文字数 11,259文字

 来年度から校内で教師の『渡辺』が一人になると涼が知ったのは、例の騒ぎが収まって間もない頃だった。情報源は当然、同じ普通科担当教師の佐久間だ。
「東京の有名私立高校です。ヘッドハンティングですね」などと呑気な発言をする佐久間は、自分が原因であるとは微塵も、想像さえしていないようだ。ここにきて涼はようやく悟った。どうして佐久間と遙香の恋愛が成り立つのか。二人とも自分の都合の良い方にしか解釈しないからだ。普段は遙香の我儘ぶりばかりが目立つが、佐久間も負けず劣らずマイペースだ。
 ここまで我を通されてしまえばいっそ小気味いいくらいだった。とにかく涼はこれ以上関わりにならないように可能な限り音楽準備室へ籠ることにした。
 なので、突然押し掛けられてきても答えようがなかった。
「聞かないんですか?」
 音楽準備室に入るなり、民子は前置きもなく訊ねてきた。放課後、明日の準備も終えてそろそろ帰ろうかと涼が思っていた矢先にだ。他の教師が出払っているので話しやすいのはわかる。が、どいつもこいつも他人の事情というものを考えていない。
「何をですか」
 涼は半眼で訊ね返した。早々の帰宅は諦めてコートを椅子に掛ける。
「考えなしで優柔不断で面倒なことになったら他人に押し付ける情けない教師がどうして好きかなんて、それこそ余計なお世話というものでしょう」
「随分はっきり言いますね」
 民子は気を悪くする様子もなく俯いた。
「自分でもわかりません。歳下で、頼りにならないからでしょうか。私がいなきゃ駄目だと思っておりましたの」
 一方的に、だ。佐久間の方は気付いてすらいなかっただろう。
「いつお気付きに? 私、そんなにあからさまでしたか?」
「残念ながら私は色恋に関しては疎いと友人のお墨付きでして。正直、お二人の普段の様子ではただの友人程度にしか見えませんでしたね」
「実際、ただの先輩と後輩ですから」
 自嘲混じりに民子は呟く。沈みかけた空気を振り払うように涼は話題を変えた。
「いくらあの二人がずぼらだとしても、逢引現場を二回も三回も偶然目撃させるのは至難の業です。どちらかが故意でない限りは」
 最初の一回はおそらく偶然だろう。しかしその後も民子は二人の交際現場を何度も目撃している。二人の関係を知って注視するようになったからだ。そしてストーカー紛いな行動もした。同僚の教師と教え子のスキャンダルであることを差し引いても、その情熱は明らかに歪んでいた。
「で、普通は一回そんな現場を目撃したらすぐに咎めるなり上司に報告するなりします。脅迫文を送るとしても当人に送りますよ。お三方に怪文を送りつけるからには、それだけの理由があって然るべきです。学校に送りつけたのは騒ぎを大きくして二人を引き離したかったから。匿名なのは追い込んだのが自分だとバレてほしくなかったから」
 身勝手とも言うべき願いは、民子が佐久間に慕情を抱いていたと仮定すれば成り立つのだ。あんな男のどこがいいのかは未だに理解しかねるが。
 民子には純然たる悪意があった。とにかく傷つけ、打ちのめしたいという昏い衝動があった。ただ、それが向けられていたのは佐久間ではなく、もっぱら遙香の方だったのだ。
「しかしそう考えると、先日の件は少々腑に落ちません。写真を送りつけたのは渡辺先生であるとすぐにバレます。怪文の件を私が言ってしまえば疑いの目は向けられたでしょう。それでも強硬にあなたは写真を送りつけた。二人を引き離すためとはいえ、捨て身過ぎやしませんか?」
 民子は微笑んだ。これまで見た中で一番不気味な笑みだった。
「心中ですよ」
 唇から発せられた不穏な言葉に涼は眉を寄せた。
「心中?」
「死なば諸共、道連れにしてやろうと思ったんです」
