第5章・成鳥

文字数 48,495文字

 初夏には冬星の羽毛はすっかり黒くなった。
 他の者達の鷲は腰と腿が白く、全体は茶色い。それに比すると、やはり冬星の鴉のような見事な漆黒は異質だった。
 胸筋も厚く、がっしりとしたその体つきには、他の年長の鷲も一目置く程であった。
 孵化より六年。ようやく、成鳥の羽根に変わった。
 そして、ディオンも十八になった。
 背は十六から急に伸び始め、父に匹敵する程になった。線の細いのは仕方のない事であったが、それでも、何とか一人前の戦士の列に加わる事を許された。
 デリアースは二年前、他島の戦士長の息子に嫁した。
 リグルは昨年、結局、ローズルと一緒になった。しょっちゅう顔を見るのでうんざりする程であったが、両親には良かったようだ。毎年のように誰かがいなくなるというのは、生きていてさえも心寂しいものなのだと、デリアースが船出した時にディオンは知った。だから、如何に煩かろうとも、リグルが部族の者を選んだ事を、また選ばれた事を感謝するべきなのだろう。
 ドルファに嫁したヘルニには、昨年、女子が生まれた。父に因んでエルディスと名付けたと聞いた。デリアースも、近く母のなるという。
 正式に戦士に任命された時、正装をしたディオンの姿を見て、両親は少し蒼ざめた。ロスキルに言わせると、普段はそれほどでもないが、正装した(さま)は兄にそっくりだというのだ。
 それは自分のせいではないとは分ってはいても、ディオンは少し哀しかった。両親の心にはまだ、兄の死がそれ程に大きなものなのだと思い知らされた。
 将来を嘱望された長男だった。武芸に秀で、人望も厚く、優しい人だった。だが、今、その座を待望されているのはディオンなのだった。本当に、皆が自分を自分として見てくれているのか、不安になった。兄を知る人々は、自分の中に兄の面影を探しているのが分った。そして、兄はこうだった、ああだったと言う者さえ、あった。
 それは、違う。
 ディオンは言いたかった。兄は兄、自分は自分だ、と。
 ロスキルは決して、兄とディオンを同一視するような人ではなかったが、それでも、相談するのは憚られた。
 こういう時にこそ、心開ける友があればと思わずにはいられなかったが、相変わらず、ディオンははぐれ者だった。
 エイリィズはディオンを無視し続けている。正装で会いに行った時も、何も言わなかった。装飾品の一つも身に着けてはいないところを見ると、まだ、決まった男はいないようだった。どのような貧しい娘でも、恋人がいれば、その証として貝殻や木の腕輪くらいはしているものだ。
 西の崖で、ディオンはこの三年、エイリィズが鷲神への頌歌を謡い、供物を捧げるのを見守って来た。
 明日には遠征へ出発する。
 危惧した事にはならず、ディオンとイヴォルダス、共に参加する事になった。
 イヴォルダスとのいざこざはさておき、どちらかを外すのは無理だと判断されたのだろうか。それとも、次の族長候補はディオンとイヴォルダスの二人なのだから、遠征での働きも考慮しようというところなのだろうか。船は当然ながら別だ。ディオンはロスキルと同じ船。イヴォルダスは叔父の船だ。
 戦士の支持はディオンにあった。それは兄によるものかもしれないとも思う。だからこそ、遠征で自分を見て貰わなくてはならない。族長の地位に何の執着もないのは変わらなかったが、競い合うことを放棄するのは嫌だった。
 返って、イヴォルダスは自由民や、一線を退いた戦士の人気が高かった。がっしりとした体軀は、如何にも族長に相応しく見えた。
 人が人をどのように評しようとも、それはその人物の本質に迫った事になるのだろうか。
 ディオンは父の期待が自分に向けられていると知ってから、ずっとその事を考えて来た。
 選ぶ人々は、本当に自分の事を知ってくれているのだろうか。
 成鳥になっても頭にくったりと身体を預ける冬星は、常に姿勢を保っている風雅に較べると滑稽な事も分っている。だが、それだけで本当にこの二羽の本質が分るものなのだろうか。資質が見抜けるものなのだろうか。
 今回の遠征は、その為のものであるように思えた。
 修羅場での人間性を見ようというのだろう。
 夏の間、遠征での心得を叩き込まれた。
 実戦ではその通りには行かぬだろうか、という前置きで作戦も聞いた。
 同期の誰もが興奮を抑えられないでいる様子を、ディオンは一人、醒めた目で見ていた。
 それは、既に兄を亡くしているばかりではないだろう。そういう者ならば、他にもいる。恐らく、それが自分の本質なのではないかと思った。
 遠征という言葉を用いても、結局は掠奪だ。
 物と、人の。
 穀物は冬の間の食糧の足しになる。
 金銀は交易島での物資の調達に必要だ。
 人間は、奴隷として交易島で売るか、この島まで連れて帰るかで異なる。高く売れそうな者と、役に立ちそうにない者は交易島で奴隷商人に売られる事になる。そこそこの者が島に来る事になるが、その中でもまた、選別が行われる。家畜と一緒だ。
 それが当然の世界に済むディオンだったが、かつて鯱殺しのソヴァルタから、自分達は穀物船と奴隷船を専門に襲撃するのだと聞いて愕いた事があった。大量の奴隷をどうするつもりなのかと訪ねても、不思議な含み笑いが返って来ただけだった。もしかしたら、再び交易島で売るのかもしれない。
 他の島の事は深く考えても仕方のない事だった。北海の七部族はそれぞれに異なっている。交易島で会うこともあれば、不思議な事に、広い海上でも出会う事もあるという。互いの襲撃場所の確認と情報交換の為に族長集会が開かれる。七つの部族の一つでも突出したり、なくなりでもすれば、この北海全体の均衡が崩れるであろう事が共通の認識だというのも、父から教わった。
 未知の海、未知の地へと赴くのは、確かに楽しみだ。だが、そこには必ず血腥い出来事が付きまとう。今回、拠点とする無人島の事も聞いた。かつて、何人もの臆病者が吊されたという曰く付きの島だ。兄が息を引き取り、葬られたのもその島だ。
 そのような島が拠点に選ばれたのは巡り合わせに過ぎない。襲撃場所や拠点の島は占いによって決まる。今年は暫く使われていなかったその島が選ばれた。よりによって、自分の初陣の年、族長の後継者を決める年に。それを何かの前兆と捉える者もいる。
 自分は良い。だが、父にとっては辛い思い出の場所だろう。
 ディオンの遠征の為の準備は、母が全て調えてくれた。新しい衣服に長靴、予備の肩当てや剣帯の他に、療法師がいるというのに、薬草までも長櫃に入れられた。冬の始めの北海を戻るので、海豹(あざらし)の外套も入っていた。
 その一つ一つを、母はディオンに見せた。予備の武器や防具はディオン自身が用意した。そこに記録を付ける為の冊子と携帯用の筆記具を加えた。
 携帯する武器は、長剣と片刃の小太刀、短剣、手斧、それに弓矢だった。これは明日、身に着ける。
 この年に入ったばかりの見習い戦士達がディオンの長櫃を運んで行ってしまうと、母は深い溜息をついた。
 もう、明日には出発だった。だが、ディオンにはそれが現実の事とは思えなかった。
「ディオン」
 殆ど物の置かれていない部屋で、母は言った。
「何でしょうか」
 母は、ここ数日で痩せたようにも見えた。
「お願いよ、絶対に帰って来てちょうだい。何があってもよ」
 いきなり、母はディオンを抱き締めた。ディオンの方が最早、母の背を上回っているにも関わらず。
「母上、ご心配なく、大丈夫です。必ず戻りますから」
「ヴァルガもそう言って、戻りませんでした。わたしの兄も」
 母の声は涙声だった。「北海の女らしいくないと言われようと、わたしはあなたまで失いたくありません。子を二人まで、失いたくはないわ。殿は族長ですから、わたしも覚悟はしています。でも、ああ、あなたもヴァルガに似て…いえ、それ以上に優しい子だから、心配でならないのです」
「自分の生命は自分で守るよう、訓練されていますから。それに、兄上は不運だったのです」
「生命を落とすのは、戦場(いくさば)だけとは限りません」
「ええ、分っております。ですから、どうか、無事を祈っていて下さい」
「もちろんですとも。毎日、殿とあなたの無事を祈ります。海王と冬星の無事も、祈っておりますとも」
 母は、ディオンの顔を両手で挟んでじっと見つめた。その目は涙で濡れ、唇は震えていた。
「卑怯者になりなさいとか、臆病者になりなさい、と言うのではありません。でも、自分の生命を粗末にしてはなりませんよ。あなたには待つ者がいることを、忘れてはなりませんよ」
 そう言うや。母は袖で半分顔を隠すようにして部屋を出て行った。
 死ぬ為に遠征に行くのではない事くらいは分っている。だが、母があのように感情を剥き出しにしたところを見たのは初めてだった。戦士階級の男子にとって遠征は憧れだ。だが、女性にとってはそうではないのだろうか。誰もが勇壮な戦士に魅かれるではないか。姉達はどうなのだろうか。リグルは、決して弱みを見せないのだろうか。
 あなたは死んではだめよ。
 いきなりエリアンドの娘の言葉が甦った。
 大きな声では言えぬ、それが女性の、待つ者の本音なのだろう。だが、果たして戦士のどれくらいの者が、その本音を知っているのだろうか。戦士にとり、戦いでの勇猛な死は、鷲神の寵を賜る事でもあるのだ。
 今日は宴席が族長の館で設けられる事になっていた。正戦士として宴席に連なるのはこれが初めてではなかったが、妙な気分である事に変わりはなかった。今まではそれ程気に掛けていなかった会話に、自分も加わる事になり、急に大人扱いされる事への戸惑いが大きかった。
 広間では、既に殆どの者が席に着いていた。新しく正戦士となったディオン達は末席だった。陽のある内からの宴席は、遠征の前日と帰還の当日くらいなものだ。見習い時代にはその時間の長さと底なしの酒飲みに辟易したものだったので、今日は早々に引き揚げようと思った。冬星を休ませてやらなくてはならないし、明日の出航に備えて自分も充分な休息を取りたかった。
 父の登場で皆が立ち上がり、その音頭で乾杯した。それからは食事と酒が大量に振る舞われる。ディオンはそれ程の食欲もなく、また、いける口でもなかった。背後の冬星に時折食事を分けてやりながら、皆の様子を観察した。
 既に遠征を経験している戦士は、普段の宴席とそう変わらない。だが、今回が初めての同期の者達は興奮していた。これは毎年変わりのない事であったが、それでも、内側から見ているとそのはしゃぎっぷりは可笑しくなるくらいだった。父親や兄、または指導を受けた戦士達から聞いたのであろう話で大いに盛り上がっていた。
 ふと気付けば、それをつまらぬ事と思う自分がいた。男の価値が遠征で決まるのならば、何を基準にするのだろうか。奪った物の数か、奴隷にした人数か、殺した数なのか。それ程下らない事はないと思った。
 ある程度座が乱れてくると、ディオンは冬星を連れてそっと宴を抜け出した。
 まだ陽は暮れていない。
 自分の心の中にある、何か消化しきれぬものの正体が、ディオンには分らなかった。
 遠征を前にしてそのような気持ちを抱えたままで良いのか、このところすっと悩んできた。
 周囲は自分を大人扱いする。だが、自分ではどこが変わったのか分らない。正戦士になったとは言え、見習いの頃とどう違っているのかも分らなかった。心構えや決意も何もなく、本当にこれで良いのかと自問するしかなかった。髭を生やすのを許されたからといって、大人になる訳ではないのだ。
 馬を引き出すと、そのままいつものように西の崖に向かった。最早、西の崖に行く事は習慣となっていたが、暫くはあの黒鷲の姿も見られなくなるのだと思うと、無性に冬星を連れ出したくなった。
 あの堂々とした雌鷲は、いつでも自分の心の拠り所であった気がした。あのようになりたいと思わずにはいられなかった。雌雄は関係ない。あの勇姿を見るだけでも、何かが自分の中で変わって行くような気がするのだった。
 鷲は基本、毎年同じ番で同じ場所に営巣するという。崖に腹這いになって覗き込んでも、鷲達は一切、気にしない。覗き込むくらいでは何も出来ない事を知っているのだろう。黒鷲の番はやはり、今年も普通の鷲しか育てられなかった。エイリィズの言葉の通りであるならば、後数十年は黒鷲が生まれても育つ事はないのだろう。
 冬星はそんな黒鷲の血を引く貴重な唯一羽だが、本人にはその自覚は、当然ながら、ない。相変わらず甘えてくるし、頭に胸を乗せる姿勢も変わらない。こればかりは矯正出来ず、誰もがお手上げだった。ただ、場によってはどの鷲よりも立派な姿勢をとる事が出来るだけに、始末が悪い。
 自分が冬星を甘やかし過ぎたのかと思う事もあった。
 長椅子に寝転んで胸の上にひっくり返して腹を撫で回したり、餌の残量を見る為に素囊を引っ張って遊んだ事もある。冬星が喜ぶので、ついそうして相手をしてしまう。
 唯論、そのような事で遊んでばかりいる訳ではなかった。革で作った球や枝を投げて空中で取らせてみたり、遠くからの呼び戻しも毎朝、欠かさず行っている。姉がいる時には、球を魚の形に縫った物を渡された事もあった。それも、冬星用の道具入れに仕舞ってある。
 馬を駆りながら、ディオンはこれまでの冬星との生活に思いを馳せていた。
 いよいよ遠征ともなれば、冬星の生命も危険に曝す事になる。冬星にかすり傷でも負わせるくらいならば、自分が身代わりなっても良いとさえ思った。今や冬星は、ディオン自身の生命とも引き換えにしても惜しくはない存在だった。失うくらいならば諸共にと思える相手だった。
 だが、生きて帰らなくては母が哀しむ。男子など、持つものではなかったと母に思わせたくなかった。
 では、自分の意思はどこにあるのだろうか。
 自分は何になりたいのだろうか。
 どう、生きて行きたいのか。
 その答えも出ぬままに遠征へと臨まねばならないのが、一番の不安だった。
 あの酔っ払い共の大勢いる館では考えをまとめる事など、出来はしない。
 最も落ち着ける場所は、西の崖以外には思い付かなかった。
 また、これが最後になるかもしれないエイリィズの姿も見ておきたかった。帰って来た時には、年頃の娘の事だ、婚約をしていてもおかしくはない。そうなれば、この場所にはやましい事がなくても近づき難くなる。
 崖の丘に着くと、ディオンはいつものように馬を放した。
 冬星は低く滑空しながら、ディオンを先導して崖へと向かった。そして海風に乗って一気に上昇すると、野生の鷲の群れに加わった。いつもながらの、鮮やかで優美な飛翔だった。
 それを追い掛けて、ディオンは崖へ向かった。
 そして、思わず立ち止まった。
 崖の縁にはエイリィズが立ち、上空の冬星を見上げていた。
「エイリィズ」
 ディオンは思わず、声を掛けた。何年ぶりになるのだろうか、その名を口にするのは。
「エイリィズ」
 娘はゆっくりとディオンに目を向けた。
「そこにいてくれ」
 相手が逃げぬようにとディオンは言った。
 エイリィズは黙ってその場を動かなかった。鷲への捧げ物はもう、与えたのだろう。
 近付いてみると、自分がいつの間にかエイリィズよりもずっと背が高くなっている事にディオンは気付いた。当然だった。大柄な父と同じくらいには背が伸びたのだから。
 そして、エイリィズは間近に見ると十五の時とは随分と違って見えた。特に綺麗になったという訳ではない。相変わらず粗末な衣服に荒れた手をしていたが、その顔からは雀斑(そばかす)は消え、身体つきも女らしくなっていた。
 エイリィズの目に、自分はどう映っているのだろうかと、ディオンは急に落ち着かなくなった。
「私は明日、遠征に出発する」
 娘は無言で頷いた。
「だから、こうして会えて嬉しい。ずっと、遠くから見ているだけだったから」
 その言葉にも答えず、エイリィズは目を伏せた。青い眼が隠れ、ディオンは慌てて言った。
「もう、誰かいい人でも出来たのなら、すぐに帰る」
「そんな人、いないわ」ようやく聞く事の出来た声は、か細かった。「鷲の巫女をもらおうなんて酔狂な人はいないわ」
 あの大祭での事は村でも周知の事なのだと、ディオンはその時知った。
「でも、君の父君は――」
「わたしたちに父さんはいないわ、最初から」
 ディオンはそれ以上に話を続ける事が出来なくなった。
 久し振りに差し向かいで話しているというのに。
 そう、三年振りの事なのに、何も言葉が思い浮かばなかった。
「エイリィズ」
「遠征の無事を祈っているわ」
 そう言って身を翻したエイリィズの腕を、思わずディオンは摑んだ。
「待ってくれ」
「なぜ」
 エイリィズはディオンを見た。深い青い目だった。
「何も話すことはないわ。あなたは戦士になった。わたしはここで鷲の巫女を続ける。それだけのことよ」
「どうして、そう投げやりな言い方をするんだ。昔はそうじゃなかった」
「あの時は、子供だったのよ。今は、もう、大人だわ。今まで知らなかったことも分っているでしょう」
「大人になったから、何が変わるのか、私にはまだ、分らない」
「あなたは変わらないのね、ディオン」
 エイリィズの笑顔は哀しげだった。「でも、変わるのよ。遠征であなたも変わるわ、きっと」
「それは預言、それとも勘なのか」
「預言でも勘でもない、そういうものなのよ、大人になるということは」
 ディオンには分らなかった。また、その事で苛立ちもつのった。
「それだけじゃあ、私には分らない」
「――明日は遠征だわ」
 エイリィズはディオンから再び目を逸らした。
「そうだ、私も行く」
「やっぱり、あなたは子供のままね」
 嘲笑ではなかった。哀しげなその顔と声に、ディオンの胸は痛んだ。これが、あのエイリィズなのか。十五歳の時の明るさも、姉達にあった華やかさとも無縁の表情だった。
「何か、あったのか」
「あったのではないわ。これから起こるのよ」
 ディオンはぐいとエイリィズを自分の方へ引き寄せた。
「どういう事なんだ」
「明日は遠征だと、あなたも言ったでしょう」
 その時、ディオンはかつて、父が言った事を思い出した。鷲神の加護を得る為に、遠征前にも巫女からその力を購おうとする戦士がいる、と。
 冗談だろう。
 エイリィズにそのような真似をさせる事を、家族は承知しているというのか。
 ディオンはエイリィズの目を覗き込んだ。そこには恐怖があった。
 本人が嫌がっているのは明らかだった。それなのに、生活の為に妹を、姉を差し出すというのか。
 誰もその答えをくれない。自分がずっと思い悩んでいた事と同じく、誰もその事に関しては答えをくれないのだ。
 ディオンの心は乱れた。
 今宵、戦士の誰かがエイリィズを購うのか。
 そして、自分は一人残されるのだ。
 寂寥感がディオンを支配した。そして、深い絶望と死の淵を覗き込むような恐怖心とが。
 それが、大人になるという事であって良い筈がない。未来は、誰にとっても開かれた、希望のあるものではなくてはならない。
 だが、その一方で、ディオンは、遠征で自分と同じような年頃の青年とも剣を交えなくてはならないのかもしれなかった。自分が死にたくなければ、相手の未来を奪う事になるのだという事も、分っていた。
 一体、北海の自分達の存在とは、世界にとってどのような意味を持つのだろうか。
 殺し、奪い、北海の海賊七部族とも称される自分達は。
 考えれば考える程に、分らなくなった。誰も、そのような事は気に留めた事はないのだろうか、ちらりとでも考えた事はないのだろうか。
 生きて行く意味。
 明日をも知れぬ遠征の中で、その答えを見出せぬままに生命を落とす事が恐ろしかった。暗闇を彷徨ったまま死んで行くのが怖かった。
「ディオン」
 エイリィズの声が聞えた。
 ディオンにとり、エイリィズは一条の光のような存在だった。
 唯一人の、心許せる友人だった。
 そのエイリィズが――
 ディオンは思わず、エイリィズの唇に自分の口を押し当てた。
 抵抗は、なかった。
 ただ、夢中だった。思ったよりも柔らかなその感触と初めての感覚に、ディオンの頭はしびれたように動かなくなった。理性は、どこか遠くへ行ってしまった。
 気付けば、本能のままに流される自分がいた。それを止める事は出来なかった。また、エイリィズもそれに抵抗しなかった。むしろ、首に腕を回してディオンを抱き寄せた。その肌は滑らかで熱く、ディオンの欲望を掻き立てた。
 全てが終わってようやく、ディオンは自分の行いの罪の深さに気付かされた。
 自分の身体の下では、エイリィズが腕で顔を隠していた。だが、喉から漏れる嗚咽を聞き逃す程、ディオンの理性は遠くに行ってはいなかった。
 そっと、その腕を除けると、涙で濡れた顔があった。
 ようやくの思いで身体を離し、ディオンはエイリィズを抱き起こした。胸にしなだれかかる重みに、ディオンは自分も結局は他の戦士と変わらぬではないかと思った。
 エイリィズの乱れた髪を掻き上げると、閉じた目からはまだ涙が流れていた。瞼に唇付けると、ゆっくりとその目が開いた。
「済まなかった」
 ようやく、それだけをディオンは言った。その瞬間に、エイリィズの目が大きく見開かれ、手が、ディオンの頬を鋭く打った。
 思わず手を放すと、エイリィズはよろけながらも立ち上がった。その目は、ディオンを睨み付けていた。
「エイリィズ、違うんだ」
 追い縋ろうとしたディオンの手を、エイリィズは振り払った。
 それだけの事を、してしまったのだ。言い訳は出来ない。
 ディオンは、ふらふらと丘を下りて行くエイリィズに自分の外衣をまとわせた。それさえも拒否しようとするのを、無理矢理にくるみ、銀の飾り留めでとめた。
「今夜は、絶対に誰も中に入れるな。それだけは、守ってくれ」
 そうディオンは言ったが、エイリィズは何の反応も示さなかった。
 その姿が消えてしまうまで見送ると、ディオンはどっかりと腰を落とした。
 自分のした事は分っている。そして、自分は弱く、卑怯だという事も。エイリィズには、何の罪もない。
 近くの草がなぎ倒されている事が、更にディオンの自己嫌悪感を強め、破瓜の痕をそこに見出した時には、立ち上がる気力もなくしてしまった。
 エイリィズは、好きな男の為に純潔を守り通して来たのだろう。
 全てを、自分が台無しにしてしまった。
 ディオンは草を毟り、拳で何度も地面に叩き付けた。それで全てがなかった事になる訳ではなかったのだが、気持ちの行き所を見付ける事が出来なかった。
 自分はなぜ、エイリィズに乱暴をはたらいたのか、その理由は分っている。
 怖かったからだ。
 死が。
 戦いが。
 生の意味も分らぬままに、自分の生命を失う事も、他人の生命を奪う事も恐ろしかったからだ。
 その恐怖を誰かに鎮めて欲しかった。唯論、誰でも良かった訳ではない。弱味を見せられる人間は限られている。
 だが、あんな方法で紛らわせるつもりはなかった。エイリィズには話を聞いて貰いたかっただけだ。
 だが――間近で見たエイリィズは思ったよりも大人になっていた。年齢も、姉達が結婚したのと変わらない。あれでは他の戦士ももう、子供だといって見逃しはしないだろう。
 例え、誰がエイリィズの純潔を踏みにじる事になろうとも、許せはしなかったろう。
 好きな男なら、別だ。
 そうでもない男に、購われるのは我慢ならなかった。
 自分はエイリィズが好きなのかと問われれば、当然、好きだと答えるだろう。だが、それは友人としてであり、一人の娘としてではなかった。
 だが、起こってしまった事は取り戻せない。
 暗闇が全てを覆い隠してしまうまで、ディオンはその場から動けずにいた。


