第4章・若鳥

文字数 29,583文字

 族長集会が近付いていた。
 それは、ヘルニの嫁入りが近いという事も意味していた。そうなると母は感傷的になり、父も、どことはなしに酒の力で明るく振る舞っているようにも見えた。姉自身も鬱々としている様に思えた。
 ドルファとは昨年に会って互いに婚約を交わした筈だ。その時には喜んでいたはずなのにと、ディオンは不思議に思った。
 ヘルニは本当は結婚などしたくはないのだろうかと他の姉達に訊いてみた。
「あんたはまだ、子供よね」
 すぐ上の姉のリグルが小馬鹿にしたように言った。
 むっとしたが、言い返すと喧嘩になりそうなので黙ってやり過ごした。その点は、自分でも少しは成長したのかとも思う。
 族長船が着き始めると、見習いの訓練は一旦、中止された。折角、冬星の調子も上がって来たところだったので残念だったが、族長船の戦士達の接待で忙しくなる為、仕方がなかった。
 まだ見習いに過ぎなかったが、ディオンは族長家の男子として他の族長と引き合わされる事にもなった。
「良い男子になられたな。以前はまだ幼くあられたが」
 北海の男にしては珍しい瘦軀の族長鯱殺しソヴァルタは、もう十五になったというのにディオンの髪を掻き回した。金色の髪に明るい笑みの人で、悪い気はしなかったが、いい加減、子供扱いは止めて欲しいとは思った。父よりも長身の若い族長からすると、背の低いのは子供ということなのか。
「御仁にも男子がお生まれになったそうで、目出度い事だ」
「ああ、不憫な事に、年寄り共の話では俺に似ているそうだ。性格は母親に、頭は親父殿に似て欲しいものだがな」
 ソヴァルタは笑った。「名はベルクリフだ。あいつが族長になったら、可愛がってやってくれ」
「私はまだ、族長になるとは決まった訳ではありません」
 ディオンは言った。
「そうなのか。だが、必ずやそうなる。俺のそういう勘は外れた事がないからな」
 何の根拠もないのに、とディオンは思った。そんなディオンの心に気付いたかのようにソヴァルタは付け加えた。
「貴公はこんなに立派な鷲を連れているではないか。このような黒鷲は、我々は鷲の王と呼んでいる。いや、雌だから女王か」
 止める間もなく、族長は冬星に手を伸ばした。
 だが、冬星は撫でられるがままになっている。
「これを使う事ができるのは、やはり族長の器の証拠だ」
 凄い、と思った。鷲は主人以外の者に身体を触れさせることは殆どない。なのに、何の躊躇いもなく鷲に手を伸ばし、冬星も意のままだ。
「不思議か」
 ソヴァルタは言った。ディオンは唯、頷くしかなかった。
「貴公らが海鷲の民と呼ばれているように、我らは海神の民と呼ばれている。海鷲は我らの眷属でもある。しかも、我らから唯一嫁に出たのが鷲の一族だ。つまり、遠いところで我々の血は繋がっているという事になる」
 不思議な魅力のある人だった。恐らく、北海の七部族の中で最も若い族長であろう。年長の父に対しても気軽な口調で話すのは、族長同士の気安さというよりは、この人の性分によるものなのだろうと、ディオンは思った。他の族長達はもっと堅苦しい挨拶を交わしていたのだから。
「そうそう、御息女とドルファ殿の婚姻に際して、細君から祝いの品を預かって来たのだった」冬星の頭を掻きながら、ソヴァルタはディオンの父に言った。「忘れたら大事(おおごと)だな」
 まあ、優しい女だからどやされはしないが、とソヴァルタは悪戯っぽくディオンに向かって言った。
「そちらも大変な時に、そのように気遣い頂くとは、貴殿は良い嫁御を娶られたものだな」
「俺には過ぎた女よ」
 声を上げてソヴァルタは笑った。聞いている方も気分の晴れるような明るい笑い声に、ディオンも思わず、笑みを漏らした。


 ディオンが自分の役割も良く分らぬままに、族長集会は終わりを迎えた。エリアンドとは顔を合わせたが、大した話はしなかった。ただ、老いつつある族長はディオンの肩を叩き、「兄上に良く似て来られた」と言っただけだった。それは誰も口にした事のない言葉であった。髪も目の色も異なる自分が、兄に似ているとは思いもしなかった。自分が次期族長に選ばれた時には、父についてエリアンドの龍の島へ行く事になり、あの娘と会う機会もあるかもしれない。そうなればまた、兄の事を思い出させるだろう。自分の風貌が、人を哀しませるとは思いもしなかった。
 姉のヘルニとドルファは、集会の終わりに神聖な木の根元で島流の結婚式を挙げた。正式な婚礼はドルファの島で行われるが、出立に当たって、鷲神の祝福を賜る為であった。また、全ての族長が列席する集会での儀式は、次期族長とその妻との格好の披露目の場であり、ドルファにとっても大きな意味のあるものなのだ。
 婚礼衣装に身を包んだ姉は、ずっと大人びて見えた。
 数人の側使えの女奴隷を連れて、ヘルニはドルファと共に島を去った。残された姉達は泣いていた。母もまた、こっそりと涙を拭っていた。
「お父さまはいいわ。またお姉さまに会えるのですもの」
 姉達は言った。そう、戦士階級の女性がこの島を出るのは、ヘルニのように婚姻以外ではない。この別れが一生の別れなのだ。
 だが、父は族長集会でドルファの島を訪う事がある。その際には、あちらの族長家の一人としてのヘルニに会える。他島での集会でも、消息が聞ける。母や姉は、それを待つしかないのだ。
「ディオン、三年後には、あなたが後継者に選ばれなくちゃだめよ」
 ヘルニを乗せた船が見えなくなると、そう、姉達は言った。
「それまでに、姉上達も他所の島へ輿入れしているかもしれないではないですか」
 憮然としてディオンは言った。姉達にしたところで、結婚するつもりがない訳ではないだろう。だが、少し意地悪な気分でもあった。
「それとも、嫁かず後家でいるつもりなのですか」
「何ですって」
 二人の姉が同時に言って、拳を振り上げた。
「お止めなさい」母が止めに入った。「今日くらいは大人しくしなさい」
「本当の嫁かず後家になるぞ」
 父の一言で二人は大人しくなった。「二人にも、今回、いい話がなかった訳ではないのだからな。そのような事では先が思いやられる」
 ディオンが一端の戦士となる頃には、この二人とて館にはいない可能性が高い。
 そう思うと、ディオンの心に言い知れぬ寂しさが襲いかかって来た。つい、泣きそうになる。
「少し、遠乗りに行って参ります」
 誤魔化す為に、そう言った。


 馬を走られたのは西の崖だった。
 冬星は空を見上げ、やがて飛び立った。
 見る見るうちに、その姿は野生の群れに紛れて行く。
 それを見送ると、ディオンは馬を下りた。
 放っておいても馬はその辺りの草を食む。冬星も呼べば戻る。
 ディオンは崖の縁まで行き、西の海を眺めた。
 西の海の向こうには、かつて北海の部族達が暮らしていた土地があるのだと教えられて来た。神々の争いの余波で荒れ果てたその大地へは、二度と戻る事は叶わぬのだと。
 腹這いになって崖下を覗き込んでみる。
 あちらこちらで鷲が営巣していた。その巣の中には雛の姿があった。
 本来ならば、冬星もあのように育てられていたのだろうか。そして、鷲の父母の元で成長していたのだろうか。それとも、野生の鷲によくあるように、先に生まれた兄か姉によって殺されていたのだろうか。
 それを考えると、自分と冬星とが出会ったのは、まさに鷲神の采配であった。
 ディオンはごろりと仰向けになり、空を見上げた。
 あの巨大な黒鷲はいない。木で休んでいるのだろうか、それとも、沖合に出ているのだろうか。
 残念な気もしたが、却って良かったのかもしれない。もう一羽の若い黒鷲の存在は、あの巨大な鷲にとっては目障りだろう。
 そのような事を考えていると、どこからか若い娘のものらしい声が聞えて来た。何を言っているのかは定かではなかった。なにやら不思議な呪文とも歌声とも取れる節だった。
 鷲達が一斉に、その声に操られるように空中で輪を描き始めた。
 不審に思ってディオンが身を起こすと、一人の娘――少女が籠を足許に、両手を鷲に差し伸べていた。
 自分と同じ年頃だろうかと、ディオンは思った。
 その娘は、やがて籠から小魚を摑み出すと放り投げた。
 それを鷲達が攫って行く。
 何度もそれを繰り返し、その間も不思議な声は止む事がなかった。
 籠が空になったのか、最後に娘は手を叩いた。すると、それまで集まっていた鷲は前のようにばらばらの動きに戻った。
「君は――鷲の巫女なのか」
 ディオンは声を掛けた。
 娘はびくりと身を震わせた。一瞬にして空気が張り詰めた。そして、娘はゆっくりとディオンの方を見た。
「愕かせて済まない。初めて見たものだから、つい」
 娘の身体から力が抜けて行くのが分った。
 ディオンは腰を下ろしたままの姿勢絵娘を見た。
 身なりは整っているが、衣服はかなり着古したものだった。だが、海風に靡く草の陰から見える足には靴を履いているので、奴隷ではない。貧しい漁民なのだろう。
「答えてはくれないのか」ディオンは再び問うた。「君は鷲の巫女なのか」
「ええ」
