第3章・巣立ち・幼鳥

文字数 13,892文字

 冬星は木箱の縁に止まり、しきりに羽ばたくようになった。
 巣立ちの時が近付いて来ているのだ。
 ここまでの半年近く、ディオンと雌鶏は共に冬星を見守り続けた。だが、独り立ちの時を迎えようとしていると思うと、寂しい気もした。
 最初は練った餌を一日に六、七回だったものが、今では二度、魚や鶉を丸ごと与えても大丈夫になった。だが、まだ体重は二貫目あるかないかだった。骨や羽といった消化できないものを吐き出す際には崩して検める必要がまだあったが、それももう、長くはないだろう。
 北海の夏の始まりと同時に産卵され、夏の終わりに巣立つ。野生では親による独り立ちの訓練が行われ、冬の始まりには強制的に独立させられる。そして餌が豊富な間に生きる術を自ら磨き、厳しい冬を迎えねばならない。
 その過程で、生命を落とす若鷲も少なくはない。
 それに較べれば、戦士に飼われる鷲は恵まれている。自由は失ったかもしれないが、その分、どのような厳冬であったとしても、餌に不自由する事はない。
 鷲にとって、それが幸福なのかどうかディオンには分からなかった。だが、絆は人間にとっては何物にも換え難い。
 新米見習いの中でも、ディオンは相変わらず一番のちびだったが、冬星もだった。かつて聞いたような声は、あれ以来耳にする事はなかったが、冬星は雌鶏に頭をすり寄せ、雌鶏もせっせと羽繕いをしてやっていた。ディオンは奇妙なその光景にも、もう何とも思わなくなっていた。それが、日常だった。
 訓練は遠征を前にして厳しさを増していた。見習いの面倒を見ている戦士達も、自らの鍛錬に時間を割くようになり、引退した者達が代って訓練に姿を見せるようになった。歳を取ったとは言え、歴戦の猛者達だった。中には、見習いの父達が教えを受けた者もいた。
 ディオンがロスキルから引き合わされたのは、同じ剣術や体術を使う痩身の元戦士だった。引退してそれ程、年数は経っていないように思われた。
「ソルスタ殿だ」ロスキルは言った。「俺のいない間にお前の事を頼んだ」
 ソルスタ鷲は立派だったが、赤目より一回り小さく、雄だと分かった。
「エルディング殿の名に恥じぬ戦士に仕立て上げてやろう。それに、鷲の巣立ちの管理もな」
「まあ、ソルスタ殿、ディオンの鷲を見てやって下さい。あれは相当な見つけものですぞ」
 ロスキルが冬星の事をそのように評価しているとは思わなかった。見習いの中では揶揄いと侮蔑しか受けないというのに。
「ほう、それはそれは。では早速、見せて貰おうか」
 やはり鷲の戦士だった。何よりも鷲に興味を示す。
 三人は鷲の幼鳥が集められている所へと向かった。
 だが、その途中で甲高い鷲の鳴き声が響き渡り、少年達の叫ぶ声がした。
 まさか冬星に何かあったのでは、と思い、ディオンは走り出した。冬星はいつも他の鷲からいじめられている。鷲は絆を結んだ人間の行動を良く見ている。使い手がディオンやその鷲を馬鹿にし、意地悪をすれば、鷲も同じ事をする。鷲には罪はない。そう反応してしまうのは仕方がなかった。
 幼鳥達の集められている卓子の周りに少年達が集っていた。年長の見習い戦士もいたが、誰も幼鳥の卓に近寄ろうとはしていなかった。
 それもそのはずだった。
 卓子の上では二羽の幼鳥が摑み合っていた。こうなると、見習いではどうする事も出来ない。鷲は冬星とイヴォルダスの風雅だ。
 空では若鳥や成鷲が飛び回っていた。どうしようもない、と言うよりは、静観しているようだった。
「何をさせている」
 ソルスタが叫んだ。
「潮風、行けっ」
 元戦士の鷲が飛び立った。そして、幼鳥の卓に向かった。あの鉤爪が引っ掛かっただけでも、大事(おおごと)だ。
 ディオンは潮風よりも僅かに速く卓子に飛びついた。そして、二羽の幼鳥を胴着でくるんだ。目の見えなくなった鷲は大人しくなる。だが、まだ二羽の闘争心は失われてはおらず、唸りながら互いに爪を立てあっていた。それが時にディオンの腹に当たった。痛みは感じなかった。
「何をしているのだ」
 慌てたようなソルスタの声が聞こえた。
「すぐに頭覆いを用意しろ。なければその辺の布切れで構わん」