 出航の朝、ディオンは結局、一睡も出来ぬままに船に乗り込む事になった。
「初陣で緊張して眠れなかったか」
 同じ船に乗り組む戦士が揶揄って来た。
「まあ、みな、最初はそんなものだ」他の者が笑う。「まだ、ましな方だろう。二日酔いの奴らに較べれば」
 周囲から笑いが起こった。
「長櫃があるから、自分の席は分るな」
 ロスキルが声を掛けてきた。ディオンは無言で頷く。
 何度も遠征を経験している戦士達は明るかった。
 浜には女子供も出て賑わっていた。あちらこちらで別れを交わしている。ロスキルも既に家族とは離れていた。結局、ロスキルの奥方の姿をディオンは一度も見なかった。
 ディオン自身は、母への挨拶は館で済ませていた。浜では、母は族長船の側にいなくてはならない。
「ディオン」
 鋭いリグルの声に、ディオンはびくりとした。
「わたしに挨拶もしないで行くつもりなの」
「姉上…」
 腰に手を当て、今にも喧嘩をふっかけそうな顔付きだった。行って来い、と言うように、戦士達から背を押された。
 リグルの側にはローズルがいた。船は違うが、隣に付けられている。
 二人に近付くと、リグルはぐいとディオンの胸を摑んだ。そして、小さな声で言った。
「いいこと、多少の怪我は許すわ。でも。お父さまとお母さまを哀しませるような真似はしないのよ。あなたの事はローズルにもしっかりと頼んでありますからね」
「分っています、そのくらいの事は」
 兄の事を言っているのだという事は、すぐに分かった。
「それよりも、姉上はもう、ローズル殿を尻に敷いていらっしゃるのですか」
「もう、この子は」リグルはディオンの顔をぱちんと音を立てて両手で挟んだ。「本当に小憎たらしいわね。あっちから好きになってきたのだから、言う事をきくのは当然のことでしょう。いずれあなたもそうなるのだから、今の内に覚悟なさい」
 惚れた弱みという奴か、とディオンは思った。ローズルは平気な顔をしているが、本心は分からない。
「とにかく、わかったわね」
 念を押す姉の言葉に、ディオンははっきりと「はい」と答えた。
 リグルが首に齧り付いてきた。もう、自分は姉よりも背が高いのだ。
「じゃあね、行ってらっしゃい」
 姉とこうした別れを交わした事はなかった。嫁入りの際にも、ディオンは唯ぼおっとしていただけだった。だが、この時はしっかりと姉を抱き締めた。自分はもう、大人なのだと認めて貰いたかった。
 自分の船の所に戻ると、ロスキルが待っていた。
「良い姉上じゃないか」
「あれでも、大人しくなりましたね」
 ロスキルは笑った。
「北海の女は気が強い方が良い。そうでなくても、芯の強い女が良い。いつ俺達が帰って来れなくなるか分からないからな。それでも強く、子を育てられる女でなくては駄目だ」
「――あなたの奥方様もそうなのですか」
「ああ、唯論だ。あれは強い女だ。お前の姉上に劣らぬくらいにな」
「では、私は嫌われたのでしょうか。一度もお姿を拝見しておりません」
「心配するな」ロスキルはディオンの背を叩いた。「あれはお前の事を気に入っている。ただ、気まずいだけだ。女なんて一度、機を逸してしまうとそういうものなのだろう」
 機を逸してしまう。
 そう、自分とエイリィズとも、そうだったのかもしれない。三年もの間、目も合わさず声も掛けずにいたのは、最初のきっかけを失ってしまったからなのかも、しれない。
「そろそろ、乗船しなくてはな」
 ロスキルの言葉に、ディオンは渡し板を上った。そして、船縁から一度、浜の人々を見渡した。
 当然ながら、見知った顔も多い。だが、その中に目当ての姿はなかった。
 分かっていた。
 来る筈はない。
 上空に鷲が舞っていた。ディオンが合図をすると冬星がその肩に舞い降りて来た。他の戦士達も、自らの鷲を呼び始める。
 長櫃を確認し、自分の楯がきちんと舷側に据えられているのを確認した。そして、傍らの丁字棒に冬星を止まらせた
 ディオンの横がロスキルだった。船長と舵取りを入れて総勢二十二人が乗り組む。標準的な船だ。族長船だけが、六十四人という大所帯だ。
 席に着くとロスキルはにっと笑った。どこか安心の出来る笑顔だった。赤目も大人しく丁字棒に据えられていた。
 がくんと船が揺れ、海へと押し出されたのが分かった。慌てて、櫂を握る。緊張の余り、船長の合図を聞き逃したことにディオンは気付いた。次はそのような事があってはならない。皆の足を引っ張る事になる。
「漕ぎ方、始めっ」
 船長が声を張り上げた。
 他の者に合せて櫂を動かした。櫂の重さは練習船の比ではない。それでも、遅れを取って乱す訳にはいかなかった。
「漕ぎ方、止め。帆を張れ」
 次の命令に、甲板上が慌ただしくなる。櫂がしまわれるや鷲達が飛び立ち、船を追う。帆桁を上げるが、風を孕む為、全体重で綱を引かなくてはならなかった。
 ようやく綱を結び終えると、全身、汗まみれで息も上がっていた。他の新米も似たりであったのでほっとはしたものの、二年目の戦士は平然としている。外洋での経験の差は大きいのだという事を、改めて知らされる思いだった。
 気付けば、他の船も帆を張り、航行していた。
 長くたなびく三角旗を掲げた族長船を先頭に、五隻が海を渡って行く。
 振り返ると、島の全体が見渡せた。
 遂に、遠征へと出たのだとディオンは思った。
「どうした、もう帰りたくなったのか」
 年長者が新米を揶揄う。自分と同じように新米達が島を見やっていた。
「ひと月は戻れんのだからな、まあ、せいぜい別れを惜しんでおく事だ」
 船長が舳先から振り向いて言った。
 この中の何人が帰れないかは分からない。
 だが、自分は決してその中に入る訳にはいかないのだ。
 ディオンは空を見上げた。
 帆桁に鷲が止まっていた。
 誰しも、死ぬ為に遠征に出る訳ではない。生きる為に、生命がけの航海に臨むのだ。