 娘は言った。先程とは違って、ごく普通の声だった。
「ならば聞きたいのだが、ここで黒鷲が営巣しているだろう」
 娘は頷いた。
「その場所を、教えて欲しい」
 籠をその場に置き、娘はディオンに近付いて来た。そして崖の縁に跪き、大きな鷲のいる巣を指した。
「今は雄がいるわ」
雄鷲も大きかった。下手をすると小柄な雌と同じくらいはあるのではないかと思われた。
「今年も採卵されたのかな」
 ディオンはふと漏らした。
「いいえ、何年か前に卵を取られてから、必ずどちらかが巣にいるようになったわ」
「警戒して」
「そうだと思うわ」
 ディオンは改めて雄鷲を見た。恐らく冬星の父だろう。鷲はそうそう(つがい)を変える
事はない。相手の死まで、生涯連れ添う。
 冬星の頭の良さは両親譲りなのだろう。普通の鷲は毎年のように採卵できるが、あの大きさの鷲に対抗しようというのは無理がある。
 ディオンはすっと右手を挙げた。
 すると、野生の鷲の群れの中から冬星が舞い降りて来た。
 その姿を見て、傍らの娘が息を呑むのが分った。
「見ろ、あれがお前の父親だ」
 冬星はじっとその鷲を見つめているようだったが、やがて、ふいと顔を背けて飛び立った。
「気に入らなかったか」
 ディオンは溜息をつき、再び腰を下ろした。
「あの子…」
「ああ、きっと黒鷲の系列だろうと言われてここに来たのに、母鷲の事は無視したし、父鷲も気に入らなかったようだ」
 ディオンは髪を掻き回した。巣立ちした鷲にとって、親鷲はどうでも良いものなのだろうか。自分のやっている事は、余計なお節介に過ぎないのだろうか。
「わざわざ連れてくるなんて、優しいのね」
 娘の言葉にディオンは動きを止めた。
「別にそういう訳ではない。一時(いっとき)、あいつが調子を落とした時に、ここに連れて来た事があっただけだ。実の母鷲の勇姿を見れば、変わるかと思ったに過ぎない」
 そう、優しい訳ではない。
 今日も、姉のヘルニがいなくなり、あと三年の内に残った姉達もいなくなるのではないかと思うと、居ても立ってもいられなくなったからだ。これで自分が次期族長になれなければ、姉達の婚家での身分にも関わるのかもしれない。全てが自分の気持ちとは関係なく、肩にのしかかって来るようだった。
 そういう重圧から逃れたい。
 ここへ来たのは、そんな気持ちもあったのかもしれない。
「でも、あの子、本当に良く育ったわ」
「それなら、良いのだが」
「本当よ」娘は語気を強めた。「黒鷲は、決まって雌なの。雛は育ちが遅いから、先に生まれても後から産まれた雄の雛に殺されてしまうわ。母鷲が歳を取って来て、一個しか産卵しなくなった時に産まれた雌だけが、無事に育つと言われているの。あの巣の雌は、まだ言うほどの歳ではないわ」
「良く知っているんだな」
 ディオンは感心して言った。
「黒鷲は西の崖の主ですもの。特別、目を掛けるようにと言われたわ」
 改めてディオンは娘を見た。
 何処にでもいるような金色の髪に青い目で、少々、雀斑(そばかす)の目立つ娘だったが、貧しい生まれのせいなのか、見習いとはいえ、戦士に対する口調ではでなかった。館のある中央集落の自由民は、幼い子供ですら戦士に対してもっと、敬意を払うものだ。
 尤も、このような島の果てまで戦士がやって来るのは採卵の時くらいだろうから、礼儀を知らないのもやむを得ないのかもしれない。
「家族で守っているのか」
「そうね、母さんが死ぬまでは、わたしはついて教わるだけだったわ。この仕事を引き継いだのは十歳の時よ」
 十歳であれだけの鷲を操れたというのか。
「最初は、なかなかうまくできなかったのだけど」
「誰だって、最初はそんなものだろう」
 ディオンは呟いた。同年代の中では常にイヴォルダスと一番を争うようになった。剣の使い方が違うので、どちらが上という訳ではなかったが、従兄がやたらと突っかかって来るのは相変わらずだった。一人なのも。だが、もう慣れた。
「君は、何歳なんだ」
「十五よ。母さんが間違っていなければ、ね」
 ディオンは思わず笑みを浮かべた。
「私と同じだな」
「そう。私はエイリィズ。あなたは」
「ディオン」
「族長の息子、でしょう。あんな立派な馬に乗るのは、族長くらいなものですもの。年に一度の見回りで見た事があるわ」
 それ程珍しい名ではないので、分るとは思わなかった。だが、馬は適当に厩舎から引いてきたものだ。闘馬にも出されるくらいの立派な馬が館には揃っている。
「あなたが、次の族長なのね」
「そんな事は分らない」
 ディオンは溜息をついた。皆、どうしてその事に拘泥するのだろうか。当事者である自分の意見など、誰も訊いてはくれない。
「だって、黒鷲を使っているのですもの、あなた以外に誰がなるの」
 全く他意のない顔でエイリィズが言った。
「鷲で全てが決まるのなら、前に黒鷲を使っていた戦士が族長になっても良かったと思う」
 それは本心だった。何故、以前の黒鷲使いは族長にならなかったのか。ソヴァルタの言葉のように、鷲の王を使うのが族長の器だとするならば、だ。
「黒鷲使いは無欲な人が多いと伝えられているわ」エイリィズは笑った。「だから、戦士でも充分、満足していたと思うの。あなたも無欲な口ね」
 そうなのだろうか。
 ディオンは首を傾げた。
 確かに、勝利に貪欲になれと他の戦士達は言う。だが、ディオンはロスキルから勝利に拘泥(こだわ)るなと言われていた。訓練では勝つ事に執着しすぎると見逃す事も多い、と。相手の技を受け流し、自分に有利な方に戦いを進めて行く方が、体格で劣る者には必要な事だと、同じ技を使う戦士達も言う。
 だが、それでも良いのかと思う事もあった。
 いつか、自分も父のようにがっしりとした北海の戦士になれるのではないかと、心のどこかでは思っていた。しかし、兄もそうだったが、どうやら姉達だけでなく、兄弟揃って母の華奢な骨格を受け継いだようだった。せめて、ソヴァルタのような長身であれば良かったのだろうが。
 ディオンは、ソヴァルタと手合わせをさせて貰った時の事を思い出した。
 ソヴァルタはあの瘦軀にも関わらず、力は強かった。他の戦士と同等の勝負をしても決して負ける事はなかった。遊びとはいえ、腕相撲でも負けはしなかった。
 あのような戦士になるのが、最も理想的なのだろう。だが、ちびで身体もまだ出来上がっていないディオンにはどうしようもない事だった。
「戦士のことはわたしには分らないわ。でも、鷲のことなら分るの」エイリィズは言った。「黒鷲は、一番強い雄と番になると言うわ。でも、相手がどれほど強くても、気に入らないと殺してしまう。だから、この辺りでは黒鷲は雄殺し、と言われているわ。でも、あの子はあなたのことをとても好きみたいね。よく馴れていて――あなたのことを信頼しているのが、そばで見ていても分るわ」
「それは、孵化してすぐから世話をするのだから、馴れもするだろうし、信頼もするだろう」
 ディオンは苦笑した。
「それだけではないと思うわ」エイリィズはきっぱりと言った。「あなたの強さも優しさも、あの子は感じているのよ。それが黒鷲だと言われているの」
 強さ。
 そのようなものが、自分にはあるのだろうか。
 弱さなら、沢山ある。
 今、ここにいるのもその弱さからだ。
「わたしには選ぶ権利はないのだけど、あったとしたら、きっと、あなたを族長にと思うわ」
「勝手な事を言うなあ」
「勝手じゃあないわ。族長によって、わたしたちの生活も変わるの」エイリィズは言った。「あなたのお父さんはいい族長だわ。母さんはそう言っていたわ。お祖母さんの時には、この西の果ての村のことなんて、誰も気にしなかったそうよ。でも。今の族長は年に一度は必ず、村を訪ねてくれるわ。穀物も分けてくれる」
 それは母の力もあるだろう。
 母は族長家の出ではなく、他島の戦士の娘だった。どこの島かはディオンは知らなかったが、既に男手はなく、落魄した家の出身らしい。だから、貧しい人々にも目を配る事をディオンにも教えた。恐らく兄にも姉達にも、そうしたのだろう。父は、族長として全ての島民に目を配る事を母から諭されたに相違ない。
 ディオンは何を言って良いか分らなかった。
 恐らく、決定権を持つ自由民の目には、イヴォルダスの方が族長に相応しく見えるだろう。この従兄は、他の同年齢の者よりも体格も良く、見栄えもする。風雅も堂々として既に成鳥のような落ち着きを持っていた。
 対して、ディオンは相も変わらず同年代では最も背が低く、冬星も胸をディオンの頭に乗せて翼を落とし気味にしている事が多い。これは姉達がその姿が可愛いと言うからだとディオンは思っていた。
 訓練では優秀な成績でも、それは戦士以外の者の目に触れる事はまずない。例えディオンが従兄と対等の腕を持っていても、どうしても目立つのは取り巻きが多い従兄だ。それはまた、人望がある証拠にもなるのだろう。
 十八歳になれば、最初の遠征に参加する事になる。それから無事に戻る事が出来れば、従兄と次期族長の座を賭けての勝負になるだろう。兄の時には誰もが異存がなかった。だが、ディオンでは不安だという事だ。特に、兄の死の前から急速に冷え切った叔父との関係は、年数が経つにつれ、部族全体に暗い影を落としているようだった。
