第1章・孵化

文字数 9,163文字

 渡された卵は、まだ温かかった。
 ディオンはそれを大事に両手で包み込んだ。他の十二歳の見習い達も同様だった。
 憧れの、海鷲の卵。
 これから一生を共にする事になる、大事な相棒。そして、この鷲が成鳥になる六年後には、正式に遠征に参加を許される。孵化しなかったり育雛(いくすう)に失敗すればもう一年、待たされる。鷲の一族と呼ばれる部族にとり、育雛に失敗する事は非常に不名誉な事であった。鷲を育てる事が出来なければ、戦士にはなれない。
 適当に渡された卵に、見た目の差はなかった。
 この卵を各自、鶏に抱かせるのだ。孵化まではひと月以上かかるが、その間、鶏が抱卵を放棄していないかの確認も欠かせない。また、親鷲が既に抱卵を始めていた卵の場合には他よりも早く産まれる為、卵の殻を雛が割ろうとする音にも注意を払わねばならない。その音がすれば、鶏から取り上げて孵化を見届ける必要がある。時には殻を途中まで割ったものの、中から出て来る事が出来ずに死ぬ雛もいる。殻を割る手助けをしてもそのような雛は弱く、いずれは死んでしまう。だから、基本的に補助は行わない。
 だが、ディオンにとってはこれは、戦士への一歩という以上の意味を持っていた。
 昨年の遠征で兄が亡くなり、ディオンには次の部族長の地位もかかっていた。もし、この鷲を上手く育てる事が出来なかったり、育っても弱ければ、族長の地位は一族の他の者に与えられるかもしれないのだ。従兄弟達と争うのは本意ではなかったが、族長の父は、残された唯一人の男子であるディオンに期待をしているようだった。
 正直なところ、未だに兄の不在には慣れなかった。
 十歳年上の兄は近くて遠い存在だったが、ディオンを可愛がってくれた。兄にとっては唯一の弟だったからだろう、何かと目を掛けてくれ、短剣の使い方を教えてくれたり、遊戯盤での遊びの相手もしてくれた。
 武芸に秀で、常に父と肩を並べていた兄が、まさか遠征の流れ矢で生命を落とすとは、誰もが予想しなかった事だった。次の族長として期待もされていた。兄の鷲はその死を悼み、餓死した。鷲の一族にとり、鷲とそれを使う者との関係は、そういうものだった。
 唯論(もちろん)、鷲を所有できるのは戦士のみであった。野生の鷲の餌付けは鷲神の巫女や選ばれた漁民が行うが、決して飼育には関わらない。それだけ部族にとり、海鷲の戦士は特別な存在であった。
 渡された卵を大事に持ち、ディオン達は戦士の訓練場にある鶏小屋へ向かった。皆、それぞれに選んだ雌鶏に卵を託す。今年の見習い戦士の中で最もちびのディオンは出遅れた。気付けば、誰もが敬遠するような老いた弱々しそうな鶏しか残ってはいなかった。その中で、まだ目の光の強い雌を選んでディオンは卵を託する事にした。ここの雌鶏は鷲の卵を孵化させる為に飼われているので、温かな腹の下に手を入れてもじっとしている。
「まかせたまらな」
 ディオンは思わずその鶏に声を掛けた。
 他の者達がそれを聞いて笑った。だが、気にはならなかった。これからは、この鶏の母性に任せるしかないのだ。自分では産卵する事はなくとも、卵と見るや必死で守ろうとする鶏もいる事をディオンは知っていた。自分の子ではないのに何故、そのような事が出来るのかは謎であったが。
「さあて、ちび共、では始めるか」
 戦士長が言った。その背後では、戦士達がにやにやと笑いながら集まって来ていた。
 遂に、戦士としての一日が始まるのだ。


 その夜は身体中が痛んでなかなか寝付けなかった。
 戦士の館で過ごす初めての夜という事もあったのだろうか。独り身の戦士はこの戦士の館で過ごす事になっていた。それは見習いとて変わらず、家に帰れるのは新月の日のみと決められていた。族長の子であるディオンとて例外ではない。ここでは実力が全てだ。故に身体の小さなディオンは出入り口に最も近い所に押しやられてしまった。