 拠点の島に着くと、すぐさま天幕が張られた。ここまで来るのに五日かかったが、楽な方だと年配の者は言った。凪にでもあった日には、日がな一日、櫂を漕ぐ羽目になるのだと言う。久し振りの陸地に、目眩がした。揺れる船に慣れた「(おか)酔い」だと皆は笑った。
 天幕の張り方も島では教わっていた。だが、吹き曝しに近い小さな無人島では勝手が違った。
年長者の手を借りながらも、何とか張り終えると、次には食事の支度だった。
 男達は新米の肩を叩いて景気づけるように笑った。
「まあ、どこかで女共を調達して来るまでの我慢だ」
「取り敢えずは一息つこう」
 石を積んで簡単な竈を拵えると、大鍋に麦芽酒(エール)を入れて適当な食材を敵当に切って煮るだけだった。船毎に固まって天幕を張る為、あちらこちらで煙が上がってる。
「確かにな、洗濯と炊事は女に任せた方が安心だな、これは」
「何だ何だ」鍋の中身を見て船長が言った。「毎年の事だが、本当に代わり映えのない食いもんだな。もう少しましなものを教えてやれ」
「出来るものなら、とっくにやってますよ」
 誰かが返し、笑い声が起こった。
「まあ、仕方あるまい。相も変わらず、最初の仕事は女と食糧の調達だな」船長のトリグはディオンと三人の新米を見てにっと笑った。「それで、お前達を男にしてやろう」
「戦いに、参加させて頂けるのですか」
 勢い込んで新米の一人、ロウが言った。
「最初の襲撃には、全員で掛かる。だからと言って、楽だとは思うな。それだけの大きさの集落を襲う事になるからな。反撃も覚悟しておく事だ」
 船長の顔は厳しかったが、三人はそこまで気が回らなかったようだった。興奮してはしゃいでいた。
 去り際に、船長はディオンの肩に手を置いた。
「お前は思慮深いな」小さな声でそう言った。「初陣では大事な事だ」
 そして、二、三度軽くディオンの肩を叩くと族長の天幕へと向かった。
 思慮深いのかどうか、それはディオン自身にも分からなかった。ただ、複雑な気持ちだったのは確かだった。
「ディオン」暫くして、父の副官のオレブが声を掛けてきた。「族長がお呼びだ」
 その声は密やかなものだった。そっとディオンは輪を離れ、オレブの案内に従った。
 島の、張り出した崖の所に父はいた。荒鷲エルディングは、崖っぷちの岩に足をかけていた。
 オレブは何事かを父に伝えると、ディオンの肩を叩いて去った。
「ディオン、こちらへ」
 父の言葉に、ディオンはそのすぐ側にまで行った。暫し、二人は無言でいた。
「ここは、臆病者の岩だ」
「はい」
 ディオンは父が何を言いたいのか分からぬままに頷いた。
「ここで七年前、一人の新米が吊された」
 振り向いた父の顔は厳しいものだった。
「お前も知るべきだろう。ヴァルガは、その者を庇って、死んだのだ」
「庇って、ですか」
 初めて聞く事だった。
「そうだ、初めての遠征で身体が動かないのは良くある事だ。だが、皆、それを乗り越える。その者は、それが出来なかった。恐怖の余り背を向けて逃げ出しよった。それをヴァルガは引き留めた。暴れて離脱しようとするそ奴を宥めている時に、矢を受けた。それでも猶、ヴァルガはそいつを庇いよった。船に運ばれた時には、もう、虫の息だった。最後はお前の事を心配していた」
 あの優しかった兄。臆病風に吹かれた者も、見捨てる事が出来なかったのか。
「お前は自分よりも立派な族長になれるだろうと、ヴァルガは言った。だから、それまではお前を自由に生きさせてやってくれ、と。そして、息を引き取った。母や妹達の事でも、許嫁の事でもなく、お前の事を一番、案じておった」
 ディオンは無言で聞いていた。
「この島の戦士の洞でヴァルガは眠っている。岩場の洞窟だ。七年経った今では、ここで眠る他の者達と最早、区別はつかぬだろう。裁定により、全員一致で、その臆病者はこの岩に縄を掛けられて崖下に吊された。その痕跡も、今はない。ヴァルガの為した事は全て無駄だった。あれの生も無駄だったのか。儂はそうは思いたくはない」
 エルディングは空を仰いだ。
「人間の、何と儚い事か。最早、往事を思い起こさせるものは、何もない」
 溜息混じりのその言葉に、ディオンは父の深い哀しみを感じた。
「お前が卑怯者でも臆病者でもない事は儂は良く知っている。だが、英雄になる必要もない。ただ、この父と母の為に生きて帰るだけで良い。そして、次期族長の座を手に入れろ。それが、兄の遺志でもある」
 自分に逃げ場のない事を、ディオンは思い知らされた。


 初陣の日は、思ったよりも早くにやって来た。
 拠点に着いて二日目にはもう、出航を命じられた。天幕を畳んだだけの、慌ただしい出航だった。あらかじめ標的は決めてあったのだろうと、ディオンは思った。それとも、この辺りで目当てのある場所はそう多くないかのどちらかだろう。
 その集落には、風に乗って半日はかかった。
 帆柱を倒し、見付かりにくくする。ここからは櫂を使うのだ。それも出来る限り速く船を走らせなくてはならない。
 昨夜の内に一応、段取りは聞いていた。森に逃がさぬようにまず、熟練の戦士が駆け抜ける、と。目指すのは神殿だ。抵抗する者は全て殺せ、でないと自分が殺される。女や働き手になりそうな子供は生け捕りにし、老人や幼い子は放っておけ。等々。
 心臓の鼓動が速くなった。遠目に見える集落は、鷲の一族の中央集落のように平和そうに見えた。
「ようし、新米共、今の内に小用を済ませておけよ」
 船長が呼ばわった。「いざという時にちびりたくはないだろう」
 揶揄われている事は分かっていた。
 浅瀬に乗り上げたらすぐに戦えるようにしなくてはならない。近付くにつれ、集落の人々が慌てる姿が目に入った。
「相変わらずだねえ、柵で防御することもしやしない」
 ロスキルが呟くのが聞えた。
 ざっと櫂が砂に当たった。族長船から、鋭い音を立てて鏑矢が放たれた。
「よし、行くぞ」
 砂浜に船が乗り上げる。船長の叫びに、ディオンは楯を背負い、波打ち際に下りた。
 そこからの事は、ディオンには何がどうなっているのか、正直分からなかった。相手は襲撃を予想してはいなかったのか、油断をしていたのか、抵抗するよりは混乱しているようだった。それでも、斧や槍で反撃をして来る者もあった。
 斧とは言っても、戦斧ではない。薪や木を切るようなものだ。
 戦いには素人なのが分かった。
 だが、必死な分だけ、動きが読めなかった。
 何をどうしたら良いのか、ディオンには分からなかった。この襲撃での自分の役割が全く、摑めなかった。
 抜き身を引っさげ、ただ闇雲に皆について走っていると、目の前で誰かが斧で足を引っ掛けられて倒れるのが見えた。
 振り上げられた斧と倒れた者との間に、ディオンは咄嗟に身体を滑り込ませ。楯の突起で斧を受けた。金属同士がぶつかり合う音がして、ディオンの腕は痺れた。
「大丈夫か」
 ディオンは倒れた男に声を掛けた。第二打も、何とか受け止めた。
「足が…」
 その声に、はっとした。
 イヴォルダスだ。
「足を痛めたのか。もう少し、持ちこたえるんだ」
 そう言って長剣を使おうとしたが、男の力が強く、連続して打ち下ろされる斧に、楯を両手で支えるのがやっとだった。頑丈な木に海豹の皮を張り、鋼で縁を補強してあるとはいえ、そうは持ちそうになかった。
 このままでは危ない、と思った時、急に攻撃が止み、男の悲鳴が聞えた。
 楯の陰から見ると、冬星が男に襲いかかり、その目に強力な鉤爪を食い込ませていた。頭部と首の羽を逆立てた鷲に襲われ、無闇やたらと男は斧を振り回した。
 ディオンはようやくの事で長剣を握り直し、男を下から切り上げた。
 血飛沫が上がった。温かな血が、振り注いだ。
 男が倒れると同時に、冬星が舞い上がった。
 ディオンはイヴォルダスに肩を貸し、物陰に身を隠させた。
 身体が、震えた。
 人を殺した。
 その血で、全身が赤く染まっている。
 だが、立ち止まってはいられなかった。苦戦している他の新米の助太刀に、ディオンは走り出した。


 全てが終わった時、集落は血で染まっていた。
「ようし、引き揚げるぞ」
 戦士長の声に、ディオンは我に返った。
 そして、ふらふらと船に向かうところをロスキルに腕を摑まれ、走らされた。
「とっととずらかるぞ」
 そう言うロスキルも血塗(ちまみ)れだった。「森の向こうの領主が加勢する前に引き揚げる」
 引かれるままに浅瀬を走り、船に引っ張り上げられた。
「おう、中々の顔だな」
 そう、ディオンを引き上げた戦士は言った。ようやく自分の席に着いたが、櫂を動かしても力が入らなかった。
 帆柱を立ち上げるのも、帆を上げるのも、ただ身体を動かしているだけのように感じられた。
 ようやく綱を結び終えると、ディオンはへなへなとその場に座り込んでしまった。
「よくやったな」
 ロスキルが言った。「お前の初陣は大成功だ」
 これでか。
 ディオンは自問した。
 これが遠征なのか。血に塗れ、得た物は何なのだろうか。
 こちらは部族を飢えさせない、死なせない為にこうして集落を襲う。
 対する相手も、家族や自分達の財産、食糧を守る為に戦う。
 どちらにも守るものがある。
 ディオンは、自分が最初に殺した男の事を思った。
 あの男も、必死だった。
 戦いには慣れていないのに、必死になって斧で向かって来た。誰かを、何かを守る為に。
 ディオンは自分の長櫃の所で横になろうと立ち上がった。その目に、艫に集められた見知らぬ者達が目に入った。
 殆どが女で、若い――中には、ディオンとそう変わらぬ青年もいた。皆。脅えた顔をしていた。これが奴隷になる者なのかと、ディオンは思った。
 そして、ふらふらと自分の席へと向かうと崩れるように横になり、そのまま闇に呑まれてしまった。


「起きろ」
 身体を揺すられてディオンは、はっと目を醒ました。
「そろそろ、着くぞ」
 ああ、と思った。そうだった。ここは船の上。初陣の帰りだった。ロスキルが少々、心配そうな顔で見ていた。
「大丈夫です」
 そう言って、ディオンは身体を起こした。そして船長の指示を待った。いつの間にか、帆は降ろされている。
「櫂、下ろせ」
 船長が叫んだ。
 少しは回復した体力で、ディオンは櫂を舷側の穴に差し込み、合図に合せて漕いだ。帰り船なので、急がなくても良いのは助かった。節々が痛み、血が乾いてごわついた服と髪が気持ち悪かったが、もう少しの辛抱だとこらえた。
 島の浜に船が着けられると、生け捕りにされた男女が下ろされた。逃げようとしても、この孤島ではどうしようもない。
 全ての船から掠奪品が降ろされ、ディオンもそれを手伝った。
 殆どが食糧であったが、中には山羊を引っ張っている者もいた。
「これで当座のここでの食糧は確保できたな」
 船長は満足そうだった。
 ディオンはそれよりも、早く身ぎれいにしたかった。それで人を殺したという事実も洗い流せるものではなかったのだが。
 しかし、まだやるべき事は多かった。天幕を張り、食事の支度をせねばならない。だが、余りにも汚れたディオンの姿に、船長は顔をしかめて、まずは身体を洗って服を着替えろと言った。
 海で身体を洗い、血を洗い流す。新しい衣服に着替えると、冬星が舞い降りてきた。その羽は少し濡れており、既に綺麗になっていた。館では真水で水浴びをしていたのだが、野生の海鷲は浅瀬で水を浴びるものだという。冬星もそうして来たのだろう。
「今日はお前のお陰で助かったな」
 甘えてきた冬星をディオンは撫でてやった。ディオンが戦いの場で危うくなった時には、必ず冬星が助けてくれた。何の命も下さぬのに、だ。
 黒鷲は本当に(さか)しい。
 そして、自分達の絆も強い。
 ディオンはそう感じた。
 皆の所へ戻ると、食事の支度は既に出来ており、ディオンはロスキルから皿を受け取った。
 味は変わり映えしなくとも、新鮮な野菜があるのは有り難かった。
 生の肉を冬星にもやる。
 航海中は干し魚と燻製肉ばかりであったせいか、冬星はがっついた。それは他の鷲とても同じ事だった。
「それにしても、愕かされるな、お前には」
 舵取りのハルドが感心したようにディオンに言った。「見事な戦いっぷりだった。何を考えているのか分からん所もあるが、良くやったものだ。何人、殺った」
「さあ…」
 はっきりと憶えているのは最初の一人だけだった。後は助太刀に回ったので、それを自分の手柄として良いものかどうか、分からなかった。ディオンは俯いて肉を噛んだ。
「さすがは族長の子でヴァルガ殿の弟だな」
 誰かが言った。「戦い方を心得ていた上に、鷲使いも良かった」
「冬星が良かったに過ぎません。私は何も」
「謙遜するな。あの化け物のような鷲を良くぞ使いこなしたものだ」
 皆が笑った。大きな集落であった割には、案外と楽に行ったというので、御機嫌なようだった。麦芽酒ではなく、久し振りに蜜酒も飲んでほろ酔いのようだった。
「男になりついでに、もう一押ししてやるか」
 ハルドがにやにやと笑った。「喰ったらな」と一つの新しく加わった小さな天幕を指した。
「あそこの天幕へ言ってみろ」
 他の者達が密やかに笑った。ロスキルは眉をひそめいる。だが、何も言わなかった。恐らくは、新米の通過儀礼なのだろう。あまり性質(たち)の悪い事でなければ良いと思いながら、ディオンはなるべくゆっくりと食事をした。
「片付けはやってやる。だから行って来い」
 ハルドが食器を引ったくった。ディオンは観念して立ち上がった。
 あちらこちらで宴会のような騒ぎだった。そこに、無理に酌でもさせているのだろうか、女の叫び声も加わっていた。
 溜息をついて、ディオンは指された天幕の入り口を開けた。そしてぎょっとした。
 何人かの男が既におり、その内の一人が掠奪してきた女を平手で打ったところだった。
「ディオンか」
「ハルド殿に、ここに行けと言われたのですが」
「ああ」男達は顔を見合わせて笑った。「お前は奮闘したし、初めてだろうからな、俺達もまだだが譲ってやろう。ゆっくりでもいいからな」
 男達は笑いながら天幕を出て行った。
 女と二人取り残されたディオンは混乱した。何を示唆しているのかは分かっている、だが、そのような気にはなれなかった。
 気まずい沈黙がややあり、最初に口を開いたのは女の方だった。
「助けて。生命だけでも、助けて」
 肌も露わな女は、ディオンににじり寄って来た。
「私は新米だから、何も出来はしない」ディオンは女から目を逸らして言った。「言えるのは、抵抗しないでいる方が良い、という事くらいしか、ない」
「なら、あたしを助けて」
 ディオンは跪いて女の顔を見た。薄暗くて良くは分からなかったが、かなり殴られたようだった。
「冷やさないと」
 そう言ったディオンの腕を、女は摑んだ。
「悪いけど、私に出来るのはそのくらいなものだ」
「だめよ」
 女は必死の表情で言った。「外のいる人達は、あんたがあたしを抱かなかったと知ったら、どうするかわからないわ」
「そんな事はないだろう、幾ら何でも」
「だって、あんたたちは北海の鷲の一族なのでしょう。鷲の餌にする事くらい、わけないでしょう。あんたに気に入られなかったら、あたしはもっと殴られるわ。殺されるわ」
「そんな事はしない、大丈夫だから」
「あんたのために、あの人たちは順番を譲ったじゃない」
「それは――」ディオンは顔が赤くなるのを感じた。ここが薄暗くて良かったと思った。「私が女が初めてだという事であって、特に私に力がある訳じゃない」
「それでもよ。あんたを満足させたら、いいのでしょう」
 女がディオンを押し倒した。「あたしを憐れだと思うなら、そうして」