 ディオンはただただ、二羽を身体に押し付けていた。どちらにもなるべく怪我のないようにしたかった。冬星がディオンにとって大切な相棒であるのと同じように、イヴォルダスにとっては風雅は大事な鷲だからだ。
「ディオン、力を抜け。鷲を捕まえるぞ」
 ロスキルの声に、ディオンはようやく少しだけ、力を緩めた。
「もっとだ。大丈夫だから」
 その声に、ディオンは知らず閉じていた眼を開けた。戦士達がいつの間にかディオンを囲んでいた。
 ディオンは大人達の姿に安心した。だが、腕が強張って力が抜けなかった。
「よし、良くやった」
 誰かが言い、ディオンの手指をゆっくりと開かせた。そして、他の者が素早く布を胴着の中に滑り込ませ、鷲を引っ張り出した。
 その様子を見て、ディオンの身体から一気に力が抜けた。同時に、腹部に痛みを感じた。
「無茶しやがるな、このちび助は」
 呆れたようにソルスタが言った。「自分のやった事を良く見ろ」
 胴着は、幼いとはいえ鋭い鷲の爪で引き裂かれていた。誰かがそれをまくり上げると、中の服も裂かれており、血が滲んでいた。
「冬星は、風雅は」
「自分の事より鷲の心配かよ」ソルスタが苦笑した。「いっちょ前に海鷲の戦士だな。鷲は今、引き離した。大丈夫だ。大分、羽は傷んだが、問題はない。それよりもお前の怪我の具合を確かめんとな」
 無理やり服を脱がされた。血はまだ止まってはいなかったが、幸いにも傷は酷いものではなく、簡単な手当てで済みそうだった。
「一体、どういう事なのか説明してもらおうか」
 戦士長が出て来た。
 ディオンは慌てて卓子の上から降りようとしたが、ソルスタに止められた。
「傷の手当が先だ」
 ロスキルが持って来た清潔な水でソルスタは傷を洗った。強烈な痛みがあったが、ディオンは歯を食いしばった。「縫う必要はなさそうだな」そして患部に清潔な布を当て、ぐるぐると巻いた。
「お前のやった事は、緊急の場合には間違ってはいない。だが、危険だという事はこれで良く分かっただろう。もしも、あれが成鳥だったならば、(はらわた)まで掻き出されていてもおかしくはないのだからな」
 ソルスタの言葉に、ディオンはぞっとした。
「普通はあんな風に摑み合わないものだ。何か、理由があるのだろう」
 ロスキルが言った。そうだ、冬星は理由もなしに他の鷲に突っかかってゆく方ではない。雌とは言え、他より成長が遅れていてまだ身体も小さいのだから。
「あの黒い(まだら)なのが、お前の鷲か」
 ソルスタが言った。
「はい」
 じんじんと沁みる痛みをこらえてディオンは言った。
「あれは、良い。久し振りに見たな。あれは立派な黒鷲になるだろう。もう亡くなった勇士が、あのような黒鷲を連れておられた」
「俺も子供でしたが憶えています。やはり、あの黒鷲の系列ですな。あれは柄も大きくて、誰しもが憧れる雌鷲でした」
「だが、どれ程良い鷲であっても、訓練を積まねばならない。繁殖期にあってさえ、雌雄が密着しても色気づかん為にもな」
 ソルスタはそう言って高らかに笑った。
「まだ、子供には早かったかな」
 繁殖期に雌が雄に追い回される事があるのは知っていた。だが、戦士の鷲は営巣させる事は出来ない。それは生涯の絆になり、人間から離れて野生に戻る可能性があるからだという事も。だから、人間との絆が大事になる。
 戦士長がディオンの元へとやって来た。
「怪我はどうだ」
「大した事はないでしょう。しかし、無鉄砲な事だ」ソルスタが答えた。「まあ、鷲思いな事では引けを取りませんな」
「それは重畳。だが、考えが足りない。何も自分の身体の中に入れ込まずとも、脱いだ胴着でくるめば済む事だ」
「私が潮風を放ったので、焦ったのでしょう」
「そう言うことは先達に任せておく事だ」
「はい、申し訳ありませんでした」
 ディオンは自分の浅はかさを改めて恥じた。歴戦の鷲使いが考えもなしに、幼鳥に向けて鷲を放つ訳がないのだ。
「自分の非をすぐに認めるのは殊勝な事だ。だが、あ奴らの話では、お前の鷲がいきなりイヴォルダスの鷲に襲いかかった、という事だが」
 戦士長の言葉に、ディオンはすぐにそれは嘘だと思った。従兄の風雅は少しだが飛べるが、冬星はそうではない。だが、従兄を悪し様に言うのは気が引けた。
「冬星は、自分から喧嘩を仕掛けるような事はしないと信じております。もし、そうなのだとすれば、それなりの理由があるのだと思います」
