文字数 22,034文字

「あんたなんか大っ嫌い」
 頭上から声が降ってきて、涼は顔を上げた。晴天の昼下がり。食事をしつつ会話に花を咲かせる大学生達とは少し離れたベンチで、焼きそばパンをかじっていた時だった。
 目の前に仁王立ちする女性。育ちのいい猫のような顔をしていた。水色のワンピースをこれまた上品に着こなしている点から、お嬢様であることは間違いない。涼からすれば音大に通う学生は皆お嬢様だ。
「断ったんだってね? カルメン。ありがとう。おかげで私が代役を引き受けることになったわ」
 礼しては声に棘があった。納得がいかないのだろう。自分がおこぼれに預かったという事実に。涼は咀嚼していたパンを嚥下した。
「どういたしまして」
大きな目を吊り上げる様にはそれなりの迫力がある。平手か、それとも引っ掻いてくるのか、涼は身構えた。内心では馬鹿正直に第二候補であることを本人に教えた教授を罵倒する。いかにもプライドの高そうな顔をしているじゃないか。少しは気を使え。
「本当、腹が立つ」
 彼女は腕を組んだ。
「一人で何でもできますって顔ですまして、クールに格好つけて、あんた何が楽しくて音楽やってんの? 自分の世界に閉じこもって悦に浸ってんじゃないわよ。気色悪い」
 面と向かってそこまで言われたのは初めてだ。それも、初対面の人に。呆然としていたら、彼女は鞄からペットボトルを取り出し、蓋を外すと中身をぶっかけてきた。次に鞄から出たのは真白のタオル。それを涼に投げつける。
「ほら、少しは怒りなさいよ。片手間だなんて冗談じゃない。必死こいてやりなさいよ」
 言うだけ言って、彼女は背を向けた。そして二度と振り返らなかった。
 華奢な背中が図書館に消えるまで、涼はしばし呆気にとられていた。ふと我に返り、膝元に転がったそれをつまみあげる。スポーツタオル。これで拭けということか。わけがわからない。だいたい、大して濡れてはいない。おまけにミネラルウォーターだ。まさか涼にかけるためだけに買ってきたのだろうか。
 ありがたくスポーツタオルで顔を拭う。ところでこれ、返すべきなのだろうか。また厄介なことになりそうだと予感しつつも、返さなくてはと心のどこかで思った。
 向けられるものが負の感情であれ、何であれ、ぶつけられると応じてしまう。押されたら押し返す。引かれたら引き返す。単純だと自分でも思うが、性分は変えられない。昔も今も、無視して流す、ということが涼にはできなかった。
 だから、鬼島天下のように曖昧なものを向けられることが、一番対応に困るのだ。


 授業はおおむね順調だった。
 発声の練習もつつがなく終了。本日のメインであるオペラ鑑賞も涼の下準備が生きた。前回の失敗から学んで『カルメン』を導入。手作りの概要。そしてダイジェストよろしく説明を交えて主要シーンのみをピックアップして観せる。初心者向けの作戦が功を奏して、生徒の気を引いた。食い付きがまるで違う。ありがとう、ビゼー。ありがとう、カルメン。おめでとう、私。
 次は『タンホイザー』でもやろうか、と内心上機嫌で教室全体に目をやって、後悔した。窓際の後ろから二番目に座る学生と目が合ったからだ。鍵盤に置いた手が一瞬硬直。すぐさま視線をそらして涼はピアノを鳴らした。
「来週は器楽をやります。教科書とリコーダーを忘れないように」
「忘れたらどうなりますかー?」
 笑い混じりの質問。涼は律儀にも答えてやった。
「皆の前でぴーぴー歌ってもらいます」
 授業時間もしっかり守って解散。満足の出来だ。涼は余った資料を揃えた。つまり、油断していた。
「先生」
 耳に心地よい低音。顔を上げれば、授業中に一人涼を睨み続けていた男子生徒がいた。鬼島天下だ。一度意識してしまえば、どうして今まで気づかなかったのか、不思議にさえ思えてくる。天下の眼差しは始終涼に注がれていたのだ。鋭い双眸が、睨んでいるかのような錯覚を与えた。整い過ぎた顔というのも考えものである。
「何か用ですか、鬼島君」
「いや、別に、そうじゃなくて」
 天下の歯切れが悪い。涼は平静を装ったつもりだったが、違和感を覚えてしまったようだ。戸惑っている。この隙を逃さず涼はたたみ掛けた。
「次の授業がありますから、質問ならまた今度にしてください」
 天下はいつも通り仏頂面だ。が、まがりなりにも数日彼を観察してきた涼にはわかった。納得していないが、明確に何が変なのかも口にできない。そもそも、天下が自分の想いに気づいているのかすら怪しかった。
違和感なんて、極力目を合わせないようにしているのだから当然だ。天下の困惑を知りながら、涼は話を振るような真似はしなかった。
天下が自覚していないのならそれでいい。自分の勘違いならなおいい。とにかく、これ以上変な方向に話が進む前に引き返せ。今ならまだ間に合う。健全な学校生活をエンジョイしてくれ。頼むから。
 良心の痛みを堪えて、涼は天下を追い出した。思えば、ずいぶんと絆されてしまったものだ。自分の甘さを涼は自覚した。「他人にはとことん冷たいが、一度でも関わると情がわいて流される」と涼を評した友人の言葉を思い出す。
あれは確か、馬鹿正直にスポーツタオルを洗って返しに行った時だっただろうか。彼女はただでさえ大きな瞳を見開いて、次に腹を抱えて笑った。それはもう豪快に。しばらく経って落ち着いてから彼女は言った。
「あんたって、他人に流されないつもりで結局流されるタイプね」
 その言葉に反論するすべを、いまだに涼は持たなかった。佐久間や遙香のことを軽蔑しつつも結局手を差し伸べてしまうのも、己の性分が全く改善されていない証拠だ。
(だが、それも昨日までのこと)
 四限目終了後、涼は器楽室に立てこもった。廊下に面した扉の前にイスを置き、さらに紐で縛って固定する。中庭に面した窓も全て鍵を閉める。これで難攻不落の牙城が完成。涼は胸を撫で下ろした。
 どんなに厳しく律しても、どれだけ他人を拒絶しても、流されてしまいそうになる。そんな自分が恐ろしかった。母親と同じ間違いを犯しそうで、怖かった。
「自分の世界に閉じこもるな」と友人は言った。しかし無理な相談だ。自分で責任が取れる範囲でしか涼は動けない。
二十三年経っても、涼は自分の居場所から一歩も出られずにいた。


 遠慮のないノック音が聞こえたのは、涼が楽譜整理に取り掛かろうとネクタイを緩めた瞬間だった。廊下に面した扉、その小窓越しに天下のむっつり顔が見えた。いつも通り入ろうとしたら開けられなくてノックしたらしい。
 オイなんで閉めてんだよ、開けやがれ。目を見ただけで彼が何を訴えているのか、わかってしまう自分に涼は絶望しかけた。
いや、諦めるにはまだ早い。今ならまだ間に合うはずだ。決意を固めて黒の太ペンを手に取る。コピーし損じの裏紙に『作業中につき、立ち入り禁止』と書いて、セロテープで小窓に貼ってやった。やるからには徹底的にやる。甘ったるい情はバッサリと切り捨てて涼は楽譜整理に取り掛かった。
 再びノック音。
 乱暴ではないが、執拗に。何度も。しばし迷ったが、涼はついさっき貼ったばかりの紙を剥がした。
『何を今更』
 ルーズリーフのノートに、やや癖があるものの綺麗な字でそう書いてあった。涼は再びペンを取った。『いいから帰りなさい』と掲げる。小窓の向こうで天下は口元をヘの字にしてボールペンで何やら綴った。
『理由を三十文字以内で述べよ』
 お前は教師か。これは試験問題か。呆れながらも涼はもっともらしい理由を書いた。
『君がいると作業がはかどらない』
『他人のせいにしないでください』
『だから検証します。これで作業がはかどったら、原因の所在が明確になる』
『邪魔した覚えがありません』
『気が散る』
『先生に集中力がないだけです』
『いいから帰れ』
『バラしますよ』
 何を、だなんて訊くまでもない。恋に盲目バカップルの件だ。
『やれば?』
『あっさり見捨てましたね。それでも教師ですか』
 脅している奴に言われたか――間違った、書かれたくはなかった。反撃の言葉を書き連ねている間に、ふと涼は我に返った。足もとに散乱する裏紙。手には太ペン。
 なんでガラス越しに天下と文通なんぞしているのだろうか。
(意味がない。全くもって意味がない……っ!)