 兄の長剣を持たせてもらった事はあったが、その時は剣に振り回されてしまった。戦士階級である為に、見習いだからといって誰もがディオンのように初めて長剣を持つ訳ではなかった。大抵は父や兄から手ほどきを既に受けているものだ。だが、ディオンは小柄という事もあり、短剣に関しては手ほどきを受けてはいたものの、長剣は戦士の館に入ってからでも遅くはないと、父にも兄にも言われていた。その為、短剣の扱いにかけては引けを取らなかったが、長剣はからきしだった。
 ディオンは眠れぬままに兄を思った。
 族長である父の後継者に相応しかった。鷲の扱いも見事で、誰もが羨む絆があった。今年は本来ならば、他島の族長龍心エリアンドの娘との婚礼が予定されていた筈だった。
 遠征での死の為、その亡骸は島には帰らなかった。だからか、兄の死が現実のものだとはなかなか信じられなかった。父の持ち帰った遺品を見てさえも、実感が湧かなかった。姉達は泣いたが、母は北海の女性らしく涙をこぼす事はなかった。
 ようやく兄の死を受け入れる事が出来たのは、つい最近の事だった。
 遠征帰りに寄った交易島での言付けを受け取ったエリアンドとその娘が、まだ寒さが残ると言うのにこの島を訪れた。
 涙をこらえきれない様子の娘の姿に、ディオンは、この女性が自分の義姉(あね)になる筈だったのだと、ぼんやりと思った。母と抱き合い、互いに慰め合う姿に、兄は本当にもう、戻らぬのだと実感した。その娘はディオンの事も抱き締めた。そして、誰にも聞えぬように囁いた。
 ――あなたは、死んではだめよ。
 どれ程、兄がその娘を好いていたのかは分らなかった。子供のディオンにそのような事を話したところで理解は出来なかったであろうからか、兄はその女性の事をディオンに語る事は殆どなかった。だが、婚約者の娘は兄を好いていたのだろう、そうでなくては、まだ荒れる事の多い冬の終わりの北海を女性が渡って来はしないだろう。長い冬の間、北海では船を出せない。どのような思いで冬を越したのだろうか。ディオンの両親は止めていたが、娘は残りの人生を巫女として死者の為に祈るのだと言っていた。父親である龍心エリアンドは何も言わなかった。娘の決心の堅さを知っていたからなのだろう。
 兄が亡くなって半年の間に、ディオンは様々な事を理解できるようになっていた。
 それが、大人に近付いている証拠なのだろうと思った。
 戦士としての一歩を踏み出したとて、半人前以下である事に違いはなかった。だが、これからは父の、そして兄の名を辱めぬように行動しなくてはならない。
 それと、あの海鷲の卵。
 父の鷲海王(しゅうかいおう)は大きな雄で、少々気性は荒かったが、家の者には馴れている。だが、父以外の者には無関心だ。
 兄の鷲もそうだった。
 自分の鷲はどのような気性なのだろうか。雄と雌では、雌の方が体格は良い。だが、繁殖の時期になり、雄が寄って来ると厄介だと聞いていた。戦士との絆が出来ている鷲は、雄を追い払う際に大喧嘩になる事もあるという。扱いが難しいが故に、雌の鷲使いは忍耐強いとも言われている。
 五十年近く生きる鷲を、部族の戦士達は生涯の相棒とする。一人と一羽の間に築かれるものは絆と称されていた。肩に鷲を乗せた父親や親類の男達を間近に見て育った部族の戦士階級の男子にとり、鷲と共に遠征へ出掛けてゆく姿は憧れだった。
 ディオンも、父や兄とが共に船に乗り込んで行く姿を誇りに思って母や姉達とで見送った。だが、兄は永遠に戻る事はないのだ。そして、絆に殉じて死んでいった鷲も。


 卵の確認は、ある者にとっては至極、退屈な作業のようだった。
 毎日、自分の預けた鶏が抱卵しているのかを確認し、放棄していれば別の鶏に変えなくてはならないのだが、殆どの雌鶏は海鷲の卵を抱かせられる事に慣れているのでそれは滅多な事では起こらない。新たに卵を産んでいる時に取り上げなくてはならないくらいだった。
 ディオンの選んだ――選ばざるを得なかった雌鶏は、手を腹の下に突っ込んで卵を確認しても、微動だにしなかった。