 だがな、と戦士長は渋い顔をした。
「だがな、お前は見ていなかったのだろう。こればかりは、目撃していた者の言質(げんち)に頼る他あるまい」
 味方は、その中にはいない。
 ディオンは唇を噛みしめた。
「しかし、ディオンの鷲は羽ばたきこそすれ、未だに飛び立つ様子はありません」
 ロスキルが言った。「他の鷲は、少しとは言え、飛ぶ事が出来ます」
「それは理由にならんだろう」戦士長は言った。「お前の勇気に免じてやりたいところだが、まだ幼い鷲を危険に曝すような行為は重大な過失だ」
 巣立ちを前にして、体重の落ちてくる時期だった。怪我や病気に対しても弱くなるのだと教わった。
「儂が見ておった」
 のっそりと、座学を教えることになっている老戦士が割って入った。髪も髭も真っ白で、肩の鷲も相当、歳を取っているのが羽の艶のなさから見て取れた。
「この坊主の鷲の箱に鶏がいただろう」ディオンは頷いた。「それをもう一羽の鷲の坊主がけしかけて狙わせた。そいつが襲いかかったところを、この坊主の鷲が体当たりを喰らわして取っ組み合いになった」
 戦士長が溜息をついた。
「デルソルン殿がいらっしゃらなければ、お前を罰しなくてはならないところだったな」
「勇敢な坊主だからな。そうしたくはない気持ちは分る」デルソルンは頷いた。「だが、この場合、どういう裁定を下す。当然の事ながら、鷲を他人の鷲にけしかけるのは規則に反する。だが、この場合は鶏だ」
「例え相手が鶏であろうと、けしかけるのは許される事ではありません。餓鬼共の悪戯であろうと、訓練場の外でそれをやられるとえらい事になりますからな」
 憤慨したように戦士長は言った。自由民に限らず、戦士にとっても家畜や家禽(かきん)は重要な財産だった。
 戦士長は厳しい顔で少年達の方へ向かった。
「それで、僕の鶏は」
 ディオンは急に雌鶏の事が心配になった。冬星にとってそれ程大切な鶏ならば、ディオンも大事にしてやらねばならない。
「大丈夫だ」デルソルンはからからと笑った。「箱の中で鷲に寄り添っておるわ。まるで親子だな」
 恥ずかしい、という気持ちは何故か起こらなかった。
「あれは良い鷲だ。躾も訓練も、そう手こずらんだろう。ただ、育ちは他より遅いだろうが、気にする事はない。お前との絆も強そうだ」
 デルソルンはそう言うと、ディオンの髪を掻き回した。他の戦士達もよく、ディオンの髪をっそうしてくしゃくしゃにしてしまう。気に掛けて貰っているのだろうが、完全に子供扱いされているようで、良い気はしなかった。
 やがて、戦士長がイヴォルダスを連れて戻って来た。
「謝罪をしろ」戦士長は言った。「お前の行為は鷲使いの規範に反するだけではなく、鷲の生命を危険に曝したのだからな。それを身を挺して守った者に礼を尽くせ」
 イヴォルダスの顔は口惜しそうだった。
 当然だろう、下に見ていた従弟に頭を下げねばならないのだから。
「イヴォルダス」
 戦士長が促した。
「僕は別に構いません」
 沈黙と思い空気に耐えられなくなってつい、ディオンは言った。
「そうやって、良い子ぶる気か」イヴォルダスが、震える声で言った。「お前は兄と同じ、偽善者だ」
「そこまでだ」
 戦士長の声は鋭かった。そして、辺りの戦士達に緊張が走ったのが、ディオンにも感じられた。
 兄が偽善者呼ばわりされる謂れなどなかった。だが、ディオンは口を開く事も動く事も出来なかった。
「礼儀をわきまえぬのなら、仕方がない。虚偽の申告と過失で、お前は五日間の自宅謹慎だ。自分の言葉を良く考えるのだな。今日は良い、家に戻れ。それと忠告だ。遠征で勇敢に戦った死者を悪く言う事は許される事ではない。ディオンお前もだ、良く憶えておけ」
 イヴォルダスは無言でディオンの背を向けると、そのまま走り去った。風雅が、まだおぼつかない飛行でそれを追った。
「全く、反抗的な餓鬼だ」
 戦士長は困ったように呟くと、ディオンに向き直った。
「あいつの言葉は気にするな。それと、傷が癒えるまでは座学だけでも構わんぞ」
「お気遣い、有難うございます。でも、大丈夫です」
 ディオンは言った。傷は痛むが、明日になればましになるだろう。
「それよりも冬星の具合を見てやりたいのですが」
