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 自分が不幸だと思ったことはなかった。
そもそも何が幸福なのかがわからない。親に捨てられる子供なんてよくいるし、親の記憶どころか顔すら覚えていないのは、むしろ幸せな部類に入るのではないかと思う。絶対的な信頼を寄せる者に裏切られる痛みを味わわずに済んだ。信頼も何も最初から何もないのだから失いようもなかった。
 不幸なのは中途半端に愛情を知ってしまった方だ。朝起きて「おはよう」と言ってくれる肉親。自分だけを見てくれる存在。失った時の絶望は想像を絶するものだろう。光満ちた世界からいきなり真っ暗闇に放り投げだされるようなものだ。なまじ明るさを知っているだけに闇の深さに耐えられなくなる。
 そういった哀れな子供が施設に仲間入りする様を涼は何人も見てきた。自分の境遇を恨んだことはない。何を他の子が何故悲んでいるのか理解できなかったぐらいだ。
 だから、小学校の授業参観に誰も来なくても、運動会で応援してくれる人がいなくても、当然だと受け止めていた。要するに、長いこと闇の中にいたので慣れてしまったのだ。
 しかし、すぐ隣にいるクラスメイトが親の悪口に花を咲かせている時、手作り弁当を当然のように食べている時、どうしても胸がぽっかりと空いたような気になってしまう。
どうして。
 失ったものなど何一つとしてないはずなのに、喪失感が込み上げてくる。
 どうして、自分には親がいないのだろう。


 結局、傷つけてしまった。
恋愛の常だとはいえ、涼の気分は重かった。天下の好意に気づいていたから、それとなく拒んでいた。彼も自分の想いが受け入れられないことを察していた。だから、諦めてくれるだろうと高を括っていたのだ。有耶無耶にできると。
 だが、天下は予想以上に思い詰めていた。結果、優秀な彼にしては余裕も策略もなく直球勝負に出て、涼はバットで打ち返してホームラン。試合終了だ。
 悄然と去って行った天下の後ろ姿が忘れられない。
 オペラの礼すら言えなかった。
 恋愛に限らず、懸けていた想いが大きければ大きいほど、失った際の傷は深くなる。しかし、拒絶する側にだって――捨てる側にだって痛みはある。
そうでなければ、不公平だ。

 ――とかなんとか思っていた自分の甘さを、涼がこれ以上ないくらい後悔したのは、月曜の朝になってからだった。
観賞室を貸し切りにして、本日の授業内容の最終確認。軽くピアノの練習。発声訓練も忘れない。何度やっても授業は緊張する。何が起こるのかもわからない。万全の準備を持って取り組まなければならなかった。
 本日のメニューを一通り終えたところで職員会議の時間が迫ってきた。涼はスタンウェイを拭いて鍵をしっかりかけた。緩みかけていたネクタイを締め直して、鑑賞室の扉を開けて――即座に閉めようとした扉の隙間に片手片足が割り込んだ。
「お早うございます、涼先生」
 至極真面目な顔で挨拶されても凄んでいるようにしか見えなかった。この状況だと、特に。涼は引きつった笑顔を浮かべた。
「音楽は二限目じゃなかったか? 気が早いぞ」
 仏頂面の鬼島天下は切れ長の目をさらに細めた。
「あんたに用がある」
「私にはない」
「俺にはあるんだよ」
「しかし私にはない」
 ドアノブを引っ張るがびくともしない。男子高校生の力、恐るべし。体勢はこちらの方が有利のはずなのに、戦局は拮抗状態だった。
「チケット代なら給料日まで待ってくれ」
「ンなケチくせえことじゃねえ」
 三万(推定)のチケットは十分高価だと思うが。
「……いろいろ考えた」
 何をとは訊くまでもなかった。一昨日の告白がどれほど常軌を逸していたのかをようやく理解したらしい。
「あんたは教師で俺は生徒だ。世間一般では教師と生徒の恋愛はご法度。好きだから、じゃ周りは納得しない」
 よしよし。涼はドアノブを持つ手をゆるめた。さすがは優等生。ちゃんと冷静に考え、反省している。どこぞのバカップルの二の舞にはならずに済みそうだ。
「歳の差だってあるしな」
「うん。こればかりはどうしようもない」
「好きだから仕方ねーだろ、なんて無責任なことは言えねえ。立場なんて関係ねえ、とも言えねえな。どうあがいても俺は十七の高校生だし、あんたは二十過ぎの教師だ。それ以外にはなれねえ」
「正確には二十三だがな。まあ、わかればいいんだ。わかれば」
「六年差か」
 噛みしめるように天下は呟いた。眉間にしわが寄っている。
「面倒だな」
 その通り。涼は大きく頷いた。情熱だけで突っ走るには問題が多過ぎる。
「先生、悪ィ」
「気にすることはない。思春期にありがちな一時的感情だ」
「やっぱりあんたのことが好きだ」
「そうかそうか。それは良かっ――」
 言いかけて涼は言葉を止めた。非常に不適切な発言が耳を通り過ぎたような気がした。
「なんだって?」
「先生が好きです」
 顔色一つ変えずに天下は言った。いっそ清々しいまでの潔さだった。あまりの堂々っぷりに涼は眩暈を覚えた。
「君は二日間何を考えていたんだ」
「先生のこと」
「それはどうも。ついでに自分が生徒であることも、歳の差も、教師と生徒の恋愛がマズいことも考えたわけだ。で、それがどう化学反応を起こしたら結論が一昨日とまるっきり同じものになるんだ?」
「一昨日とは違う。教師と生徒の恋愛がどれだけ大変なのかを考えた。払うリスクがどれだけデカいのかも考えた。考えて考えて、それでも先生が好きだなあ、って結論に達した」
 だから諦めてください、と天下は諭すように涼の肩に手を置いた。危うく頷きかけて涼は首を横に振った。おかしい。絶対におかしい。何でこちらが改めなければならないのだ。
「馬鹿か君は」
「学年首席ですから、それはないと思います」
「天才と馬鹿は紙一重とも言うけどな」
 肩に置かれた手をどかす。時計を見れば職員会議の始まる時間だ。
「教室に戻りなさい。そして頭を冷やせ」
「俺は冷静です。二日も経っていますから」
 余計悪い。涼は深くため息をついた。
「君はもう少し賢い生徒だと思っていた」
 天下は不機嫌そうに鼻を鳴らした。拗ねているようにも見えるその様子に、似非優等生の面影はどこにもない。
「いくら良い成績取っても、いくら親切にして良い奴ぶっても、ご多忙な先生は俺なんか気にも留めませんからね」
