
 いっそ憎まれた方がマシだ。涼は新年早々ため息をついた。
「生徒と年越しすることは問題だと思わないのか」
「不可抗力よ。それに二人っきりじゃないんだから大丈夫」
 年が明けても琴音は呑気だ。たった一晩で何かが劇的に変わるとは期待していない。が、もう少し一般常識を身につけるべきだ。これだから温室育ちは――ため息二つ目。
「だいたい、なんでタイミング良く電話なんかしてくるんだ」
 天下は端整な外見を裏切ってかなりの健啖家だった。餅三個をあっという間に平らげて、おせちから具を少しずつ自身の皿に移す。一応遠慮はしているらしい。
「聞いてるのか」
 数の子を頬張りながら天下はちらりと涼に目を向けた。
「ンなもん、あんたの声が聞きたかったらに決まってんじゃねーか」
 嚥下して今度は伊達巻をよそう。あっさりと告げられた言葉を涼が理解するのに数秒の時を要した。
「……はい?」
「あー今年も終わっちまうんだなあ、って思ったら最後に声聞きたくなって、そしたらなんか伊達巻作れなくて困ってるようだし、この時間帯に押し掛けたらきっとなし崩しに一緒に年越せんだろーな、って思ったんだよ。幸い榊さんは先生とは違って親切にしてくれたしな。飯まで誘われて退けるかよ。願ったり叶ったりじゃねえか」
 天下の視線はあくまでも豪華盛り合わせのおせちにある。
「俺はガキですから、利用できるもんは何でも利用します」
 それが何か? と言わんばかりに天下は堂々と言ってのけた。完全に開き直った態度だ。涼は新年早々卒倒しそうになった。
 いやいやいや気づいていたとも。天下の下心くらい。ここまであからさまにやられて気づかない方がおかしい。しかし――涼は向かいに座る教え子をまじまじと見た。
 天下は何事も無かったかのようにお雑煮を食べている。
「涼、顔赤いよ」
「飲み過ぎました」
「……なんで敬語なの?」
 動揺しているからです。涼は内心頭を抱えた。
(さらりと小っ恥ずかしいことを……っ!)
 しかも(琴音とはいえ)人前で。最近の高校生はみんなこうなのか。恥知らずなのか。オペラ並に直接的な台詞。舞台の上ならばともかく、何故日常生活で平然と言えるのだ。
 案の定、琴音は「もう諦めなよ」と言わんばかりの視線をよこしてくる。面白がっているのは明白だ。なんと薄情な友人だろう。もしくはこの状況に対する危機察知能力が欠如しているとしか思えない。これはゆゆしき事態なのだ。鬼島天下は生徒で六歳下で、自分は六歳上の教師なのだ。
 新年早々、涼は先行きに不安を覚えた。


 何はともあれ、おせちを平らげ正月の特番を目的もなくだらだらと観て――そこまでは良かったのだ。今年もこんな感じに平穏無事に過ぎればいいなあ、と涼が呑気に思った時にケータイが鳴った。メールならば後回しにするところだが、あいにく電話だった。
「佐久間先生?」
 液晶画面に表示された名前に涼は目を見開いた。天下もまた過敏に反応。怪訝な顔をする。
「何の用だよ」
「私が知るわけないだろ」
 とりあえず通話ボタンを押す。
「明けましておめでとうございます。何か御用ですか」
『あの、今……どこにいるんですか?』
 間違いなく佐久間の声。が、涼は違和感を覚えた。いつになく声が堅い。
「どうかなさったんですか?」
 佐久間は言葉を選ぶように控え目に言った。
『今、たまたま矢沢さんと渡辺先生に逢いまして……』
 すぐさま涼は状況を察した。佐久間の言う『渡辺先生』とは英語の渡辺民子。そして、一人ならばともかく学校関係者二人と偶然会うことはまずありえない。
「矢沢さんと会っている現場を渡辺先生に捉えられた、ということですか」
『……はい』
「そんでもって咄嗟に私と一緒に来ていることにした、とか?」
『その通りです』
「今もそこに渡辺先生がいらっしゃる、と」
 蚊の鳴くような声で肯定する佐久間。涼は頬がひきつるのを感じた。新年早々とんでもない事態を引き起こしやがったよ、この迷惑カップル。
『大変申し訳ないのですが……』
 駅構内にあるファミレスの名を挙げる。十五分もあれば行ける場所だ。涼は目を閉じた。行きたくない。面倒に巻き込まれる。誤魔化せる自信もない。
 しかし、投げ出したくはなかった。関わると最終的に決めたのは自分自身なのだから。