「ああ、そうするが良い。だが、巣立ちは思わんところでしてしまったようだな。先程も飛んでイヴォルダスに襲いかかるところだったぞ。止めたのが雌鶏なのがご愛嬌だがな」
 ディオンは冬星の元へ急いだ。少年達はもう、ばらけてはいたが、他の幼鳥のように、冬星は木箱の縁に止まっていた。
 ぴゃああ。
 ディオンの姿を認めると、冬星は翼を広げて一声、鳴いた。
 羽ばたくと、ふわりと飛んだ。そして滑るようにディオンの方へやって来たかと思うや、正面からディオンの顔にぶつかった。腹の羽毛が柔らかかった。器用に、脚は両肩の肩当てに引っ掛かっていた。
 さすがに二貫目近い重さにディオンの身体は傾いだが、冬星は羽ばたいて頭を乗り越えるときちんと両肩に止まった。
 据えるのにはそれなりの訓練を必要とするのに、冬星は他の鷲を見て憶えでもしたのだろうか、しっかりとディオンの両肩に摑まった。だが、腹は頭に乗せられていた。
 ぐるう、と甘えるように頭上で冬星が鳴いた。
 巣立ちだ。
 下手な飛び方なのは、上昇する海風のないこの場所では仕方がない。それでも、冬星は自分の方へと飛んできた。ただ、初飛行を見たのが自分ではないのは心が沈んだ。
「ほう、立派なものだな」
 ロスキルは笑いをこらえながら言った。「まだまだ据え方に問題はあるが、今はそれでも構わんでしょうな」
奇態(けったい)だな」
 ソルスタは遠慮なく笑った。「だが、初めてにしては良く出来た。やはり、こいつは頭が良い。据え方については訓練の必要はないだろう。互いの身体が出来てくれば、大概は直るものだ」
「直らなかったら、その時はその時だな。最悪、その格好になるだけだ」
 年長者達の会話を聞きながらも、ディオンの心にはもやもやとしたものが残っていた。
 従兄の放った一言。偽善者。
 だが、それを誰かに訊ねる訳にもいかない。
 恐らく、誰もが言葉を濁すだろう。真実は、決して教えては貰えないだろう。そして、それが父と叔父が不仲になった理由の一つなのだろう、という位の察しはついた。
 遠征を前にして、ディオンは誰の心も掻き乱したくはなかった。


 父達が遠征へ出掛けている間に、冬星の胸筋(きょうきん)はぐんぐんと発達していった。胸の(しし)当てをする度に、ディオンはそれを感じ取る事が出来た。獣の毛をむしってやらなくても自分で処理出来るようになり、空中に投げた疑似餌や餌も上手に捕える事が出来るようになった。
 ただ、それと共に体重も増して行き、いつの間にか二貫目を越えた。ずっしりと両肩に掛かる体重と頭に乗せられた胸とで、自分はこのまま背が伸びないのではないかと思う程だった。
 呼び戻しなどの調教も順調だった。その点では冬星は、先に巣立ったどの鷲よりも優秀だった。
 あの小さくて頼りなかった雛は、いつしか立派な幼鳥になっていた。相変わらず羽毛は黒と濃い茶色、白の斑であったが、六年後の成鳥になる時期には見事な黒色になるだろうとソルスタは受け合った。
 デルソルンの座学は正直、面白かった。実践的な航海術の講義だけではなく、自らが体験した様々な海の状況についても話してくれ、興味深かった。
 戦士達のいない訓練場は、見習いばかりでがらんとしていた。だが、皆、遠征から戦士達が戻るまでに少しでも上達をしておかねばという気概に満ちていた。
 あれ以来、ディオンとイヴォルダスとの間は以前より険悪なものになった。気のせいか、折角、関係が良くなりかけていた年長の見習い戦士達からも、再び冷たい目で見られている気がしてならなかった。その事をソルスタは言いはしなかったが、いつも一人でいるディオンを不審がっているのは分った。それは全て、相変わらずついて来る雌鶏のせいにしてあった。
 家の中は父がいない間は余り変化はないようだった。一族に対する義務は母が担い、持ち込まれる相談や揉め事の仲裁に入るのだった。自分の手に余る分に関しては、素直に父の帰還まで保留をしておく人であったので、一族の平穏も保たれていた。
 秋の収穫は今年も平年と変わらぬようで、誰しもが安堵しているようだった。厳しい冬に備えての遠征だが、交易島からの穀物を積んだ積荷船が沈んだ事で凶作分を補えず、荒天の為に漁に出る事もままならず、餓死者の出た年もあったという。それはディオンの産まれるずっと前の話だった。父の代には幸いにしてそのような事態に陥った事はなかった。また、保存食作りもより盛んになっていた。だが、凶作の年は一度ならずディオンも経験していた。その際には積荷船の持ち帰った穀物で事なきを得たが、再び不運が重ならぬとも、限らない。