 その点を突かれては涼としても心苦しい。事実だ。同じ音楽科ならばともかく、普通科の、それも週に二回教えるだけの生徒を全て把握することはできなかった。音楽科主任が言うまで自分が受け持っていた生徒であることにすら気付かなかったのだ。
顔は覚えていた。普通科の生徒であるということも。が、それだけだった。普通科切っての優等生であることまでは知りもしなかった。それくらい、渡辺涼にとって鬼島天下という生徒は遠い存在だったのだ。
「……ようやく近づけたと思ったら、全然進展しねえし」
 進むわけないだろ。一生このままだ、と力の限りに思ったが、涼はあえて口にはしなかった。刺激してはいけないような気がした。
「リョウ先生」
 天の助けか、そこで佐久間が現れた。わざわざ迎えに来てくれたらしい。この時ばかりは涼は佐久間に感謝した。たまにはいいことをする。
「鬼島? なんでここに」
「いや、なに。授業のことでちょっと相談がありまして」
 涼はそそくさと鑑賞室の鍵を締めて天下から離れた。
「そういうわけで鬼島君、君もそろそろ教室に戻った方がいい」
「先生」
 背中に不快感丸出しの声がかかる。案の定、笑顔を装う天下の頬はひきつっていた。
「二限目の授業、よろしくお願いします」
 直訳すれば『後で覚えてろよてめえ』だ。怖くて目を合わせられない。涼はなんだか泣きたくなった。どうして自分の周りにはまともな人間が一人もいないのだろう。神様、私は何かしましたっけ? と問いかけたくなる。
 しかし、いくら問いかけても誰も答えてはくれなかった。


 何やら物言いたげにしていた佐久間が口を開いたのは、二階の渡り廊下に差し掛かった頃だった。静かな特別棟とは打って変わった喧騒が近づいてくる。
「先日は失礼しました」
 何が、と訊ねかけて涼は口を閉ざした。先日とは金曜日のことだろうか。
よりにもよって一日の終わりに告白されるとは思わなかった。オペラの最中は大人しかったので油断しきっていた。その前に、だ。よもや改札口前で告白されるなんて誰が予想しえよう。
(変なところで抜けてるよな、あいつ)
 文武両道の優等生のくせに。
「リョウ先生?」
 怪訝そうな顔で覗き込む佐久間に、涼の意識は現実に戻された。
「あ……何でしたっけ?」
「先日の件です。不快な思いをさせてしまったようで、本当にすみませんでした」
 そこまで言われてようやく涼は思い出した。ああ、オペラに行く前にひと悶着あったっけ。誤解した天下が拗ねて帰った一件。大人ぶっていても結局子供なのだ。
「お気になさらないでください。私も少々大人げなかったです」
 その子供に振り回される自分って一体何だろう。
「それにしても意外です」
 職員室が見えてきたところで佐久間が呟いた。
「鬼島と何かあったんですか。前にもお気になさってましたよね」
 涼はひきつった笑みを浮かべて誤魔化した。元はと言えば、佐久間と遙香の逢引現場を天下に目撃されたことが原因だ。そうでなければ、もっと強気の態度に出られるというのに。
「まあいろいろありまして。なんとか仲良くといいますか、それなりの関係を築けたわけでして」
 向こうはさらに関係を進めたいようですけどね。後半は呑み込んでおく。応じられるはずがなかった。相手は六歳も年下の生徒で、自分は教師だ。天下はそれでも構わないと言っていたが、戯言にしか聞こえなかった。彼は世の中というものをまだ知らないのだ。
 世間は冷酷なのではない。ただ、無情なのだ。どれだけ当人が本気だろうと、どれだけ心を砕いても、世間の目にそんなものは映らない。重要なのは生徒と教師が恋愛してはならないという公然の決まりだ。
 ふと、涼は我に返った。
 何故自分はさっきから鬼島天下のことばかり考えているのだろう。
「……鬼島とは親しいんですか?」
 交際申し込まれました。断りました。でも諦めないそうです。
「いいえ、それほどでも。顔を合わせたら雑談をする程度です」
「珍しいですよ。彼は愛想がないわけではありませんが、これと言って親しい教師もいませんし。なんと言いましょうか……どうも一線ひいている節がありまして」
 やはり佐久間も教師だった。天下の似非優等生に気付くまでには至っていないが、かすかな違和感は抱いているらしい。
「できればリョウ先生のお力を拝借したいのですが」
 遠慮がちだったが断れる雰囲気ではなかった。逆に怪しまれる。
「そんなに親しいわけでもありませんよ」
 念を押したがどこまで聞いているのか。佐久間は頷きつつも結局は「お願いします」と頭を下げた。


 全ての授業が好き、という人間は滅多にいないだろう。
涼の場合、数学はそれなりに好きだったが、科学は正直苦手だった。原子記号は呪文にしか聞こえなかったし、化学式に至っては理解しようとする気力すら湧いてこなかった。授業中もひたすら時間が過ぎることを待っていた。高校生までは。
音大に入ってしまえば科学からは解放された。必修科目でなければ嫌いな講義を取る必要もなくなり、ずいぶんと自由にやってきた。つまり――
 大学を卒業し、教師になってから再び同じ気分を味わう羽目になるとは夢にも思っていなかったのだ。
 それも、涼が一番好きな科目で。
(……帰りたい)
 伴奏をしつつ、涼は心底願った。チャイムは。授業はまだ終わらないのか。
 試験で歌うかもしれないと言っておいただけあって、生徒たちは真面目に歌っている。もともと音楽が好きで選択した生徒達だ。授業にも積極的に参加してくれるし、やりやすかった。ただ、一人を除いては。
 唯一の例外、鬼島天下は始終鋭い視線をこちらに投げかけている。その威力たるや、蛇を遙かに凌ぐ。肉食獣だ。隙があろうがなかろうが、とにかく獲物を喰らうつもりだ。
 致死量に近い殺気を受けつつも、涼は平静を装い授業を続けなければならなかった。これを拷問以外になんと呼ぶ。
 チャイムが鳴った瞬間に、涼は安堵のため息を漏らしそうになった。が、すぐさま危機が去っていないことを悟った。皆、足早に鑑賞室を出ていく。当然だ。彼らの教室は向こうの棟、それも三階だ。早く戻らなければ授業に遅刻する。
 にもかかわらず、悠然と着席している生徒が約一名。
(あれ? 事態が悪化してないか?)