 かつて、宴会で叔父が母の出自の貧しさをあてこすった事があった。
 その時には、さすがの父も杯を投げて怒鳴ったものだった。
 そう、例え貧しくとも母は戦士階級の娘であり、それなりの教育は受けていた。陰で配膳の指示をしていたその時の母の哀しげな顔は、今も忘れられない。
 それ程までに叔父が、自分達の一家を憎む理由が分らなかった。いつしか、それまで煩雑に訪れていた叔父一家が急に訪ねて来なくなり、気が付けばこの有様だった。ディオンを可愛がってくれたイヴォルダスの姉も、やはり、今では自分達を嫌っているのだろうか。伯母は他の島から来た非常に大人しい人なので、恐らくは叔父に従っているのだろう。この事を姉達に訊ねても、はぐらかされてしまう。姉達ですら隠そうとしている事を、両親から聞き出すのは無理だった。
「ああ、もう帰らなくては」
 エイリィズが立ち上がった。
「今日は黒鷲は帰らなかったわね。運が良ければ、会えると思うわ。でも、それがあの子にとって、いいことなのかどうかは分らないけれど」
 そう言って娘は籠を手に去ろうとした。
 冬星にとって良い事なのかどうか。
 そのくらい、分っていた。
 顔を合わせない方が良いに決まっている。
 巣立った子を、親は追い払う。
 ましてや、卵の時に盗まれた冬星は、あの黒鷲にとっては自分の領域を侵すものでしかないだろう。
「君は鷲の事を良く知っているんだな」
 ディオンは娘の背に声を掛けた。
「代々、伝えられてきたから」
 何でもない事のようにエイリィズは答えた。
「もし、また会ったら、私に鷲の事を教えてくれるかな」
「鷲のことなら、戦士の方がよく知っているでしょう」
「それは飼い馴らされた鷲だ。野生じゃない。野生の事も知りたい」
「鷲神がそれを望まれるなら、会う事もあるでしょうね」
 そう言ってエイリィズは去った。
 鷲神がそれを望まれるなら。
 野生の群れに混じって飛ぶ事があっても、戦士の鷲は全くの別物だ。だが、鷲神からの賜物には相違ない。望まれぬはずがない。望まれぬのならば、そこには理由があるはずだった。
 望まれる場合にも。


 それからは訓練が終わると、ディオンは給仕の当番でない日には西の崖まで馬を走らせるようになった。
 エイリィズに会える事もあれば会えぬ事もあった。それは仕方のない事だった。そんな時には、一人で崖の黒鷲の巣を見ていた。
 鷲の巫女の知識は愕く程に深かった。経験に裏打ちされたものという意味では戦士と変わらないだろうが、野生の鷲の生死を見つめて来た冷静な観察にはディオンも舌を巻いた。戦士は、自分の鷲に関してはどうしても冷静ではいられない部分もあった。
「しょっちゅう、馬を駆っているそうだが、一体、何処へ行っているのだ」
 ある新月の夕べ、家族で食事を摂っていると父がディオンに訊ねた。「好いた娘でも出来たか」
 ディオンは口にしていた麦芽酒(エール)を危うく噴き出すところだった。
「冬星の親と思しき鷲を見付けましたので、様子を見に行っているだけです」
 エイリィズを異性として好きだとかいう感情はなかった。だが、鷲の巫女に会っていると言えば、誤解されるのは分っていた。
「黒鷲の巣を見付けたか」父は感心したように言った。「冬星以来、あの巣からは採卵出来ていないのは知っているだろう。あれはやはり、素晴らしい鷲だ」
「はい。しかし、それでも兄弟殺しを止める事は出来ないのですね」
「そうだな、勿体ないが、仕方のない事だ。黒鷲は一つの巣から一羽、というのが、鷲神の定められた摂理だ」
 厳しいが仕方がない。弱くては生きては行けない。だから、冬を越せるだけの獲物を捕える事の出来ない若鳥や老鳥は淘汰される。それは北海の民とても同じだ。
「鷲の巫女には会ったか」
「いいえ」
 ディオンは父に嘘をついた。口に出した言葉は戻らない。白を切り通すしかなかった。好いた娘だと思われるのは嫌だった。
 だが、父の関心はそれ以上ではなかった。むしろ、姉達の方がディオンに詰め寄った。
「好きな()ができたの」「本当なの」
「そんな訳ないでしょう。私は今、訓練で精一杯なのに、好いたの何のと言っていられませんよ」
 ディオンは言った。
「本当のことおっしゃいな」
 リグルが言った。
「私の事よりも、姉上はどうなんですか。集会に良い男でもいましたか。色々と物色されていたのではないですか。島の戦士ではお気に召しませんか」
「声変わりも中途半端なくせに、生意気な子ね」
「姉上と一つしか違わないでしょうが」
 だからこそ、諍う事も多い。
「あなたたち、いい加減にしなさい」母が言った。「いつまでも子供のように」
「母上、父上との馴れ初めをお聞かせ願えませんか。そうすれば姉上も少しは大人しくなるでしょう」
 蜜酒を呑んでいた父がむせた。
「ディオン、親をからかうものではありません」
 そう言って、母は父の背をさすった。酒のせいなのか、むせたせいなのかは分らなかったが、父の顔は赤かった。むしろ、母の方が冷静だったので、逆の反応を予想していたディオンは内心、愕いた。
「私もそれを聞きたいわ」
 リグルは言った。
「お父さまは、困るみたいね」もう一人の姉、デリアースが笑った。「なら、ぜひともおうかがいしたいわ」
「あなたたちは」母は呆れたように言った。両親ともに、この姉達の扱いには困っている。「少しは人の話も聞きなさい」
「姉上達の事ですからね、お話しになるまで父上も母上も安穏としていられませんよ」
 自分から話を振ったのだが、ディオンは素知らぬ顔で言った。姉達が両親の話を聞きたがっている以上、自分は安泰だった。この姉達の手に掛かったら、その気もないのにある事にされてしまいかねない。
「そのうちに、ね」
 母は言ったが、姉達は引き下がらなかった。
 居心地が悪そうにしていた父はやがて、「少し風に当たって来る」と言って席を外した。
「お父さま、お逃げになるの」
 リグルは言ったが、父は答えなかった。
「お父さまはお逃げになったけれど、お母さま、ねえ、教えてくださいな」
 女という生き物は、どうしてこう色恋沙汰に興味を持つものなのだろうかと、ディオンは思った。自身は全く、そのような事に興味はなかった。だが、両親の事は気になる。
 しかし、まあ、仕方のない事なのかもしれない。歳の近い長姉はもう嫁に行ってしまったのだ。次はデリアース、リグルと毎年のように結婚が決まってもおかしくはない。集会で見染められたかもしれない。愛だの恋だのと言えるのは、今の内だけだ。
 姉達に袖を引かれて話をねだられ、母は「仕方ないわね」と溜息をついた。
「そのかわり、一度だけですからね」
 そう言って姉達に念を押した。その言葉に、姉達は嬌声を上げた。
「わたしの島での集会の時でした」母が話し始めた。「殿は、わたしの父と兄とがなくなったことをお聞きになって、訪ねてくださったの。兄は族長船の戦士で殿とは親しかったらしいのよ。でも、兄の死から程なくして父も病に斃れ、残されたのはわたしだけだったの。戦士階級とは言っても、男手のない家というのは、どうしようもないものだったわ。父がわたしに残してくれた結婚の為の財産も、わたしの哀しみに紛れて後見のはずの親戚が持って行ってしまったし、十六歳の娘ひとりで暮らして行くのは大変だったわ。もう、だめかもしれない、という時に殿がいらしたの。わたしの窮状を見て憤慨して下さったわ。そして、わたしの後見をあなたたちのお祖父さまに頼んでくださって、わたしはこの島にきたの」
「では、いつ、ご結婚を決められたの」
「さあ、でも、求婚してくださった時には嬉しかったわ。とても素晴らしい方だと思っていましたから」
 姉達はくすくすと笑っていた。
 分ったような分らないような話だ、とディオンは思った。
 そして食事を済ませると、そって広間を出た。
 外へ出ると夜の空気が気持ちよかった。
 近くの垣根に父がいた。
「全く、女というものは(かしま)しい。娘など、一人で充分だな。で、どうだった」
 ディオンの姿に気付くと、父はそう呟いた。
「私には良く分りません。しかし、父上から母上に求婚されたのでしょう」
「まあな。あれは摑み所のない女だ。おっとりして頼りないのかと思えば、案外としっかりとしている。ああのまま島に置いてけば、自分がどうなっていたかも知らんだろうがな」
「どうなっていたのです」
 ディオンは愕いて訊ねた。
「先妻を殴り殺したという噂のある戦士の元へ後妻に入るか、裕福な商人の妾になるかのどちらかだ」
 胸が、痛んだ。
「父上は母上を憐れに思われたのですか」
「憐れみではない。私の親しかった勇士の妹御が、そのような目に遭う謂れはないと思った。仮にも族長船の戦士だ。それも親子揃って。それが貧しいままに捨て置かれる事ほど、理不尽な事はあるまい」
 まだ、父の中ではその時の事が燻っているようだった。だからこそ、男手のなくなった家にも父は手厚いのかもしれないと、ディオンは思った。