 結局、相手をしているではないか。
『ところで先生、作業しないのですか?』
 挙句の果てには、本人にまで指摘されて涼は非常にいたたまれなくなった。極太ペンのキャップを外して書き殴る。
『帰れ!!
 小窓に叩きつけて、今度こそ整理作業に取り掛かった。
 すかさずノック音。涼は楽譜を少々乱暴に机の上に置くと、勢いよく扉を開け放つ。
「いい加減にし、ろ……?」
 尻すぼみになる声。扉の前に立っていたのは矢沢遙香だった。気圧されたようにつぶらな瞳を見開いている。
「私、何かしました?」
「すまない。人違いだ」
 謝ってから、涼は今が五限目の授業中であることを思い出した。しかも遥香の手には鞄。
「授業は?」
「今週は三者面談で、午前中までですよ」
 それでも先生ですか。避難の眼差しを注ぐ遙香から目を逸らす。クラスを受け持っていないとはいえ、教師として把握しておくべきことだった。いや、ついさっきまでは覚えていたのだ。
「それで、どうしてここに?」
 放課後が空いていたとしても、わざわざ器楽室にまで足を運ぶほど涼と遙香は親しくない。むしろ、二人の関係を隠すためとはいえ、佐久間と交際しているふりをする涼を、彼女は快く思っていない。理不尽だと思う。だが、恋とはそういうものだ。冷静さを失わせ、周囲に迷惑をまき散らす。
「もう三日も佐久間先生と会っていないんです」
 その原因がさも涼にあるかのように遥香は唇を尖らせた。
「世界史で君のクラスを担当していなかったっけ?」
「二人きりでってことです! 教室でいちゃつけるわけないじゃないですか」
 鑑賞室では思いっきりいちゃついていたけどな。涼は周囲を見回した。幸いなことに人気はない。天下も諦めて部活に行ったのだろう。仕方なく遥香を器楽室に招き入れる。
「言っておくが、ここで密会しようなどと考えないように。音楽科準備室と扉がつながっているから、いつ誰が入ってきてもおかしくない」
 鬼島天下のように猫を被れるのならば話は別だが、遥香にそんな機転は利かないことは百も承知だ。求める方が間違っている。
「わかっています。だから先生に協力してほしいんです」
「先生だって誰も来ない教室なんて準備できません。学年主任に頼んでください」
「ふざけないでください。誰も学校で会おうなんて考えてません」
 強い口調で遥香は否定した。
「外で会いたいんです。隣町の、ファミレスとかで」
「名案だ。最初からそうしてくれれば、私も彼女のふりなんてふざけた真似をせずに済んだのに」
「先生は、佐久間先生とは何でもないんですよね?」
 探るようにこちらを見つめる遙香。いっぱしに嫉妬しているらしい。微笑ましいことかもしれないが、的外れだ。
「何度も言わせないでくれ。私が好きなのはプラシド=ドミンゴです」
「じゃあ協力してください。ムカつきますけど、先生が佐久間先生と二人で学校を出れば誰も疑わないと思います。お二人は付き合っているということになっていますから」
 何故そうなる。極力関わりたくない涼は顔をしかめた。
「二人で別々に学校を出れば十分だと思うけど?」
「先生の方から人前で佐久間先生を誘ってください。そうすれば効果は倍増です」
「理解に苦しむ」
 涼は腕を組んだ。
「君は表面上とはいえ、私と佐久間先生が交際しているのは不満なはずだ。なのに仲良く振る舞えと言う。どういう心境の変化だ?」
「今でも嫌ですよ。でも背に腹は代えられません」
 遥香は断りもなく机の上に鞄を置いた。要するに、涼と佐久間が付き合っているようにはとても見えないのだそうだ。さすがに誰かの隠れ蓑であることまでは気付かれていないようだが、不思議には思われているらしい。
「話はわかった。でも私が協力する義理はない」
「外で会え、と言ったのは先生です」
 遥香は薄くグロスを塗った唇をつり上げた。
「大人なら自分の発言に責任を持ってください」
 へ理屈だ。涼は一度だって二人の恋愛を推奨したことなんかない。むしろ反対した。隠ぺいに加担しているのも半分以上教師としての義務だ。
 涼は遥香の顔を眺めた。校則ギリギリに染めた茶髪に薄いメイクを施した可愛らしい顔立ち。長髪の手入れも大変だろう。それが何のためと問われれば、一概には答えられない。しかし、自分自身のためだけではないことは確かだ。
目の前の遥香は情熱で突っ走る生意気盛りの女子高生だ。ただの、女子高生だ。
 涼はため息をついた。やっぱり自分の性分は変わっていない。


 職員室へ顔を出したが、佐久間の姿は見当たらなかった。三者面談だろう。そろそろ終わる時間のはずだ。涼は二年一組の教室へと向かった。
 遙香は人目のつく場所で佐久間と約束を取り付けてほしいようだったが、涼にその気は全くなかった。何が悲しゅうてこれみよがしにデートの相談なんぞをしなければならないのだ。
 教室前の廊下に置かれたイス二つは空席。本日最後の生徒の三者面談が中で行われているのだろう。涼は壁に背中を預けた。
 三者面談。授業参観。保護者会。体育祭。文化祭。親が子の通う学校に行く機会は多くもないが少なくもない。その度に不貞腐れた幼い自分を思い出し、涼は苦笑した。今思えば可愛げのない子供だった。
 ほどなくして教室の前方の扉が開く。涼は無意識に背を壁から離し――息を呑んだ。
 歳は四十を過ぎているだろうか。鋭い双眸に苦み走った顔といい、真一文字に引き締まった口元といい、鬼島天下がそのまま歳を重ねたようだった。その心象を裏付けるように天下本人が後から続く。
「失礼いたします」
 親子二人揃って教室内の佐久間に向って一礼。天下より低くて渋みのある声だ。扉を閉めて振り返る。そこでようやく天下は涼に気づいたようで、軽く目を見開いた。が、動揺はすぐさま打ち消された。代わりに優等生の笑みが浮かぶ。
「奇遇ですね、先生」
「本当に」
 つられるように涼もまた口端をつり上げた。父親の前でさえ優等生の仮面を被る天下に対する皮肉を込めて。
「鬼島君のお父様でいらっしゃいますか? 似てますね」
 軽く会釈して涼は教室に入った。天下の視線を遮るように扉を締め切る。資料を片づけていた佐久間が顔を上げた。
「どうなされたんですか?」
「今日の放課後、お時間ありますか」
「職員会議が終われば、後は特に」