 天下は頬杖をついてじっとこちらを見ている。ただでさえ切れ長の目はさらに細まり、凶眼と化していた。最後の生徒が扉を閉める音が、死刑執行の合図に聞こえた。
「……授業のことで相談、ですか」
 底冷えするほどドスの利いた声。丁寧語なのがまた恐ろしい。
「挙句、あんな野郎にホイホイついていきやがって」
「仮にも教師だ。言葉には注意しなさい」
「見境もなく鑑賞室で生徒相手に盛った佐久間先生が、よほどお好きなようで」
 嫉妬深い。彼と付き合う女性は苦労するだろう。涼は顔も知らない未来の交際相手に同情した。ため息が出る。
「生徒に告白されました。私は断りましたが懲りもせずにまた告白してきやがりました。今度は私に『諦めろ』とまで言ってきました、って馬鹿正直に言った方が良かったか?」
 言葉に棘があるのは自覚していた。しかし躊躇するわけにはいかない。天下の片眉が跳ね上がった。
「そう言われた方がまだマシだったな。少なくとも野郎が邪魔してくることはなくなる」
「だから先生と呼びなさいと何度言っ」
「教師扱いしてほしかったら、教師らしい振る舞いをしやがれ」
 吐き捨てるように天下が言い放つ。
「どうせまた頼み事でもしに来たんだろ? 矢沢とのデートでアリバイ作りにでも協力しろだのなんだの、他人を何だと思ってんだ」
 涼は少々意外だった。想像以上に天下は聡い。佐久間を嫌うのも子供染みた嫉妬だけではなく、彼の卑怯な点を見抜いていたからだ。いや、卑怯というほど酷くはない。少々ずるいだけだ。大人はそれを『世渡りが上手い』と言う。そんな些細な処世術も許せないところは、いかにも青年らしい潔癖さだが。
 前置きをいくらしても無意味であることを涼は悟った。直球でいくしかない。
「半分正解だ。佐久間先生に頼まれごとはされた」
 ほれ見ろ、と言わんばかりに天下は鼻を鳴らした。涼はファイルからプリントを取り出した。佐久間から預かったものだ。
「それでも彼は教師だ。そして君の担任でもある」
 天下の眼前、机の上にそれを叩きつけた。
 いろいろ小難しいことが書かれているが、内容は単純だ。ご子息ご息女の修学旅行参加の承諾。保護者のサインを貰えばいい。形式的な書類だった。
「二年一組では君だけだそうだ」
 天下は憮然とした顔で承諾書を一瞥した。
「明日持ってくる、って俺は言った。ンなことをあんたに頼んだのかよ」
 口調には呆れの色が濃い。確かにそれだけだったら大したことではない。形式的なものだし立場上推奨するわけにはいかないが、誰かに代筆してもらうことだってできる。担任でも普通科教師でもない涼の出る幕はなかった。
「誰からサインを貰ってくるつもりだ」
「保護者なら誰でもいいんだろ? 適当に」
「電話したってさ、君の家に」
 承諾書に片手を置いたままの状態で、天下が硬まった。
「掛けた先は鬼島なのに、君のことを聞いてもわからなかったそうだ」
 名前すら知らなかった。始終「どなたですか」の一点張り。嘘をついているようにも聞こえず、しかし間違いなく『鬼島』家なのだ。佐久間が頭を抱えても無理はない。おいそれと本人に訊けることでもなかった。
 三者面談の日が思い起こされた。天下のことを一切匂わせずに帰宅した父親。聞こうともしない母。自然であればあるほど違和感は大きくなった。
 鬼島天下はどこにいる。
「佐久間先生も驚いたってさ。事情を聴くにも、君はどうも家庭に関しては口を閉ざしがちになる。それとなく聞いてみてほしいと頼まれた」
「それとなく?」
 天下は薄く笑った。
「直球じゃねえか」
「あいにく変化球は得意じゃないんだ」
 自分ほど説得や交渉事に向いていない人間はいないと涼は思う。変な理屈をこねまわすし熱意がないし、何よりも短気だ。佐久間の人選ミス。同じ渡辺でも英語教師の渡辺民子に頼めばもっと上手くやっただろうに。
「先日、君の自宅前まで行った時も様子がおかしかったな」
 天下は顔を上げた。高校生とは思えないほど怜悧な美貌に酷薄な笑みが張り付いていた。
「だから?」
 紡ぐ言葉は突き放すかのように冷たい。が、もっともだ。鬼島天下の家庭事情なんぞ渡辺涼には関係がない。仮に天下が修学旅行に行けなくなったとしても涼には何の関わりもない。ただの教師と生徒とは、そういうことだ。
「このままだと皆で楽しく修学旅行じゃなくなる。少なくとも佐久間先生の気は晴れないだろう。どうして君の家に電話したのに、相手は君の存在すら知らないのか。正直に話すか、佐久間先生の掛け間違いで通すか、もしくは――」
 涼は天井を仰いだ。
「佐久間先生の納得する言い訳を適当に考えるかのどれかだ。好きに選べばいい」
 言ってから、もっと踏み込むべきなのだろうかと考えた。涼自身、詮索されるのは好きじゃない。だから他人の詮索もしない。どんなに疑惑が頭をもたげても、だ。それが自分で決めたスタンスだとはいえ、教師としてはお節介の方がいいのかもしれない。
「実は母親が違うんです」
 唐突に天下が言った。
「父には愛人がいまして俺はその子供なんです。だから暮らしている場所も違いますし、三者面談にも母は来ません。父は俺のことを必死に隠して四人家族の平和な暮らしを守っているんです」
 恐ろしいほどに淡々とした口調だった。他人のことを話す時でさえ、ここまで平坦にはならないだろう。
「――というので、どうでしょうか?」
 澄ました顔で天下が訊ねてくる。涼は肩の力が抜けた。
「昼ドラならありえる展開だな」
「現実味には欠けるか」
「私が家族に内緒で隠し子を育てるんだったら、学校側に提出する電話番号も住所も隠し子が現在住んでいる場所にするね。間が抜けている」
 天下は口元に手を当てた。しばし思案に暮れて、指を鳴らした。
「じゃあ、こういうのは? 母親は俺を忌み嫌っていて、憎しみが募るあまり存在そのものを抹消してしまった」
「逆に覚えていそうなものだがな。それに、憎むには相応の理由が必要だ」
「興味がないだけだ」
「他人のふりをするのも結構大変じゃないのか? どんなに仲が悪くても興味が欠片もなくても学校側には何事もないように振舞うのが普通だ。大人には体面ってものがあるし現に、君とお父さんはそうしている。でも君の、」
「行かないっていう選択肢もあるよな」
 涼の言葉を遮り、天下は承諾書を突き返した。
「そうすりゃ保護者のサインも必要なくなる」
「一人登校して課題プリントをひたすらこなすだけだぞ。もちろん、今まで積み立てた分の返金はない」
「別に構わねえよ。あんたが監督ならな」
 二年生を担当する教師はほぼ全員修学旅行に駆り出される。逆を言えば担当以外はほとんど残る羽目になるということだ。どちらにしても面倒だ。
「残念でした。先生は一緒に行きます。君の監督はできません」
 虚を突かれたのか天下の顔が間の抜けたものになる。一瞬の出来事にしかし、涼は少なからず優越感を抱いた。喰えない生徒に一矢報いたような気分になる。