「まあ、あれは知らなかったようだが、あれの兄からは、嫁にどうだという話もあったしな」
「それを守られたのですか」
「姉達のように追求するな」
 鷲の一族の族長は顔を背けた。「お前も成長すれば分る。我々、鷲の一族の戦士は特に、そういった事は苦手なのだ。まあ、海王もすぐに気に入ったようだったし、最初に見た時には白い槿(むくげ)の花のようだと思った、とだけは言っておこう。だが、これは絶対に姉達には言うなよ」
 そういうものなのか、とディオンは思った。自分はまだまだ子供なのだろう。十八で一人前の戦士に認められたとしても、きっと、色恋には早いのだろう。白い槿の花のよう、という喩えを聞いて分らないでもなかったが、ぴんとはこなかった。
 戦士の訓練も半分まで来ていたが、何も変わってはいないように思えた。
 むしろ、冬星の方が成長しているだろう。
 かつてはあれ程大きく見えた父の海王も、冬星の横に並ぶと小さく見える。
 そして、普通は雄に対して尊大な態度を取る雌ながら、冬星は年長の海王には、飽くまでも若鷲として礼を尽くしているように見えた。餌を与えられても、海王が済ませるまでは嘴をつけない。無駄に羽ばたかない。
 そういう姿を目にする度に、冬星の頭の良さを思い知らされた。
 自分でない誰かがこの鷲を使っていたならば、もっと伸びるのではないかと思われた。
 だが、冬星が懐いているのはディオンだった。一度築かれた絆を壊す事は、死を以てしか出来ない。それとても、兄の青龍のように人間が先に死ねば、鷲は後を追う。野生で生き続ける訳ではないのだ。
 そして、鷲は自分を映す鏡だった。
 使う者の人間性が鷲にも現われると言われている。何も人格者たれ、という事ではないだろうが、それは恐ろしい事だった。鷲を見れば、それを使う者の隠された面まで他の戦士に知られる事になる、という事だ。
「私は、お前に族長を継いで欲しいと思っている」父は言った。「お前は、真面目だ。真面目すぎる程だ。何でも真剣に考えてしまうきらいはあるが、若い頃はそれで良い。大いに考え、悩む事だ。自分の弱さを知るのも、大事な事だ。それでなくては、他人を理解し、裁定を下す事は不可能だ。そういった様々を、お前には見習いの間に経験して貰いたい。そして、大きな人間になれ。私よりもな」
 父からそのような言葉を聞くのは初めてだった。
 そう、父も間もなく五十を迎える。普通の戦士ならば引退の時期だ。だが、族長である為に、それでも遠征を率いて海に出る。ヘルニを嫁に出した事で少し弱気になっているのかもしれない。デリアースとリグルにも打診があったというのだから。同族の戦士であれば良いのだろうが、こればかりは分らない。
「今年中にデリアースの婚姻が纏まるだろう」父は溜息をついた。「全く、娘は持つものではないな」
「姉上は、どちらに」
 ディオンは思い切って訊ねた。
「吹雪トリグヴィ殿の遠縁で、族長船の舵を任されている戦士だ」
「――良いお話しですね」
「そうだ、舵取りは名誉ある役目だからな。見目麗しいとはいかないかもしれないが、人間的には信用のおける若者だ」
 暫しエルディングは沈黙した。そして、ディオンに言った。「次々と姉達がいなくなるのは、お前も寂しかろう。リグルには同族の誰かを世話してやろうかと思っている。あれでも戦士の中では結構、評判は良いのだからな」
「…相手が可哀想な気がしますが」
 ディオンの言葉に父は笑った。
「まあ、結婚とはそういうものだと諦めて貰うしかないな。まだ早いが、お前もそうだ」
「父上の宜しいように」
 全く興味の湧かないディオンはそう言った。
「好いた娘がいるならば嫁に貰えば良い。周りが勝手に決めるのは、男の場合は宜しくない。鷲が認めなくては駄目だ」
 その言葉には、何故か苦々しいものが含まれていた。


 エイリィズに会うのはある意味、楽しかった。
 鷲の話をし、共に鷲達に小魚を投げてやる事もあった。
「どうにもならない魚でも、鷲は喜んでくれるからいいわ」エイリィズは言った。「本当はもっと、大きなのを振る舞ってあげられればよいのだけれど」
「別に餌付けをしている訳ではないのだから、これでも充分だと思うが」
「冬に死んでいく鷲を見たくはないわ」
 それはそうだろうとディオンは思った。
「わたしたちがお目こぼしをもらうから――」
「お目こぼし…」
「こうして集まった魚の中から、まだ食べられる大きさのものを抜き取る事よ」
 それは、本来ならば許される事ではなかった。鷲神への捧げ物に手を付けるなど、あってはならない。
「そうしなければ、わたしたちは生きてはいけないかもしれない。母さんが生きていた頃には、まだましだった。でも、死んでからは兄さんがどんなに頑張っても、まだ十七だもの、妹と弟を食べさせるのが精一杯だわ」
 ディオンは黙って聞いているしかなかった。毎晩のように開かれる酒宴でどれ程の無駄が出ようと、誰も気にしない。鷲にも犬にも、たっぷりと骨付きの肉が与えられる。
「どうすれば、村の暮らしは良くなるのだろう」
「それは海神の考え一つだわ」エイリィズは肩を竦めた。「いつも大漁なら、貧しくはないでしょうね。海豹がもっと来てくれてもいいわ。でも、大抵はこの崖下だから、漁自体が難しいし」
 結局、ディオンに出来る事はない。
 父が穀物を届けているだけでも、西の果ての人々は喜んでいるという。ここでは殆ど耕作地はないからだ。他の営巣地の鷲の巫女には会った事がなかったが、機会があれば父に訊ねてみようとディオンは思った。
「でも、今度の夏至祭は五年に一度の大祭だわ」エイリィズが明るく言った。「少しは兄さんにも楽しみは必要だと思うの」
「それは良かった」
 鷲神の大祭――前回は夕刻にはさっさと引き上げさせられていたので、余り楽しめたとは言えなかった。それだけに、ディオンも今回は楽しみだった。
「確か、巫女が皆で踊っていたように思うのだけど」
「そうよ」エイリィズは声を弾ませて言った。「前の時には母さんが出たわ。わたしは母さんから何度も聞いたの。鷲神の大祭。戦士達の鷲が、当歳の子以外は老いも若きも勢揃いするのよね」
「その為の訓練の最中だ」
 正直言えば、冬星は訓練の必要はないくらいだった。普段は、ぐたあと頭に体重を乗せる冬星だが、訓練となると途端に、ぴしりと良い姿勢を保つ。頭が良いのは重々承知していたが、こうなるともう、自分が甘く見られているのではないかと疑いたくもなった。
「あの子なら、大丈夫でしょう。どの鷲よりも大きくて立派だもの」
「私がちびでさえなければね」
「そんなことを気にしているの」エイリィズは笑った。「そのうち伸びるわよ。だって、あなたのお父さんは、あんなに立派なんですもの」
「私は母に似たんだ。骨が圧迫されて、あいつの重さで背が伸びないかもしれない」
「大丈夫よ。そんな細かいことにこだわる必要はないでしょう。見映えを気にするのは、見栄よ」
 それは分っている。だが、やはりイヴォルダスと自分とを較べてしまう。誰も見目の悪い者を族長には選びたくはないだろう。がっしりとしたイヴォルダスは、大人のように堂々としている。
 父が自分を族長にしたがっていると改めて知って、ディオンは困惑していた。どうしても、その地位に対して執着が持てなかった。
 今でも、そうだ。
 なりたい者にくれてやればいい、という考えに変わりはない。地位に貪欲なその者は北海の戦士としても一流であろうし、人を率いる力もあるだろう。また、人はそういう者に魅力を感じるものではないのか。
 ロスキルが第一級の戦士でありながらも主流になれないのは、そういう欲がないからだろう。その剣術や体術の教えのように、他人に勝りたい、という所がなかった。
 自分も、だから、戦士として主流たり得ないであろう事は、ディオンも感じていた。
 兄はどうだったのだろうか。
 ふと、ディオンは亡き兄を思い出した。
 兄も戦士としては主流ではなかった。だが、誰もが一流と認め、次期族長になる事に反対はなかった。
 強力な競争相手がいなかったからなのかどうかは、分らない。それを知るにはディオンは幼かった。ディオンを最も可愛がってくれたのも、兄だった。
「皆で祭りに来るのか」
 兄の思い出を振り払おうと、ディオンは言った。最初に自分が乗り越えなくてはならないのは、この兄だ。
「朝早くにここを出ないと間に合わないでしょうけど、弟も妹も文句は言わないと思うわ」
「まともに祭りに参加するのは初めてだから、楽しみだ」
「わたしもよ」
 エイリィズは笑った。
 

 祭りまでは慌ただしく過ぎた。族長集会と鷲の大祭とが重なる事は滅多にないので仕方がないのだが、見習い達はずっとこき使われっぱなしだった。その事で不平や不満を言う者はなかったが、それでも、そういった負の感情が溜まっているのがディオンには分った。
 大祭が終われば、それも解消されるだろう。だが、見習い達の感情はそのまま鷲のものとなり、祭りの為の訓練は遅々として進まなかった。すると、それが今度は指導する戦士の苛立ちに繋がり、何もかもがどす黒いものに覆われて行くようにディオンには思われた。