「二十分時間を稼いでください」
 これから為すべきことが次々に浮かぶ。涼は一息ついて目を開けた。
「いい大人がはぐれた、というのも信憑性がありませんから、私が待ち合わせに遅刻したことにしましょう。そこをたまたま教え子の矢沢さんが見かけて、待ちぼうけを食っている先生の暇つぶしに付き合ってあげていた。まあ、立ち話もなんですから、とりあえずそこのファミレスに入って――それで矛盾しませんね?」
『はい。大丈夫です』
「では、それで話を合わせます。ぶっつけ本番ですがやれるだけやりましょう」
 一つだけ意地悪く付け足しておく。
「あと、失敗した時のために辞表を出す覚悟を決めておいてください」
『え、先生……待っ』
 皆まで言わせず通話を切った。ハンガーに掛けておいたコートを手に取り、床に置いた鞄を持つ。財布を始めとする最低限の支度はもうできている。
「琴音ごめん」
「いってらっしゃーい」
 物わかりのいい琴音は苦笑しつつも承諾した。
「でも私に謝るより、彼に謝った方がいいんじゃないの?」
 琴音が指差す先には不貞腐れた顔でこたつに肘をつく天下。この件に関しては非常に物わかりの悪い奴の存在を失念していた。
「あー、えー、つまりだな」
 言葉を濁したところで無意味だ。そもそも何故弁明しなければならないのだ。正月にどこで誰と会おうが涼の自由のはずだ。
「ちょっと行ってくる。君もそろそろお暇しなさい」
「なんで年明け早々連中に振り回されなきゃなんねーんだよ」
「教師は二十四時間年中無休だと何回言わせるつもりだ」
 天下は不機嫌そうに押し黙った。何も口にしなくても言いたいことはすぐにわかる。ものすごく不快、だ。ため息つきたいのをこらえて涼は玄関へ向かった。
「……伊達巻、ご馳走様」
 もう少しでいい。まともなことを言えたら何かが変わっただろうか。駅まで歩きながら涼はそんなことを考えた。意地っ張りだと琴音は言った。しかし涼は別に嘘をついているつもりはない。素直になれと言われても、本心を隠している自覚がないのだからどうしようもなかった。


 電車一本とはいえ、年末年始の特別ダイヤ。思いのほかホームで待たされ、目的地についたのは三十分が過ぎた頃だった。駅構内に店舗を構えているチェーン店。見慣れた看板を目にしたところで立ち止まり、深呼吸を一つ。涼は腹を括って乗り込んだ。
「遅くなってすみません」
 禁煙席に座っていた佐久間が振り返る。地獄で仏を見たような顔に涼は情けなさを覚えた。芝居とはいえこんな男と付き合う自分の感性を疑う。
「明けましておめでとうございます。新年早々奇遇ですね、渡辺先生」
 佐久間と向かい合うように座っていた渡辺民子は眉を神経質そうに顰める。涼が現れても疑惑は拭えないらしい。
「お二人は、お付き合いをなっていると伺いましたが」
 懐疑的な眼差しで隣に座る遙香と佐久間の両名を見る。遙香にいつもの勝気な様子はない。当然だ。高校生が受け止めるには重すぎる現実だ。こういう時にこそ、大人である教師が責任を持つべきだというのに。
 職を賭けるくらい好きなら盾になってやれ。それぐらいできなくてどうする。
「明けましておめでとう、矢沢さん」
 民子の言葉は受け流して、思っていたよりも小さな肩に手を置く。遙香は微かに震えていた。見上げる瞳に不安と怯えの混じるのを涼は見逃さなかった。事の重大さをようやく理解したのだろう。最悪な状況に追い込まれて。
「なんか大事になって悪いね。せっかくの正月だというのに」
 遙香は唇を噛んでいた。強がりで必死に覆った弱さは抱きしめてやりたくなるほど愛しいものだ。守らねばと思う。こんなだから、自分は余計なお節介が止められないのだろう。
 途中で買っておいたチョコレートの詰め合わせを遙香の手に握らせる。
「おっさんの相手をありがとう。これから友達と遊ぶんだろ? 時間は大丈夫か?」
 無言で頷く。口を開けば溢れてしまうものを押し止めるように。
「渡辺先生」
 咎めるように民子が呼ぶ。が、涼は無視して遙香を立たせた。
「まだ終わっていません。事情を――」
「説明なら私がします。年明け早々、生徒を理不尽に拘束するわけにはいきません」
 背中を控え目に押す。「先生」と縋るような呟きを耳にしたのは、おそらく涼だけだ。努めて明るく微笑んでやる。