「サイン一つのために断念するなんて、もったいないとは思わないのか。私としては君が何食わぬ顔で修学旅行に参加してくれれば文句はない。佐久間先生には私から言っておく。とにかく、サインを貰ってくるなり偽造するなり上手くやれ。得意だろ? そういうの」
 どうしても言いたくないのならそれもいい。適当に誤魔化してサインを貰って承諾書を提出すれば済む話だ。天下が何を隠しているのかはわからないが、はぐらかそうとしていることだけは理解できた。なら、これ以上詮索する必要はない。教師といえど複雑な家庭事情に首を突っ込む権利も義務もありはしないのだ。
 天下は承諾書の一点を凝視し、やがておもむろに口を開いた。
「先生が抱かせてくれるならいいですよ」
 三限の授業開始を告げるチャイムが鳴った。間延びした、いささか力の抜ける音は相変わらず。これで五十分間真面目に勉強しろというのだから、学校も無茶を言う。せめて曲でも流せばモチベーションも変わるだろうに。
 つらつらと取りとめのないことを一通り考えてから、涼は改めて訊ねた。
「何だって?」
「抱かせてください。そしたら承諾書のサインもちゃんと貰って来ますし、なんならどうしてそんな奇妙なことになるのか、説明してもいい」
 抱く――ああ、そうか。天下があまりにも真面目な顔で言うものだから、涼は自分の発想が飛躍しているのだと解釈した。
「ウチになら肉球クッションがあるけど、今はない。明日でよければ持ってくる」
「先生を、だよ。直接的表現を使うなら『ヤらせてください』」
 眉一つ動かさずに平然と天下は言う。
「別の言い方をすれば、情交、密事、セックス、契る、まぐわう、手折る――まあ、どう言葉を繕っても結局は一緒だけどな。要するに『突っ込ませてください』ということです」
 涼は果てしない眩暈に襲われた。悪夢だ。早く醒めろ。醒めてくださいお願いします今すぐに。いや、むしろ意識を飛ばして無かったことにしたい。
 本能的に危険を察知した身体は天下から大きく離れた。
「落ち着け。とにかく待っ、ちょっ……れ、冷静になろう」
 自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。額に片手を当て、もう片方の手で天下を宥めた。本当に目の前にいる生徒は普通科が誇る優等生か。至極真面目な顔をしておきながら口からは教育上不適切な単語が飛び出てくる。
 一概に端整といっても、天下は硬派な顔立ちをしていた。鴉の濡れ羽のような黒髪に映える白皙の肌。少々日に焼けてはいるものの、なめらかな頬を持つ彼は色男である反面、ストイックさを持っていた。交際相手と仕事を秤にかけるとすれば、間違いなく仕事に傾く。そして「冷たい」と非難されて別れる羽目になるようなタイプでもあった。
 そんな彼の印象を遙かに裏切る発言。これで冷静になれと言う方に無理がある。
「早まるな。まだ若いんだからやり直しはいくらでも――」
 途端、天下が大きく吹き出した。肩を震わせ笑いを洩らす。切れ長の目尻には薄らと涙が浮かんでいた。
「本気にしました?」
 涼の頭は一瞬にして沸騰した。怒りのあまり耳鳴りがするなんて初めてだ。握り締めた拳が小刻みに震えた。少しでも本気にした自分の愚かさを露呈されたようで、いたたまれなかった。
「……授業時間はもうとっくに過ぎてる。早く帰れ」
 押し殺したつもりでも怒気は漏れていたのだろう。天下は笑みを引っ込めた。
「何だ。怒っているんですか?」
「怒ってない。だから出ていけ」
「先生が言ったんだろ。生徒は対象外だって」
 その通りだ。だからこの怒りは天下に対するものではない。彼を責めるのはお門違いだ。わかっている。そんなことは。
「何度も言わせるな。教室に戻りなさい」
 半ば強引に天下を追い出して、涼は鑑賞室の鍵を閉めた。息をするのも苦しい。崩れ落ちるように絨毯の上にへたり込んだ。止まらない。手の震えも嗚咽も。
 恥ずかしい。情けない。いたたまれない。涼の胸を占めるのはそんなものではなかった。ただただ怖かった。母と同じ轍は踏まないと自ら厳しく律してきたつもりだった。だが、現にこうして揺らいでいる。どうして、何故、流されればどうなるか骨身に染みて理解しているはずなのに。
 自分自身が恐ろしかった。身体の中に流れる血は、涼にとって恐怖以外の何物でもなかった。自分を捨てた母と同じ血。つまりそれは。
すなわち、同じ過ちを犯す可能性を秘めていることだった。


「落ちましたよ」
 優しげな声。ハンカチを拾い上げる仕草は優雅でさえあった。くっきりとした一重の瞼。影を落とす長い睫毛。品のよいバランスで保たれている唇と鼻。しみ一つない肌。やはり親子だ。どことなく繊細な所が天下に似ていた。
涼は可能な限り友好的な笑顔を取り繕って、ハンカチを受け取った。
「ありがとうございます」
 天下の母――鬼島美加子は如才なく応じた。人見知りするタイプではなさそうだ。これ幸いに涼は買い物カゴを覗き込んだ。
「ずいぶん買われるんですね」
「育ち盛りが二人いるもので」
 二人。鬼島家は三兄弟のはずだ。
「へえ……高校生ですか? それとも中学生?」
「上の子は来年高校です。今は受験で大騒ぎ。希望のところに入れればいいんだけど」
 難しいものですね、と微笑む。嘘をついている様子はなかった。ますますわからない。天下愛人の子説が涼の脳裏をよぎった。それとも本当にすっとぼけているだけなのだろうか。
 天下の父――鬼島弘之が現れたのはスーパーを出た後、涼がこの近くの高校で教師をやっていることを明かした時だった。
「あら、あなた、早いわね」
 呑気なのは美加子一人だ。弘之は相も変わらず険しい顔をしていたが、その目は如実に涼の存在を望んでいないことを示していた。負けじと涼も睨み返す。眼光の鋭さでは及ばないかもしれないが、状況的には涼の方が優位に立っていた。
 弘之には、他人に知られては困ることがある。その秘密の近くに涼は寄ってきたのだ。スーパーで美加子と会ったのは偶然などではない。そして、弘之が現れるのも計算の内だ。さらに――
「先生っ」
 どこからともなく天下が駆け付け、涼の腕を取った。これも予想の範囲内。
「やあ鬼島君、奇遇だな」
「冗談はやめろ」
 腕を掴んだまま、天下は力づくで涼をその場から離れさせた。その際、ほんの一瞬だが弘之と目で会話したのを涼は見逃さなかった。心配するな。あとで連絡する。言葉にすればそうだろう。涼は抵抗もせず天下に引きずられてやることにした。
「連れが現れたので、この辺で失礼いたします。ご主人とご子息によろしくお伝えくださいませ」
 一人蚊帳の外に置かれた美加子は戸惑いながらも「え、ええ……」と返答した。天下の姿を見て動揺、なんて様子はなかった。
 スーパーから離れ、商店街の外れにある公園まで来てようやく天下は足を止めた。
「あんた、何してんだよ!?