 ようやく天幕から出た時には、辺りは夕闇に包まれていた。
 まだ、あちらこちらから騒ぎの声は聞えてきていた。どこかの天幕で、やはり同じ事が行われているのだろう。
 ディオンは溜息をついた。
「おい、もう良いのか」先程の男達の一人が言った。「なら、交代だな」
 下卑た笑いを浮かべて、その男は天幕へ入って行った。
 元の火の所へ戻ると、一人、ロスキルだけが杯を傾けていた。
「どうだった」
 言葉短く、ロスキルは言った。
 ディオンは膝を抱えて無言で座り込んだ。
「前もって、言っておくべきだったか」
「こんな事が行われているとは思いませんでした」
「だろうな。島で話せる事ではないからな」ロスキルは蜜酒の入った杯をディオンに渡した。「俺も通った道だ。首尾良く行ったか」
 ディオンは一口、蜜酒を呑んだ。
「そうですね」
「それにしては、大人しいな」
「貴方もですよ」
「ああ、まあな。余り気持ちの良いものではないからな、俺としては」ロスキルは言った。「俺は女房殿に惚れているから他の女は欲しくはない。今のところはな。だが、そうは言っても、人肌の恋しい時には他の男と変わらんよ。却って、恋しくなって後悔するだけだがな」
 大人の男の話なのだと、ディオンは思った。
「ローズルも、お前の姉君にぞっこんだからな、そんな気は起こしてはいないから安心しろ」
「姉の事は心配していませんよ」
「皆、戦って血がたぎっているのだろう。それを治めたいのさ」
 ディオンはもう一口、蜜酒を啜った。
「それでも、あんな――」
 暴力的にならなくても。
 そう言いかけて、ディオンは言葉を濁した。
 自分はどうだったと言うのだ。エイリィズに対して、暴力的でなかったと言えるのか。
 そして、結局は自分もあの女を抱いたのではなかったか。懇願されたとは言え、同じ事ではないのか。その事を今更、後悔してどうなるというのだ。
「敗者は、どのように扱われようとも仕方がない。それが北海の論理だな」
 ロスキルは言った。
 二人は黙って杯を傾けた。
 その内に、ディオンと同期の三人も戻って来た。天幕は違うが、女をあてがわれたのだろう、互いに小突き合っては笑っていた。
「楽しんで来たようだな」
 ロスキルは言った。こちらの三人には、先程のような顔は見せなかった。
「ええ、まあ」
 ロウは笑った。「女を知って、ようやく一人前になれた、という感じです」
「それは良かったな。まあ、酒でも呑め。俺は火の番だから、先に休んで構わんぞ。今日は色々と疲れただろうからな」
 ロスキルの言葉に、ロウ達は笑った。だが、ディオンはどうして笑えるのだろうかと不思議だった。今日は何処にも笑えるところなどなかった。人を殺し、好きでもない脅える女を抱いた。その何処に、笑えるというのだろう。
「なんだ、ディオン、しけた顔をして」ロウが言った。「さては上手く出来なかったのか」
 三人は笑った。
「揶揄うのもそこまでだ。ディオンはお前達よりも一足早く、男になったのだからな。酒も入って今日はもう、眠いのだろう」
 ロスキルは言った。
「明日はゆっくりと起きても大丈夫だ、洗濯も食事の支度もあの女共にさせるから心配はいらん」
 あっさりとした調子でロスキルは言った。
「では、お先に」
 ディオンはそう言って杯をロスキルに返し、毛皮にくるまって横になった。
 全てに目を閉じ、耳を閉ざしていられればどれ程、楽だろう。ロウや他の男達のようにこの状況を楽しむ事が出来れば、どれ程良いだろうか。
 目を閉じると、脅えていたあの女の顔とエイリィズとが重なった。あの時、どれ程エイリィズは恐ろしい思いをしたのだろうか。
 もう一度会いたい、と思った。際立って美しい娘ではない。それを言うならば、あの女の方が美しいだろうし、身体の肉付きも良かった。だが、側にいて欲しいのはエイリィズだった。
 必ず、生きて帰ってもう一度会いたい。
 ディオンはそう思いながら、いつしか深い眠りに就いた。


 それからの毎日は慌ただしかった。どの船が襲撃に出るのかは前日の夜に知らされた。船を出さない者達は、島で留守居役だった。
 積荷船に同乗して来た鍛冶屋は剣を鍛え直し、療法師は怪我人の治療に当たった。
 イヴォルダスは幸い、軽い捻挫だけで済み、五日もすれば戦線に復帰した。
 初陣で人の血に塗れたディオンの長剣は、羊の皮を鍔口に巻いた鞘のお陰で手入れは楽だった。羊毛は血で汚れたが、脂の効果で手入れを怠っても翌日に錆が浮く事もなかった。研ぎさえきちんとしていれば、質の良い長剣は鍛冶屋の手を煩わせる事もなかった。
 ディオンも船に乗り、襲撃に参加した。自分が生き残る為に、向かって来る相手と戦い、劣勢の味方を助けた。冬星は苦戦の折には助けてくれる存在となり、ディオンは安心して背中を任せる事が出来た。そして戻ると、海ですぐに血と汚れを洗い流し、時には冬星や他の鷲と共に浅瀬に遊んだ。そのような自分を皆が笑っている事を知っていたが、どうでも良かった。鷲達と共にいる方が、仲間といるよりも気が楽だった。
 居残りの際には、ディオンは誰に言われた訳でもなかったが、怪我人の治療の手伝いをした。奴隷と知って連れられてきた女達も療法師の命で同様の事をしていたが、気力をなくした男達よりも、女達の方が強いようだった。
 空には鷲が舞い、島には北海の戦士が溢れている。そのような中で反抗しても無駄だという空気が、生け捕られた者達の中に流れていた。
 村を――女達を守れなかった無力感もあるだろう。男達の目に生気はなかった。
 ディオンは思った――
 自分なら、どうするのだろうか。唯論、ここにいる男達は戦士ではなく農民や漁民だ。だが、それを抜きにしても、自分達の同輩の女達が置かれている状況を目の前に見せられれば、戦意も生きる気力も無くしてしまうかもしれない。いや、むしろ、死んだ方がましだったと思うかもしれない。
 皆は掠奪の成功に浮かれている。だが、ディオンは、楽観的にはなれなかった。
 この民達に起こった事が、自分達には起こらぬと誰が言えるのだろうか。
 その為に、常に戦士は爪を研ぎ続けなくてはならない。
 広大な大陸にいるという「王」達は、今は北海の海賊の事など歯牙にもかけてはいないかもしれない。だが、いつか、うるさい虫を追うように、北海を征しようと思う事があるやもしれぬ。そのような時が、自分の生きている内に来るかどうかは分からない。それでも、そのような事を考えずにはいられなかった。
 遠征の日々はそのようにして過ぎて行った。その間にディオンが父の側に行く事はなかった。叔父の傍らには常にイヴォルダスの姿はがあるのとは対照的だったが、それを羨ましいとも思わなかった。族長の竜頭船には新米は乗り組まない。それに、ディオンの指導はロスキルなのだし、同じ船に乗り組むのは当然の事だった。
 父は部族の、船団の中心にいるというだけで安心感を与えるだけの人物なのだと、ディオンはこの遠征で初めて知る思いだった。族長とはかくあらねばならぬのだと、ディオンは思った。
 族長船の竜頭の効果は絶大だった。その威容を見せるだけで人々は恐慌を来す。また、乗り組む戦士は族長集会へ随伴する為、当然、一流だ。それは襲撃の技量に於いても、遺憾なく発揮された。素早く動いて村人の退路を断つのは、殆どがその戦士達だった。相手を傷付けずに捕え、あっと言う間に足と手に縄を括り付ける様は、見惚れる程だった。
「お前は本当に鷲が好きだなあ」鷲と共に浅瀬で血を洗い流していると、船長のトリグが船縁から見下ろして言った。「不思議な事に、どの鷲もお前の事が好きなようだ」
 見渡せば、一面の鷲だった。
 その時に思い出したのが、エイリィズの事だった。もし、鷲に好かれるのがエイリィズと関係を持った事によるのだとすれば、どうなるのだろう。
「以前から不思議だったんだがな。お前はどうしてか、最初から鷲にも戦士共にも好かれるな」
 ディオンは顔が赤くなった。ここが浅瀬でなければ沈んでしまいたいところだった。
「それがお前の人徳なのだとすれば、それは素晴らしい素質だ。ロスキルはお前を学者のようだと言ったが、俺はお前は素晴らしい戦士になると思う。いずれにせよ、お前は不思議な男に成長したな」
 トリグは空を見上げた。
「そろそろ帰還の時期だな。今年は実入りが良かった。交易島へ寄って行くから、母君に何か土産でも持って帰るんだな。それくらいの小遣いは渡せるぞ。それか、好いた娘の口か」
 笑いながら船長は去って行った。ディオンは海から上がった。
 エイリィズ。
 あの鷲の巫女は、自分にとってどのような存在なのだろうかと、ディオンは考えた。
 もう一度会う為にも生きて帰りたいと思う。それは、自分の非礼を許して貰う為なのか、それとも、また、別の感情からなのだろうか。友人関係は壊れてしまった。いや、三年前の大祭の日から、エイリィズはディオンを友人とは見なしてはくれていなかった。
 では、あの日、エイリィズはなぜ、巫女としての務めを果たした後でさえも崖にいたのだろうか。自分を待っていてくれたのではないか、というのは思い上がりだろうか。
 遠征の前に別れを言いたかったのか、それとも、子供時代に決別する為だったのか。いずれにせよ、ディオンにはもう、二度と来るなと言いたかったに違いない。
 あの後、エイリィズがどうなったのか、ディオンは気になって仕方がなかった。
 鷲の巫女を訪れたという者があっても、それはエイリィズではなかった。よく耳を澄ませていると、鷲の巫女と寝た事を自慢する者は、結構いた。ディオンは、エイリィズが自分の言葉を守っていてくれれば良いのに、と願った。
 鷲の巫女の尊厳を取り戻す事。
 自分にはそれが出来るだろうか、父の為せなかった事が出来るだろうか。
 気は進まなかったが、やはりイヴォルダスとの後継者争いは避けられぬものなのだろうか。
「何だ、またびしょ濡れになって」
 ローズルが笑った。今日は居残りだった。「鷲と遊んで来たのか」
 金髪に碧眼で体格もよいこの男は、姉の言葉を律儀に守ってか、何かとディオンに目をかけてくれた。
「雪牙もいましたよ」ディオンは言った。「どうして一羽が水浴びを始めると皆、したがるのでしょうね。別に雪牙は汚れている訳ではないのに」
「そうだな、不思議だな」ローズルは笑った。「だが、俺には、それを気にするお前の方が不思議だ」
「トリグ船長が、そろそろ帰還の時期だと仰言っておられました」
 ディオンがそう言うと、ローズルは破顔した。
「ああ、もう充分に人も物も集められたしな。余り欲をかいても、な。お前も早く、母君に会いたいだろう」
 大人扱いされたのかと思うと、子供扱いもされる。
「貴方はどうなんですか、義兄上」普段は使わない呼称で呼んでみた。「帰るのが嫌ではありませんか」
 ディオンの意に反して、ローズルは大笑した。
「心配無用。あんな良い女の所に戻れるのなら、大歓迎だ」
「ご馳走様です」
 そう言って離れようとしたディオンの首に、ローズルは腕を回してきた。
「お前、男になったのだろう。リグルには黙っていてやるから、交易島での買い物に付き合え」
「分かりました。姉上の気に入るような何かを探せば良いのですね」
「お前なら、好みが分かるだろう」
 そう言ってローズルはディオンを解放した。「まずは着替えろ。風邪をひくぞ」
 北海の風に較べれば、何という事もなかったが、ディオンは物干しから乾いた自分の服を取った。