 その意味を咀嚼する。涼が民子を告発するとでも思っていたのだろうか。だとすれば杞憂だ。怪文の件を涼が言おうものなら、民子だって佐久間と遙香の件を黙っているとは思えない。お互いに弱みを握り合っていて拮抗状態だったはずだ。
「私は、誰にも言うつもりはありませんでしたよ?」
「違います。職を追われることではありません」
 ややむきになって民子は言い返した。
「愛の反対は何だとお思いですか?」
 突然そんな哲学的な質問をされても答えようがない。そもそも愛の解釈は人それぞれであって、何世紀もの間数多の哲学者が研究に研究を重ねたが未だ明確な答えを導き出せていない。そんなものを音楽教師が論じる方がどうかしている。
「無関心ですよ」
 最初から涼の答えは期待していなかったのか、民子はあっさりと言った。
「憎まれた方がまだマシです。私は気にかけてすらもらえませんでした。彼にとって私は、路傍の石同然です。食事に誘っても、こっそりチョコレートを机の上に置いても、彼は全く相手にしてくださいませんでした。いつも困ったように苦笑するだけ。はっきりと断ってもくださいませんでした。無視に等しいですよ」
 そんな軽薄な無神経野郎を好きになったのは民子本人だ。たしかに、佐久間の曖昧な態度は褒められたものではないが、それを咎める権利はないはずだ。民子だって正々堂々としていなかったのだから。
「だから、いっそ憎まれてやろうと? 社会的心中を図ったわけですか」
「彼が最初に私を踏み躙ったのですよ」
 燃えるような瞳で民子は断言した。
「私だって苦しかったのです。よりにもよって教え子と交際するなんて……眠れない夜が何度続いたことか。校長に報告するべきか、佐久間先生に忠告するべきか、別れるよう諭すべきか、考えて、悩んで――その間も彼は教え子と一緒にいると思ったら気が狂いそうになりました。どうして、私ばかり……」
 嫉妬だ。それが歪んで逆恨みに発展した。涼は冷めた目で自分の正当性を訴える民子を見た。全く同情できなかった。
「佐久間先生を好きになったのは渡辺先生。二人の関係を知って気にしたのも渡辺先生。全てあなたが勝手に思い描いただけですよ。頭の中で何を考えようと咎めはしませんが、他人に押し付けるのは間違っています」
 その前に恨みがあるなら本人に言え。他人を巻き込むな。涼の心を悟ったのかどうかはわからないが、民子は目を眇めた。
「私、やっぱりあなたの事を好きにはなれませんね。澄ました顔で他人の急所を掴んで握り潰す方なんてごめんです」
「奇遇ですね。私もです」
「でもあなたがどうして、他人を見抜くことに長けているのかは、想像つきますよ」
 民子は満足そうな笑みを浮かべた。
「自分が秘密を抱いているからですよ。だから暴かれる前に他人のを暴こうとするんです」
 可哀想に、と民子は呟いた。
「自分を守るために他人を攻撃せずにはいられない。これから先、あなたはずっとそうやって生きていくんですね」
可哀想に。静かに発せられたその一言は粘質の毒の如く涼の中に染み込み、いつまで経っても薄れる気配を見せなかった。


 考えてみれば大したことではない。
 断っても断ってもしつこくしつこく粘りに粘ってくる将来有望な優等生くんに、ちょっくら世の中の厳しさでも教授してやろうと無理難題を出した。全国模試百位以内。我ながら名案だと(その時は)思った。
優等生くんの高い鼻を折ることができる。何でもかんでも思い通りにならないことを若い内に知っておくのも、彼のためである。言わば親切心だ。いくらなんでもこれで諦めるだろう平和な学校生活が戻るだろうわっはっはおめでとう私――などというやましい思いなんて、抱いていなかった。少ししか。
 しかし結果は涼の予想を斜め四十五度超えていたのだ。これは大問題である。描いていたプロセスは一瞬で吹き飛び、ついでに自分も崖っぷちへと追いやられた。残された時間はあとわずか。それまでに涼は選択をしなければならない。