 怒気に満ちた形相で詰め寄ってきた。しかし、胸倉掴んで問い詰めたいのはこちらの方だ。涼は悪びれもなく答えた。
「夕飯の買い物。さっきの女性とは偶然会った。話が弾んでな。いろいろ聞いた。来年高校受験を控えた長男と、サッカーに燃える二男の四人家族だそうだ」
 天下は盛大に舌打ちした。
「嫌がらせかよ。手の込んだことしやがって……っ!」
「何度も言わせるな。変化球は苦手なんだ。君に聞いたけどまともに答えてくれなかった。なら本人に聞くしかないだろ」
「だから、どうして、他人の家庭事情に首突っ込んでくるんだ。ただのお節介じゃねーか。迷惑なんだよ」
 心外だ。涼は腕を組んだ。
「私には首突っ込んでほしそうに見えた」
 あんな出来事があっても、六限が終わる頃には涼は冷静さを取り戻していた。ついでに考える時間も十分にあった。結局、鬼島家が何を隠しているのかはいくら考えてもわからなかったが、一つだけ気付いたことがある。天下のことだ。
 彼には、他人の心を試したがる癖がある。
 それが意識的になのか無意識なのかはわからない。が、天下は少なくとも涼に対しては恋慕と同時に疑念を抱いている。だから試みるのだ。
 例えば先日のオペラの一件。あれは佐久間と涼が二人で会っているのを見て気を利かせたというよりは、涼がどちらを選ぶのかを確かめた、と取れる。今朝の一件にしてもそうだ。挑発的なことを言って涼の神経を故意に逆撫でした。まるで、どこまでなら赦されるのかを量るかのように。
 鬼島天下は普通科が誇る優秀生徒だ。故に教師たちの覚えも良く、生徒らの人望も厚い。だから思ってしまう。もしも、優秀生徒でなかったら。自由奔放に、我儘に生きていたら、果たして自分は認められるのだろうか、と。
好かれたいと願っていながら涼にさえ試みてしまうほどに、彼は猜疑心を抱いている。
 裏を返せば、天下は今まで無条件に愛されたことがほとんどない、ということだ。
「まだるっこしいのは嫌いなんだ。ほれ、さっさと吐いてしまえ」
 眉間に皺を寄せる天下に低く耳打ちしてやる。
「戻ってお母様とお父様に訊いてこようか?」
 彼の急所だ。それを知っていながら突く自分の鬼畜ぶりに自分で呆れた。
「てめえ……それでも教師か」
 天下が目を眇めた。高校生とは思えない凄みがある。気圧されそうになる己を叱咤して涼は不敵に微笑んだ。睨み合うことしばし、先に折れたのは天下の方だった。
「お袋に訊いたって、わかりゃしねえよ」
「じゃあ、父上殿ならわかるのか」
「お袋以外ならな。親父も統も一も知ってる。お袋だけなんだ」
「何をだ」
 天下は短く息を吐いた。
「俺が中学の時にお袋が交通事故に逢ってな。まあ、見ての通りちゃんと回復したんだが、一つだけ戻らなかったものがあった」
 何だと思う?
 視線で問われても涼は答えることができなかった。美加子が何かを失っているようには見えなかった。良い家族に囲まれて充実した生活を送っているようにさえ思えた。
「俺の記憶。どういうわけか俺のことだけ覚えていなかった。旦那は鬼島弘之。長男は統で、その下は一。そう思い込んでた」
 天下は薄く笑った。何かが抜け落ちた笑みだった。
「病院行った時はさすがに驚いた。お袋さ、俺を見て『お見舞いですか?』とか笑顔で聞いてくるんだ。同室の誰かの親類だと思い込んで疑ってもいなかった。最初は、事故のショックで記憶が混乱してんだろ、とか軽く考えてたけど、全然変わんねーんだ。何度会っても俺は余所の子で、自分は四人家族だと思ってる」
「カウンセラーは? 専門医に診せたのか」
「退院する前に二、三回。原因は事故で間違いはないらしい。一種の記憶喪失だってよ。明日戻るかもしれないし、一生戻らないかもしれない。でも、俺のこと以外はいつも通りなんだ。普通に起きて、うるさく勉強のこととかに口を挟んで、入院してる自分のことよりも家族の飯のことを心配して――何も変わってなかった」
 そう語る天下の口調は淡々としていた。相反するように目は遠くを見ている。涼はその眼差しに既視感を抱いた。養護施設にいた皆が時折、こんな目をしていた。仕方ない。どうしようもない。遙か遠くを望み見ながらも諦めてしまった眼差しだ。
 涼は胸が焦がれるような痛みを覚えた。
「それで、家を出たのか?」
「家に他人が上がり込んでたらマズいだろ。ちょうど受験も終わった頃だったし、お袋が落ち着くまで一人暮らしすることにした。親父は反対したけど、結局は――」
 そこで天下のケータイが鳴った。「悪い」と一言断ってから耳に当てる。
「こっちは大丈夫だ。お袋は?」
 察するに父親殿だろう。天下は落ちついた様子で通話していた。
「……そうか。悪かった。仕事あるのに」
 おいおい。何を謝っている。涼は自分の不快指数が増していくのを感じた。どんな会話が繰り広げられているのかが察せるだけに、その上昇率は半端ない。
「俺は平気だよ」
 どこがだ。
「心配すんな」
 ちょっと待て。なんで強がっているんだ。
「必要ねえよ。こっちでなんとかする」
(これが、高校生が親とする会話か?)