 それは好都合。いや、涼にとっては不都合だ。
「ちょっとお茶でもいかがですか。学校関係者がいない隣町あたりで」
 何もそこまで驚かなくてもと涼が思うくらいに、佐久間は面食らった。まるで信じられないものを見るような目だ。
 涼は声を発さずに口だけで紡いだ。
 や・ざ・わ。
 意図を察した佐久間は慌てて何度も頷いた。
「はい、喜んで」
「用はそれだけです。では」
 そそくさと涼は退室した。今度は器楽室へ。いつから自分は佐久間と遙香の伝書鳩になったのだろうか。釈然としない涼が中央廊下を曲がろうとしたその折、背後から張りのある声で「先生」と呼ばれた。
「お父上殿はどうした」
「帰った」
「一緒に帰ったらどうだ? 貴重なコミュニケーションの機会じゃないか」
 天下は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「必要ねえよ」
 冷たい以前の態度だ。感情を切り捨てたように天下は素っ気なかった。
「そんなことよりも、あれは一体どういうことだ」
「あれって?」
「デートの約束を職場でするもんなのか、先生って」
 不機嫌よりも侮蔑と呼ぶのが相応しい。六つも年下の高校生に蔑まれる自分って一体何だろう、と涼はため息を漏らしそうになった。
「普通はしないな」
 天下の眉間の皺が深くなる。
「やっぱり好きなんじゃねえか」
「だから、どうしてそうなる。一緒なのは学校を出るまで。その後は二人で勝手にやるさ。私の知ったことじゃない」
 ひらひらと手を振って会話の終了を示す。しかし――踵を返した涼の腕が掴まれた。さすが若者。力の加減を知らないようだ。
「おかしいじゃねえか。あんたは生徒と教師の恋愛には反対なんだろ? なんで協力してんだよ。慣れねえことまでして」
 天下の目には責める色があった。まるで詰問だ。質問の内容自体は至極もっともなので性質が悪い。
「私が教師だから――じゃ、納得しないんだな? わかった。睨むなって。ただでさえ君は目つきが悪いんだから」
 天下は根本的に勘違いをしている。佐久間は正直言ってどうでもいいのだ。先輩だが恩はこの数日で十分以上返したつもりだ。生徒との恋愛が表沙汰になれば懲戒免職は免れない。それを知った上で遥香を受け入れたのだ。責任ぐらい自分で取れるはずだ。
 しかし、矢沢遙香は違う。
「他人の恋愛を応援するほど、私は悪趣味じゃない。さっさと別れてくれればいいと思ってるよ。でも、表沙汰になるのはどうしても避けたい。佐久間先生のためではなく、矢沢さんのために」
「先生とあいつ、それほど仲が良かったか?」
「全然。名前だって覚えちゃいなかった」
「じゃあ、なんで」
 知っているからだ。高校生の無知と脆さを。そうでなければ、涼が母親に捨てられることはなかった。そもそも生まれなかった。
今となっては推し量るしかないが、母もまた、どうにかなると最初は思っていたのだろう。しかし、できなかった。その挫折の結果が身籠った子供を養護施設に預けることだ。
「生徒はみんな可愛いものだ」
「見え透いた嘘吐くな。ンなわけがねえ」
 おそらくそのことを一番よく理解しているであろう優等生が吐き捨てた。教師達の覚えがいい天下だからこそ、十分過ぎるほどにわかっていた。
好かれるためには条件がある。人によって程度の差はあっても満たすべき基準は必ず存在した。鬼島天下という生徒が慕われているのも単に、周囲の人間の持つ「良い生徒」もしくは「良い友人」の条件を満たしているからに過ぎない。
逆を言えば、条件を満たさなければ受け入れられない、ということだ。
「そうだよ。嘘だ。高校生だからってみんな無条件で愛せるはずがない。どうしても気に食わない生徒だっているし、どうしても可愛く思えてしまう生徒だっている。教師にできることはそれを公的な場には持ち込まないことだけだ。そして私の場合は、矢沢遙香がえこ贔屓したくなる生徒に当たる」
「俺にはわかんねえ。優秀で愛想の良い生徒ならともかく、あんな可愛げのない女のどこがいいんだか」
「顔が整っていて、頭が良くて、スポーツ万能で、愛想も良くて、教師が押し付ける雑用にも嫌な顔一つしない生徒なら、きっと好かれるだろうね」
 鬼島天下のように。暗に言えば本人はそれを察したらしく愁眉を寄せた。
「でも、それは生徒じゃない。不自然だ。苦手教科は多少手を抜いて、夜更かしして授業中に寝る。嫌いな教師はなるべく避けようとする。窮屈な校則はこっそり破って、服装検査の前に慌てて髪を黒染めする。多かれ少なかれ、そういう馬鹿な事を一生懸命やってこその高校生だ」
天下言う通り、矢沢遙香は我儘で、傲慢で、気に入らないことがあればすぐキレるような可愛げのない女子高生だ。協力している涼にだって礼の一つも言わない恩知らずだ。
しかし、我儘で傲慢なのが高校生であり、そういう子供に分別を教えるために学校はあるのだと涼は思う。
おかしいのは天下の方だ。父親の前でも優等生の顔を崩さない。そのくせ「必要ない」の一言で父親を切り捨てる。それを反抗期と呼ぶには熱がなく、無関心のせいにするには優等生ぶりが徹底していた。
「我儘で、傲慢で、可愛げがない。そんな矢沢さんだからこそ、救われた気になるよ。私も頑固で可愛げのない子供だったから」
 天下に感じていた違和感の正体に、涼はようやく気づいた。彼には、人形のような可愛げがあっても、子供らしさが欠片もなかった。自分とは真逆の存在だったのだ。
 人形が熱を持つのは涼と二人きりでいる時だけだ。それが何を意味しているのかがわからないほど、涼は鈍感ではなかった。だが、その熱を受け入れることはできない。
「今もそうじゃねえか」
 天下は掴んでいた涼の腕を放した。
「全然可愛くねえ。むしろ憎ったらしい」
「君とは対照的だ。昔から私はこうだったよ。変わるつもりもない」
天下は口をつぐんだ。唇を引き結んで前を向く様は凛々しくもあり、どこか痛々しくもあった。何故、と問いかけたくなる。
 何が楽しくて学校に来ている。何のためにそこまで優等生であろうとする。家族の前でさえ優秀な息子でいるのか。ならばどうして今まで完璧に演じていた優等生面を涼の前ではしない。何故。どうして。
 どうして、自分はこの青年に手を伸ばしたくなるのだろう。