 崖から飛び降りるか、それとも別の方法を模索するか。
「――というわけで、どうすればいいと思う?」
『諦めればいいと思うよ』
 電話の向こうにいる琴音は辛辣だった。喧嘩に近い別れをしておきながらも数日経てば何事もなかったかのように接してくれる。このあっさりとした琴音の性格は涼も好きだ。だが、こういう非常事態にもいつも通りでいるのは遠慮していただきたいものだ。ふりでもいいから焦ってくれ、頼むから。
「諦めるというのは……」
『交際してあげれば? って言ってんの』
「冗談じゃない。相手は六歳下の生徒だぞ。その前に交際してやるなんて約束を交わした覚えはない」
『じゃあ本人にそう言えばいいじゃない』
 それができれば苦労はしない。
 二ヶ月前に天下とかわした約束は『百位以内ならば佐久間と付き合うふりを止める』だ。それだけならば涼とて悩まない。佐久間とはもう切れていた。向こうも渋々だが承知している。問題は、その後につけたオプションだ。
 天下の事も真面目に考える。
 一体何をどう考えろというのか。何回考えても天下は生徒であって、涼は教師だった。交際なんて論外だ。しかし約束を果たした天下に対し、涼のすることと言えば、

 一、佐久間と別れる(もう別れている)
 一、天下との交際の件(考えたけどやっぱり無理)

(どう納得させろと?)
 あきらかに不釣り合いだった。涼でさえそう思うのだ。天下が黙っているわけがない。
『でも凄いね。全国で百位以内なんて、愛の力以外の何物でもないわね』
 いいえ、陰謀です。陰謀以外の何物でもありません。涼は拳を震わせた。
「前回四百位とか言ったのは誰だ……っ!」
『往生際が悪いわよ、涼ちゃん。幕引きは美しくなきゃ』
 涼は力なく呻いた。他人事だからそこまで軽く言えるのだ。
「これが戯曲なら書いた奴に文句を言いたい」
『最初に話を出したのは涼ちゃん。条件を決めたのも涼ちゃん。文句なら鏡の前で好きなだけ言いなさい』
 完全に突き放したもの言い。涼は肩の力が抜けていくのを感じた。味方はどこにもいなかった。自分自身でどうにかせねば。
『涼ちゃん』
 思考を遮ったのは、一段低い琴音の声。
『間違ってもどこぞの姫君みたいに自分で出した条件を翻すような真似はしないでね。みっともないから』
 味方どころじゃない――涼は戦慄した。こいつも敵だ。


 涼は机に突っ伏した。気分は死刑執行を待つ囚人。いっそのことトドメをさしてくれ。苦しむ自分を見て嘲笑っているのか。他人を弄んでそんなに楽しいかチクショウ。
 不意に顔を上げると、一ヶ月近く放置されたままの消毒液が目の前にあった。
 インフルエンザ対策で支給されたものだ。何故かラベルにはアライグマがプリントされている。手を洗ってから使えと言いたいらしい。
アライグマの円らな瞳と睨み合うことしばし。涼は忠告を無視して一押しした。やや粘着性のある消毒液を手にすりこんでみる。冷たいが手に馴染んでいく感触が何とも言えない。意外に楽しいではないか。
「先生もこれ使うんですね」
 横から伸びた手が消毒液を持ちあげる。涼は手を止めた。
「準備室に入る際はノックをしなさい」
 物音どころか気配一つ悟らせずに侵入を果たした天下は、悪びれもなく言い返した。
「何度叩いても返事がありませんでした」
「じゃあ出直せ」
「でも先生いるみたいだし」
「それでも出直せ。見てわからないのか取り込み中だ」
 天下は半眼で消毒液を見た。
「ネチャネチャ消毒液をすり込むのが?」
「インフルエンザ対策です」
 最初は似非優等生対策を考えていたのだ。が、いつの間にかインフルエンザ対策に移行し、気づいたら何の打開策も見い出せぬまま本人と対峙する羽目に陥っている。おのれアライグマ。涼は恨みがましくラベルのアライグマを睨みつけた。可愛い顔をしてなんと狡猾な!