 拠点の島を出航すると、船団は交易島へと向かった。三日の、順調な航海だった。
 港には様々な船が停泊しており、浅瀬に近い場所でも碇を下ろし、小船で島へ向かう者達もあった。北海の特徴的な船は、だが、その中に見られなかった。
 積荷船から奴隷を引き出し、市へと連れて行くのは年長者の仕事だった。その前に市の外れで身体を洗わせ、少しでも見映えを良くさせる。そこに油を渡して潮で痛んだ髪や肌の手入れをさせた。女には香油を渡せとディオンは言い付かった。
 あの女がその壜を受け取った。だが、ディオンの事は認識できてはいないようだった。
 それで良い。
 だが、自分はこの女の事は忘れられないかもしれないとディオンは思った。忘れたくとも、最初に殺した男とこの女の事はずっと、自分の記憶に残り続けて折に触れては甦って自分を苦しめるのかもしれないと思った。
 奴隷達の所を離れると、早速、ローズルがディオンの肩に腕を回して来た。
「頼りにしているぞ、義弟」
 ローズルはそう言った。
 下船するにあたって、取り敢えずの配当を受け取っていた。それで皆、ここで食事や酒を楽しむのだという。唯論、ローズルのように買い物をする者もいる。
 積荷船の船長は、奴隷を売った金で島の為の穀物やら、北への航海に必要な食糧を仕入れに行く。荷は港まで商人が運んでくれるそうだ。長い遠征行で食糧も麦芽酒も少なくなっているのは事実だ。麵麭も減っている。航海用に母が焼いてくれた分も、残り少ない。最早、がちがちで、短剣の柄で叩き割り、麦芽酒でふやかして食べなくてはならない。
 族長も副官も、積荷船の船長と共に、残りの食糧と航海の日数との計算に余念が無いようだ。
「その点、俺達は気楽だ。今の所は何の責任もない若造だからな」
 二人の肩にはそれぞれ、冬星と雪牙が乗っており、人々はそれを見るや愕き、恐れた顔で道を開けるのだった。
「喧嘩を売ってくる奴もいるかもしれないが放っておけ。鷲が一声叫べば大人しくなる」
 詩人の詩には交易島で殺された二人の幼い北海人の話があった。だが、ここは中立だ。本来ならば、そのような事があって良いはずがなかった。長剣にも「和平の紐」がかけられている。
 ローズルの目当ては、やはり女物を扱う店だった。
「どういう物が女好みか、俺には見当もつかん。男兄弟で育った上に、母はとうに亡くなったしな。俺の家では唯一の花だよ、リグルは。父も弟共も、大人しいもんだぞ」
 ディオンとて、それ程分かる訳ではない。リグルは活発だという印象しかなかった。
「そうですね、珍しくて喜びそうな物、ですか」
 辺りを見回すと、何本もの透かし編みの飾りを吊している店が目に入った。そう言えば、姉の晴れ着には透かし編みの飾りがよく付いていた、とディオンは思い出した。長着の裾を上げた時に見える重ね着にも、あしらわれている事があった。
「あれなどはどうでしょう」
 ディオンはローズルに言ってみた。
「ああ…確かに女好みかもな」ローズルは店へと向かった。「お前も一緒に選べ」
「いえ、私は母への――」
「一緒で良いじゃないか。大体、あんな店、俺一人では無理だ」
 成程、客の殆どは女だった。男所帯だったローズルには敷居が高そうだった。腕を引かれるままにディオンは従った。
「邪魔になるからな、お前達は上だ」
 冬星と雪牙は合図で飛び立った。愕いたような声が近くで聞えたが、ローズルは気にする風もなかった。
 店を覗き込むと、色とりどりの飾り紐も並べられていた。
 目移りしている様子のローズルをよそに、ディオンは改めて辺りに目をやった。男の数が圧倒的に多かったが、この島の女性も混じっている。奇妙な格好と肌の色の遠国の人々の姿もあった。
 北海との境にあるこの交易島には、北海の商人も家族で来ている。海豹の毛皮や鯨油蝋燭、鯱の牙細工や鯨の骨細工は唯論の事、羊毛や織物、銀の装飾品を扱っていた。
 特に、毛皮と鯨の骨細工は高く売れると父は言っていた。最も珍重される龍涎香は残念ながら鷲の島ではほんの少ししか採れない。これはほぼ、海神の民の独壇場だ。高価な純白の獣の毛皮も、そうだ。
 鷲の一族には、そのような特別な物はなかった。だが、それは他の部族にしても似たりだろう。海神の民は最北の絶海の孤島に住まう代わりに、そのような産物を得ていると言えるのかもしれない。
 商人や町の人々の中に、少数ではあったが長剣を佩いた戦士も混じっていた。北海の部族による襲撃に備えての雇われ戦士かもしれない。そういうのは特に性質(たち)が悪いから気を付けろと船長からも言われていた。
「ディオン、これなんかはどうだ」
 ローズルの声にはっとした。
 見ると、かなり細い糸で編まれた複雑な模様だった。結構な値がしそうだった。
「綺麗ですね」
 値段が気になった。こういう物の相場はディオンも知らない。姉にそれだけの価値があるのかも分からない。
「そいつはお安くしておきますよ」店主の男が言った。「麻糸だから丈夫ですしね、お買い得だと思いますよ」
「これを女物の服に使うとしたら、幾らする」
 値段の交渉が始まった。だが、互いに呆気なく折り合いがついたようだった。
「まあ、こう言っちゃあ何ですが、なかなか売れなかった物ですからな。一反も買って下されば、原価を割らなかっただけでもよしとしましょう」
 店主はそれでも満足そうに言った。
「姉は喜ぶでしょうね」
「なら、良いんだがな」
 ディオンがローズルに言うと、見た事もないような照れた笑いが帰って来た。戦士とは全く別の顔だった。婚礼の日でも、こんな顔はしなかったというのに。
「これからお前は母君への贈り物を探すのか」
「はい」
「ついて行こうか。お前は買い物の仕方を良く知らんだろう」
「いえ、大丈夫です。今の様子を見ていましたから」
 そうか、と少々疑わしげにローズルはディオンを見た。だが、母への買い物を見られるのは気恥ずかしかった。
「まあ、そう言うなら、屋台の出ている所にいるからな。そこで落ち合おう」
 ローズルは深く追求せずに背を向けた。その後を雪牙が追い、冬星は羽繕いしながらもディオンの動向を窺っていた。
 母には指貫が良いだろうと思っていた。刺繍や縫い物の好きな母は、常に針を放さない。父の物は唯論の事、ディオンの全ての持ち物に紋章や名の頭文字、護符の刺繍が入っていた。当たり前のようにそれを今まで使ってきたが、他の者を見るとそうでもないようだった。それがディオンの母の愛情なのかもしれない。当然、一家の女主人として織物や糸紡ぎも恙なくこなしていたが、やはり得意なのは刺繍だった。姉達にも教えてはいたが、結局、ものになったのはデリアースだけだった。ヘルニは織物、リグルは編み物に向いていた。だから、三人が揃うと良い具合に服が出来上がるのだった。
 糸でもよいかもしれない、とディオンは思った。新米の自分の分け前はそう大した事はないだろう。それならば、まだ、糸の方が良いのかもしれない。
 そう思いながら、女物の小間物屋を見て回った。
 その中で、指輪や腕輪が売られている店があった。何とはなしに眺めていると、目を引く物があった。細くて地味ながらも見事に装飾された腕輪だった。
 手に取って重さを確かめると、銀のようだった。
 銀では無理かもしれない、そう思いながらも、船長から渡された小袋の重さを確かめてみた。
 思ったよりも持ち重りがする。
 まさか、と思った。
 そこには割銀や銀貨に混じって金貨も入っていた。新米の正戦士には、取り敢えずとしては充分過ぎる報酬だ。
 恐る恐る腕輪の値を訊ねると、思ったよりも安価だった。銀の重さに銀貨を一、二枚足した値で売られていた。
 等価より少し重いくらいならば躊躇いはなかった。ディオンは値を支払った。
 しかし――と、腕輪を帯の小物入れに仕舞いながら思った。しかし、これは母には似合わない。
 誰に似合うのかは分かっている。問題は、どうしてそう思ったのかだ。しかも、腕輪とは。
 母には、やはり糸を買った。島では余り見掛けぬ色ばかりを集めて。
 そして、ローズルに合流するために屋台の方へ向かった。それを察してか、冬星が飛び立った。
 空から冬星がディオンを導いた。
 雪牙の場所を探し出したのだろう。もしかすると、他の者もそこに集まっているのかもしれない。
 そこは広場になっており、中央に長椅子と長卓が並べられていた。まだ時間が早いのか、人は少なく、ローズルはすぐに見付かった。共にロスキルもいた。二人とも傍らに鷲を置き、肉をやりながら談笑していた。
 側に行くと二人は杯を置いた。そして荷物を預かるから(糸は結構な量になった)食べ物と飲み物を調達してこいと言われた。
 冬星はまるで席を取るかのように赤目の横に降りた。
 ロスキルに糸を包んだ物を渡すと、ディオンは屋台へ向かった。冬星用には生肉を分けて貰わねばならなかったが、不審な顔をされた。ついでにその屋台で売られていた赤い酒を持って二人の所へ戻ると、冬星はちゃっかりと肉を分けて貰っていた。
 ローズルが笑った。「先に冬星は始めているぞ」
「済みません」
「何、大した量ではなし」
 ロスキルも言った。「まあ、良い買い物が出来たようだな」
「でも…」
 そう言い淀んでディオンは船長から分け前として渡された小袋を見せた。
「多すぎませんか」
「それはない」
 きっぱりとロスキルは言った。そしてディオンの背を叩いた。「それだけの働きをしたという事だ。大丈夫だ」
「何だ、分け前に怖気付いたか」ローズルが言った。「貰っとけ。充分に働いたと思うぞ、お前さんは」
 それ見ろ、と言うようにロスキルは頷いた。「それより、食え」
 三人が食事をしている間にも、他の戦士達が加わり始めた。皆、鷲用の生肉はここではなく、肉屋で調達したようで、塊のまま与えていた。
「冬星はお嬢様だな」
 人間用に小さく切った肉を見てそう笑う者もいたが、ディオンは気にならなかった。そこには、同期の者とは異なり、悪意はなかったからだ。
 羊の肉と、ふわふわの白い麵麭を堪能した。
 食事の後には出航に向けての準備に掛からねばならなかった。新米にとっては、つかの間の休憩でしかない。
「明日はまた船だな」ローズルがディオンに言った。「そろそろ北海は荒れるからな。嵐が来なければ良いのだが」
「そうだな」
 ロスキルが真面目な顔で頷いた。
「手練れの男が何を言う。ディオン、嵐に遭ったら、ロスキルの命令を絶対に守れよ。北海広しと言えど、こいつの操帆術の右にでる奴はそう多くないからな。トグル殿も頼りとする程だ」
 ディオンは愕いてロスキルを見た。今まで誰もそのような事は口にはしなかった。穏やかな今までの航海では言う機会もなかったのかもしれないが。
「その代わり、指示通りに動かなかったり動けない奴は海に投げ込まれるぞ」
 にやりとローズルが笑い、その言葉に賛同するかのように雪牙が鳴いた。


 交易島を出て二日目の昼過ぎ、船長の顔が急に険しくなった。そして、各船の上での動きが急に慌ただしくなった。
 ロスキルも眉間に皺を寄せ、考え込んでいるようだった。
「嵐が来そうだな」
 ぽつりとハルドが言った。「波が高くなって来ている」
「そうだな」ロスキルが答えた。「水平線に黒雲も見える」
 やがて船長がロスキルを呼んだ。
 二人は舳先で艫で、海と空を指しては話し込んでいた。
 ディオンの中で不安が広がって行った。航海で嵐に遭う事は覚悟していたつもりだった。だが、いざ、そうなってみると不安ばかりがつのった。陸上での嵐でも、充分にその恐ろしさは知っている。それでも、実際に海に出ると外洋での船の小ささを思い知らされた。幼い頃、水溜まりに蟻や小さな虫を乗せた葉っぱを浮かべて遊んだ事があったが、今はその虫の気持ちが分かるような気がした。
 熟達の戦士達が酒を呑んで良く歌う、板子一枚下は何尋、という節が、ようやく実感された。
 船長が指示を出し始めた。長櫃は一箇所に集められて網と綱で固定された。舵も外された。
「北海に帰って来たな」
 近くの船の船長が声をかけて来た。「嵐だ」
「互いに幸運を祈ろう」
 トリグ船長が応えた。
「そっちにはロスキルがいるだろうが、その分の幸運をこっちに寄越せ」
 嵐を前にしての会話とは思えなかった。そんなやり取りの内に、風が強くなっている事にディオンは気付いた。空に雲が出て来た。
「おいおい、やばいな。こいつは捕まるぞ。言っている内に陽が暮れる。夜の嵐は勘弁して欲しいのに」
 誰かがそう言うのが聞えた。
 運が良ければ、逃げられるのだろうか。
 そんな事を考えたが、すぐさま命令が下った。ディオンに出来るのは、その命令に従う事だけだった。
「いいか、新米共、よく聞け」ロスキルが呼ばわった。「操帆に関しては、全て俺の命令に従え。無事に島に帰りたければ、絶対に指示を聞き逃すな」
 これまでに、見た事のないロスキルだった。穏やかで飄々とした普段の姿はどこにもなかった。その豹変ぶりにロウ達も圧倒されたのか、唯頷いていた。
 雨粒がディオンの顔に落ちた。
「さあ、気合いを入れろ、来るぞ。鷲の事は忘れろ、餓鬼共。あいつらの方が、お前らよりもずっと、生き残る術を知っているからな」
 船長も叫んだ。
 徐々に強くなる風と波にあおられて船同士がぶつからないように、互いに距離を取り始めた。
 ちらりと竜頭船がディオンの目に入った。舳先でじっと前方を見つめている父の姿が見えたが、次の瞬間には他の船が間に割って入り、見えなくなった。
 海のうねりが大きくなった。
「綱を索具から外せ」ロスキルが叫ぶ。「綱を抑えろ」
 遠雷の音が聞こえ、鷲が舞い上がって行った。

 
 それからはディオンは混乱の中にいた。ただ、ロスキルの言葉だけが頼りだった。
 冷たい雨と低い船縁を越えて来る北海の荒波で身体は濡れ、動いていないと芯まで冷えそうだった。
 船は、帆の綱をロスキルの指示通りに操る者と、どうしようもなく船底に溜まって行く海水とも雨水ともとれぬ水を掻き出す者とに分かれた。
 上下左右に船は揺れ、気が付くと船団の姿は激しい雨と高い波とで見えなくなっていた。急に心細さがディオンを襲った。だが、どうする事も出来ない。
 低く垂れ込めた雲に、時間の感覚も狂った。
「もう駄目だ」
 ロウが弱音を吐き始めた。
 限界なのは、誰もが同じなのだとディオンは気付き、却って落ち着きを取り戻す事が出来た。そして、空へと消えて行った冬星の事を思った。
 嵐の中であっても、もっと弱く小さな鳥は渡りをする。鷲は必ず、嵐が治まれば戻るのだと言われたが、それでも案じずにはいられなかった。
「ロウ、動けっ」
 ロスキルが叫んだ。
 だが、ロウは動かなかった。大きく揺れる中を、ロスキルはよろめきながらロウに近付き、うずくまったままの身体を蹴飛ばした。
「動けっ。船を沈めたいのか」
 常にないロスキルの剣幕に、ディオンもぎょっとした。
「無理だと言うなら、船から降りろ、邪魔だ」
 他の二人も綱を握り締めながら、脅えた表情でロスキルを見ていた。今のロスキルの様子からすると、本当に海に投げ込まれかねない。それは、避けなくてはならない。
「ロウ、立てっ」
 ディオンは思わず叫んだ。「ここは北海だ。もうすぐ帰れるんだぞ。こんな所で音を上げてどうする」
 ぼんやりとしたロウの目が、ディオンに向けられた。
「そうだ、北海だ。もうすぐ島だ。島に帰りたくはないのか。リンドルもイルスも、帰りたければロスキルに従え」
 ロウは首を振った。その顔は泣きそうに歪んでいた。いや、雨と海水で分からないだけで、もう、泣いているのかもしれない。
「帰りたければ動くんだ、ロウ。そうしないと、帰れないぞ」
 ディオンはロウの目を見据えて低く、穏やかな声で言った。
 蒼ざめていたロウの顔に徐々に生気が戻り、目もしっかりして来た。そして、大きく頷いた。
「よし、ロウ、前へ進め」
 ロスキルが言った。ロウはその指示に従った。皆が一丸とならなければ、この嵐を生き延びる事は出来ないだろう。
 ロスキルはそれを見届けると再び元の位置に戻った。その途中でディオンと目が合うと、相変わらず厳しい顔だったが、その肩を何度か叩いた。
 そうだ、生きて帰らなくてはならない。これも、戦いの一つの様相なのだ。北海との。己との。
 それに打ち勝つ事が出来た者だけが、北海の戦士を名乗る事が出来るのだろう。
 まだまだ、自分達はその資格があるのか試されているのだ。
 だが――とディオンは思った。だが、自分は北海の戦士になりたいが為に生きたいのではではない。何があっても、島に帰らねばならないからだ。
 母に、男子二人を失った哀しみを味あわせたくないだけではない。
 エイリィズ。
 エイリィズに、会わねばならない。
 想いのたけを知らせる為に。
 あの腕輪を渡す為に。
 そうだ、自分でも気付いてはいなかった。島を目前にしての死の淵で、ようやく気付かされた。
 エイリィズでなければ、駄目だ。
 他の誰が、自分を支えてくれるのだろう。本当の自分を見てくれるのだろう。
 いつでもエイリィズは、ディオンをディオンとして見てくれていた。
 二人と一羽で、共に人生を歩んで行きたかった。
 それには、こんな所で死ぬ訳にはいかない。
 綱を手に巻き付け、船縁に踏ん張りながらも、ディオンの心を占めていたのはエイリィズの事だった。