 憐れみに似た感情が湧き上がるのを涼は感じた。思わず手を伸ばして抱きしめてやりたくなる。幾重もの包帯に巻かれたまま放置された彼の傷を曝け出して、触れてみたくなる。
それが母性なのか、それとも他のものなのかは涼にはわからない。ただ、鬼島天下が求めているのは同情や慰めではないことはわかった。そして涼は、自分が憐憫以上のものを与えてやれないことも悟っていた。
 癒せない以上、天下の傷に触れることは許されなかった。そんな涼にできることは結局、一つでしかない。
「だから私は、優等生の考えていることなんて一生理解できないと思う」
 垣間見た傷から目をそむけて、突き放すだけ、だ。傷が深くなる前に。
 天下の顔から感情が抜け落ちていくのを涼はただ見ていた。
「同感です。俺も先生の考えていることなんてわかりたくもありません」
 平坦な口調で言う天下には、傷ついた少年の面影などどこにも見当たらなかった。行儀悪く机の上に座る姿も、人の悪い笑みを浮かべる唇も、憮然とした顔も、今の天下からは想像ができなかった。今後、そんな彼を目にすることは二度とないのだろう。そう仕向けたのは涼自身だ。
つまるところ、鬼島天下はどうしようもないくらい優秀生徒で、そして渡辺涼はどうしようもないくらい教師だった。
 それ以外にはなれなかった。


 宣言通り、校門を出たところで涼は佐久間と別れた。その際「くれぐれもご注意なさってください」と釘を刺しておくのを忘れない。佐久間は呑気な顔で首肯したが、おそらく涼の真意は悟っていないだろう。
周囲の目はもちろんだが、矢沢遙香に流されないことが重要なのだ。子供の我儘をたしなめるのも大人の恋人の役目のはず。でなければ本当にただの恋愛ごっこだ。バス停に向かう佐久間の背中を眺めつつ、涼は密かにため息をついた。
最寄駅まではバスで十分、徒歩で二十五分。佐久間はバス、涼は徒歩を選ぶ。生活スタイルがまるっきり違う二人が交際するふりをすること自体がそもそも間違っていた。
見覚えのある男性が目の前を横切ったのは、涼が何度目かもわからない後悔をしていた時だった。見間違えるはずがない。鬼島天下の父親、だ。平均的なサラリーマンのスーツだというのに、彼だと垢抜けて見えた。どことなく華があり、それでいて厳しさを孕んでいた。なるほど目つきの鋭さは父親譲りのようだ。
涼がひそかに尾行兼観察をしている間に、鬼島氏は閑静な住宅街に踏み込んだ。二階建ての一軒家の前で止まる。涼は慌てて電柱の陰に隠れた。
「あら、早いわね。おかえりなさい」
 垣根から顔を出す女性。この家の住人のようだ。鬼島氏は表情を変えずに応じた。
「今日は仕事が早く終わったんだ」
「一言連絡してくれれば良かったのに。晩御飯はまだかかるわよ」
 女性は泥のついた手袋を外して、鬼島氏を招き入れた。綺麗な人だった。鬼島氏と並ぶと絵になる。たとえ「草むしりをしています」と力説するような野暮ったい服を着ていようとも、その魅力は損なわれることはなかった。
 家の扉が閉まったのを確認してから、涼は表札を確認した。「鬼島」と彫ってある。学校のデータとも一致している。ここが鬼島宅なのだろう。
 涼は二、三回頭を振った。
 何もおかしな点はない。予定より早く帰ってきた旦那を奥さんが迎え入れた。急な帰宅なので準備がまだだと苦笑しながら。二人の会話も様子も自然そのものだった。装っている風は全くなかった。では――涼は眉根を寄せた。
鬼島天下はどこへ消えたのだろう。
 三者面談に母の代わりに父が行くことは珍しいが、ないことではない。家事は夫婦共同が叫ばれている時代だ。別段不自然ではない。
しかし、三者面談があったことすら知らないとはどういうことだ。そして鬼島氏は何故、仕事だと嘘を吐くのだろうか。
考えても納得のいく説明がつかなかった。迎え入れた鬼島夫人。帰宅した鬼島氏。その二人の様子が自然であればあるほど、違和感が際立つ。
それはまるで、鬼島天下など存在していないかのようだった。


 鬼島家の不審な点を目撃しても涼のすることに変わりはなかった。存在意義のわからない会議に参加し、音楽科の生徒に声楽を教え、普通科の生徒には音楽の触りを教え、そして空いた時間には器楽室の楽譜整理に明け暮れる。
 変わった点といえば、鬼島天下の対応だ。無視、とまではいかないが、他の生徒となんら変わりのない接し方――むしろ素っ気ない対応をした。間違っても二人きりにはならない。近づいて来ても半径三十センチメートルには入れない。そういったさり気ない変化にも敏い天下は涼の意思を汲み取った。時折、物言いたげな視線を送るものの、深くは追及してこなかった。涼がそうさせる隙を与えなかったのもあるが。
 ともかく、天下と涼はただの生徒と教師に戻った。以前よりも関わりのない存在になったのだ。二週間が経過したところで何も起こらなかったので、このまま薄れていくのだと涼は安心していた。
 当初は永遠に続くとさえ思えた楽譜整理もだいぶ目処がついてきたのもあって、涼の関心は佐久間と遙香の二人に移行していた。これからどうするつもりなのだろうか。それだけが悩みの種だった。
 つまり、涼は完全に油断しきっていたのである。
「渡辺センセーイ、お呼びですよー」
 音楽科準備室と通じる扉から恵理が声をかける。涼は手が塞がっていたので「どなたですか?」と大きめの声で訊いた。が、返事がない。聞こえなかったようだ。
「通しちゃいますねー」
 と、恵理の声。涼は棚の一番上にある楽譜ファイルを引っ張り出した。音楽準備室からは背を向けたまま。後先考えずにぎっちぎちに詰め込まれていた楽譜が一斉に崩れ落ちるのを、片手で止める。とりあえず、全部出してしまおうかと涼がもう片方の手を伸ばした時だった。
 横から落ちかけた楽譜を支えるように腕が伸びた。なんと親切な学生だろう。涼は「あ、悪い」と反射的に口にしようとして、止まった。
 ――学生。
「大丈夫ですか、先生」
 油の切れたブリキよろしくぎこちなく首を動かせば、真横には鬼島天下がいた。
「一度、全部出した方がいいですね」
 涼の返事も待たずに楽譜を取り出し、傍にあった机の上に山積みにする。あまりにも自然な動作に口を挟む間すらなかった。唖然とする涼に、天下はいつもの優等生面で言う。