 これで、本当に大祭を行っても良いのだろうかと、不安にもなった。神を寿(ことほ)ぐのに、嫌な感情に満ちたこの雰囲気を持ち込む訳にもゆくまい。
 くたくたになるまで何度も儀式の練習をさせられ、日暮れになってからようやく解放される毎日だった。だが、ディオンには焦りはなかった。冬星が何でも完璧にこなしてくれるので、ディオン自身の負担が少ない事も大きかった。冬星に手間を取られない分、自分の事に集中していられた。
 三歳ともなれば、鷲の個性もはっきりとして来る。
 他の若鷲とは異なり。冬星は年長の鷲の行動を良く見ていた。そして、そこから学び取って模倣するのが抜群に巧かった。その代わり、ディオンの指示をきちんと見ているのかどうかは怪しいと思う事もあった。実際、ディオンの指示が誤った時でも、平然と正しい動きをする。
 その極北にいるのが風雅だった。この鷲はイヴォルダスの命令には忠実に従うが、間違った指示にも従う。それを矯正するのは一筋縄ではいかないようだ。
 二羽の間に他の若鷲達がいるが、差はそれ程ある訳ではない。要は二羽が極端すぎるのだ。
 だが、飄々としている冬星に対して、風雅は並々ならぬ敵愾心を持っているようだった。まだ成鳥ではない二羽の間には、雌雄は関係なかった。近くの止まり木に据えるだけでも、風雅は後頭部と首の羽を逆立てて威嚇するので、厄介だった。
 まるで、イヴォルダスのようだ。
 そう思う事も多かった。
 やはり、鷲は使う者の鏡なのだという事を改めて思い知らされた。
 だが、自分と冬星はどうなのだろう。
 冬星の方が、そういう意味では大人のようにディオンには思えた。何ものにも心を煩わせる事もなく、常に自然体でいる。そのようになりたいと思いながらも、つまらぬ事で一喜一憂する自分に気付いては、自己嫌悪に陥る事も少なくはなかった。
 そんなディオンをさえ、冬星は冷静な目で見つめている。それは決して責めるのでもなければ、馬鹿にするのでもない不思議な目だった。雛の頃から全てを見透かすような目をしていた事から冬星と名付けたのだが、そんな沈着な冬星も、甘える仕種は相変わらずだった。
 余程信頼しているのだろうとロスキルは言うが、三年目の若鷲に甘えられるのは気恥ずかしいものがあった。他の鷲は、そのような事はしない。せいぜいが、髪や髭を繕う程度だ。それも愛着の表現には相違ないが、決して甘えている訳ではない。信頼の証である。
 ようやくの事で大祭の訓練が終了したのは、もう、残り数日というぎりぎりだった。戦士長が頷いた時には、ディオンは心底、ほっとした。
 館では、姉達が祭りの衣装の事で夢中だった。
 華やいだその笑い声を、去年まではうるさく思っていた。そして、部屋に呼び込まれて一々、似合うかどうかを訊ねられるのも煩わしかった。
 溜息をつき、ディオンは姉達に見つからぬようにそっと通り過ぎようとした。だが、目ざといリグルにすぐに見付かった。
「待ちなさい、ディオン」
 またぞろ衣装云々の話が始まるのかと思ったが、今年は違った。
「冬星をよこして」
 用があるのはディオンではなく、冬星のようだった。
「何をなさるのです、姉上方は鷲に用はないでしょう」
「おいで、冬星」
 デリアースが部屋の中の卓子を軽く叩くと、冬星は大人しく従った。羽ばたきによって起こる風が部屋の中を散らかしたが、姉達はそんな事にはお構いなしだった。
 優雅に冬星が卓子に舞い降りると、デリアースはその頭を撫でた。嬉しそうに目を閉じて首を傾げる冬星は甘え上手だとディオンは思った。姉達は海王に対しては決してそのような事はしないのに、冬星には何をしても平気だった。
 それが若いからなのか雌だからなのかはディオンには分らなかった。元々の性格なのかもしれない。雌はとにかく、気が強いと言われる。特に絆を結んだ戦士との間に誰かが入り込むのを嫌がる傾向がある。だが、冬星は家族に対しては全く、従順だった。もみくちゃにされようと、困ったような目をしながらも大人しくしていた。
 そういえば、とディオンは思い返した。エイリィズが触れても威嚇する事はない。鷲の巫女はやはり、特別な存在なのだろうか。
 鯱殺しソヴァルタも、そうだった。だが、あの族長は自らを海神の民と名乗り、海鷲はその眷族と言った。そして、冬星ばかりではなく、海王にも触れていた。
 普通、戦士同士でも他人の鷲に触れる事はまずない。胸筋の着き具合を調べる(しし)当てにしても、大抵の見習いは子供の頃から父親の鷲を触らせて貰って憶えるものだ。父親や兄のいない者は、指導の戦士に自分の幼鳥や若鳥を触って貰いながら憶えるのだが、丁度良い肉付きになったあたりから、鷲の方が他人を拒否し始める。それは、決して悪い事ではない。それが、当然なのだ。
 家族だから我慢しているに過ぎないのだという事は、海王を触らせて貰っている内に気付いた。だが、冬星にはその我慢がないようにディオンには思われた。海王は父に促されなければディオンには扱えなかったが、冬星は今のように呼ばれただけで自ら飛んで行ってしまう。家族に対しては全く、警戒心は持っていないようであった。
「ほら、できたわよ」
 リグルの声にはっとしてディオンは顔を上げた。そして、呆気にとられた。
 卓子の上には、姉達の衣装の端切れや紐で飾り立てられた冬星がいた。別に困った様子もなく、むしろ、どうよと言わんばかりの自慢げな風体に、ディオンは言葉もなかった。
「女の子ですものね、可愛くしてあげたわ」
「冬星は姉上の玩具ではありませんよ」ディオンは言った。「私の鷲です。雌とは言っても、それでどうしろと言うのですか」
「これで大祭に出たら目立つわよ」
「恥をかかせたいのですか。それでは飛べないでしょう」
「面白くないわね、弟って」
 リグルも負けてはいなかった。「別にこの子は嫌がらなかったわよ」
 デリアースも頷いた。目眩がした。
「もう、いいですから。気の済むまで冬星で遊んでいて下さい。私は広間へ行きますから」
 姉達はその言葉を待っていたかのように、さっさとディオンを追い出した。
 ディオンには、冬星がどう思っているのかを確かめる時間もなかった。だが、迷惑なら逃げて来そうなものをそうしなかったのは、嫌だとは感じていないという事なのだと思わざるを得なかった。
 冬星の行動も性格も、ディオンには謎だらけだった。それでも絆が結べているのかと不安になる時もあった。だが、ロスキルは笑い飛ばす。十五くらいで全てを理解するのは無理だ、と。後三年、せめて十八になるまでに分れば上等だとも、言われた。
 鷲の思考はそれ程複雑でないにしても、人間とは大いに異なっている。ましてや黒鷲ともなれば、使った者も少なければ記録もない。普通の鷲ですら理解するのに六年はかかるのに、黒鷲ならばそう簡単にはいくまいと言うのだ。殊に冬星は扱い易すぎるとも言って良い程の鷲だ。その能力がどこまで伸びて行くのかは、誰にとっても未知数のようだった。
 それにしても、あんなに飾り立てられて少しは迷惑がれば良いのに、と思わずにはいられなかった。遊ばれても平然としている冬星は、見るに忍びなかった。
「あら、ディオン、冬星はどうしましたか」
 母がディオンに気付いて訊ねた。
「姉上達が寄ってたかって遊んでいます」
「あの子は優しいですものね」
「優しい、ですか」
「あの子はとても気性のよい優しい子ではありませんか。気付かなかったわけではないでしょう」
「それが、良い事なのかどうかは分りませんが」
 ディオンは正直に答えた。
「あら、それはとてもよいことだわ。あの二人も、遠からずお嫁に行くでしょう。他の島に行った時、きっと、楽しく優しい思い出として冬星は残るでしょうね」
 そんなものなのだろうかと、ディオンは思った。それを分って冬星が為すがままになっているのだとすれば、あの若鷲はどれ程賢く、また人の心を読む術に長けているだろうかと思わずにはいられなかった。
「しかし、冬星はまだ三歳です。まだ私に甘えてくる子供です」
「親から独り立ちした時点で、ディオン、あの子はあなたより先んじているのですよ」
 そう、自分はまだ親がかりだ。だが、皆、そうではないか。
「人間の基準で鷲を見てはならないと、殿から教わったでしょう」
 それは確かだ。だが――
「それで他の鷲の中でやっていけるか、心配なのです」
「あなたが心配したところで、どうにもならないことでしょう」
 それ位は分っていた。
「大丈夫ですよ、心配しなくても」
「しかし、母上は鷲使いではありません」
 つい、きつい口調になってしまった。
「そうね」母は微笑んだ。「それでも二十年以上、鷲と共に暮らしているのですから、あなたよりは鷲については知っていましてよ。それとも、あなたは冬星を独り占めしたいのにできないから怒っているのかしら」
 その言葉には何も返せなかった。
 館でのその日の宴会に連れて来られた冬星は、姉達が運ばせた丁字の止まり木に止まっていた。
 飾り立てられ、それでも堂々としていたが、戦士長や船長達も集まる今宵の饗宴の良い酒の肴だった。それを分ってか分らずか、冬星は知らぬ振りだった。