 涼は頭痛に近い憤りを覚えた。冗談じゃない。全然平気でも大丈夫でもないだろうが。
天下からケータイを奪い取り、相手に罵声の一つでも浴びせてやりたかった。が、当人が納得している以上、涼に口出しできることではなかった。自分は、天下の担任でもない。ただの音楽教師だ。
「……わかった」
 苦々しい顔で天下は頷くと、通話を切った。
「親父が、あんたと話がしたいとさ」
「私は話すことがない」
 涼は素っ気なく言い放つと踵を返した。所詮、自分は天下とは何のかかわりのない教師だ。口止めなどする必要はない。
「悪かったな。余計なお節介をして」
 捨て台詞を残して公園を後にする。明日、佐久間には無理だったことを伝えよう。佐久間が引き下がるのならばそれでいい。納得せずに自ら調べ出しても別に構わない。勝手にすればいい。
 離れれば離れるほど焼けつくような焦燥感はむしろ激しさを増していた。だが、どうでもよかった。関係ない。鬼島家の事情など。天下など、涼の知ったことではなかった。


女性誌は何故こんなにも分厚いのか。『キュンキュン』の表紙をめくると涼が生まれ変わったってなれないような美女が新作のジャケットを着てポーズを決めていた。信じられない。これで歳下か。そして日本人か。
「やっぱりピンクよね」
 遙香が『ネネ』の一ページを指差す。必要以上に開いた胸元とリボンが特徴のワンピースをこれまた高校生とは思えない女性が完璧に着こなしていた。
「……まさかとは思うが、修学旅行に着てくるんじゃないだろうな」
 京都を闊歩するワンピース姿の遙香を思い浮かべ、涼は恐ろしくなった。場違いにも程がある。古の都を一体何だと思っているのだろうか。
「これくらい普通ですよ」
「君達と教師陣の価値観には相違がある。別にこっちに合わせろとまでは言わないが、服装指導をされることは覚悟しといた方がいい」
「着るものにまで口出すんですか?」
 遙香は思いっきり不快気な顔をした。
「京都に行ってまで」
「外に出るからこそ、周囲の目に気を配るんだ。学校のイメージに関わる。修学旅行だからって羽目を外されるわけにはいかない」
涼は『キュンキュン』を閉じた。音楽科準備室には現在、他の教師はいない。皆部活の指導やら出張やらで席を外している。それを幸いに遙香は恵理の机に雑誌を広げ、本人曰く「勝負服」を選んでいる。
 服選びなら教室で同級生達と盛り上がればいい、と涼は思うのだが、遙香にはそれができない理由があった。
「佐久間先生はどんなのが好きだと思います?」
 意見を求められても涼はファッションに明るくない。佐久間の好みを知るほど親しくもない。が、わざわざ訪ねてきた遙香の手間に少しでも報いてやろうと、無い知恵を絞った。
「可愛い系、だと思う」
 高校生と交際するくらいだ。少なくとも知的美人ではないだろう。
「じゃあピンクね」
 遙香は機嫌良く雑誌をめくった。ころころと変わる表情は見ていて飽きない。我儘な妹を持った気分にさせた。
 一応、佐久間との関係は秘めているため、遙香は涼の前でしか佐久間の話ができない。音楽科準備室にまで押し掛ける理由がここにあった。涼の都合などお構いなしの所は自分勝手でもあるが、同時に健気でもあった。それでも彼女は佐久間との関係を投げ出さずにいる。
 比べて自分はどうだろう、と涼は思った。
 危ない橋は渡らない。必要以上に首を突っ込もうとしない。拒まれたら身を引く。何かが間違っていると気づいていても。途中で投げ出すような無責任にはなりたくはないから。
 しかしそれは無関心だ。
 天下が傷ついているのも見ないふり。鬼島家が歪んでいるのも見ないふり。無責任にならないかわりに、涼は非常に無関心になった。傷口を目の当たりにしながら医者ではないことを理由に逃げ出すのと同じだ。それは、途中で放り投げることよりも冷酷な仕打ちではないか。
「今日は佐久間先生とデートじゃないのか?」
「なんか修学旅行のことで打ち合わせがあるらしいですよ」
 時計を見る。午後五時。会議なんて聞いていないとすれば、心当たりは一つしかない。鬼島天下だ。佐久間は彼の扱いに困っていた。承諾書のサインもまだなのだろう。個別に呼び出して、事情を問いただしているのだろう。必死に平静を装い、はぐらかす天下の姿が脳裏に浮かんだ。
(またあいつ一人が責められるのか)
 ああ畜生。涼は胸の内で誰にともなく罵倒した。どうして消えてくれない。どうして彼は自分の前で傷を曝け出した。どうして――
 涼は席を立った。
 どうして放っておけないのだろう。


 担任から天下の父親のケータイ番号を聞き出した。当然佐久間は怪訝な顔をしたが、遙香の件を持ち出せば逆らうことなどできない。それを見越して涼は佐久間に訊いたのだ。
 仕事中らしく鬼島氏のケータイは留守番電話に切り替わった。怯むことなく涼はメッセージを残す。自棄に近い勢いが涼にはあった。一度我に返れば立ち止まって、進めなくなる。ならば迷う暇もないくらい突き進めばいい。
 鞄を取り、ネクタイを締め直し、学校を後にし、そして涼は駅前の喫茶店にいる。運ばれてきた紅茶には手もつけずに、店内を流れる旋律にひたすら意識を集中させた。二つのヴァイオリンで編み込むように作りだされる厳格なバッハのドッペル・コンチェルト――繊細で、そして荘厳でありながらどこか物悲しかった。
 レパートリーを一周して二度目のバッハを聴いている時に、待ち人は現れた。
「お待たせしました」
 スーツ姿。会社から直接来たのだろう。さしずめ飲んで帰ってくるだの言い訳して。鬼島氏がウェイトレスに注文を終え、コーヒーが運ばれてくるまで涼は一言も喋らなかった。
「驚かれたことでしょう」
 鬼島氏は言葉を選ぶようにゆっくりと言った。
「息子から説明があったかもしれませんが、家内は記憶を失っておりまして。事故以来ずっとあの調子なのです」
「二年前、ですよね。記憶が戻る兆しもないと伺っておりますが」
「綺麗さっぱり抜け落ちているんです。本人の前ではとても言えませんが、こちらまで四人家族だったのではとふとした瞬間に思ってしまうほど、自然なんです」
 沈痛な面持ちで鬼島氏はため息をついた。
「息子が家を出るのも当然です。耐えられないでしょう」
 涼の中で悪魔が囁いた。本当にそうか? 逃げ出したのは本当に天下なのだろうか。
鬼島氏は嘘をついてはいない。鬼島美加子は事故で記憶を失った。天下の存在だけを。記憶が戻る気配もないので仕方なく天下は一人暮らしをしている。鬼島氏は細君の記憶が戻ることを願って日々を過ごしている。間違いはないだろう。そう、偽っているわけではないのだ。
ただ、一番重要な部分を隠している。目を逸らしているだけだ。
 涼は冷め切った紅茶を一口飲んだ。
「どなたにも喋るつもりはありません。ご心配なく」
「ありがとうございます」
 別に、あなたのためではありません。
 深々と頭を下げる鬼島氏に言ってやろうかと思ったが、涼は口を閉ざした。鬼島氏のためではないのならば、一体誰のためだろう。佐久間と遙香の時とは全く事情が異なっている。天下のため、とは言い難かった。