「俺が出しますから、先生は整理をお願いします」
「あ、ああ……どうも」
 涼は分別を始め――かけて手を止めた。
「ちょっと待て」
「待ちません。早く終わらせましょう」
 歯牙にもかけず天下は作業を続ける。事務的な対応で流されそうになるが、涼は首を横に振った。おかしい。絶対にこれはおかしい。
 さりげなく好意を示してきた天下を、さりげなく拒絶したのはつい二週間前。彼はしっかり悟って諦めたのではなかったのか。だから近づかなくなったのではないか。
「どういうつもりだ」
 天下は怪訝な顔をした。涼は中央廊下側の扉を指差した。
「張り紙が見えなかったのか」
「見ました。毎日貼ってありますから」
「じゃあ、どうして入って来る?」
「廊下側の扉には生徒入室禁止とありましたが、準備室側にはそんなことは一言も書かれていません」
 涼しい顔でへ理屈をこねる。ふてぶてしい限りだ。
「だからって、無理に入ってくる必要がどこに」
「押し入ったつもりはありません。俺は渡辺先生に用があると言っただけです」
 百瀬先生。あんた私に何の恨みがあるんだ。面倒くさい楽譜整理を引き受けてやった礼がこれか。
 涼は壁一枚隔てた先にいる百瀬を睨んだ。残念ながら防音設備の整った部屋の壁は、視線などで貫けるほどやわではなかったが。
「作業は、はかどりましたか?」
 唐突に天下が訊ねてくる。
「ものすごく順調だ。邪魔がないからな」
 暗に出て行けと言っているのだが、天下は我が意を得たりとばかりに頷いた。
「じゃあ、なおさら手伝わなくてはいけませんね。数日とはいえ先生の作業の邪魔をしたわけですから」
 背を向けて作業再開。涼は言葉もなかった。なんて食えない生徒だ。整理がはかどらないと追い出されて、いったんは引き下がっておき、今度はそれを逆手に取って攻めてくるとは。作業を手伝うのならば、楽譜整理の効率を理由に追い出した涼に断る理由はない。作業の邪魔をした詫び、という大義名分が成り立つのだ。
「部活はどうした」
「今日は自主練です。終えました」
「別に手を貸してもらうほどの」
「結構な量ですね。邪魔がなくても二週間以上かかっていますし、猫の手も借りたいとぼやいていたそうですね。百瀬先生が言ってました」
 天下は口端をつり上げた。
「手伝ってくれるのならありがたい、とも言ってましたよ」
 トドメの一撃だった。涼は自分の分が悪いことを悟った。
 鬼島天下が優等生と呼ばれる所以がわかったような気がした。彼は周到に計画を練るのだ。あからさまに好意を示さないのも、涼に断らせないための策だ。善意の中に少しずつ好意を混ぜて懐柔する。傍目から見れば親切心にしか受け取れないので、涼もおいそれと拒むことができない。
 押せば引き、引けば押す。涼は流されやすい自分を知っていた。だからこそ、隙を見せないよう振舞っていた。面と向かって「好きです」と言われれば迷わず断る。微塵の容赦なく。躊躇うこともなく。それが流されやすい自分を守る手段だ。
そんな涼にとって、天下は一番厄介なタイプだった。なんとなくで、ずるずると関係が続き、気づいた時には情が移って後戻りができなくなる。
 涼が、一番流されやすいタイプでもあったのだ。


 毎日毎日欠かさず警戒したが、天下は拍子抜けするほど真面目に手伝った。まさか本当にこれまで邪魔をした詫びのつもりなのかと涼があやうく信じかけたくらいだ。
 仮に今、誰かが器楽室に突然入ってきても、涼は胸を張って何事もないと言い切れる。触れてくるわけでもなく、好意を口にするわけでもない。実に微妙な状態だ。天下の思惑が読めない。
 一週間が経つ頃には、天下が器楽室に入ってきても咎める気さえ起きなくなっていた。それくらい天下は内心はどうであれ、好青年らしい行動を続けていた。他愛のない会話も、慣れれば心地よいものだ。
ともすればうっかり絆されそうになっている自身に気づき、涼が気を引き締め直した時だった。不意に、天下が訊ねてきた。
「先生ってオペラ好きですよね」
 何を企んでいる。警戒モードに移行しつつ涼は教卓の上に置いた楽譜を手に取った。動揺を悟られてはならない。平静を装わねば。
「まあ、好きな方だね。どちらかと言えば」
「よく授業でも流しますし……『魔笛』とか『タンホイザー』とか」
「音楽の授業ですから」
 生徒たちが少しでもオペラに興味を持ってくれれば御の字だ。時間の都合上、全幕を観せるわけにはいかないが、有名な部分を抜粋して紹介している。オリジナルのあらすじプリントも作成して配っていることを考えれば、なるほどオペラに力を入れていることも否めない。
「授業のために、わざわざレーザーディスクまで買ったりするんですか?」
「……多少、趣味も兼ねていることは認めよう。でも全部私のポケットマネーです。そこを誤解しないように」
「別に責めているわけじゃないんです。実はここにオペラの招待券があるんですけど」
 楽譜から顔を上げれば「優待券」と印字されたオペラのチケット。
「『カルメン』だそうです」
 涼しい顔で天下は言う。ビゼーの最高傑作ではないか。
「いつ?」
「明日。新国立劇場で七時開演です」
 学校の最寄駅から新宿までは電車で一本。金曜とはいえ、早めに仕事を終えれば間に合う時間だ。
「もしかして、くれるの?」
「差し上げたいのは山々ですが、他人への譲渡は駄目だそうです」
 こいつ最悪だ。涼の機嫌は急降下した。
「ほーう、わざわざ自慢しに来てくださったわけですか。どうもありがとう」
 再び楽譜に視線を戻す。天下の評定を「一」にしたろうか、と職権乱用も甚だしい復讐が頭をよぎった。
「でも同伴者なら良いそうですよ」
 人の悪い笑みを浮かべて天下は指をずらした。チケットは二枚あったのだ。「優待」なだけあってS席だ。通常ならば二、三万はする。
 S席。カルメン。ビゼー。オペラ。頭の中でくるくる回る単語たち。しかし――涼は天下の幼さの残る頬と、大人びた顎から首筋のあたりを盗み見た。
 生徒と二人でオペラ鑑賞。音楽科の生徒と教師ではよくあることとはいえ、普通科の、それも音楽に大して興味もなさそうな天下と一緒というのは、非常に危険な気がする。
(ああ、でも――)
 涼は内心頭を抱えた。
(行きたい超観たい……っ!)