「各教室にも配られていなかったっけ?」
「そーいや、置いてあったな」
「少しは使いなさい」
 二年生故の呑気さか、受験生ほどは意識していないようだ。
「この前使いました」
 天下は消毒液を机の上に戻した。
「矢沢とキスした後」
 名目し難い沈黙。涼は内心頭を抱えた。さらりととんでもない事を言うこの癖は、どうにかならないものか。好きでもない女子生徒と公衆面前でキス。天下自身も嫌な思いをしただろう。彼自身が選んだこととはいえ、涼の至らないせいでもあった。
「その件に関しましては……」
「悪かったな」
 謝るつもりが逆に謝られ、涼は拍子抜けた。
「アレ以外思いつかなかったんだ。口と口をくっつけるだけの行為じゃねえか。人工呼吸だと思えば大したことじゃねえ。それに、その……消毒もしたし、問題はないはずだ」
「は?」
「浮気じゃねえからな」
 深刻な顔で念を押されても、涼としては硬直する他なかった。
「ちょっと待て。なんでそこで浮気だの」
「俺は先生一筋ですから」
 大真面目な顔で断言しないでほしい。後生だから。涼はとにかく全国の真面目な高校生諸君に頭を下げたい気分だった。
 こんなのが我が校きっての優等生でごめんなさい。文武両道の眉目秀麗ですみません。全国模試三十五位以下の皆さん、三十四位は常識というものを兼ね揃えていなんですごめんなさい。
「そんなことを言いにわざわざ準備室まで?」
「いや、模試の結果を報告しに」
 天下は折りたたんだ紙を机の上に広げた。学内では一位。県内では二位。そして肝心の全国では、三十四位だ。カンニングしたってこんな成績は出せない。
「約束通り、彼女のふりはやめてくださいね」
 涼は頷くしかなかった。もう別れてます、とは口が裂けても言えない。
「君との事も考えた」
「でも駄目なんだろ?」
 察しがいい。涼は思わず「ごめん」と呟いた。天下と自分のためとはいえ、断るには罪悪感を伴う。天下の右手が肩に置かれた、
「気にすんなよ。あと一年あるし」
 涼は顔を上げた。一瞬、本気で空耳かと思った。とてつもなく不吉な一言が耳を通り過ぎたような気がする。期待を裏切るように天下は不敵な笑みを浮かべた。
「俺の事、嫌いじゃねえんだろ?」
「いや、それは」
「じゃあ諦めねえ」
「なんでそうポジティブに」
「一年間、全力で口説いてやるよ。返事は卒業した後で聞く」
 歳にそぐわない悪そうな顔をして、天下は確認した。
「生徒は対象外なんだろ?」
「確かにそうだけど、だからといって生徒じゃなきゃいいってわけ、じゃ……」
 ぎらり、と音が聞こえるほど、天下の眼光は鋭かった。完全に何かのスイッチが入った目だった。
「一年待ちますから、ゆっくり考えてくださいよ」
 直訳すれば「一年猶予やるから腹括れ」だ。涼は呆気に取られて口を開けていることしかできなかった。小さく笑って天下は涼の顎に手を掛けた。
「口、閉じとけ。キスしたくなるじゃねえか」
 いやいやいや、早速口説き出さないでください。まだ承諾した覚えはない。口を閉じさせられた状態でまた涼は固まった。
「じゃあ、五限目もよろしくお願いします」
 嵐が、去った。
 それでも涼は動けずにいた。


 だがしかし、涼の苦悩はこれだけでは終わらなかった。
 全国模試で三十四位。学校始まって以来の快挙に職員室の話題はもちきりだ。おまけに生徒も自分の事のように触れまわる。科が違かろうとそんなことは関係ない。
 つまり、涼の担当する音楽の授業でもその話が浮上したのだ。
「全国三十四位ですよ」
 もう既に本人から見せられましたとは言えずに、涼は生徒が掲げる結果を眺めた。何度見ても順位が変わることなく、天下は全国で三十四位だった。
 自身の模試の結果をクラスメイトに奪われた天下はというと、鑑賞室の一番後ろの机で気のない素振りをしていた。おそらく五限以前もずっとこんな調子だったのだろう。周囲とは反比例して盛り下がっていた。