 仮に秘密を守り続けたとして、それが天下にとって良いことなのかがわからない。
「どうするおつもりですか」
 鬼島氏が眉をしかめた。
「これからもずっと奥様の勘違いに家族全員が付き合うんですか?」
 背後で人が座る気配がした。声を忍ばせるべきだろうかと涼は一瞬考え、結局やめた。聞かれても困るのは鬼島氏だ。落ち着かせる意味も込めて涼はティーカップに触れた。ひんやりとした感触は苛立った気持ちを幾分静めた。が、怒りが収まったわけではない。
「記憶を失った奥様に非はない。貴方のせいでもない。誰も悪くはない。では、どうして彼一人が全部負っているんですか。おかしいですよ。昨日あなたがタイミング良くスーパーに現れたのも、天下君から連絡があったからでしょう? 学校の教師に疑いを持たれたから注意しろとか。そんな連絡をどうして高校生にさせるんですか」
 最初に一人暮らしをすると言い出したのは天下だ。鬼島氏は一応反対した。反対を押し切って貫いた以上、それは天下自身が選んだことであり、彼が責任を負うべきことである――はずがなかった。
本当に天下の父親でありたいのならば、鬼島氏は何があっても天下一人を追い出すような真似をしてはいけなかった。最後まで向き合うべきだったのだ。
 陰険だと思いつつも涼は目を細めた。
「鬼島さん、卑怯ですよ。あなたは天下一人を切り捨てて、自分の周りを完璧に囲ってから白々しく『すまない』と形だけ謝ってる。実際は悪いなんて思ってませんよ」
「息子には、申し訳ないことをしていると思ってます」
 コーヒーを持ったウェイトレスが両者の傍を通る。「お待たせいたしました」という愛想の良い声を背中で聞き、足音が離れてから涼は口を開いた。
「嘘です」
「本当です。私は彼の父親です」
「あなたの息子だという理由だけで、天下は抱えなくてもいい秘密を抱えて生きています。自分を犠牲にしてまでも、あなた方の生活を壊さないために、必死に何の問題もない優等生を演じているんです。そんな彼に、あなたは今まで何をしましたか?」
「どうにかしようとは思っています。今のままで良いはずがありません」
 今が最善ではないことは確かだ。しかし、最善である必要もない。それなりに折り合いをつけて生活を送ることはできる。そして鬼島家は無理に折り合いをつけてしまった。そのひずみが全て天下に押し寄せてきたのだ。
 鬼島氏の言っていることは詭弁に過ぎなかった。
「心にもない事を口にしないでください。あなたは本気で奥様の記憶を戻そうとは思っていない。今の生活を捨ててまでどうにかしようとは思っていない。ただ、天下の前では格好がつく程度に努力しているふりをしているだけです。転倒を避けて近くにあったものを踏みつけて『ごめんなさい。でも転ぶところだったんだ』と言い訳してるのと同じです。故意であろうとなかろうと、踏みつけられた側が痛みを負うことに変わりはありません。踏みつけた側の事情なんて関係ないんですよ」
 故意ではない。だから仕方ない、で済む域を超えていた。悪意がなくても人は傷つけられる。そこに加害者の意思が関与する余地は僅かでしかない。
 今となってはもうわからないが、母も手放したくて涼を手放したのではないのかもしれない。しかし、そうであろうとなかろうと涼が親に捨てられた事実に変わりはなかった。
 鬼島氏はもう否定しなかった。
「何事もないかのように平穏無事に過ごしたい。でも天下には恨まれたくはない。それはズルいですよ、鬼島さん。天下に苦渋を飲ませてでも今の生活を守るのなら、彼に恨まれる覚悟を決めるべきです」
 閉ざした口の代わりに目は雄弁に物語っていた。たかが教師だというだけで、何故そこまで責めるのか。関係のないことでしょう。
 まさにその通りだ。涼は薄く笑った。一体何がしたくて説教じみたことを言ったのだろう。やはり自分は説得には向いていないと再認識する。相手を懐柔し軌道修正させるのではなく、弱い点を衝いて徹底的に叩き潰してしまう。再起不能なまでに。
適当に詫びて席を立ちあがろうとした時に、背後の気配が動いた。
「先生」
 低いが通りのいい声。反射的に涼は振り向いて言葉を失った。
いつからいたのか。学生服のまま、天下は混迷の色を濃くした目で涼を見つめていた。引き結んだ唇がかすかに震えている。開けば溢れだしてしまうのを恐れているかのように、天下はひたすら口を閉ざしていた。触れれば壊れてしまうのではと錯覚するほど、目の前の少年は脆く、危うかった。
「よくわかったな」
「準備室に行ったら矢沢が」
 彼女の前で電話したんだった。迂闊だった。雑誌に夢中だったから大丈夫だろうと思っていたがしっかり聞いていたのか。
「首突っ込むなって、言ったじゃねえか」
 責める口調は弱々しかった。いつもの覇気がない。涼は周囲に気を配らなかったことを悔やんだ。天下に聞かせるような話ではなかった。
「天下」
 鬼島氏が呼ぶ声は無視。天下は二百円をテーブルに置いて背を向けた。出入り口まで来たところで立ち止まり、首だけをこちらに向けた。
「みんなによろしくな」
 皮肉ともつかない言葉だが、それを告げる天下はひきつったような、ぎこちない笑みをしていた。子供が親を安心させるようと浮かべる微笑み。涼は胸が苦しくなった。
 五百円玉を一枚置いて鬼島氏に一礼した。店を出て、帰宅を急ぐサラリーマンや学生の間をぬうように進む。時折見失いそうになる背中にひやりとしながらもなんとか後をついていく。いつぞやの公園にまで差し掛かったところで涼は声をかけた。
「鬼島」
 背中が止まった。
「……やけに積極的ですね」
 優等生スイッチが入ってしまったようだ。これ以上干渉するなという警告を理解していながら、涼はあえて踏み込むことにした。
「今日だけだ。もともと私はお節介するのもされるのも好きじゃない」
 好き嫌いの問題ではなかった。怖いのだ。相手の領域に上がり込んで傷つけてしまうことも、逆に上がり込まれて自分が傷つくのも。だからこんな「お節介」ができるのは勢いに乗っている時だけだ。止まってしまえば、また動けなくなる。
「だから、言うなら今だぞ。全部聞いてやる。君が嫌だというなら忘れる。でも私から動くのは今だけだ」
「今までの鬱憤を、ですか?」
「言って何かが解決するわけじゃない。けど折り合いはなんとかつけられる。少なくとも、気分は晴れるはずだ」
 天下は観念したように肩を竦めた。大木の陰に隠れているベンチに座り、その隣に手を置く。座れということらしい。いつもの涼なら応じなかっただろうが、乗りかかった船だ。鞄を間に置いて座った。
「ガキじゃねえんだ。一人暮らしが寂しいなんて思ったことは一度もない。毎日好き勝手にできるから、むしろ親父には感謝してる。俺の我儘に文句も言わず、すまなそうに毎月金払ってくれてるし、必要な時だけ親父面して現れてくれるし」
 不満なんかねえよ、と天下は呟いた。涼から見れば恵まれている方でさえあった。しかし、それはあくまでも今の状況が、だ。
「悪い事だとは言っていない。君自身が納得しているなら、他人の私がとやかく口出しするべきじゃない。世界は広いんだ。そういう家族の形があってもいい。でも、」