 生のオペラなんて二回観た程度。友人の好意で譲ってもらった際だけだ。タダである代わりに演目なんて選べやしない。チケットが高額な上に会員以外はなかなか手に入らないのだ。
「一緒に行きませんか?」
「……あー、一人でオペラ観てもつまらないだろうし……な。ここは一つ、先生が行ってあげてもいいかなあ、と思いますハイ」
「素直に行きたいって言えよ」
 天下がぼそりと呟く。
「何か言いましたか? 鬼島君」
「いいえ、別に何も」
「ではそろそろ解散しよう。ここ、閉めます」
 天下はチケットを封筒に戻して鞄を脇に抱えた。一緒に出ていく必要も見送る義理もない。涼は軽薄にも五線に浮かぶオタマジャクシを視線で追った。珍しく食い下がらないと思いきや、天下はドアノブに手をかけて振り返る。
「先生、明日の放課後ですからね」
「はーい」
「行き違いにならないように、準備室まで迎えに行きますから」
「はいはい」
「……忘れて帰るなよ」
 耳に心地よい低音。もしかしなくともこれが彼の地声なのだろう。
「大丈夫だ。カルメンは忘れない。君もこんなところで油を売ってないで、早く家に帰って青春でも何でもエンジョイしなさい」
「今してるから、いいんだよ」
 さらっと言うものだから、涼は虚を突かれた。
完全に油断していた。言葉が喉の手前でつっかえたように出てこない。
「……あ、そう」
と呟くのが精一杯だった。天下の顔を見ることなどできない。しがみつくように楽譜に意識を集中させた。
「先生」
「今度は何だ。早く帰りなさい」
「楽譜、逆さまですよ」
 笑みを含んだ声音で指摘し、天下は退室した。残された涼はというと、恥ずかしいやら悔しいやらで上下逆の楽譜を握りしめた。
 食えない生徒どころじゃない。
 こっちが食われそうだ。


 しかし同伴者がどうであれ、オペラを観に行く、というのは心が躍るものである。機械的に選ぶスーツもネクタイも今朝に限っては出かける直前まで悩んだ。普段は全くと言っていいほどしない化粧もちょっとしてみたりして――肌が荒れるのでクリームとリップ程度で終わったが。とにかく、涼は数年ぶりのオペラ鑑賞を楽しみにしていた。
「渡辺先生、今日は何かあったんですか?」
 しかしよもや、音楽準備室で同僚に訊ねられるほど浮かれていたとは思わなかった。涼はとっさに誤魔化そうとして不意に思い至った。何を隠す必要がある。変に体裁を取り繕うとするから、邪推されるのだ。
「実は今日、放課後にオペラを観に行くんですよ」
 口調が弾んでいるのはまあ仕方がない。予想通り、音楽教師達は食いついてきた。
「オペラですと……」
「『カルメン』です。お恥ずかしい話ですが、生で観るのは初めてなもので」
 いいですねえ、と頷いたのは音楽科主任。その後もやれ誰がカルメン役なのか、指揮者は誰だ、などといかにも音楽教師らしい話題で盛り上がった。
「しかしよくチケットが手に入りましたね。誰と――あ、愚問でしたか?」
「佐久間先生じゃありません」
 涼は努めて事もなげに答えた。
「生徒ですよ。おこぼれに預かったんです」
 音楽科の生徒と後学のために演奏会に行く教師は多い。担当科目上、その手のチケットが送られてくるからだ。別段不思議なことではない。そう、相手が音楽科の生徒ならば。
 都合よく解釈してくれた教師達はそれ以上突っ込んではこなかった。助かったのは事実。しかし涼はこうも思う。もし、名前を訊ねられたら、自分は「鬼島天下」と答えたのだろうか。
 六限目も無事に終了。充実しているせいか、それとも周囲の音楽科教師達が気を使ってくれているせいか、残業もすぐに片付いた。迎えに来る天下を待つ間に、涼は鑑賞ガイド本をぱらぱらめくった。
「やっぱりアリアと言えば『セギディーリャ』ですね。『ハバネラ』は言うまでもありませんが」
 ガイドブックの一ページを指差したのは音楽科主任だった。
どちらも第一幕でカルメンが歌うアリアだ。男を次々と誘惑する魔性の女役だけあって、歌の正確さよりも色気が重要となってくる。
「エスカミーリョの『トレアドール』を忘れちゃいけませんよ、渡辺先生」
 コピー機を使用していた百瀬恵理までもが参戦。それぞれお気に入りのアリアを挙げ出す。音楽科教師だけあって思い入れは人一倍あった。話し出すと止まらない。
「バリトンの響き……たまりませんねえ」
 恍惚とした表情で語る恵理。気持ちはわかるが、仮にも職場で恋する乙女みたいに目を輝かせるのは遠慮してほしいところだ。
「バリトンのアリアでこんなに派手なのは『トレアドール』くらいですからね。いつもテノールが独占してますから」
「あ、渡辺先生はテノール派ですか?」
「どちらかと言えば、そうです」
「好きそうですよね。三大テノールとか……ちなみに、お気に入りは? パヴァロッティ? それともカレーラスですか?」
 同類の匂いを感じ取ったらしい。恵理は嬉しそうに質問してくる。仮にも音楽教師。涼もそういう話は嫌いではない。正直にプラシド=ドミンゴだと答えた。それを皮切りに『カルメン』から三大テノールの一番は誰かという話題に移行した。
「あの……リョウ先生」
 蚊の鳴くような小さな声が和気藹々とした空気に入り込んだのは、涼が陰鬱をたたえたドミンゴの美声について力説している真っ最中だった。
 音楽科準備室に訪れるとは珍しい。世界史担当の佐久間だ。
「何か用ですか?」
「今日、これからお時間いただけませんか」
 お食事でも、と控えめにだがその場にいた全員の耳に入るくらいの音量で言う。
 迷うことなどなかった。
「すみません。今日は先約が」
「私が代わりに行きましょうか? カ・ル・メ・ン」
 余計な提案をしてきた恵理をひと睨みで黙らせる。冗談ではない。