 とりあえず、涼は社交辞令を述べた。
「おめでとう」
「どうもありがとうございます」
 頬杖をついた状態でおざなりな返事。天下の醒めた態度に不満の声を上げたのは同級生達だった。
「ノリ悪ぃよなあ、もっと喜べよー」
「賞金でもくれんだったら、もっとテンション高くなるんだがな」
「ひっでえセリフ。これで優等生かよ」
 涼はため息をついて授業を始めた。先週観た『トゥーランドット』の感想を集めて、発表と解説。それで今学期の授業は終了。あとは実技試験を行うだけだった。
「『なんでイタリア人はやたらとキスをするのでしょうか?』という質問ですが、それは先生にもわかりません。イタリア人に聞いてください。それに『トゥーランドット』の舞台はイタリアじゃなくて中国です」
「でもみんなイタリア語で歌ってます」
「作ったのがプッチーニだからです」
 投げやりに答えてから、涼は『トゥーランドット』に思いを巡らした。それほど接吻をするシーンはなかったような気がした。
「そんなにしてましたか?」
「人と会う度にしてました。頬とか、手とか、いろいろ」
 大人しめな女子生徒が答えた。イタリアでは挨拶程度のものだが、日本人からすれば刺激的だったのか。
「キスする場所によって意味は違います。手の甲は尊敬。頬は厚意。額は友情。イタリアでは別れる時には普通に互いの頬にキスをします」
 そういう国の文化も作品に影響するのだ。いくら『トゥーランドット』の舞台が中国に設定されていても、風習が出てしまう。そこがまたオペラの面白みだった。
 そこでチャイムが鳴ったので、涼は試験内容の説明だけして授業を終了した。まばらに退室する生徒達。試験の細かい確認を求める生徒に応じて、一段落したところで、まだ鑑賞室に残る生徒に気付いた。天下だ。
「閉めるぞ」
 暗に出ろと促したのだが、天下はスタンウェイのピアノに近づいてきた。つまりは涼の元へ。
「どうした?」
「三年になったらまた担当変わりますよね? 先生の授業、これで終わりだな、って」
 余韻を味わっていたらしい。なんとも趣深い奴だ。天下はカーテンで閉ざされた窓に目をやった。
「日差しを遮るためだよな、あれ」
「正解。日に焼けないようにずっと閉ざしたままだ」
 黒カーテンの向こうには中庭がある。その中庭を挟んで教室棟――天下達が通常授業を受ける棟が見えるはずだ。涼は一度もこの鑑賞室から見たことはなかった。
 完璧に整備され、視界も音も隔絶された部屋。それが涼のいる鑑賞室だった。
「隙間があるの、知ってたか?」
 天下が指差した先には微かに光が差し込んでいた。楽器に当たるほどではないので、大した隙間ではなかったが涼は初めて知った。
「気付かなかった」
「だろうな。あんた、いつもピアノの方ばっか向いてたから」
「……何のことだ?」
 さあ、と天下はわざとらしく肩を竦めた。生意気なガキだ。涼が胡乱な眼差しを送ると天下は口元に手を当てた。
「別れる時は頬に、でしたっけ?」
 脱線話もしっかり耳に入れていたようだ。さすが優等生、授業態度も良い。ついでに休み時間も優等生らしく振舞ってほしかった。
「ここは日本です」
「国際化に乗り遅れますよ」
「自国の文化を守るのも大切です。何でもかんでも海外のものに飛びつくのは感心しないな。その前にここは日本であり教室です。授業をする場所です」
「佐久間は?」
「『先生』を付けなさい。あれはイレギュラーです」
 納得がいかないらしく、天下は首を捻った。時計を見れば六限が五分後に迫っている。こんなところで無駄話をしている場合じゃない。
「早く教室に帰りなさい」
「模試で高位になろうと、授業は免除されねえのな」
 戯けたことをぬかす頭をプリントの束ではたいた。天下は恨みがましげな視線を寄こす。
「……外野に騒がれても嬉しくねえよ」