 永遠とも思える嵐が過ぎると、透き通るような青空が広がった。
「ようし、皆、一晩中、良く頑張ったな」
 ロスキルが一人一人の肩を叩いて言った。
「新米の餓鬼共も良くやったな。乾いた服に着替えて眠れ。そのままだと風邪をひくぞ」
 いつものロスキルの笑顔がそこにあった。
「随分と流されたようだが、大丈夫だ。船団の航路と島の位置は船長と俺に任せておけ。必ず合流できるからな」
 ハルドも言った。
 それを合図としたかのように、空から鷲達が降りて来た。一番乗りはやはり、冬星だ。
 くぐもった甘え声でディオンにすり寄る。
 撫でてやると更に甘えて来た。
 誰かが言ったように、本当にお嬢様だなとディオンは苦笑した。
 半日も経たない内に船団と合流する事が出来た。族長船の横を航行した際に父と一瞬、目が合い、互いに頷きあった。それだけで、互いの無事を喜ぶ気持ちが通じた。それは、少々、不思議な感覚だった。
 あれだけの嵐であったのに、全船が無事だった。歴戦の者に言わせると、あれしきの、ではあったのだが。
 その日の夕暮れに、族長船で海神への儀式が行われるというので船は密集し、船長は族長船へ船伝いに向かった。
 風に乗って、父の祈りを捧げる声が聞こえて来た。
「海神に、この幸運を感謝するんだ」
 今にもぶつかりそうなくらいに接近した船を巧みに操りながら、ハルドは言った。「本当に恐ろしいお方だからな、海神は。気紛れで、猛々しい。また御機嫌を損ねぬように、蜜酒の残りを捧げねば」
 まあ、今回は早めに遠征が終わって良かった。そうも言った。時期が遅れると更に天候は厳しくなり、風雨や海水も命取りになりかねない程に冷たくなるのだ、と。
 真冬に海に投げ込まれるのも訓練の内だった。だが、このような大海原ではそれが何の役に立とう。年長の戦士達は平気で真冬の海で泳いだりもするが、それが強靱な身体を作るのだという理屈は分かる。しかし、嵐にこの大海に投げ出されたらお終いだろう。決して、助けては貰えない。いや、助けたくとも無理だ。
 そうやって死んでいった者達もいるだろう。
 どれ程、無念だった事だろうか。
 生き残った者は、その分までも生に責任を持たねばならないではないかと、ディオンは思った。
 ようやく島が見えて来た時、ディオンの心を占めたのは安堵だった。
 初めての遠征は、何とか終わった。これからは毎年、これが繰り返されるのだ。結局、ディオンは戦いや掠奪といった行為が好きにはなれなかった。だが、戦士としての義務は部族民を守る事にある。それは財産や身体的なものだけではない。精神的な支えとなり、長い冬の飢餓からの解放も含まれる。そして、エイリィズのような貧しい者も、決して飢える事のないようにするのが族長の役目だ。
 自分にそれが務まるのだろうかと不安になった。
 だが、兄の遺志を無視する事はディオンには出来なかった。あの優しく強かった兄が、自分よりも族長に向いていると今際の際に言い残してくれたのだ。兄が、まだ幼かった自分の中に何を見たにせよ、それを裏切りたくはなかった。そして、エイリィズの為にも。
「今の内に身なりを整えておけよ。でないと、女房殿に逃げられても俺は知らんからな」
 船長の声に笑いが起こった。
 皆、出港の際に着ていた良い胴着に着替えた。髭や髪も整える――と、もたもたしていたイルスが年長者に押さえつけられたかと思うと、折角の髭を剃られてしまっていた。
 帰還は全て、出航とは逆の順序で進んで行く。帆を降ろし、櫂で進み、浅瀬に乗り上げるとそこからは奴隷の仕事だった。
 準備が整うと下船だった。冬星はディオンの肩に止まっていたが、姿勢は保っている。
「祝宴には、幾ら疲れているとは言っても参加はしろ」
 ロスキルが陽気に言った。島に戻れたのは、やはり嬉しいのだろう。
「せめて乾杯の時くらいはいろよ。出航の宴では、お前は最後までいなかったろう」
 どきりとした。ばれていたのだ。「まあ、大人が酔い潰れるのを見るのはそれ程気持ちの良いものではないかもしれんが、付き合いも大事だぞ」
 そう説教をされながら浜に下りた。
「俺はこのまま帰るからな。分かったな」
 帰還したロスキルを誰も迎えに出ていないのは、相変わらずだった。どのような事情があるにせよ、この六年、一度も奥方の姿を見ないというは、不自然だった。
 ロウは母親に抱きつかれていた。船長もハルドも奥方と子供に囲まれている。ローズルにはリグルがいた。姉の所には戦士長もローズルの弟達も集まっていた。どうやら、本当に婚家に受け入れられているようだった。
 一応、ディオンは母を探した。当然、父と共にいたのだが、何とはなしに二人の間には入って行きづらかった。肩で冬星が低く唸った。両親はあからさまに互いの愛情を表す事はなかったが、今のディオンには、どれ程二人が強い絆で結ばれているのかが見て取れた。
 それは、自分が子供ではなくなったからなのだろうか。
 そうディオンは思った。
 ただぼんやりと父母を眺めていると、母が気付いた。
「ディオン」
 母の言葉に、ディオンはびくりとした。
 自分はどのように見えるのだろうか。人を殺め、好きでもない女を抱いた自分は、母に顔向け出来るような人間なのだろうか。
 棒立ちのディオンの許に、母がやって来た。
「ずいぶんと、たくましくなって戻って来ましたね。すっかり大人の顔になって」
「はあ」
 どう答えて良いものやら、ディオンには分からなかった。
「よかったわ。あなたも殿も、ローズルどのも無事で」
「母上も恙なくお過ごしでしたか」
「わたしは大丈夫でした。あなたも、怪我がなくて何よりです」
 その時、ディオンは土産の糸を長櫃に入れたままであった事に気付いた。
「交易島で刺繍の糸を購って来たのですが、生憎と船に置いたままです」
「この子は――」
 母がディオンを抱き締めた。
「わたしにとっては、皆が無事に帰って来ることこそが、大事なのですよ。気をつかう必要はありませんから」
 父が苦笑いをしていた。
「ディオンは一人前の戦士なのだからな、何時までも子供扱いは却って、可哀想だ」
「そうですわね、つい、嬉しくなってしまって」
 その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
 そう、母は息子だけではなく身内も遠征で亡くしているのだった。少しばかり神経質になったり感傷的になったりするのを責められない。
「宴の準備は出来ておりますわ、ですから、その前にどうぞ、しばらくでもゆっくりなさって。ディオン、あなたも、湯浴みの用意をするように言ってありますからね」
 母は言った。
「そうだな。そうさせて貰おうか」
 父はディオンを誘った。三人は連れ立って館へ向かったが、ディオンの心は西の崖にあった。


 乾杯が終わると、座が乱れ始めるのを待つ事が、ディオンには出来なかった。最初はせめてそのくらいまではと思ったのだが、どうにも我慢がならなくなった。少しの時間でも惜しい気がした。
「落ち着きがないな」
 そんなディオンの様子を察したのだろうか、ロスキルが言った。「こんな所にいる場合ではないと言う顔だな」そしてにやりと笑った。「女、だな」
 かっと顔に血が上るのが分かった。
「図星って事か」
 杯を口に運びながらロスキルは笑いをこらえているようだった。
「仕方のない奴だな。早々に色気づきやがって」そう言ってディオンの髪をくしゃくしゃと撫で回した。「誤魔化してやるから、行って来い。酒は待ってくれるが、女は待ってはくれんからな」
 ロスキルに礼を言うと、ディオンは抜け出す機会を窺った。
「だがな、ディオン」ロスキルは言った。「近いうちに次期族長を決める裁定が行われるだろう。あの嵐の夜、俺はお前に族長の資質を確かに見たぞ」
 え、とディオンは思った。だが、ロスキルはさっさと行け、と追い払う仕種を見せた。
 喧騒を後ろに館を出ると、ディオンは馬に鞍を乗せて走らせた。
 頭の中は、西の崖にエイリィズがいる事を願う気持ちで一杯だった。冬星が付いて来ているかどうかも確認しなかった。両翼を広げると七尺を有に越える巨大な姿が、自分の眼前に現われるまで、気付きもしなかった。
 普段ならば絶対に有り得ない事だった。
 西の崖の麓に馬を乗り捨てると、急いで起伏の多い丘を登った。
 鷲達の木の下に、何事かを思案している様子のエイリィズの姿を認めた時には、心臓が跳ね上がった。
「エイリィズ」
 気持ちを抑えきれず、ディオンは叫んだ。「エイリィズ」
 娘は、はっとしたように顔を上げた。そして、ディオンを見た。
 ディオンは思わず両腕を大きく広げてエイリィズの方へと走り寄った。
 エイリィズが、同じように走って来た。
 ディオンはエイリィズを胸に抱き止めた。
「ディオン、無事だったのね」
「ああ」
 ディオンはエイリィズを抱き締めた。この瞬間の為に、自分は戻って来たのだ、と実感した。
 エイリィズがディオンの首に齧り付いて来た。
「よかった。本当に、無事でよかった」
 その顔が見たくなり、ディオンはエイリィズの肩を摑むと少し身を離した。青い眼には涙がたたえられており、わなないている唇には少しだけ笑みが浮かんでいた。
 美しい、とディオンは思った。
 そして、唇付けた。
 そうなると、もう、抑えがきかなかった。互いに求め合う心は同じだった。慌ただしく交わり、次はゆっくりと慈しんだ。
「君に、会いたかった」
 ようやくエイリィズを解放してその身を抱き寄せると、ディオンは囁いた。
「エイリィズ、君に、会いたかった」
 ゆっくりと、エイリィズが顔を上げ、ディオンを見た。その目に涙はなかった。手が伸び、ディオンの頬に触れた。夢見るような表情だった。
「あなたはすいぶんと変わったわ。本当の戦士になったのね。大変な経験をしてきたのね」
「私の手は血に塗れている。そんな手で君に触れる事はしたくはなかった。だが、私は、君に会う為にだけ、生き残って来た」
 頬に当てられたエイリィズの手を取り、その掌に唇付けた。
「嬉しい」
 エイリィズは再びディオンの胸に顔を埋めた。
「初めてあなたに会った時、これが北海の、わたしたちの戦士なのだと思ったわ」エイリィズは言った。「その時から、ずっと、好きだった」
「うん」
「でも、あの大祭の時、わたしたちは違っているのだと思い知らされたわ。わたしは鷲の巫女。あなたは族長家の跡取り。決して、関わったり好きになったりしてはいけない人だった。好きになったところで、どうしようもない人だった」
「エイリィズ」ディオンは娘を抱き締めた。「私は君を愛している。その事に遠征で気付かされた」
「あなたは、あの時の責任を取ろうとしているだけよ」
「違う」ディオンはエイリィズの耳に囁いた。「私はあの時、恐ろしかった。死ぬ事が――生きている事の意味すら分からぬままに死ぬ事が、とてつもなく恐ろしかった。だが。その事を話せるのは君しかいなかった。それなのに、いざ、君に会ってみると三年は長かった。ずっと君を見て来たのに、知らぬ間に君は大人になっていた。自分だけ取り残されたようだった。しかも、君は鷲の巫女としてその夜に購われるだろうと言った。その気持ちのやりどころを、私は知らなかった。好きな男のものになるならまだしも、君が好きでもない男の腕に抱かれるのは我慢ならなかった。そんな様々の事が一気に押し寄せて来て、どうして良いのか分からなかった。自分を律する事が出来なかった。まるで、君をその吐け口にしてしまったようで申し訳ないと思った」
「それで、わたしに謝ったの」
「そうだ。私は情けない、最低な男だろう」ディオンはエイリィズの顔を上げさせた。「そんな男でも、君は好きだと言ってくれるのか」
「もちろんよ。わたしはあなたを愛しているわ。そうでなければ、ここで待っていたりはしない」
「遠征の間、私は君の事ばかりを考えていた。何故なのか、最初は分からなかった。罪悪感からかと思った。だが、違う。私は自分でも気付いていなかっただけだった。私は、君がいないと駄目だ。君に支えて貰わなければ、駄目だ。君がいるからこそ、こうして戻って来られた」
 ディオンは近くに脱ぎ散らかした服の中から革帯の小物入れを引っ張り出し、交易島で手に入れた銀の腕輪を取り出した。
「受け取って、欲しい」
「でもこれは銀で――腕輪だわ」
 エイリィズが言った。
「そう、私は君に求婚しているんだ」
 一瞬、エイリィズの顔が呆然となった。だが、すぐに真顔になると腕輪をディオンに押し付けた。
「だめよ。あなたがこれを贈る人は、わたしじゃない」
 エイリィズは真剣な眼差しでディオンを見た。「あなたはいずれ族長になる人だわ。外の世界を見て、そうして地位のある女性と一緒になる人だわ。わたしとじゃない」
「エイリィズ…」
「わたしはね、あなたとの子は欲しいの。でも、子ができたら、あなたはわたしのことを忘れて務めを果たして。わたしはそれだけで充分、幸せだわ」
「君の他に誰がいると言うんだ」
 ディオンはエイリィズの肩を摑んだ。
「世界は広いわ。あなたはそこへ出て、色んな人に会ったら考えも変わるわ。いくらでもあなたに相応しい人はいる。わたしとのことは、若い日の思い出にした方がいいのよ」
「駄目だ。私が次期族長になってから寄って来るような女には興味がない。それに、君には冬星だって懐いている」ディオンは言った。「我々、鷲の戦士は、鷲が認めた女とでなければ一緒にならない。鷲は一生を同じ番で過ごすのだと言ったのは、君だろう。冬星は、君が私の側にいる事を認めている」
「ディオン」
 聞き分けのない子供に諭すようなその優しい声と仕種に、ディオンは思わず唇付けた。
「お願い、鷲の巫女はあなたのような身分のある人とは、一緒になれないのよ」
 長い唇付けの後、荒い息の下からエイリィズは言った。
「私は君の為に、族長になる決心をしたのにか」
「え」
 愕いたようにエイリィズは目を見開いた。
「そうだ、君の為だ。流されてばかりの私だが、君の為にこそ、裁定に真剣に臨むと決めた。族長の地位など、どうでも良かった。欲しい者にくれてやれば良いと思っていた。君と一緒になるだけで、良かった。だが、今は違う」
「あなたは馬鹿だわ」
「ああ、分かっている」ディオンは微笑んだ。「こんな馬鹿でも愛してくれるのなら、この腕輪を持っていてくれ」
 そう言ってエイリィズの手にするりと腕輪を嵌めた。
「近く、裁定が行われる」
 ディオンの腕の中で、ぴくりとエイリィズが動いた。
「どうして、そんな大事な時に、こんな…」
「鷲の巫女の力を借りに来た訳じゃない」きっぱりとディオンは言った。「私は、君に、エイリィズという女に会いたかった。この腕に抱きたかった」
「でも、他の人がこの事を知ったら、きっと、あなたが鷲の巫女の力を借りたのだと言うわ」
「言いたければ、そうすれば良い。私は、エイリィズ、君の為なら勝てる。君と共に生きる為に勝つんだ。そうだ、君が、私に生きる意味を教えてくれた。私にやるべき事を教えてくれた」
「ディオン…わたしを選んで、後悔しないの」
 エイリィズは小さな声で、言った。
「何を後悔する事がある。君がいて、冬星がいて、それ以上の事は私は望まない」
 エイリィズの顔は、どこか哀しげだった。