「カルメン?」
「生徒と観に行く約束をしまして。せっかくのお誘いですが、またの機会ということで」
 訳:矢沢遙香でも誘って行けよ。
 丁重にお断りしたが、佐久間は傍目でもわかるくらいに困った表情になる。
「生徒と一緒に? これからですか? そんなことをして問題に」
「後学のためです」
 さすがに見かねた主任がぴしゃりと言い放つ。
「私も生徒とよく演奏会に行きます。招待されて、それを聴きたいと思う生徒がいる以上、同行するのは当然のことです。失礼なことを言わないでください」
 一変して険悪な雰囲気。涼は佐久間の腕を取った。主任に軽く会釈して退室。渡り廊下の手前でようやく足を止めた。人気がないのを確認して口を開く。
「何のつもりかは聞きません。恋愛相談でしたら余所でお願いします」
「いいえ、僕は、ただ……今後のことも含めて」
「今後も何もありません。ほとぼりが冷めたら適当な理由をつけて別れるだけです。それとも、矢沢遥香が卒業するまで私を隠れ蓑にするおつもりですか?」
 半眼で見やれば、佐久間は狼狽した。
「リョウ先生にはご迷惑をかけして申し訳ないと思っています。ですから、お詫びも兼ねて食事に」
「それで矢沢さんも呼べばさぞかし楽しい食事になるでしょうね、お二人にとって」
「ち、違います! 僕はそんな……」
「いずれにせよ、結構です。茶番は学校だけで十分。私のプライベートにまで彼氏面して関知しないでください。それと音楽準備室にまで押し掛けるのもご遠慮ください」
 話している時間さえ惜しくなった涼は切り上げた。
「約束がありますので失礼します。では、よい週末を」
 馬鹿にしている。靴音も荒く涼は音楽準備室に戻った。
生徒に手を出したお前と一緒にするな。カルメンだ。初めての生鑑賞。それを、こちらの都合も察せずに妨害するとは一体何の嫌がらせだ。二言目には食事食事食事――自分をデートに誘いたければクラシック演奏会のS席チケットでも用意しやがれ。
 怒り納まらぬまま準備室に入れば、好奇の視線が注がれる。
「修羅場でしたか?」
「百瀬先生、ノーコメントです」
 自分の机に腰掛けて一息――と、そこで涼は机の上に置かれた音楽の教科書に気づいた。
「入れ違いでしたね。普通科の生徒が授業の忘れものだとかで届けに来たんですよ。渡辺先生に渡せばわかる、って言ってましたけど」
 教科書からわずかに覗く白い封筒。見覚えがある。案の定、中は『カルメン』のS席招待券。それも二枚ある。どういうことだ。
 まさか。
 涼の額の汗が冷えた。
 もしかして、もしかすると、さっきの見ちゃったりしてますかね? 人気のないところで二人っきりで密談。頑張って解釈すれば仲が良く見えたりしますかね?
 そんでもって……変な気を回したりしちゃったりして。
(まさか、そんなベタな)
 首を横に振ったが、その考えは振り落とせなかった。
「すみません。お先に失礼いたします」
 涼は鞄を引っさげて準備室を飛び出した。


 昇降口まで早歩き。廊下を走れない教師の身分が恨めしかった。ようやく辿り着いた下駄箱で確認したら、天下の靴は既になかった。舌打ちして、教員用の玄関にまわり、今度は駐輪場へ。
 二年一組の所で談笑していた男子生徒数名を呼びとめた。天下の行方を訊ねれば彼らは一様に不思議そうな顔をした。
「あいつ、チャリ乗ってませんよ」
「歩いて学校まで来てるってこと?」
「いや、そうじゃなくて」
 顔を見合わせる男子生徒達。
「電車通学だよな? 俺、雨の日に見たもん」
 今度は涼が眉を顰める番だった。佐久間から引き出した天下の住所、そして先日目撃した鬼島宅は間違いなく一致していた。学校までは徒歩で十五分程度の距離。駅まで行けば遠回りだ。
 つい最近、引っ越しでもしたのだろうか。しかし彼らが言うには入学当初から電車通学をしていたらしい。ますますわけがわからない。
「天下がどうかしたんスか?」
「忘れ物をしたんだ。結構大事なものだから、渡そうと思って」
 涼は肩を竦めた。
「あ、俺、あいつの番号知ってます」
 思わぬ収穫だ。男子生徒達に礼を言って涼は学校を後にした。道すがら教えてもらった番号にかけてみる。が、留守番電話が応対。こうなれば直接乗り込むしかない。涼が知っている方の鬼島宅へ向かった。
 到着した頃には六時を回っていた。改めて表札を確認したが、やはり『鬼島』とある。そうそうある苗字でもないし、涼は天下の父がこの家に入るのを確かに見た。
 玄関の前でもう一度電話をかける。願いは通じたのか、硬い声が『はい』と応じた。
「今どこにいる」
『は? せ、先生、なんで』
「クラスメイトに聞いた。どこにいるんだ?」
『どこって……』
 声には困惑の色が濃かった。
『自宅ですよ』
 涼は目の前にそびえ立つ家を見上げた。二階の明かりは点いていなかった。ポストには今日の夕刊が入っている。
『ですから、俺を気にせず、お二人でどうぞ』
 あ、やっぱり見てたのね。タイミングの悪い奴だ。
「違う。ガキのくせに変な気を回すな」
『どうだかな』
 天下の口調ががらりと変わった。
『よくよく考えてみりゃあ、めんどくさがりやのあんたが好きでもねえ野郎のために彼女のふりをするってのも、おかしな話だ』
 嘲笑混じりの声はとことん意地が悪い。涼は言葉を失った。
『良かったじゃねーか、ふりとはいえ、彼女にしてもらえてよ』
 思考が回復すると共に、何かがふつふつと湧き上がってきた。
 良かった? 誰が?
 昨日から指折り数えていたオペラの邪魔をされ、職場の雰囲気をぶち壊され、挙句勝手に誤解して拗ねた生徒を探し回って自宅にまで押し掛ける羽目になっている。
 これの、どこが、良かった?