 そう言われてしまうと涼は強く出られなかった。天下をたきつけたのは自分だった。だから天下は努力を重ね、全国三十四位なるとんでもない結果を弾き出したのだ。彼を一番ねぎらうべきなのは誰なのか。指摘されるまでもなく、わかっていた。
(どうしろって言うんだ)
 どれだけ天下が努力に努力を重ねようと、涼は彼の想いには応じられない。天下が問題なのではない。涼が問題なのだ。教師と生徒との恋愛のリスクを思う。それを差し引いても、自分を考える。不釣り合いだ。天下に応じるだけの価値が、自分にあるとは思えなかった。カップラーメンは所詮、カップラーメンなのだ。
 でも――涼は不意に、琴音の声を聞いたような気がした。
 私は好きよ、カップラーメン。
 価値は人それぞれだ。故に芸術が成り立つ。たとえ自分が価値を見い出せなくても、他人が価値あるものと見ているものを否定することはできない。それは、ただの独断だ。
 だから、涼自身が価値を見い出せなくても、天下にとっては違うのかもしれない。
 渋々去ろうとした天下の右腕を涼は掴んだ。怪訝そうな顔をする天下。無視して涼は手を取った。歳下とはいえ男だ。筋張った手は涼のものより大きかった。
「先生?」
 ボランティアだと思え。そう、大した意味はない。意味とか考えるな。事務的に。借りを返すだけだ。
「……どうした」
 天下だって言っていたではないか「大したことじゃない」と。彼がしたことに比べればこれくらいどうというものではない。社交界では挨拶だ。
「俺の手に何かついてんのか?」
 イタリア人よ、プッチーニよ、プラシド=ドミンゴよ、今だけ私に力を。
「おい、せんせ――」
 涼は手の甲に唇を押しつけた。暖房の利いた部屋にいるにもかかわらず、触れた彼の手は冷たかった。つまり、自分はそれなりに熱いということだろう。
 口を離して見上げれば、間の抜けた顔をしている天下と目がかち合う。
「……え…………あ、」
 大きく見開かれた切れ長の眼。掠れた声が薄い唇から出る。
「先生、今――」
 そこまでが限界だった。涼は教卓の上に置いたアライグマ印の消毒液を三回押して、天下の手にすりつけた。
「ちょっ、待て! どういうこったあっ!」
 慌てて引こうとする天下だが、涼は逃さなかった。しっかり掴んで消毒完了。用済みとなった手を解放する。
 消毒液まみれになった自身の右手を穴が開くほど凝視して、天下は悲痛な声を上げた。
「何だ今の……っ!」
「消毒です。雑菌がつくといけませんから」
「どこの世界にキスした直後に丹念に消毒する奴がいんだよっ!」
「二週間前に同じようなことをした馬鹿を私は知っているが?」
 冷静に切り返せば天下は拳を震わせて項垂れた。
「……天国から一気に地獄に付き落とされた気分だ」
 お気に召さなかったようだ。が、残り時間はあと三分。涼は天下の背中を押した。
「さあ満足したろう。帰れ」
「むしろ不満しか残らねえよ」
 未練がましげに天下は右手をじーっと見つめていた。しかし消毒液の匂いしかない。幸いなことに涼は基本的にリップクリームで、口紅をしていなかった。
「全国模試で一位でも、もうやらない。二度とやらない」
 全ての希望を断ち切るように涼は言ってのけた。
「先生」
 それでもまだ諦めがつかないのか、扉をくぐっても天下は振り返った。眉間に皺を寄せ、自身の唇を指差す。
「後生ですから、こっちにしてくださいませんか?」
「帰れ」
 涼は思いっきり扉を閉めた。


 ガキめ。調子付きおって。涼は早くも己の軽率な行動を後悔した。天下の譲歩ぶりに呆れを通り越して憐れみを抱いたのがそもそもの間違いだったのだ。
 数分も経たないうちにノック音。扉ではなく、窓の方だ。この時点で犯人は誰だか予想はついたが、涼は仕方なく応じてやることにした。早々に追っ払わねば。
 勢いよくカーテンを開く。