「全く、うちの娘共ときたら、碌な事をせんな」
 給仕に回った時、父は苦い顔をしていた。「お前の鷲が大人しいのを良い事に、したい放題だ」
「父上から、何とかしていただけませんか」
「馬鹿を言うな。あの二人に掛かったら、墓穴を掘るだけだ」
 本当に、そうだ。
「しかし、さすがの冬星も懲りたのではないかな」
「どうでしょう」
 本当に嫌ならば、とっくに暴れるなり叫ぶなりしているだろう。それに、あのような布切れ、簡単に引き裂けるはずだ。
「子供過ぎて意味が分っていないのかもしれませんね」
「黒鷲の事は、残念ながら分らん」父は正直に言った。「だが、あれは頭が良いからな。ほら見ろ」
 他の鷲が不審がって布を引っ張ろうとするのを、冬星は脚で防御していた。
「姉共が楽しんでいたのを分っているのだろう」
 ディオンは溜息をつくしかなかった。明日が、憂鬱だった。


 案じていた通り、翌日にはディオンと冬星とは宴に給仕に来ていた見習い戦士達に揶揄われる事になった。そして、招集されなかった者にさえ、それは広がっていた。さすがに年下の者達は遠慮していたが、隠れた笑いは一層、胸に突き刺さった。
 酔っ払いは仕方がない。戦士長や船長達も、あのような珍奇なものを見たのは初めてだろうが、訓練の場ではそのような事は一切、口にしない。それが本来だろうとディオンは思った。それに、あれは自分がした事ではない。姉達によるものだった。
 だが、同じ見習いの身分では容赦がない。
 知らぬふりをするのだが、内心は穏やかではなかった。
 大祭に向けて集中をしなくてはならない時期なのに、心は乱れ、しょっちゅう叱られるはめになった。
「調子がでないようだな、どうした」
 ロスキルが訊ねて来た。「今更、緊張でどうこうという訳ではないだろう」
 渋々と昨夜の事を話すと、案の定、笑われた。だが、揶揄う笑いではなかった。純粋に面白がっているようだった。
「まあ、そんなつまらん事で一々、お前を笑い者にしようという奴らの事など、放って置くが良い。とは言っても、まだお前の年齢では気にはなるだろうがな。しかし、お前の姉君達も面白い事をするものだ」と、声を落とした。
「ローズルはリグル嬢に気があるらしいが、この話を聞かせると面白そうだ」
 ローズルは戦士長の息子で二十歳の偉丈夫だ。ディオンも悪い印象は持ってはいない。
「愛想を尽かされるでしょうね。子供っぽ過ぎて」
「さあて、鬼が出るか蛇が出るか」
 面白がっているのは明白だった。別にディオンは姉の縁談に興味があった訳ではなかったが、まさか、身近に姉に気のある人物がいようとは思いもしなかった。愛想尽かしをされなければ、一気に話が進む事も有り得た。
「まだ、姉は十六ですよ」
「十五を過ぎれば同じだろう。今の内に話を付けておいた方が、何かと安心じゃないか。お館様の娘子に手を出す馬鹿がいるとは思えんがな」
「鷲が認めなくては駄目なのでしょう」
「そうだな」ロスキルの顔が少し曇ったようにディオンには感じられた。「だが、リグル嬢なら大丈夫だろう。飾らぬお人柄のようだしな。物怖じもしない」
 飾らなすぎ、物怖じしなさすぎだと、ディオンは思った。この祭りでは、何枚の化けの皮を被るのだろうか。
「だが、若造共は少し教育が必要かもな」
 ロスキルは言った。「余り調子に乗るのは良い事ではない。それに、遠征では仲間意識が重要だ。誰かを標的にするのは若い頃にはありがちな事だが、お前達は後三年で遠征に加わる身だ。そろそろ、そう言った子供じみた真似は止めなければいかん。何か気付いた事があれば諫めるよう皆にも伝えておこう」
 真剣に自分の言葉を聞いてくれる大人の存在は、ディオンには有り難かった。しかし、その反面、従兄の事を考えると気が重くなった。このまま余りに対立が過ぎると、どちらかが遠征から外される可能性もある。族長とその弟の子同士での、そのような不名誉は避けたかった。弾かれるのは、恐らく孤立している自分だろう。父の顔に泥を塗るくらいならばまだ、大人達の目を盗んでの嫌がらせの方がましだった。
 対立が、他の同年代の見習いの中でも、ままある事は、この三年間の間に年長者を見ていると自然に分る事だった。だが、どれも自分達のように深刻ではないように思うのは、気のせいだろうか。今の所、初めての遠征から外された者はいない。こればかりは当事者でないと分らない事なのかもしれない。
 他の鷲に混じって休んでいる冬星には、昨夜の事など全く、意に介した様子はなかった。のんきに欠伸などをしている。どうしたら、あのように泰然としてられるのだろうと思わずにはいられなかった。


 大祭の日は、夜明け前から忙しかった。聖なる木の周辺を整え、祭壇を設えた。それから、巫女達の奉納舞いの準備をした。その後で自分達の鷲の尾羽の付け根に鈴を付け、儀式に備える。若鷲の中には、鈴を煩わしく思うのか、しきりに気にするものもあったが、冬星は平然としていた。
 鷲神の大祭。
 それは戦士達の儀式で幕を開けた。
 祭祀長である族長を中心に、聖なる木の広場を戦士と見習い、引退した鷲持ちの戦士が広場を囲んで聖別する。一様に丁字の柄の長い止まり木を手に、各々の鷲を止まらせていた。当歳の鷲はまだ雛の為に参加は出来なかったが、仕事は山ほどある。
 他の集落から大勢の人が集まって来ているのが、ディオンにも分った。五年振りの鷲神の大祭だ。誰もが興奮気味だった。その中にエイリィズの家族もいるのだろうかと思ったが、すぐに集中し直した。今はそれどころではない。
 楽士が音楽を奏で始めた。
 人々のざわめきが静まる。
 軽やかな鈴の音と共に、鷲の巫女達が輪の中に入って来た。
 祭り用の揃いの衣装を身にまとい、裸足の足首には幾重にも鈴を巻いている。そして、両手首にも。
 母のような年齢の巫女を先頭にして進む。エイリィズは最も若い為か、最後だった。
 なかなか堂に入っている。そうディオンは思った。自分も気を抜いてはならないと改めて思った。ここでしくじっては、儀式を台無しにしてしまいかねない。
 巫女達は聖なる木と族長に向かって(こうべ)を垂れた。エルディングは厳かに頷いた。
 やがて舞が始まると、集中しているのが難しくなって来た。五人の巫女の舞は幻想的で、ディオンはすっかり魅了された。そっと他の戦士を窺うと、似たりだったのでほっとした。
 だが、初めて見るのではないはずなのに、こんなにも美しく、また荘厳なものだっただろうかと思わずにはいられなかった。十歳の子供の心にも、この舞は簡単に忘れられるものではないと思った。人々の中からも、溜息とも感歎とも取れる息遣いが漏れるのが分った。
 鈴の音も指先の動きも、乱れはなかった。ゆったりとしたかと思うと滑らかで素早い動きへと変じる。一羽の鷲かと思えば五羽になる。このような複雑な舞を、いつ、巫女達は練習したのだろうか。
 だが、最も不思議だったのは、舞が終わった時には、自分が見たものの事を全く記憶していない事だった。
 素晴らしかった、というのは憶えている。だが、具体的にどうであったのかは思い出せなかった。これは一体、どういう事なのだろうかとディオンは混乱した。年少の見習達も同様のようであった。あれは、夢であったのだろうかと思える程だった。
 それを鎮めるかのように、族長が空いた方の手を上げ、低く唸った。それに合わせて戦士達も唸り始める。すると、巫女達も不思議な歌を謡い始めた。それはディオンがエイリィズに初めて会った時に耳にした歌だった。
 鷲達が一斉に翼を広げた。
 その動きに、尾羽の鈴が鳴る。
 巫女達が空に手を差し伸べると、鷲達は使い手の合図も待たずに飛び立った。鈴の音が、空へと昇って行く。
 これが鷲神の頌歌だったのだ、とディオンは気付いた。頌歌の始まり、巫女達が空に手を伸べたら鷲を放つように言われていたのだ。だが、その必要はなかった。鷲は、初めてのものまでこの歌に合せて見事に飛んでみせた。
 これが、巫女の力なのだろうか。
 ディオンは、エイリィズが急に遠い存在になったような気がした。
 聖なる木の上で、鷲は旋回している。鈴の音が渦を巻く。頌歌が終われば、今度は戦士が合図をして呼び戻さなくてはならない。
 エイリィズは、ディオンの見る限り、あの西の崖で見たように楽しげではなかった。目を閉じて、ただ真剣に不思議な歌を謡い続けているようだった。
 まるで、別人だった。
 儀式が終わり、全ての務めを果たしたら共に少しは祭りを楽しめるかと思ったが、到底無理そうだった。貧しい漁民とは言え、エイリィズは巫女なのだ。気安くしてはいけない存在なのだ。
 腹を割って話せる友を失った気がした。
 ディオンは再び儀式に集中した。
 消え入るように、頌歌が終わる。
 戦士達は丁字の止まり木を軽く差し上げ、下ろした。
 すると、鷲達が自らの絆の相手の止まり木目指して一斉に降りてきた。これは大きく遅れを取らなければ、ばらばらの動きでも良かった。空で鳴り響いていた鈴の音のが、近くなる。それでもディオンは前を向いていた。