「おい」
 怒りを押し殺し――たつもりだったが、低い声が口から出た。
「私が今、どこにいると思う?」
『知るかよ。切るぞ』
「お前の家の前だ」
 電話口の向こうで、天下が息を呑んだのが聞こえた。
「もちろん、お前が今いる『自宅』じゃあないだろうが。表札には『鬼島』って書いてあるな」
『……おい、冗談だろ?』
「授業でも言わないのに、今言うと思うか? 出来の悪い生徒にもわかるように懇切丁寧に教えてやりたいところだが、あいにく時間がない。インターホン押して証明してやる。誰か在宅しているみたいだし丁度いい。ついでにどういう事情なのかも聞いておこう」
『馬鹿やめろっ!』
 怒声というよりは、悲鳴に近かった。尋常でない様子に、インターホンに乗せた涼の指が止まった。こんなにも切羽詰まった天下の声を聞くのは初めてだ。
「電話越しとはいえ教師を馬鹿呼ばわりするとはいい度胸だ」
『悪い。謝る。だからやめてくれ』
 珍しく殊勝だ。弱々しい声に責める気も失せていく。
『頼む』
 反比例して好奇心だけが膨れ上がる。何を隠している。そこまでして何を守ろうとしている。しかし、追究するには時間も場所も最悪だ。
「新宿駅でいいか? そこで待ってる」
 しばし黙してから、天下は『一時間くらいかかるかもしんねえ』と了承した。


 駅のホームで天下を見つけ、涼は目を瞬いた。彼は制服ではなく私服姿だった。灰色のカットソーに青系のジーンズ。それに薄手のミリタリージャケットを羽織っただけのカジュアルファッションだが、それもまた実に様になっていた。新鮮さもあって、つま先から頭までつい凝視してしまった。
「招待券、見なかったのかよ」
 拗ねるように天下はポケットに手を突っ込んだ。
「譲渡禁止なんて書いてねえ」
 知ってるよ、それくらい。
 プレミアつきのライブチケットじゃあるまいし、席が空くことの方が問題とされるオペラでは入場の際にいちいち本人確認なんてしていない。涼は無理に天下と行く必要なんかなかった。逆を言えば、天下もまた無理に涼と行く必要もなかったのだ。
「ああ、本当だ」
 涼は封筒からチケットを取り出した。
「そういうことは早く言ってくれ。捜し回って損した」
 苦笑すれば天下はつられたように顔をほころばせた。
「先生って、嘘吐きですね」
 騙されたくもなる。
 涼は内心、誰に対してでもなく言い訳をした。だってそうだろう? 偶然手に入れた物とはいえ、涼がオペラを、中でも特に『カルメン』が好きであることを知って、誘ってきたのだ。嘘を吐いてまで。
 今朝、服選びに迷った涼と同じように心待ちにしていた天下が、あの現場を目撃し一人落胆して帰ったことを思うと――流されてやりたくなるじゃないか。
 昔から、涼はそういうものに弱かった。
 当然ながら劇場に到着したのは七時半。開演時間はとっくに過ぎていた。おまけに途中入室は認められていない。第一部と第二部の間にある休憩まで外で待つ羽目になった。ちなみにかの有名なアリア、『ハバネラ』が歌われるのは第一幕。『セギディーリャ』も同じく。『トレアドール』は二幕。一部で有名どころはほとんど歌われてしまうのだ。涼は涙を呑んで諦めた。
「悪かったな」
 天下が小さく呟いた。伏目姿には哀愁が漂う。涼でなければ、気にするなと水に流すところだろう。しかし、残念ながら涼にはそんな真似はできなかった。
「まったくだ」
 何しろ生まれて初めてのカルメンだ。逃したアリアは大き過ぎた。ますます気落ちした天下は恨めしげに反論した。
「やっぱり、佐久間と行けば良かったじゃねえか」
 それで拗ねて帰ったのはどこのどいつだ。涼は頭を掻き毟りそうになった手で、天下の腕を掴んだ。軽食やワイン等を販売するブッフェを通り過ぎて自販機へ。
「気分を味わえ。オペラの幕間に飲むワインは格別だ」
 イタリアのオペラ座には必ずと言っていいほどワインを飲むための場所が用意されている。オペラが社交場とされていた時代の名残でもあるが、今も昔もオペラとワインは密接な関係にある。オペラ歌手の美声に酔い、そしてワインに酔う。何百年経っても人間と言うものは大して変わらないのだ。
「飲まないんですか?」
「未成年は茶で十分だ」
 五百円玉を投入し、生茶を選んだ。天下にも買うよう促す。ほんの少し逡巡した後に、天下は「御馳走になります」と折り目正しく礼を言って、コーヒーを選んだ。生意気にもブラックだ。
 中では『カルメン』。外のブッフェで教え子と二人、茶を飲んでいる。ずいぶんとおかしなことになったものだ。
「……デートはどうしたんですか?」
 躊躇いがちに天下が訊ねる。
「断わったよ。今頃、二人で仲良くやっているだろうな」
「可愛くない生徒のためにわざわざ断るなんて、先生はご立派ですね」
 皮肉混じりの言葉。三者面談の日のことをまだ引きずっているらしい。意外に根に持つタイプのようだ。そもそも、矢沢遙香と鬼島天下を比べること自体、間違っている。
「誰も可愛くないとは言っていない。よくわからない生徒だとは言ったけど」
「俺は先生がよくわかりません」
「わかりたいとも思わない、って言ったのは君だ。わからないままでいい。私もその方が気が楽だ」
「それは……あんたが、」
 言いかけて天下は口を噤んだ。
「気にならないんですか?」
 何が、と訊ね返す必要はなかった。学校に提出した住所とは違う場所に住む天下。それも、家族と離れて一人暮らし。三者面談には父親が出席し、母親はそのことを知らない模様。これで疑いを持たない人間は聖職者になるべきだ。
「家庭の事情に首を突っ込むほど面倒見はよくないよ、私は」
「でも、あんたは俺を探し回った。佐久間とのデートを断って。オペラだって、一人で行っても良かったはずだ。俺を探す必要なんてなかった。あんたにとって俺は、理解に苦しむ出来の悪い生徒で、面倒なガキなんだろ? なんで電話なんかしてくるんだよ」
「可愛い教え子だから」
 天下は狐につままれたような顔になり、次に頬を紅潮させた。
「生徒をからかって楽しいか? 冗談もたいがいにしろ」
「何度も言わせるな。授業でも言わない冗談をどうして今言うんだ」
 普通科が誇る優等生は思いの外間が抜けているようだ。涼は腕時計を見た。休憩まで悲しくなるくらい時間があった。
「特別授業をしてやる。ビゼー、ベルリオーズ、サン=サーンス。音楽家であること以外でこの三人の共通点を述べよ」
「はぐらかすなよ」
「音楽科の生徒だと十個ぐらい挙げるよ」
 観念したように天下は顔をしかめながらも考えた。
「フランス人」
「正解。三人の中でもシャルル=カミーユ=サン=サーンスは音楽家として活躍しただけでなく、数学や天文学、詩や絵画の分野においても才能を発揮させた。もちろん、本人の努力があってこそ、できたことだろうがね。彼の作風は知的で穏健的。よく頭で考えて練った感じの曲が多い。仮に、彼がうちの高校に入学したとすれば、どの学科に入ってもまず間違いなくオール五の最優秀生徒だ。特例で授業料免除にもなるかもしれない」
 サン=サーンスには及ばないものの、鬼島天下もまたオール五の最優秀生徒だ。欠点の見当たらない完璧な生徒。
「そんなサン=サーンスが、だ。交響曲第三番を完成した時にテンションが最高潮になって『我が楽曲には一点の過ちなし』と高らかに宣言したそうだ。すかさずベルリオーズが突っ込んだ」
 涼は茶を一口飲んだ。
「『確かに。しかし一点の過ちもないことが、君の作品の唯一の弱点だ』」
 一点の曇りもない。完璧。完全。ゆえに欠点となる。鬼島天下がまさにそれだった。歩み寄る隙がないのだ。美しい絵画を見て感動を覚えても、親しみを覚えないとの一緒だ。
「だから、君が机の上に腰かけた時、正直安心した。こうやって悪いこともできる普通の生徒なんだって。ほんの少し可愛く思えたよ」
天下は複雑な表情になった。年頃の男子学生は『可愛い』と言われると非常に戸惑うようだ。確かに、嬉しくはないかもしれない。しかしそれ以外に表現のしようがなかった。
 しばらく無言で茶を飲んだりしていたら、劇場の扉が開いた。ようやく一部が終わ
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