 窓の向こうには仏頂面をした天下がいた。中庭まで回り込んできたようだ。上履きのままで外に出たことはこの際指摘しないでおこう。
とりあえず、涼は手で追い払う仕草をした。
ますます天下の眉間の皺が深くなる。睨んでいるようにも見えなくもない。が、その目元が急に緩んだ。口端をつり上げ、目を輝かせる。悪戯を思いついた子供のような仕草に、涼が小首を傾げたその時だった。

 天下は右手の甲に口付けた。

 緩慢な動作にしかし、涼は成すすべもなく立ち竦んだ。挑発的な笑みを残して天下は身を翻した。渡り廊下に上がり、そのまま教室棟へ。その間も涼は微動だにできなかった。
 天下の背が見えなくなってようやく息を吐く。息が止まっていたことにすら気付かなかったのだ。
「……なんてベタな」
 口元を抑えて呟く。触れた顔は熱かった。
鑑賞室から初めて見る学校は、平穏そのものだった。二階の廊下を足早で歩く教師や生徒。廊下の窓際にもたれかかって談笑するカップルと思しき姿も見えた。遠目に見えるグラウンドではサッカーの試合が行われていた。
 中にいては気付かなかったであろう眩しい光景がそこに広がっていた。二年近くいるのに、一度もカーテンを開けなかったことを涼は今更ながら悔やんだ。馬鹿げていて、平凡で、単調で、でも悪くないじゃないか。
 涼の上で六限の始まりを告げるチャイムが鳴った。


『それで、結局どうしたのよ』
 素っ気ない態度を取っておきながらも気にはしていたらしい。琴音の方から電話がかかってきた。心配を掛けた手前、涼としても言わないわけにはいかない。五限と六限の間にやらかした失敗は除いて一部始終を報告した。
『心広いわね』
 それが琴音の第一声だった。
「心が広い?」
『だって涼ちゃんの駄々にもにっこり笑顔で応じたんでしょ?』
「駄々?」
 不適切な単語に自身の頬がひきつるのがわかった。どんな解釈をしたらそうなる。
『危機を救って、無理難題も見事叶えて、それでも待ちます。あなたが私を好きになってくれるまで、でしょ?』
 まあ素敵『トゥーランドット』みたい。琴音は完全に小馬鹿にした口調で言ってのけた。あまつさえカラフ王子のアリア『誰も眠ってはならぬ』のサビを熱唱するものだから(しかもやたらと上手かった。プラシド=ドミンゴには遠く及ばないが)涼は受話器を放り投げそうになった。
「からかわないでくれ」
『トゥーランドット姫はおかんむり~』
「琴音っ!」
 一括してもどこ吹く風、琴音は陽気に笑った。
『でも気を付けなさいよ。うっかり絆されてキスとかして気付いたら食われている危険性が無きにしも非ず。あんた、流されやすいから尚更心配だわ』
 冗談混じりに琴音は続けた。
『なんか可哀想だからキスしてあげて、なんか哀れだから喰われてやろう、って事にだけはならなようにね。前にも言ったけど「喰われたい」って思ったらオシマイなんだから』
「まさか――」
 言いかけて涼は絶句した。公園で人目もはばからず天下を抱きしめた時、彼(の手の甲)にキスした時、自分は一体何を思った。自身はそっちのけで他人を甘やかす天下に、憐憫に似たものを抱いて「仕方なく」我儘を叶えてやったのだ。
『涼?』
 琴音の声が遠く聞こえる。涼は受話器を耳にあてたまま茫然とした。
 氷の姫トゥーランドット。「わたしは誰のものにもならぬ」と求婚を突っぱね続けた我儘姫。彼女は結局どうなっただろうか。寛大なるカラフ王子に甘やかされて、執拗なる求愛に絆されて――
カラフ王子の名を突き止めたトゥーランドットには王子の求婚を撥ね退けることができた。約束通り、その命を奪うことも。名前さえ言ってしまえば彼と結婚することは回避できた。
 しかし、トゥーランドットは彼の名を言わなかったのだ。
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