 姉達は幼鳥となった冬星を変わらず甘やかす。尤も、ヘルニだけは、母の側でその手伝いをさせられていた。正式に使者が来て様々な取り決めも行われた。嫁入りに向けての準備も最終段階に入ったのだろう。相手は鬼才グラックの後継者だ。十八歳の時に十二の姉を見て結婚を決めたというのだから、ディオンは不思議だった。
 同年代の女子を見ても、綺麗だとか好きだとかは思う事はなかった。俗に鷲の一族の男は晩熟(おくて)だと言われている事は、ディオンも知っていた。それでも、自分が十八歳になった時に、いかに裳着の儀式を済ませているからといって十二歳の子供にそんな気持ちになれるものなのか、分らなかった。
 そう、十二歳は子供だ。
 ディオンはそれを身を以て感じていた。
 一家の唯一人の男子であっても、誰もまだ自分を頼りにしようとは思わない。母の方があらゆる点でずっと、頼りにされている。自分が頼られる事など、この先もあるのだろうか。誰かが自分を頼ってくれる時が、本当に訪れるのだろうか。
 今の状況にディオンが煩悶する内に換羽(とや)の時がやって来た。
 少しの事でも羽がはらはらと抜け落ち、飛び立つと更に抜けた。大羽は矢に使用する為に拾って取っておく。矢羽根に大きすぎるものは、家の女性達が軸を裂いて革製品に刺繍したり、柔らかな羽枝(うし)は織物に混ぜられたりもする。これは自分の鷲の羽が基本だが、どの鷲も似たりの為、新米には区別がつかない。その点ではディオンの鷲は羽色が変わっている為に見付けやすかった。だが、十六、七位の見習いだときちんと自分の鷲の羽根を見分けられるのは不思議だった。
 初めての換羽――雛換羽の間、鷲には無理をさせない。短期間に大量の羽根が抜け替わる為に体力を使うからだ。その間はなるべく休ませ、栄養価の高い食餌を与えるのが基本だった。余りにも状態の落ちた幼鳥は、専用の鳥小屋(とや)へ入れて薄暗く落ち着いた環境で管理する。
 年長者の若鳥の換羽は幼鳥に較べると緩やかで、冬の終わりと夏の終わりに生え替わって行く。体力的にも問題はない。
「だから、遠征へ連れて行けるのだ」
 ソルスタは言った。
 冬星は他の雛とは違い、換羽がこたえている様子はなかった。年長者の鷲が飛翔していると、他の新米の幼鳥が辛そうにしているのを尻目に同じように飛び立った。それを止める事は出来なかった。
「あいつには好きにさせても大丈夫だろう」
 空を見上げながらソルスタは言った。「雛換羽であれだけの体力のある鷲は、そうはいない。大人しくさせようとしても無理だろう。成鳥や他の年上の若鳥から学ぶ事も多いからな。それもあいつの勉強になる」
 ようやく、皆の換羽が終了する頃には、もう冬の気配がしてきていた。
 野生では、最早、親から独立した若鳥だ。
 そんな天気の良いある日、鷲達が一斉に飛び立った。
「遠征から返って来たようだ」誰かが言った。「浜へ急ごう」
 ディオンがソルスタの顔を見ると、引退した戦士は言った。
「鷲は好きにさせていて大丈夫だ。冬星は他の鷲を見習う事に掛けては()けている。そのままでもお前の後を追うだろう」
 浜で遠征帰り船を出迎えるのも、見習いの仕事の一つだった。
 積荷船が付けられる桟橋では、集落の引退した戦士達の鷲が舞い上がり、人々が集まって来ていた。
 船を浜に引き揚げたり、桟橋に付けた積荷船から荷を降ろすのは奴隷の仕事だった。見習いは戦士を迎えてその個人的な荷を入れた長櫃を下ろし、家へと運ぶ。歩けぬ負傷者を療法師の館へ連れて行くのも、そうだった。
 水平線から帆柱が見えた。強い順風に運ばれて、浜まではあっと言う間だった。
 ディオンは急いで船の数を数えた。
 父の竜頭船が、先頭だ。その脇を、叔父と戦士長の船が進む。
 竜頭船の船首に父の姿を認めた。無事だった。
 だが、船の数は一隻、減っていた。
 帰らぬ人となったのは、その船に乗っていた者達だけではないだろう。護りの堅い場所では激しい戦いになっただろう。海上でも、この時期に北海の七部族がこぞって荒らし回る事が知れ渡っているだろうから、相手もやられっ放しではないはずだ。