 見習いの鷲は若く、使い手のへの反応も遅くなりがちだが、冬星は空気を切り裂くように降りて来て、真っ先に止まり木に止まった。人々の間から、愕きの声が上がった。
 海王が他の鷲に遅れを取るのは初めてだった。
 戦士達の愕いたような目が、自分を見ている事にディオンは気付いた。
 だが、族長である父は微動だにしない。海王もだ。
 別に族長の鷲より先に降ろしてはいけないという命はなかったのだが、それは常に海王が先頭であり、他の鷲は遠慮をしている節があったからだ。強さも大きさも海王に勝る雄はいなかった。本来ならば、海王に先を譲るものだ。だが、冬星は一回り大きな雌である上に、最も海王の近くまで行ける鷲でもあった。その性格も知り尽くしているはずだ。それだけに、この行動はディオンにとっても意表を突くものであった。
 海王は一番乗りには拘泥らないと判断したのだろう。
 確かに、海王にはそういうところがある。最も強い雄鷲は自分だという事が分っているのだろう、若鳥や雌には鷹揚な面があった。それにしても冬星は調子に乗りすぎではないかと思ったが、今、それをどうこうする事は出来ない。まだ、儀式の最中なのだ。
 ディオンは再び気を引き締めた。最後の最後でへまをしたのでは、たまらない。
 戦士と鷲に囲まれて、巫女達は再び謡い、踊り始めた。今度は鷲の民の繁栄を祈るものだった。ずっと眺めていたくなるような、美しい声と、舞だった。
 やがて静かに巫女達は舞い終えると、一人ずつ族長の前に進み出て拝跪した。族長は頷き返す。そして巫女達は輪より去った。
 戦士は自らの鷲を止まり木から肩に移した。ディオンの両肩に、冬星の重みがずっしりと掛かる。儀式用に肩当ては新調したのだが、新しい革を通してさえ、その鋭い爪を感じた。ある意味、それは安心する感覚だった。
 族長とその副官、戦士長を残してディオン達は広場より退場した。丁字の棒を捧げ持ち、静かに歩んだ。
 人々から少し離れると、皆は一様にほっとした顔になった。
「やったな」
 ロスキルが晴れやかな顔でディオンに言った。
「海王が遅れを取ったのを見たのは、初めてだ」
「でも、良かったのでしょうか」
「別に構わん事だ。決まりはない」
 なあ、とロスキルが他の戦士達に同意を求めると、あちらこちらから当然だという声が上がった。
 いつものように顔を頬に擦り付けてきた冬星の頭を、ディオンは掻いてやった。
「さて、これで役目も終わった事だ。後は祭りを楽しめば良い」
 誰かが言った。
「止まり木を新米に渡すのを忘れるなよ」
 族長達による儀式はまだ続いている事もあり、その言葉に対する笑いは密やかなものだった。
 部族の人々の外から、皆で儀式の終わるのを待った。大祭、と言われるだけあって、供物の量も多かった。何頭もの羊が引き出され、次々と族長の手で屠られて行く。血は大盃に受けられ、聖なる木の根元の祭壇に置かれた。血の臭いに、鷲たちもそわそわし始めていたが、躾けられている為に飛び立ったりはしない。
 犠牲(いけにえ)に続いて、祈りの言葉が始まった。
 一族の繁栄を願い、豊穣と豊漁を祈念する。
 この五年の間に遠征で亡くなった戦士の名も、読み上げられた。その中には当然、兄の名があった。この三年の間に遠くなっていたと思っていた兄の面影が、ディオンの脳裏に鮮やかに甦った。
 そして、あの美しいエリアンドの娘の姿。
 後から聞けば、あの女性は兄の青龍を引き取るつもりであったのだという。だが、青龍は既に亡く、僅かばかりの形見の品と共に帰る事になった。本当は、報せを受けてすぐに来たかったようだ。だが、荒れる冬の北海を航行するのは不可能だ。
 青龍は、あの女性には懐いていたという事なのか。戦士の婚姻には、家の事情だけではなく、鷲の好悪も関係しているのだという事を、ディオンはようやく理解する事が出来た。確かに、他島の女性からすれば鷲は恐ろしい存在だろう。ましてや、それに嫌われたとなると、近寄る事も出来ないだろう。母も、海王が認めた人なのだ。
 自分も、そのような娘を選ぶ事になるのだろうか。
 ふと、ディオンは思った。
 家の為に相手を勝手に決められないで済むのは、大いに助かる。だが、自分にはまだまだ先の話だった。一人前の戦士になる事の方が先だ。
 だが、それはローズルがリグルに気があるのだとしても、鷲の雪牙が認めぬ事にはどうにもならないという事でもあるのだ。リグルの思惑はさておいても。
 その点、外に嫁に行ったヘルニや、その予定のデリアースなどはそのような事を気にしなくても良かった。父は縁談を強いる事はなかったので、当人同士が気に入れば、さしたる問題はなかったのだろう。
「さあて、後は結婚式だけだ。楽しめ」
 年配の戦士が言った。それを合図に、戦士も見習いもそれぞれに散って行った。
 ディオンは冬星を肩に、人々を遠巻きに眺めていた。何をするという当てもなかったし、以前にそうだったように家族と共にいる年齢でもない。
 楽士達の奏でる音楽に、島の結婚式が始まったのが分った。父の族長としての仕事はまだまだ、ある。
「ディオン」
 リグルの声に振り向くと、そこには母と姉達がいた。「あなたでも、ああしていれば一端の戦士ね、まるで」
「余計なお世話です」
「だって、殆ど冬星のお手柄のようなものですものね」
「――喧嘩をしに、いらしたのですか」
「こんないい日にまさか」リグルは笑った。「そんなところにいないで、誰かを誘ったら。あら、でも、誘うような女の子もいないわよね」
 デリアースも笑った。
「別に構わないでしょう。それよりも姉上こそ、誰にも誘っては貰えませんよ、そんな事ばかり言っていては」
「全く、可愛くない弟だわ」
「あなたがからかいすぎですよ、リグル」
 母が言った。「わたしたちはあちらで殿のお役目が終わるのを待ちますが、あなたはどうしますか」
「私はここにいます」
 母の言葉にディオンは答えた。
「では、楽しんでらっしゃい。適当なところで切り上げるのですよ」母は微笑んだ。「あなたも冬星も立派でしたよ」
 その笑みには、どこか寂しげな影があった。兄の事を思い出しているのだろうとディオンは思った。
「有難うございます、母上」
 本当は、姉達の心の中にも兄の事があるのではないだろうか。だが、この祭りは哀しむものではない。死者を悼みながらも、その魂が鷲神と共にある事を祈るものだ。その事を讃えるものだ。
 ディオンは母達を見送った。
 そして、当てもなく人々の中に入って行った。
 自由民も戦士も関係なく、祭りは行われる。埒外にいるのは奴隷のみで、この日も労働とは無縁ではない。
 聖なる木の枝には、戦士達の鷲が止まっていた。だが、冬星はディオンの肩から離れようとはしなかった。どうせ、あそこへ行っても血の臭いを嗅がされるだけで、一滴も貰えはしないのだという事を知っているかのようだった。鷲達への振る舞いは、別に用意されている。犠牲の羊は捌かれ、人間の為に焼かれたその残りが、鷲の分だ。それでも内臓や頭、骨の周りなどで、たらふくになるだろう。
 人混みの中で、ディオンはロスキルを見付けた。だが、子供を連れており、声を掛けるのは止めた。その傍らには女性の姿もあった。奥方だろう。いつも不思議に思うのだったが、遠征の前後に家を訪なっても、子供や奴隷の姿はあっても、奥方には一度も会った事がなかった。人見知りだから、とロスキルは笑うのだったが、戦士の奥方としては奇妙だった。そして、今日も人目を避けるような所があった。
 辺りを見回すと、家族と共にいる戦士も多かった。また、イヴォルダスのように娘に囲まれている者もいれば、逆に男達に囲まれている娘達もいる。
 梢に止まっていた鷲達が騒ぎ始めた。
 羊が捌かれているのだろう。冬星もぴくりと顔を上げた。
「ほら、行って来い」
 ディオンが言うと、冬星は大きく翼を広げて飛び立った。周りから、歓声が上がる。
 あれが海王に勝った鷲だという声もあった。
 手持ち無沙汰のまま、その辺りを歩いた。
 振る舞い酒が出たらしく、杯を手にした男達もいた。
 誰もが上機嫌のようだった。
 その中で、ディオンは一人、祭りの喧騒の外にいた。楽しめとは言われたが、そうする事も出来ず、かといってこの場を離れるのも嫌だった。その理由をはっきりと自覚したのは、エイリィズの姿を見た時だった。
 やはり、共に楽しめる友の存在がなくてはつまらない。
 だが、エイリィズは二人の体格の良い戦士に言い寄られているようだった。その姿は余りにも小さく、強がっているのが分った。
「何をしていらっしゃるのですか」
 ディオンは二人に向かって言った。「その娘は嫌がっているではありませんか、幾ら祭りでも、それは許される事ではないとは思いますが」
 二人は振り向いた。グレンとギッシュ。良く知っている。かなりの使い手だ。
「なんだ、ディオンか」
「見習い風情が、何を言う」
 グレンが笑った。
「祭りは無礼講、しかも鷲の巫女に力を貰うのに、何の遠慮があるものか」
 そう、ギッシュも言った。
「鷲の巫女…」