 裁定の日がやって来た。その日まで十日間、ディオンは冬星と共に体調を整え、万全の状態で臨めるように努めた。族長として自分の成すべき事がはっきりとした今、躊躇いはなかった。
 推挙されたのはやはり、ディオンとイヴォルダスの二人だった。強敵だという事は分かっていたが、負ける気はしなかった。互いに遠征で研鑽を積んだ。だが、族長への野心はあったが、明確なその後の目的が、イヴォルダスにあるのかどうかは怪しいものだった。そのような者に、父の守って来た座を渡す訳にはいかなかった。
 ただ、不安があるとすれば、それはエイリィズの事だった。裁定の場に来る事を約してくれたものの、本当に来るかどうか、ディオンには自信がなかった。
 しっかりと目を見て約束を交わした訳ではなかった。
 また、鷲の巫女という事に、エイリィズは引け目を感じている。
 人々の中で、エイリィズを見て三年前の鷲の巫女だと気付く者はどの位いるのだろうか。随分とエイリィズも変わった。あの時に絡んだグレンとギッシュでさえ、分からないだろう。いや、あの二人の事だ、そのような事があったか憶えているかどうかも怪しいものだった。
 エイリィズから、三年前からずっと好きだったと言われてディオンは不思議な感じがした。そんな素振りはなかったからだ。だが、自分が例によって鈍すぎるのだろう。あの言葉は、存外の喜びだった。
 だからといって、油断をしているとエイリィズはすぐにでも逃げてしまいそうだった。
 裁定がどのように下ろうとも、ディオンは父にエイリィズとの婚姻の許しを乞うつもりでいた。その為にも、その場にエイリィズがいてくれなくては困る。
 最も良い方法は、自らエイリィズを迎えに行く事だった。迎えに出て、いなければそれは行き違いになったという事だ。それならば、それで構わない。だが、いたとすれば、自分が強引に約束を取り付けてしまったという事になる。そうでもしなければ、エイリィズは身を引く事を選んだだろう。また、ディオンの子が欲しいというのであれば、それがはっきりとするまではエイリィズは他の男のものにはならない。それはひとまず、安心できる材料だった。
 ディオンは馬を引き出した。今日がどういう日かを知っている者達が引き留めにかかったが、ディオンは館を出た。
 西の崖近くの村まで往復すると、裁定まではぎりぎり間に合う計算だった。道は裁定を見ようという人々がいたので、ディオンは姿を見られぬようにいつもの近道をした。置いて来るつもりだったのに、冬星も一緒だった。
 村のどの家かはディオンには分からなかった。ままよ、と村の入り口で馬を降り、エイリィズの名を叫んだ。
 浜に出ていた人々も、家にいた人々も何事かとディオンを見た。
 その内の一人の男に、ディオンはエイリィズの家を訊ね、馬に水をやってくれるよう頼んだ。
 指された方にある苫屋は、貧しい他の家屋に較べても更に粗末なものだった。
「ディオン…」
 海から、声がした。浅瀬で網を洗っているエイリィズがいた。その側にいる良く似た青年は兄、年下の二人は弟と妹だろう。
「今日は裁定の日でしょう」
 エイリィズが愕いたように言った。
「そうだ、だから、迎えに来た」ディオンは言った。「約束しただろう」
 エイリィズは目を逸らせた。やはり、来るつもりはなかったのだ。
 ディオンはエイリィズの手首を摑んだ。そして、青年に言った。
「エイリィズの兄上ですね。きちんとお送りしますので、ご心配には及びません」
 そう言うと、呆気に取られている人々の間をディオンはエイリィズを連れて歩いた。そして、水を飲み終えた馬に乗せた。
「一体、どういう…」
「飛ばすから、喋ると舌を噛む」
 エイリィズの後ろに乗った。「しっかり、摑まっているんだ」
 そう言うと、ディオンは一気に馬を走らせた。
 迷惑を掛けまいと思ったのだろうが、それは大間違いだと言いたかった。誰が何と言おうが、構わなかった。村では様々な憶測が飛び交っているだろうが、それも結構、だった。
 結局の所、エイリィズを確実に肯首させるには、退路を断つしかないのだ。エイリィズの事だ、子が出来ても、決してその父親の名を口にする事はないだろう。会わせても貰えまい。そのような子を産めば、更なる窮状に置かれると分かっていても。
 村の誰もがディオンの姿を見た。
 これで、エイリィズは逃げられない。
 馬を飛ばし、館に戻るとエイリィズを降ろして奴隷に手綱を放り投げた。
 そのままエイリィズを引っ張り、奴隷女に姉の服で良いので着替えさせて裁定の場に連れて来るようにと言い付けた。自分が呼ぶまで、決して目を離すなと言う事も忘れなかった。折角ここまで来て逃げられたのでは、目も当てられない。
「どこへいらっしゃったのですか、そろそろお召し替えをなさらないと間に合いません」
 家令の言葉に無言で頷き、ディオンは部屋へ向かった。冬星は最初、どちらに付くかを迷っていたようだったが、ディオンが呼ぶとすぐに追い掛けてきた。
 寝台には、母が用意したのであろう、新しい衣服が置かれていた。
 手早く、だが、慌てる事なく着替えを済ませた。エイリィズがしがみついていた物は、海の匂いがした。長剣を佩いたところで母が呼びに来た。
「只今、参ります」
 そう言うと、御守りのようになっている兄から貰った短剣を背後に確認した。
 聖なる木の広場へ、ディオンは母と共に向かった。父は族長として評議の中心にいる。だが、今回は息子のディオンが関わる為、隣の叔父と共に裁定での権限はない。
 広場には、思ったよりも多くの人が集まっていた。
 次の族長に、皆は興味があるのだ。
 当然と言えばそれまでだが、ディオンは族長になれば、否応なしにこの人々の生命に責任を持たねばならないのだ。その事を思うと気が引き締まった。
 南中に、裁定は始まった。
 名が呼ばわれ、ディオンはイヴォルダスと共に広場に進み出て族長達の前に跪いた。イヴォルダスは自信があるようで、口元に笑みすら浮かべていた。
 そう、確かに、イヴォルダスに分があるかもしれない、とディオンは思った。だが、自分だとて、負ける訳にはいかないのだ。自分に勝機があるとすれば、そこだと思った。
 族長が、この度の裁定について語った。そして、競技の事を。
 長剣、短剣、槍、弓、斧、体術、放鷲(ほうしゅう)術だ。三本勝負で、放鷲術のみが、一度で全てを決めなくてはならない。
 戦士長や船長から、此度の遠征での二人の報告が上がっている事だろう。戦いでの様子や、操船術の事などだ。
 あの最初の襲撃以降は、イヴォルダスと戦いを同じくする事はあっても、姿を見る事はなかった。だが、その戦い振りは勇壮であったと聞いた。
 評価が気にならない訳ではなかった。何しろ、イヴォルダスは叔父の船に乗り込んでいたのだ、より多くの戦士の目に触れただろう。ロスキルは戦士はディオンを支持するとは言っていたが、目覚ましい働きを示した者が評価されるのは当然だった。ディオンはその点では自信がなかった。
 競技の始まる合図が出された。まずは長剣。
 イヴォルダスの使うがっしりとした剣に較べると、ディオンの物は細身で頼りなげに見える。確かに、力技では敵わない。だが、この剣で遠征を戦い抜いて来た。鍔迫り合いになれば、分があった。身を少し引く事で相手は身体の平衡を崩してしまう。その隙を狙うのだ。
 途中までは互角かイヴォルダスが圧していたが、幸運な事に、従兄はこの戦法に対応しきれなかった。よって、ディオンが勝った。
 短剣はディオンの得意とするところだった。大柄なイヴォルダスの動きは愕く程に緩慢で、簡単に勝つ事が出来た。
 だが、槍は駄目だった。背が低かった為、元より苦手だった事もある。何より、好んで使う武器ではなかった。
 弓もディオンは得意だった。例の集中すると的の方が近付いてい来るという感覚は、遠征で更に研ぎ澄まされたように思った。静止した的にせよ、投げられたかわらけにせよ、全てを命中させた。これもディオンが取った。
 斧はイヴォルダスが取った。どうもディオンは柄物は苦手だった。
 体術は互角だった。戦士の中にも不思議に思う者も多かったが、ロスキルから教わった方法だと、長剣と同じく力任せだけでは勝てない方法もあった。しかし、体力差で結局は負けた。
 五分五分の勝負だった。最後の放鷲術に競技の全てが掛かっていた。だが、ディオンは心配はしていなかった。冬星を信じていた。むしろ、イヴォルダスは神経質になっているようだった。風雅を信じない訳ではないだろうが、冬星は抜きん出ていた。あの海王に先んじる事の出来る鷲は冬星のみだった。
 今日の冬星は甘えた素振りは一切、見せなかった。落ち着き払い、まだ若いというのに、堂々としている。
 対して、風雅は落ち着かなかった。羽ばたいたり、せわしなく足を踏みならしたりしていた。まるでイヴォルダスの苛立ちを代弁しているかのようだった。
 イヴォルダスにしてみれば、こんなに苦戦を強いられるとは思ってもみなかったのだろう。だが、ディオンとて、いつまでも「ちびのディオン」ではない。遠征も同じように経験したのだ。甘く見られても困る。
 競技は二人同時に行われる事になっていた。評議をする長老の一人が出す指示に従って鷲を動かさなくてはならなかった。
 まずは止まり木からの呼び戻し。これは初歩だ。そこからいきなり難しい技に移行し、連続して空中飛行の指示が続いた。それでも冬星は難なくこなした。悠々と飛ぶ冬星を見ていると、いつでもディオンの心は喜びで満たされた。何と優美で力強い生き物なのだろうかと思う。それが余裕に繋がり、これが競い合いである事もつい、忘れてしまう程だった。元々、競う事には興味のない方だった。だが、勝たなくてはならない理由があるからこそ、こうしているのだ。
 もし、静かに争うことのない生活を選べるのだといたら、ディオンはそうしただろう。
 冬星もそれを感じ取っている筈だ。二人と一羽で穏やかに生きて行けるのならば、それに勝る幸福はないだろう。誰の期待も関係なかった。
 北海の戦士らしくはないのかもしれない。
 族長として相応しくないのかもしれない。
 それでも、良かった。
 冬星は嬉々として指示に従う。
 だが、未来に何の展望も持たない訳ではなかった。エイリィズの為にも、この勝負には勝たねばならないのだ。
 最後に、地面すれすれの急降下から、肩に据える。
 それも冬星は見事にやりおおせて見せた。
 イヴォルダスと風雅の事は気にならなかった。
 言葉にすると従兄に失礼だが、冬星を飛ばせている間は、その存在すら忘れていた。
 最後に長老達に向かって礼をする。イヴォルダスが横にいて、同じ仕種をした。
「では、これより投票に入る」
 族長がそう言い、イヴォルダスとディオンは初めて、視線を交わした。
 相変わらず、見下したような目をしていたが、ディオンは負けなかった。
 歓声の中、広場を辞した。
 戦士や集落を代表する者達が、どちらが族長に相応しいかを木片に刻み、袋の中へ入れて行く。
 母よりも先に、リグルがディオンに飛びついて来た。
「ディオン、やったわね、あなたの勝ちよ」
「まだ分からないでしょう。姉上は遠征でのイヴォルダスの活躍を御存知ないのですから」
「ローズルは皆があなたを選ぶだろうと言っていたわ。鷲の据え回しは失敗しなかったのだし、わたしたちにとって、それはとても大事なことでしょう」
「イヴォルダスはし損じたのですか」
「あなたと冬星が余りに見事だったから、焦ったのでしょうね。細かいところでいくつも失敗していたわ」
 姉は肩を竦めた。
 あの風雅の悪癖をイヴォルダスは結局、矯正する事が出来なかったのだ。
 やがて、裁定の権利を持つ者達が呼ばれた。意外な程呆気なく、裁定が下りたようだった。エイリィズを探す暇もなかった。
 ディオンとイヴォルダスの名が呼ばれ、再び広場で族長の前に跪いた。
「裁定を下す」
 族長が言うと、人々は静まり返った。
「次期族長は、ディオンと為す」
 ディオンは(こうべ)を垂れた。歓声はが湧き起こった。身体の力が抜けて行くようだった。
「良くやったな」
 長老の一人がそう言い、ディオンを立たせた。別の者がイヴォルダスを立たせている。
「皆の意見は一致した。これからは父の許で良く学ぶと良い」
「はい」
 ディオンは頷いた。
「さあ、皆にその姿を見せてやれ」
 ディオンは人々の方を向き、ぐるりと見渡した。父の後に、自分が率いて行く事になる人々だ。
 選んでくれた事に感謝して、ディオンは一堂に返礼をした。後ろで長老の苦笑いが聞こえた。
「堂々としていれば良いんだ。礼などいらん」
 戦士達がディオンを取り囲み、手荒く祝福した。その中には、ロウ、イルス、リンドルもいた。
「今まで悪かった」ロウは言った。「あの嵐の中で、お前の言葉がなければ、俺は本当に皆を危険に曝しただろう。お前のあの迫力ある声と指示は、族長に相応しいと思う」
「有難う、ロウ。でも、頑張ったのは君だ。私ではない」
 ロウは少し赤くなった。
「さあ、これから館で祝杯を上げるぞ、ディオンとイヴォルダスも来い」
 戦士長が言った。
 皆に押し出されるようにして、ディオンは長老達の後を追った。父と母は腕を組み、にこやかに歩んでいる。それと対照的だったのは、叔父とイヴォルダスだった。戦士長と姉とが腕を組んでいる。
 エイリィズの姿を探したが、見当たらなかった。恐らく、事前の指示通りに裁定の後は館に留め置かれているのだろう。
 館に戻ると、家族の棟に続く扉の前に、エイリィズを託した奴隷女の一人がいた。その女は、ディオンに頷いた。エイリィズは、ここにいるという事だ。
 ディオンは両親に追いつき、父に声をかけた。
「お話しが、あります」
「今か」
「出来れば」
 不審げにしながらも、族長は長老達に先に行くように促した。母が、心配そうに控えていた。
「何だ」
「結婚の許可を頂きたいのです。唯論、すぐにという訳ではありません。私もまだ、若造にすぎませんので」
「相手の娘子は承知されたのか」
「はい」
「なら、何も言う事はない。後は親同士で話し合うだけだ」拍子抜けする程簡単に、父は言った。「で、その娘子は今日は」
「おります」
 ディオンは奴隷女に合図した。すぐにエイリィズが、半ば強引にディオンの許に連れて来られた。ディオンはエイリィズの腕を取った。
「エイリィズでは」
 通路がざわめいた。
「そのような娘子がいたかな」
 父は首を捻り、母を見た。母は(かぶり)を振った。
「その娘子、もしかして」戦士長が言った。「西の崖の…」
 採卵に同行する戦士長は鷲の巫女を知っている。
「そうなのか」父が言い、ディオンは頷いた。心臓が、高鳴った。「成程な、それでか、合点がいった」父は笑った。「好き合っているなら、邪魔立てはせんよ」
 ほっとした。父が鷲の巫女の復権を願っている事は知っていたが、実際に息子の嫁として認めてくれるのかどうか、正直、自信がなかった。
「西の崖と申すと、まさか、鷲の巫女」
 叔父が急き込んで言った。「その娘、鷲の巫女か」
「そのようだが」
 何でもない事のように、父はいなした。
「そのようだ、などと、兄上、これは由々しき問題では御座いませんか」叔父は言った。「だとすれば、あの裁定は無効だ。ディオンは鷲の巫女の力を借りて勝った事になる」
「叔父上」ディオンは落ち着いていた。「鷲の巫女にそのような力はありません」
「それだけではない、金で購われるような女を、この家に入れるおつもりですか」
 どうなのだ、と言いたげに父はディオンを見た。
「エイリィズは、そのような娘ではありません」
 ディオンはきっぱりと言った。
「だが、鷲の巫女だ、信用出来るのか」
 叔父は食い下がった。
「信用して頂きます」
「まあ、儂がそれで良いと言っておるのだから、そう目くじらを立てる事もなかろう」
 のんびりとした口調で言う父に、ディオンは感謝した。
「そうだとしても、二代に亘って持参財のない女を嫁に迎えるとは」 
 吐き捨てるような言葉だった。それには、父もむっとしたようだった。
「我々を侮辱するつもりか」
 二人は睨み合った。
「おやめください」
 エイリィズが震える声で言った。そして、床に跪いた。
「どうか、おやめください。ディオンさまは、一時の気の迷いでわたしと一緒になるとおっしゃっているのです。ですから、どうか、お鎮まりください」
「エイリィズ、それは違う」ディオンは言った。「一時の気持ちではないことは、君も承知しているだろう」
「今はそうでも、世界を御覧になればお気持ちも変わりましょう。ディオンさまのお言葉を真に受けないでください」
 冬星がディオンの肩から滑るように床に降り立ち、叔父に対峙した。そして、首の羽根を逆立てて威嚇の声を発した。叔父の鷲も、それには怖気付いた様子だった。
「あらあら」
 母が進み出てエイリィズを抱き起こした。「そんなに若い子を責めるものではありませんわ。ディオンも、女性に恥をかかせてはなりません。でも、エイリィズ、あなたは本当に、ディオンが好きなのね」
「奥方さま…」
 エイリィズの背を、母は撫でた。
「構わないのよ。ほら、冬星もあなたの味方だわ」
「鷲は巫女の味方だろう」
 冬星の剣幕に愕いた様子を見せながらも、叔父は言った。
「とにかく、裁定は認める事ができん」
 猶も言いつのる叔父に、ディオンはどうすれば良いのか思案を巡らせた。
「もう、およしになって、お父さま」
 一人の女性が割って入った。「意趣返しは、もうお止めになって」
「意趣返し、だと。ここはお前の出る幕ではないわ」
 叔父は不機嫌な様子で言った。
「久し振りね、ディオン。わたしを憶えてくれているかしら。最後に会った時、あなたはまだ幼かったのだけど」
 イヴォルダスと同じ色の髪と目。優しい声。
「もしかして、イヴォルダスの姉君ですか」
「そうよ、ルーネよ」
 にっこりと笑ったその顔は、確かに優しかった従姉のものだった。
「しかし、どうして」
「あなたが知らなかったのも無理はないわ。誰もあなたに話さなかったのでしょうし、話したところで、どうにかなるものでもなかったのだし」
 ディオンは完全に混乱していた。急に従姉が現われて、叔父に「意趣返し」という言葉を使うとは。
「あなたには迷惑をかけたわね、ディオン」
 ルーネは微笑んだ。「いつもあなたのことは聞いていたわ。ごめんなさいね、何もしてあげられなくて。でも、こうなったからには、わたしも黙ってはいられないわ」
 そう言うや、ルーネは自分の父と弟の方を見た。
「わたしとヴァルガどののことを、いつまでも恨みに思うのは、おかしいとは思われませんの、お父さま。そこにイヴォルダスを巻き込むなんて、その子の人生まで台無しにしておしまいになるおつもりですの」
 何故、ここで兄の名が出るのか不思議だった。
「二度と姿を現すな、と言ったはずだ」
「ええ、今の今まで、そうしておりましたわ。でも、もう我慢なりません」
 ルーネはディオンに向き直った。
「あなたは幼かったから忘れているでしょうね。かつて、わたしとヴァルガどのは婚約をしていたのよ」ディオンは全く、憶えてはいなかった。しかし、従姉が頻繁に出入りをしていたのは、そういう事だったのだ。「家同士の取り決めだったわ。でも、わたしもヴァルガどのも、互いを兄妹のようにしか考えられなかった。しかも、青龍は決してわたしには懐かなかった。それがどういう意味なのか、あなたにはもう分かるわね、ディオン」ディオンは頷いた。「だから、お互いに、本当に好きな人ができたら婚約は解消しようということを決めたの。そして、わたしに好きな人ができて、その人の鷲もわたしを受け入れてくれたわ。それなのに、ヴァルガどのは全ての責任を負ってくださったの」
「我々は、恥をかかされたのだ」
「いいえ、違います。元はと言えば、鷲が受け入れてくれないのに、お父さまが強引に結婚を決めてしまわれたからだわ」
 ルーネは再びディオンに語りかけた。「すぐにヴァルガどのも青龍の認める方と出会って、それで全てはうまく行くはずだったのよ。でも、お父さまはわたしの結婚を認めては下さらなかった」
「何故です」
「その方の家では、わたしの家に見合うだけの結納財を用意することができなかったからですわよね、お父さま」
「当たり前だ。家同士の格が釣り合ってこその婚姻だろう」
「我等の父はそのような事は気になさらなかったが」
 ディオンの父は言った。
「だから、わたしはその方のところに走ったのよ」
「走った、とは…」
 もう、ディオンは訳が分からなくなって来ていた。
「押しかけ女房ね」明るい笑みに、正式な婚姻ではなくとも従姉が幸せなのが分かった。「お母さまや伯母さまは時々、心配して来てくださっていたのだけれど、あなたは男の子だから――でも、本当に立派になったわね」 
「母上は御存知だったのですか」
 ディオンは母を見た。如何に女性の事とはいえ、自分だけが埒外に置かれていた事に、少なからず傷付いた。
「あら、わたしも知っていたわよ」
 リグルが言った。
「なら、どうして…」
 優しかった従姉に嫌われたと思っていたのに。
「叔父さまは、わたしたちが会っていることを快く思われないでしょうしね」リグルは何とも簡単に言ってくれるものだとディオンは思った。「男の矜持なんて、わたしたちには関係ないわ。こんな狭い島で、家柄も何もあったものではないとは思わない」
「それで、今は、どちらに」
 姉を無視してディオンは従姉に訊ねた。
「あなたのすぐ側にいたの」悪戯っぽく、従姉は笑った。「わたしの良人はロスキルよ」