 そう、どんなに合理的で物質的に恵まれているとしても『でも』が付いてしまう。
「でも変だよな。おかしいよな」
 涼の言葉に天下は小さく頷いた。
「どうして『俺』なんだろうな。親父でも統でも一でもなくて、どうして俺だけをお袋は忘れちまったんだろう」
 一人離れて住む。天下の孤独はそういう物理的なものからくるものではなかった。もっと奥深く、彼の存在そのものからくる孤独だったのだ。
「前に言ったこと、あれ半分本気だった。俺はお袋に嫌われていたんじゃないか。余所のガキなんじゃないか――いろいろ考えて、戸籍まで調べたんだぜ?」
 自嘲気味に弧を描く天下の口元。しかし涼は何も言えなかった。
 出生など関係ない、というのは恵まれた側の言い分に過ぎない。人は誰しも自ら望んで生まれたわけではない。有無を言わさずこの世界に産み落とされた。だからこそ願うのだ。せめて望まれて生まれたい、自分の親にだけは。涼の場合、その願いは叶わなかった。
 天下は空を仰いだ。
「でも何にも出てこなかった。俺は鬼島弘之と鬼島美加子の長男、鬼島天下以外の何者でもなかった」
 思考は巡り巡って結局、元に戻ってしまう。どうして自分なのだろう、と。
 好きで記憶を失ったわけではない。だからこそ、天下は余計に傷ついた。意味もなく、理由もなく天下という存在は母親の中から抹殺された。悪意がないのがより一層残酷だった。彼には責めることすら許されなかった。誰も悪くないのなら。誰にも非がないのなら、何故、どうして――
 どうして、自分は忘れ去られたのだろう。
 天下は悲壮めいた顔をしているわけではなかった。憎悪も怨嗟も軽蔑すらなかった。ただ、冷めていた。見慣れた表情に涼はたまらなくなった。胸に占める空虚感の名は知っている。これは、絶望だ。
 つい伸ばしかけた腕を、涼はかろうじて押し止めた。
 駄目だやめろ。手を差し出すな。頭の中で警鐘が鳴り響く。情に流されればどうなるか、誰よりも涼が知っている。育てられないのなら、どうして生んだ。無責任じゃないか。放り出すくらいなら最初から関わらなければいい。顔も見ない母に向かって何度そう罵倒したか。
 だから天下を突き放した。彼の想いを受け入れたら、その先はどうなる? 涼にはとても責任が持てるとは思えなかった。後先考えずに行動した結果、振り回される周囲の迷惑を涼は十分過ぎるほど理解している。
 だから、傷つき途方に暮れた天下に手を差し出すことはできない。満たされるのは涼の自己満足だけだ。わかっている。そんなことくらい。だが、だが――
 もう限界だった。涼は天下の頭を抱え込んで、きつく目を閉じた。顔なんか見れやしない。抱きしめられる格好になった天下の身体が強張ったのを腕に感じた。
「先生?」
「うるさい」
「誰かに見られたらどうすんだよ。最悪、クビだぞ」
 小さく身じろぐ。涼は抱きしめる腕に力を込めた。
「私の知ったことじゃない」
やがて天下は観念したように肩の力を抜いた。自嘲混じりに呟く。
「同情か?」
「そうだよ。憐れんでやっているんだ。感謝しろ」
 天下の境遇に同情した。それだけだ。そうでなければこんな真似はできない。だって自分は教師で、彼は生徒だ。
「私の教師生命を懸けて同情してる」
 天下を抱擁することなどできやしない。憐憫だと思わなければ。無責任によって何がもたらされるのかはわかっている。しかし、それと同じくらい涼は孤独を知っていた。
 躊躇いがちに涼の背中に手が回った。より密着できるよう、天下が腕に力を入れる。その仕草は抱き寄せるというよりも縋っているようだった。
 長く、感嘆にも似た吐息を皮切りに、肩が小刻みに震える。押し殺すような嗚咽。その一つさえも取りこぼすことのないように、涼は殊更丁寧に天下を抱きしめた。
 せんせい。
 低く掠れた声が空気を震わせた。頭の中で鳴り響いていた警鐘はもう聞こえない。


 その後はもう急転直下だ。どちらともなく見つめ合い、接吻を一つ。唇に触れるだけのキスはやがて深くなり、互いの舌を絡め合うほどの濃厚なものになる。
 二人手をつないだまま、天下の自宅へ行き、雪崩れ込むようにベッドに倒れ込んだ。理性も倫理も吹っ飛ばしてただ快楽に身を委ね、互いの体温だけを感じる。文明が発達しても変わらない原始的で野蛮な行為、だからこそ気持ちが良かった。余計なものが何一つついていないのが、たまらなく心地よかった。しがらみからの解放感。後に残るのは愛しさだけだ。


 ――とまあ、ここまでは三流フランス映画ならありうる展開だ。


 しかし残念ながらここはフランスではなく日本で、これは映画ではなく小説だった。
実際は天下が落ち着いたところで離れた。駅まで言葉を交わすことなくただ並んで歩いて、同じ電車に乗って、涼は先に降りた。その際に何か声をかけてやるべきかと考えたが、気の利いたセリフが浮かんでこなかったので結局無言で別れることと相成った。アパートに着く頃には、先ほどまでの自分の行いが脳裏でエンドレスでリピート再生され、様々な意味で涼はぶっ倒れそうになった。
 天下の母が奇跡的に記憶を取り戻すこともなかったし、鬼島氏が心を入れ替えて天下を追いかけてくることもなかった。涼一人が動いただけで劇的に変わるくらいなら、最初からそうしている。涼が本腰を入れて向き合っても、天下を取り巻く状況は大して変わらなかった。
 しかし、変わったものはあった。
 翌々日に天下が修学旅行の承諾書を提出した旨を涼は佐久間から聞いた。鬼島氏のサイン入り。修学旅行にもちゃんと参加するとのこと。一体どういう心境の変化か、涼が興味に駆られて訊いてみれば、天下はいつもの優等生顔で答えた。
「約束しましたから」
 意味をはかりかねて涼は眉を寄せる。天下は人の悪い笑みを浮かべた。
「抱かせてくれましたよね?」
 十秒ほど。涼の思考は停止状態に陥った。機能回復と同時に頬が紅潮していくのが自分でもわかる。あれは冗談にもならない戯言だったはず。
「いや、違うだろ」
「確かに俺が期待してたものではありませんでしたが、今回は譲歩します」
「次なんてない。進展もありえないからな。だいたい、忘れると言ったじゃないか」
「先生が忘れるのは自由です。でも俺は忘れませんよ」
 忘れろ今すぐ。涼は一昨日の自分をぶん殴りたくなった。安易な同情は身を滅ぼすということを失念し、うっかり天下を衝動のままに抱きしめてしまった。これでは佐久間達と同レベルではないか。
「三泊四日ですよね」
「あ、ああ」
「しおりによれば、自由時間がたくさんあるそうですね」
「羨ましいよ。教師に自由な時間なんてない」
「でも就寝時間後は空いてますよね? 夜は長いんですし」
 不穏な気配を感じ取った涼がドアノブをひねる前に、天下は扉に手を置いた。逃がすつもりはないらしい。恐る恐る顔を上げて涼は激しく後悔した。
 凄みを帯びる笑顔で天下は低く告げた。
「逃げんなよ」
 肉食獣に睨まれた獲物の気持ちが良くわかる。わかりたくもないが。
 恐怖に駆られた涼が手にしていた教本で天下を張り倒し、音楽準備室に逃
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