「大丈夫だ。それよりも君は音楽の心配をするべきだ。遊ぶのも結構だが、リコーダーの練習を忘れないように」
 遙香の顔が歪んだ。言葉にならないが、何を言いたいのかはわかる。
ごめんなさい。こんなつもりじゃなかった。
泣くことを堪えている姿は、まともに顔を合わせたことのない母を彷彿とさせた。きっと彼女もそうだったのだろう。誰だって、破局を知りながら突き進んだりはしない。無知で愚かで、盲目的だった。しかし無知で愚かなりに本気だったのだ。
 気にしなくていい。大丈夫だから。
 そう言ってやれば良かった。迷惑をかけてきた遙香を赦せたように、母も赦せれば良かったのに。解放してやれば良かった。
「じゃあ、始業式に」
 遙香が店を出るのを見送り、涼は佐久間の隣に腰掛けた。真正面から民子と向かい合う。
「どういうことですか」
 少しも追及の手を緩めることなく、民子は問いただす。
「お二人は交際していると、私だけではなく教員皆が思っております。だから例の怪文もデマだと……しかし、現に生徒と二人きりで会っている」
「偶然会っただけだと私は伺っておりますが?」
 ここは苦しかろうが白を切り通すしかない。民子にだって確たる証拠があるわけではないのだ。わざとらしく民子は紅茶を一口すすった。
「失礼ながら、以前からお二人はどうも、お付き合いなさるほど親しいようには傍から見て思えません」
 だろうな、と涼は内心苦笑する。生徒一人庇えない教師なんぞこちらから願い下げだ。守れなんて無理は言わない。しかし隠し通せないのなら、せめて自分一人で責任を被る度量を見せてもいいだろう。
「オペラならば愛の賛歌の一つでも熱唱しますが、生憎私はそれほど歌唱力に自信はありません」
「渡辺先生、ふざけている場合ではありませんよ」
「人の気持ちを言葉で説明して納得させろ、とおっしゃる方が無茶だと私は思います。渡辺先生が私と佐久間先生のことをどうご覧になろうと自由です。しかし『交際しているように見えないからそれらしくしろ』というのはいささか横暴ではありませんか?」
 民子に見えない位置で佐久間を肘で小突く。すぐさま意図を察した佐久間はとりなすように頭を下げた。
「たしかに、今回は私が軽率でした。その点は謝ります。私の至らないせいで誤解を招き、矢沢さんにも嫌な思いをさせてしまいました」
 彼女には後日、改めて詫びます、と佐久間は付け足した。
「ですから、渡辺先生も矢沢さんに謝ってください」
 民子は目を見開いた。何故自分が詫びるのかを理解していない表情だ。正義は自分にあると信じて疑っていない。そのことに涼は呆れた。仮にも教師ならば、自分の体面だけではなく生徒の分も考えるべきだ。
「人前であらぬ疑いを掛けられて、さぞかし辛い思いをしたと思います。新学期になったらで結構です。一言謝っておいてください」
 不本意であることを露わにしながらも民子は頷いた。
「話がそれだけならば失礼いたします」
 千円札を置いて席を立つ。自分の瞳孔が開いているのを自覚しつつ、佐久間の方を向いた。
「これからデートなもので」
 佐久間の頬が盛大に引きつった。蛇に睨まれた蛙だってまだマシな顔をするだろう。


 民子を置いて店を出る。その場で怒鳴りつけてやりたいのを堪えて、改札口へ向かった。人気のないところは生憎見当たらない。いっそどこぞの喫茶店にでも行って根性を入れたろうか、と自棄になったところで呼び止められた。
 低くて、少し掠れた声。このややこしい時に――涼は苛立った。
「まあ奇遇だな、鬼島君」
 後をつけてきたのなら、大したものだ。ストーカーの才能があるかもしれない。佐久間の前でもなんのその。天下は優等生をとりつくろうこともなく現れた。
「あれで誤魔化せたと本気で思ってんのかよ」
 天下の薄い唇に嘲笑混じりの笑みが浮かぶ。が、それも一瞬で打ち消して真剣な表情で佐久間を見据える。
「あんた、いつまでこんなくだらねえ小芝居続ける気なんだ」
「鬼島」
 たしなめるように呼べば、天下は鼻を鳴らした。
「佐久間先生はいつまで渡辺先生に頼られるおつもりなんでしょうか」
 言葉遣いこそ丁寧だが、その口調は皮肉以外の何でもない。完全に気圧された佐久間は目を丸くした。
「どうして……」