    ※    ※    ※

 あの時の衝撃は、今でも忘れられなかった。
 世界が反転しそうだった。誰もが、何かしらの秘密を抱えている。
「でもロスキルを責めないで。あの人に口止めをしたのはわたしなのよ。あの人は話した方が良いと言ってくれたのだけど…わたしたちは正式に結婚したわけではなかったし、あなたたちの、まるで本当の兄弟のような師弟関係に、そんな形で割って入るようなまねは、したくはなかったの。あの人は、早くに家族を亡くしているのだし」
 ルーネは叔父とイヴォルダスに近付いて行った。
「イヴォルダスよりも、ディオンの方が族長に相応しいとは思われませんか、お父さま。イヴォルダスがお父さまの船でぬくぬくとしていたのに対し、ディオンは自分の力で遠征を成し遂げたのです。イヴォルダスも、あなたの生命はディオンに負っていることをわたしが知らないとでも思って。正直、そのことを忘れているのならば、姉としてあなたのことを恥ずかしく思います」
 イヴォルダスは唇を噛みしめていた。口惜しそうだった。
「それにあなた」と優しくエイリィズの手を取った。「自分の心に正直にならないと後悔する事になるわ。大丈夫よ、ディオンは誰が何と言おうと、族長になれるわ。それだけの強さも優しさも、あの子は持っているのだから、心配はいらないわ」
「でも、鷲の巫女の力を借りたとなれば、支持を失ってしまうかも…」
 エイリィズは涙ながらに言った。
「そんなことはないわ。ディオンは黒鷲に選ばれた戦士よ。鷲神の加護は、最初からあの子にあるの」無作為に配られた卵。あの時から既に、鷲神の采配があったという事なのか。「その上、鷲の巫女の手を勝ち得たのに、あの子以外の誰が族長に相応しいというのかしら」
 …………。
 その後に起こった事は大した事ではない。
 余りに遅い自分達に、長老達が様子を見にやって来た。
 そこで父が、息子の結婚を決めるのは、父親としての立場と族長としての立場のどちらが正しいのかと問うた。長老達の間でけんけん諤々の意見が交わされたが、結局は父親の立場であると落ち着いた。遠征に於いて、部族を守るのは母親と嫁である事から、母の意見も重要であるとされた。
 その日の内にディオンはエイリィズを送って行かなくてはならなかったが、後日、父と六人の立会人とで村を訪った。そして、エイリィズの兄に正式に結婚の話をした。
 そこからは、何もかもがあっと言う間だった。
 互いの血縁の男達を集めて話し合いが持たれ、様々な事が決められた。それには当事者は蚊帳の外であった。終わってから全てを知らされた。
 鷲の巫女の継承は妹になされ、それが終われば婚礼の準備の為にエイリィズは館に起居する事。ディオンがエイリィズに働いた無礼(この事を父に告白した時には、正直殴られる事を覚悟した)による賠償と持参財を相殺する事、等々、細かな所まで詰められた。
 父と叔父との長年の確執は、一朝一夕には解決するものではなかったが、それでも、親族同士の話し合いで問題を起こさぬ程度には良い方に向かっていた。
 部族では結婚は年に一度、夏至祭に族長が祭祀長を務めて聖なる木の下で行われる事になっていた。娘達はその日の為に、針を持てるようになる年頃から婚礼用の支度を始める。貧しいエイリィズのような娘は、しかし、その余裕もない。海で荒れた手に、母は良く効く軟膏を何度もすり込んだ。支度品を最初から作るのは大変だったが、母や姉ばかりではなく、叔母や従姉まで総出で必要な物を作った。
 エイリィズは、家使いの奴隷よりも状態の悪い衣を身に着けていたと、今にしてディオンは思った。
 そして、姉達がいなくなって静かになっていた館に、再び華やかな声が戻って来た。それが父と母には嬉しいようだった。毎年のように娘がいなくなり、無口なディオンも新月の日にしか帰って来ないとあっては、やはり、寂しかったのだろう。エイリィズを快く受け入れてくれただけではなく、母などは、一時も側から離したくない様子が見て取れた。父にしたところで、満更ではないようだった。
 エイリィズがいる事が嬉しいのか、冬星は館に戻るとすぐに床に降りて女部屋へとよたよたと歩いて行ってしまう。
 最初は館の暮らしに緊張を隠せなかったエイリィズも、慣れて来るに従い、笑顔を見せる事が増えた。最初は長着の足さばきにすら苦労していたものが、余り行儀は良くはないが、それで走る事も出来るようになった。
 二人が暮らす場所も決まった。かつて族長になる前に両親が使っていた離れだった。ディオンの荷物の殆どは運び終わっていた。後は儀式後の宴会の最中に運び込まれるだろう。姉の部屋にいるエイリィズの物も、そうだ。
 今は殺風景だが、おいおい、エイリィズの好きなようにすれば良い。それは、女性の領分だ。下手に口出しをするとどえらい事になるぞと、ロスキルからも釘を刺されていた。如何に北海の男だと言ったところで、所詮は女の掌で転がされているだけの存在だ。そう言って笑った顔は、どこか晴れやかだった。隠し立てをしなくても済んだからかもしれないし、夏至祭で正式に結婚をする事になったからかもしれない。ルーネと子供達との生活が満ち足りたものである事も、物語っているようだった。
 若草の上に座り、目を細めてディオンは三人を見つめた。
 エイリィズとその弟妹が、走り回って戯れている。もう少しすれば、三人の兄が迎えに来る。
 未だにエイリィズの兄はディオンから義兄と呼ばれる事に慣れないようだ。
 貧しいながらも、漁民としてこの地でやって行くというエイリィズの兄の意志を、ディオンも父も尊重した。それ以外の生き方を知らないのは、ディオンにしたところで同じだった。エイリィズ達は漁民として、ディオンは戦士として。その世界に違いはあってもだ。それぞれに矜持がある。知識もある。
 やがて、息を弾ませた三人がディオンの許にやって来た。すぐに三人ともへたり込んだ。
「疲れただろう」
「そうね」
 エイリィズは言い、二人は笑みを交わした。「二人とも、元気だけが取り柄みたいなものだから」
 十五歳の弟と十三歳の妹。まだまだ子供なのだとディオンは思った。だが、弟は兄と共に漁に出ており、妹は鷲の巫女としての一歩を踏み出した。
「心配なら、何時でも様子を見に帰って構わないのだから」
「あなたのご両親には感謝をしているわ。わたしの家族にまで、気を配ってくださって。本当に優しい人たちなのね。皆に慕われているのも分かるわ」
「その次には、君がそうなるんだから」ディオンは苦笑した。まだ、自分の立場が良く分かっていないようだった。「私は心配していないが」
「あ、兄さんだわ」
 エイリィズの妹が言い、弟と二人、陸を駆け下りていった。
「本当に、元気だ」
 ディオンは笑った。
「わたしに本当に、務まるのましら」エイリィズは不安げに言った。「だいたい、わたしがあなたと一緒になって構わないのかしら」
「まだ、そんな事を言うのか」ディオンはエイリィズを抱き寄せた。「私は、君に支えて貰いたいと思っているのに」
「支えてもらっているのは、わたしのほうだわ」
「その内に気付くだろう。いかに北海の戦士を気取ろうとも、皆、本当は奥方に頭が上がらない。一家を支えているのは一見すると男のようだが、精神的には女性が支えている。それは男にとっても大きい」
「――あなたのお父さまとお母さまのように」
「そうだな」
「あなたは、そんな風になりたいの、ディオン」
 ディオンは微笑んだ。
「それには、まず、君が一緒になってくれなくては困るだろう」
 丘を、三人が上って来るのが見えた。ディオンは素早く、エイリィズに唇付けた。
「逃げるのは、もう無しだ」
 ディオンは立ち上がった。そして、エイリィズに手を貸した。あの銀の腕輪がきらめいた。
「さて、義兄上の所へ行こう」
 ディオンはエイリィズに言った。
 エイリィズは頷くと、三人の許へと駆け下りて行った。
 家族で過ごす最後の日だ。
 明日には、エイリィズは族長家の一員となる。
 それからの事は、まだ分からない。
 鷲達が空を舞っていた。その中に冬星もいた。
 いつか、この島の全てに対して責任を持たなくてはならない。
 だが、冬星とエイリィズがいれば、その重責にも耐えられるだろう。
 これは、その一歩だ。
 ディオンは、四人の方へ向かって、歩み始めた。


 後に、北海の偉大なる族長の一人と伝えられる黒鷲ディオンの若き日の物語、ここに終わる。
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