 子供の頃から、ずっと見慣れてきた。
 出船の全てが無事に戻る訳ではない。戦士の全てが、鷲の全てが無事に戻る訳ではない。
 それを当然のように見てきた。だが、昨年、兄が帰らなかった事で、そういった全てが父にも自分にも降りかかるのかもしれないと実感した。
 覚悟がなかったと言われれば、そうかもしれない。だが、余りにも当たり前すぎて、そして、父や兄の存在が大きすぎて、自らの身に置き換える事が出来なかった。
 北海の民である以上は、戦士階級の者は家族もそれなりの覚悟をしているのだろう。息子や父、兄弟や夫の死に際しても誰も取り乱す事はない。そして、家族が勇敢に戦ったのかを知りたがる。そうであるならば、一家の誇りだと讃える。
 だが、兄の死に際してディオンにはそれが出来なかった。現実の事とは思えなかった。喪失感は後になってやって来た。長い冬の間、普段は寡黙だが、自分に様々な事を教えてくれていた兄がいない、というのは、寒さ以上に厳しいものだった。
 家族は皆、平静だった。ディオンは、自分が北海の戦士には向いてはいないのではないかと思った。
 しかし、誰しもが本心を隠しているに過ぎなかった。
 その事を知ったのは、あのエリアンドの娘と母の抱擁を見た時だった。エリアンドも、父の背に手を当てていた。それが、北海の族長として出来る最大の気遣いだったのだろう。
 あなたは、死んではだめよ。
 その言葉は、あれから何度もディオンの心に甦って来ていた。
 北海の戦士とは、何だろうか。
 何故、皆が皆、哀しみを隠すのか。それとも、本当にそう思っていて、自分達のような者が少ないのだろうか。
 ディオンには分らなかった。
 歓声に、ディオンは我に返った。積荷船が桟橋に付けられようとしている。
 続々と、船が浜に引き揚げられる。
 父の竜頭船が最後だ。全ての船が安全に到着したのを見届けるのも、族長としての務めだった。
 今年からはディオンは家族として父を迎えるのではなく、見習いであれ、戦士として族長を迎えるのだ。
 年長の見習い達からの指示通りに、ディオンも族長を迎えるために整列した。まだやはり、最も背が低いのでしんがりだった。家族からは遠かったが、姉達が自分の事を笑っているのが聞えるようだった。
 下船した父は、やはり堂々としていた。肩の海王も元気そうだった。父はディオンの前を通り過ぎる時、僅かに視線を送り、そして軽く頷いた。取り敢えずは形になっているという事だろう。
 父と家族が去ると、次には戦士達の長櫃を降ろす。大抵は、自分が指導を受けている戦士の荷を運ぶので、ディオンはロスキルを探した。
 金色の髪の戦士はすぐに見付かった。頬に傷が出来ていたが、深くはない。傷跡も残らないだろう。
「元気にしていたか。ふた月くらいじゃあ、背は伸びなかったようだな」
 ロスキルは笑ってディオンの髪を掻き回した。周りの戦士達がどっと笑う。
「冬星は凄いな。雛換羽が終わったところだろうに」
 空を見上げてロスキルは言った。「やはり、黒鷲は格違いだ」
「換羽の最中でも飛んでいましたから。ソルスタ殿からは好きにさせろと言われましたので、翼は強くなったと思います」
「思います、じゃない。ちゃんと肉当てをしているのだろうな。かなり胸筋が付いているはずだ」
「はい」
「では、荷物を運んでくれ。俺の家は知っているな」
 ディオンは頷いた。

   ※   ※   ※

「お前も歳を取ったな」
 ディオンは雌鶏を撫でて言った。もう、この鶏はディオンや冬星の後を追って訓練場にまで来る事はなくなっていた。特に、この二、三日は殆どの時間を、未だに冬星と共有している木箱の中で眠っている。
 餌は、何とか食べてはいる。だが、日に日に弱っているのは明らかだった。
 本来ならば冬星はもう若鳥なので、止まり木で休ませなくては脚の病気になる可能性が高かった。だが、この三年、夜を雌鶏と寄り添って眠る事を別にすれば、普通の鷲の暮らしをしている。夜だけならば、抱卵とそうは変わらないだろうという戦士長の言葉で、そのままになっていた。