「お前はまだまだ子供だな」グレンがぐいとディオンの首に手を回して引き寄せた。息からは蜜酒の匂いがした。「鷲の巫女と交われば、鷲神からの力が得られるのだぞ」
 ディオンはグレンの腕を振り払った。腹が、立った。
「その娘は、まだ私と同じくらいではありませんか。例えそうであっても、酷すぎましょう」
「それで銀を貰うのだから、仕方あるまい」
 グレンの言葉に愕いて、ディオンは思わずエイリィズを見た。娘はただ、震えながら首を振るばかりであった。
「無理強いしてでも、加護を得られるとお思いですか。私を子供だというのでしたら、その娘も子供でしょう」
 ディオンも引かなかった。
 グレンとギッシュとは睨み合いになった。如何に正戦士とは言え、脅えたエイリィズを放ってはおけなかった。
 すると、急に二人の戦士は腹を抱えて笑い始めた。
「いや、悪い悪い、少し揶揄っただけだ。幾ら何だって、こんな嘴の黄色い餓鬼を相手にそんな事をする訳はないだろう」
「だが、まあ、お前が侠気(おとこぎ)のある奴だという事は分った。俺達はお前を支持するからな」
 二人はディオンの肩を叩き、猶も笑いながら人混みの中に去って行った。
「何なんだ…」
 ディオンは呆気に取られて二人を見送った。そしてエイリィズに目をやった。まだ、蒼い顔で震えていた。
「大丈夫か」
 ディオンが近寄ると、娘は身を震わせながらも頷いた。
「わたし、知らなかったの」
 消え入るような声で、エイリィズが言った。「わたし、本当に知らなかった」
「何を」
 ディオンが問うと、エイリィズの目に涙が浮かんだ。
「とにかく、ここから離れよう」
 ディオンはエイリィズの腕を引いて人混みから離れ、適当な石に腰掛けさせた。
「何か、飲んだ方が落ち着くかな」
「大丈夫よ」
 決して大丈夫そうには見えなかった。だが、ディオンはその言葉に従う事にした。
 巫女の衣装を身に着けてはいたが、鈴は外し、靴も履いていた。
性質(たち)の悪い悪戯だな。全く、巫女にあんな事をするなんて」
「そうじゃないわ」
 小さな声に、ディオンはぎょっとしてエイリィズを見た。
「そうじゃないの。あの人たちの言ったことは本当なの。わたしも、今日知ったの」
 エイリィズは自らの身体を抱き締めるように腕を回し、ぶるっと大きく震えた。
「年上の巫女たちから、聞いたわ。でも、わたしはまだ若いから、面倒に巻き込まれる前に早く帰れと言われたの」
 鷲の巫女が、戦士に銀でその身を売っている。
 ディオンには俄かには信じられなかった。巫女とは、神聖な存在ではないのだろうか。
「貧しいから、仕方ないのは分っているわ。あの人たちが銀をくれるのなら、それは大きいもの。でも、わたし、母さんもそんな事をしていたなんて、信じたくない。でも、そうなのよ。わたしも、次の大祭には、きっとそうしなければならなくなるのだわ」
「そんな事、嫌なら皆と同じにしなくても良いじゃないか。君の母君も、そうだったのかもしれないだろう」
 ディオンの言葉に、エイリィズは弱く微笑んだ。
「ごめんなさい。本当なら、わたしはあなたとは気安くしてはいけなかったのだわ」
「私は君を最高の友人だと思っている。それは、変わらない」
「ありがとう。でも、そうじゃない。あなたは族長を継ぐ人だわ。さっきの行動でよく分ったわ。だから、もう、友達ではいられない。あまりに違いすぎるのですもの」
「違いすぎる、何て事はない。同じ鷲の一族だろう。そこに、何の違いがあると言うんだ」
 その言葉にも、エイリィズは激しく首を振った。
「友達だと、わたしも思っていたわ。でも、それは違う。あなたとわたしとでは、生きる場所が違いすぎるわ。だから、友達にはなれなかったのよ、最初から」
「エイリィズ、私は君を尊敬している。正直、君の野生の鷲についての知識には愕かされたし、鷲というものを理解するのにとても役に立った。まだまだ、私には知りたい事がある。だから、お願いだ。友達でいて欲しい」
「――子供だったら、よかったのかもしれないわ。でも、これからは違うわ。あなたもわたしも、大人になるのよ。今までのようにはいかないわ。周りがそれを許さない」
「それでも、私は西の崖へ行く。その時には、今まで通りに色々と教えて欲しい」
 だが、そのディオンの言葉にも、エイリィズは頭を振るばかりであった。
 今は混乱しているからかもしれない。そう、ディオンは思った。もう少し時間が経って落ち着けば、考え直してくれるかもしれない。エイリィズはディオンにとっては唯一無二の友人だった。失うなど、考えたくはなかった。
「それは、あなたの自由だわ。でも、前と同じじゃあない。あなたはそう思っていてくれても、わたしは違うわ」
「君の名誉に傷が付くような事はない」
「わたしの名誉」
 エイリィズは愕いたようにディオンを見た。「私の名誉なんて、ありはしないわ。鷲の巫女なんですもの。あなたの名を、気にした方がいいわ」
 ここまで一度も、エイリィズが自分をまともに見てはいなかった事に、ディオンは気付いた。
「私に惜しむ程の名はない」
「後悔させたくはないのよ。わたしには、関わらない方がいい。それだけよ、わたしに言えるのは」
 さっとエイリィズは立ち上がった。その顔には、今までの脅えた表情はなかった。
「ありがとう、でも、あなたのためにも、族長のためにも、わたしに関わるのは止めた方がいいわ」
 そう言うと、エイリィズは人混みの中に姿を消した。
 何だって言うんだろう。
 ディオンは髪をくしゃくしゃと掻き回した。


 ロスキルにさえ訊ねるのは憚られたので、ディオンは父が一人でいる隙を窺って、その日に見た事を質問してみた。
「ああ」父は眉間に皺を寄せた。「ああ、確かに、そのような悪習はあるな」
「悪習、ですか」
「そうだ。恐らくは、鷲の巫女が貧しい事につけ込んだものだろう。何世代か前までは、鷲の巫女は神聖な存在だった。いつの間にやら、そういう事になっているらしい」
「なぜです」
「まあ、お前にはまだ分らんかも知れんが、強さを求める戦士がいるのも確かだ。鷲神の力を宿す事が出来れば、それ以上の事はあるまい。だが、私はそれは、心の弱さから来るものだと思っている。真に強い者は、弱い者を踏み台にしてまで強くなろうとはせんものだ。大祭だけではない。遠征の前にも、そのような輩がいるのだからな、嘆かわしい事に」
「止めさせる事は出来ないのですか」
「その娘には可哀想だがな、男共の力への信仰は強い。私一人の力ではどうにも出来ん事もある。私の勝手な考えにしか過ぎんかもしれんが、神はそこまで残酷ではあるまい」
 苦々しげな言葉だった。
「鷲の巫女とは、もっと誉れある存在でなくてはならん。だが、私の力だけでは、どうにもならん。この問題は、ディオン、お前に引き継ぐ事になるだろう」
 またもや後継ぎの話になった。だが、ディオンは、父が鷲の巫女の事で心を痛めているという事実に安堵した。


 西の崖に行っても、エイリィズはなかなか現われなかった。ディオンを避けるために時間を変えたのかもしれないと思った。だから、その姿を見た時には心底、ほっとした。
 いつものように、エイリィズは鷲に魚を振る舞った。そして、崖の縁にいるディオンに目をやった。だが、その顔に笑みはなく、声を掛ける間もなく走り去ってしまった。
 あの時のエイリィズの言葉から、嫌われた訳ではない事は分っていた。だが、それでも、ようやく得た友を失ってしまったのだという心の穴は開いたままだった。
 ディオンは冬星を呼んだ。そして、肩に降りた鷲の頭を撫でてやった。
「また、二人きりかな」
 冬星は顔を擦り寄せて来た。
 心配するな、と言いたげだと思ったが、楽観はしなかった。いつかはまた、エイリィズと話せる時が来るのかもしれない。来ないかもしれない。あちらのほうが娘である分、ディオンよりも早く大人になるのだ。後一、二年で嫁に行くのかもしれない。そうなった時、自分の存在は誤解を招くだろう。それだけは、避けた方が良いだろうと思った。
 娘は、男よりも早く結婚してしまう。
 嫁に行く――その言葉に、ディオンは先日のローズルとの会話を思い出した。
 お前の姉君は、良いな。
 それを聞いた時にはつい、ローズルの顔を凝視してしまった。
 無邪気かと思えばしっかりとした所もあって…あれは、競争相手が多そうだ。お前からもリグル嬢に宜しく言っておいてくれ。
 リグルは十六だ。エイリィズも次の夏にはそうなる。話の一つや二つ、あったとしてもおかしくはない。
 もし、エイリィズに好いた相手がいるのだとすれば、ディオンの存在は、迷惑なのかもしれない。
 いつまでも子供ではいられない、という言葉の裏には、そのような意味があったのかもしれない。ここらが潮時だ、と。
 だが、お互いにやましい事は何もない。だから、という訳にはいかないのだろうか。
 そっと溜息をつきながら、ディオンは丘を降りた。そして、毎日がこうであっても、自分は懲りずにここを訪れるのだろうなと思った。
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