「あれだけ派手にいちゃついてたらバレるに決まってんだろ? 俺でさえ気づいたんだ。英語の渡辺だって納得しているかどうか怪しいもんだ」
 いや、むしろあれは全く納得していない様子だ。涼は確信していたが、口にはしなかった。嫌疑がかけられようと佐久間と遙香の関係がバレようと、天下には関係のないことなのだ。
「君が心配することじゃない」
 途端、鋭い眼光がこちらへ向けられる。
「あんたもあんただ。先輩への義理だが教師としての義務だかなんだか知らねえが、大概にしろよ。あんたが甘やかすから、こいつらは増長すんじゃねーか」
「否定はしないよ。でも私が誰に手を貸そうと私の自由だ。それと言葉遣いに気をつけなさい」
 言ってから涼は後悔した。思いっきり地雷を踏んだ。天下の前で(涼にそのつもりがなくても)佐久間の味方をすれば何を引き起こすか、火を見るより明らかだ。
「そうやって迷惑面しながら結局流されてんじゃねーか。反対なら協力すんじゃねえ。中途半端なんだよ、あんた」
 不覚にも涼は言葉を失った。天下は的を射ていた。後先考えない佐久間を軽蔑しながらも彼女のふりを承諾した。それが全ての始まりだ。今もこうして助けてしまった。これから先のことは面倒見られない、と丸投げして。それこそ中途半端で無責任だ。
「そんなに教師面したいのか? 生徒の味方の、良い教師でいたいのかよ」
 違う。そんなんじゃない。良い教師でいようと思ったことなんて一度だってない。全ては自分のためだ。周りがどう思おうと関係ない。ただ、
(ただ、赦したかったんだ)
 矢沢遙香を助けることで、同じ過ちを犯した母を助けたつもりになっていたのだ。
母への贖罪とは違う。むしろ被害者は涼の方だ。望まないのに生み出されて、捨てられた。母の無責任さのせいで、今までどれだけ惨めな思いをしてきたことか。どれだけ憎んだことか。
 でも、一番惨めなのは捨てられたという事実じゃない。母の行為が赦せない事だ。母の行いが過ちだと断じることはつまり、涼の誕生もまた過ちだということになる。一生、母を責め、自分の存在を呪いながら生きていけるほど涼は強くはない。自分で自分の存在を否定しながら生きるなんて苦痛以外の何でもない。だから推奨はできなくてもせめて認めたい。自分の生誕は失敗でも間違いでもなかったと。
 結局は、自己満足以外の何物でもなかったのだ。
(でも無理だ)
 ふとした瞬間に怒りが込み上げてくる。どうして、と責めてしまう。心の奥深くに根付いた恨みはそう簡単に消せるものではなかった。
 後先考えない無責任さを責めずにはいられなかった。
「私に言わせれば、お前も佐久間も一緒だよ」
 言葉が口を衝いて出た。
「勝手に一人で盛り上がって周囲に迷惑まき散らして、いざ問題になったら『仕方ない』の一言で済まそうとしている」
「俺はそんな……っ!」
「自分は悪くない。仕方なかった。どうしようもなかった。そんな言い訳なんか聞き飽きたよ。巻き込まれた側にとって『仕方ない』で済ませられる事なんて何一つとしてないんだ」
 明らかに傷ついた表情を見せる天下。しかし涼の胸は全く痛まなかった。痛まなかったことに涼は完膚なきまでに傷ついた。
 二十年以上も経っているのに、どうして赦せないのだろう。責めずにはいられないのだろう。
「……そうかよ」
 嘲りにも似た歪んだ笑み。天下は突き放すように言い捨てた。
「じゃあ勝手にしろ」
 天下は踵を返す。涼は一歩も動けなかった。見送るのはこれが初めてだな、と場違いなこともぼんやりと思った。
 いつだって離れるのは涼の方だ。引き止めようとするのは彼。歩み寄るのも彼だ。自分は何もしていない。
勝手な話だ。涼はなんだか可笑しくなった。今まで散々帰れだの天下を冷たく突き放していたのに、いざ背を向けられると言い知れない寂しさに襲われる。見放されたとさえ思う。そのくせ足は縫い止められたように動かない。
追うことも、呼び止めることもできなかった。人はそれを未練と呼ぶのだろう。
「リョウ先生……? 鬼島がどうして、私には何が何だか」
「忘れてください。終わったことですから」
 始まってすらいなかった。最初から終わりは見えていたから。
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