 較べても詮ないことであったが、他の若鷲は完全に巣立つと木箱は不要になるというのに、冬星はそうではなかった。あら、可愛くていいじゃないと姉達は言うが、そういうものでもない。
 まだ雌鶏といるのか、とは父は言わなかった。デルソルンは黒鷲は成長が遅いと言った。それを父も知っているのだろう。
 冬星はこのところ、訓練外ではずっとこの雌鶏の側から離れようとはしなかった。雛換羽を終えてからは冬星を食事の席の後ろに据えることも許されていたのだが、動こうとしない鷲を無理に連れて行く気には、ディオンはなれなかった。どうせ、見習いはまず給仕をして、殆どの者が酔い潰れたり帰った後で食事をする事になるのだ。鷲をどうしようが、気にする者がいるとは思えなかった。さすがに新月に家に戻った際には、未だに冬星を雛扱いする姉達に文句を言われたが。
 今年はこの島で族長集会が行われる。
 そして、長姉のヘルニは輿入れをする。
 その準備は全て終わっていた。姉が織った臙脂の花嫁衣装の長着の下半身には、立派な鷲の紋章が刺繍されているのも見せられた。女四人がかりで刺したのだと言う事だった。
 母や姉達は冬の間中、父が苦笑する程にその事で夢中だった。
 昨年の族長集会の帰りに、相手の男が島に寄った。堂々たる若者だった。成長した姉に、その男――ドルファも、父親の鬼才グラックも満足したようだった。姉の方にも、ドルファとの婚姻に異存はないようであった。北海の戦士の見本のようなドルファには、他の姉達も好感を持ったようだった。
 この夏には家族が減る。それは慶事によるものだったが、ディオンには、また寂しくなるのだなという気持ちがあった。姉達はいずれは嫁に出る身だった。それは分っていた筈だったが、いざ、それが現実の物として迫って来ると、心の隙間を感じずにはいられなかった。
 そこに、雌鶏の不調があった。
 三年の間。冬星を共に面倒を見て来た。最初はしょぼくれていたこの雌鶏は、まだ卵であった冬星を得て生気を取り戻したのだった。卵に悪戯をしようとしてイヴォルダスを突きまわした時の事が、鮮やかに甦った。
 それが、今は見る影もない。羽毛に艶はなく、例年の換羽もなかった。
 その生命の火が尽きようとしている事は明らかだった。
 元々が、産卵をしなくなっていた老鶏だった。三年は良く持った方だろう。
 この雌鶏を支えていたのは、冬星の存在だったのかもしれない。
 冬星は、とっくに同じ歳の雄鷲の大きさも超え、二貫目半も軽く超えているのではないかと思われた。最早体重ではなく、肉付きで体調の良し悪しが見られるようになっていたが、冬星はその点でも全く、問題はなかった。
 問題があるとすれば、その自立心だろう。
 肉をむさぼりながも、まだこの雌鶏には甘えている。頭をすり寄せ、時には守るように翼を広げる。
 鳥には餌の肉と生きた鶏の区別は付かないのだろうか。ディオンはそう思う事もあったが、目の前で鶏が捌かれているのを見ても知らぬ顔でおこぼれを頂戴する所を見ると、冬星にとって、この雌鶏だけが特別な存在なのだろう。
 母さん。
 そう、かつて冬星が雌鶏を呼んだのを聞いた事があるのを思い出さずにはいられなかった。


 その日は思ったよりも早くやって来た。訓練から戻ると雌鶏はぐったりと木箱の外に頭を垂らしていた。
 まさか、死んだのか。
 そっと手を伸ばして触れてみると、ぴくりとその身体が動いた。
 まだ生きている。
 ディオンはほっとしたが、もう、最後の時が間近なのは明らかだった。
 用意した餌も水も、摂った様子はなかった。尤も、ここ数日は冬星の最初の雛餌のような、どろどろに溶いた穀物を挽き割りにした物を匙で与えるようになっていたのだが。
 膝の上に雌鶏を置いた。ゆっくりと撫でてやると、うっすらと目を開けた。
 冬星も側に下り、不思議そうに首を傾げていた。
 この若鷲には、まだ、死は理解できないだろう。いや、そもそも鳥に死が理解できるのかも分らない。
 消えるような声で鳴いて、雌鶏はディオンの腕に頭を乗せた。
 あの気の強い姿はもう、そこにはなかった。
 冬星がその顔を覗き込むと、雌鶏は顔を上げた。まるで二羽は、視線を介して会話をしているようだった。
 翼を落とし、ぐう、と冬星は鳴いた。哀しげな声だった。
 やがて、雌鶏は頭をディオンの腕に預けた。
 そして、ゆっくりと、その目を閉じた。
 今まで動いていた胸が、静かに止まった。急速に、その身体からは体温がなくなって行く。
 ディオンの視界が曇った。まるで自分達を待っていたかのような死だった。
 自分が泣いているのだと分るまでに、暫く時間がかかった。
「冬星、お前の雌鶏母さん、死んだよ」
 ディオンはようやくの事でそう言った。
 やおらに、冬星は雌鶏の身体をくわえた。そして、ぐいと一度、引いた。起こそうとしているようだった。
「駄目だ。もう、死んだんだ。起きない」
 涙声でディオンは言った。
 すると冬星は喉を上下させた。初めて見るその行動に、ディオンはどうすれば良いのかわからなかった。必死で冬星は何かを吐き出そうとしているようだったが、結局、何も出なかった。
「駄目だ、もう、お前の母さんの魂は、この身体にはないんだ」
 冬星は羽ばたいた。
 そして、一声、大きな声で鳴いた。
 母さん、置いて行かないで。
 ディオンにはそう、聞えた。
 この鷲は、死を知ったのだ。


 その夜、ディオンは冬星を自分の毛皮に入れてやった。
 一人ではない、と教えてやりたかった。お前には、いつだって僕がいる。これから一生、お前と共にいる。絶対にお前を置いて行きはしない、と。
 冬星はうずくまり、背を撫でられるがままだった。その羽毛に顔を埋め、ディオンは少し、泣いた。
 鶏や鷲が愛玩物ではないことくらい、ディオンは分っていた。だが、この夜ばかりは甘やかしてやることも必要だと感じた。そして、そうする事で自分の哀しみを和らげたかった。
 朝になると、ディオンは冬星と共に雌鶏を葬った。冬星は項垂れたまま、じっと雌鶏の身体に土がかけられるのを見つめていた。その身体がすっかり土に隠れてしまうと、聞いている方が哀しくなるような声を一つ、上げた。
 教えでは、死んだ人間の魂は神々の元で再び産まれる時を待っている。特に良く生きた者は鷲神が側に留め置かれる。鷲も、そうだ。なら、鶏はどうなのだろうか。死んだ雌鶏の魂は何処へ行くのだろうか。出来れば神々が愛で賜う事を祈るしかなかった。
「大丈夫だ、きっとあいつは神々が側に置かれる。そうとしか思えんくらい、良い母鳥だったからな」
 ロスキルは言った。
 ディオンは、そうあってほしいと祈った。

 
 雌鶏の死から数日経っても、冬星は元気を取り戻さなかった。訓練にも身が入らず、食餌の量もがくりと減り、胸筋も痩せて来始めた。
 こんな事例は初めてだとロスキルは言った。
「仕方がない。こいつにやる気がないなら、梃子でも動かんだろう、そういう奴だ」
 今日は良い、と遂に言われた。訓練よりも養生の方が先だ、と。
 戦士の館に戻ると、ディオンは居合わせた戦士長に馬を貸してくれるよう頼んだ。
 何も聞かずに戦士長は厩舎のは自由に使え、と言った。
 ディオンは冬星を連れて、鷲の営巣地に行く事にした。三年前の採卵は西の崖で行われていた筈だった。
 ようやくついた頃には陽も傾き掛けている事もあり、鷲達が空を舞っていた。
 その中に、目当ての鷲を見付けてディオンは息を呑んだ。
 何という大きさだろうか。
 どの鷲よりも大きく、威厳がある。あれが雌だとは信じられなかった。逆光の中でも、それが黒鷲だと分った。
「冬星、あれがお前の母鷲だろう、でなければ、姉さんか」
 冬星はじっと空を見上げていた。だが、飛び立とうとはしなかった。
 違う。
 そう、冬星の心の声が聞えたような気がした。
 違う、あれは母さんじゃない。母さんは、もう、いない。どこにも、いない。
 若い雌鷲はついと空から目を逸らせた。そして、ディオンの顔に自分の顔をすりつけて来た。
 ずっと、一緒。約束。
「ああ、約束する。お前とはずっと一緒だ」
 ディオンは言った。
 ああ、これが絆なのだと理解した。そして、その瞬間に冬星の真の巣立ちが完了し、長い幼鳥期が終わりを迎えたことを知った。
「僕とお前とは、兄妹であり、夫婦であり、親子だ」
 自分も大人にならねば、とディオンは思った。
 ここは自分達の巣立ちの地。そのためにも、この場所は出来る限り訪うようにしようと思った。この気持ちを忘れぬようにする為にも。
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