 この鶏は信用出来る。とディオンは思った。若い雌を選んだ者の中には、手を入れる時に(つつ)かれている者もいた。案外と鶏の嘴の突きは、痛い。母性がそうさせるのだろうか。だが、何度も托卵を経験しているディオンの鶏は慣れっこになっているのだろうか。大人しくされるがままになっていた。
 そんなある日の事だった。
 いつものように、ディオンが毎朝の確認の為に鶏小屋へ向かうと、数人が飛び出して来た。
 慌てて戸口につまずいて転んだ少年の背に雌鶏が乗り、頭を突き始めた。少年が悲鳴を上げる。同じ十二歳の従兄、イヴォルダスだ。
 愕いたディオンは、その光景を眺める他なかった。
 雌鶏はディオンの存在に気付いたのか、動きを止めて目を向けた。
 襲われる。
 そう、一瞬、思った。だが、雌鶏はゆっくりと少年の背から降りると、堂々と頭を上げ「どうよ」とでも言いたげにゆっくりと小屋へ歩み去った。
 ディオンが卵を託した、あの鶏だった。
 恐らく、皆で悪戯をしようとしたのだろう。それが、逆襲されたのだ。
 ディオンが小屋に入ると、雌鶏は自分の産座に飛び乗るところだった。
 恐る恐る、ディオンは鶏に近付いた。
 雌鶏は低い声で鳴いたが、ディオンに対しては警戒する様子も威嚇する気配もなかった。自分に卵を託した相手が、この鶏には分るのだろうかとディオンは不思議に思った。普通、鶏は頭が良くないとされている。だから、托卵も平気で受け入れるのだ、と。
 だが、ディオンはこの雌鶏は違う、と感じた。
 誰が托卵したのか分っているのではないだろうか。また、それ以外の者と区別を付けているのではないだろうか。それは、かなり賢くなければ出来ない事だ。
「おい、大丈夫か」
 戦士の一人がディオンに声をかけて来た。
「はい」
 その戦士はゆっくりとディオンに近付くと、雌鶏を見て感歎の声を上げた。
「また、よい鶏を選んだものだなあ」
 誰もが敬遠するような老鶏だ。
「こいつは托卵の相手を憶えている。しかも、その相手以外には、決して卵に触らせない。触ろうとするだけで怪我をさせられる、名うての凶暴鶏だ。奴らは運が悪かったな」
 戦士はそう言うとディオンの背を軽く叩いた。
「こういう嫌がらせも時にはあるものだ。お前は族長の息子だからな、特に標的になり易いだろう。誰もが、一度は通る道だ。気にするな。卵は心配いらん。こいつに任せておけば、二度と手出しはできんよ」
 ディオンはそっと手を伸ばして鶏の背を撫でた。低く、だが甘えたような声で鶏が応じた。
「さあ、そろそろ訓練が始まるぞ」
 そう戦士に促されてディオンは小屋を出た。
 外では頭を突かれた従兄が手当を受けていたが、ディオンの姿を見ると凄い目で睨んできた。
「自業自得、という奴だな。悪戯を仕掛けるのにはまだまだだ」
 戦士は笑った。兄と同じような年頃であろうか。
「まあ、やっかみもあるだろう。何と言っても、お前は本家だからな。分家よりは族長に近い」
 族長になれないのなら、それでも良かった。実力のある者がその地位に就くのは当然だと思った。だが、兄以上でなければ嫌だった。兄は真実、族長に相応しい人だった。
「ヴァルガ(兄の名だ)殿の事は、本当に残念だった。だが、お前も同じ血を引く者だ。俺達は出来れば、お前を支持したい」
 支持したくとも、その器でなくてはならない。
 そう、言外に匂わせていると思った。
 皆の支持を得るには、この鷲の孵化と育雛、そして調教が重要な要素となる。鷲の能力に関しては人が関与出来るものではない。こればかりは、卵を分配された時の鷲神の采配によって決まる。その鷲が生まれ持った強さや能力は如何ともし難い。それでも、その特性を目一杯活かしてやるのも戦士の能力の内だ。
 鷲を育てる能力から人を育てる力が見られ。鷲の使い方から人のそれが見られる。
 だから、如何に立派な鷲を所有していようとも、その育て方、使い方に難があれば戦士としての評価は下がる。
「さて、お前の命題は、やはりその体格かな。まだまだこれから大きくなるだろうから、今は無理をする事はない。短剣や弓に関しては問題はないから、その点は安心すると良い。大した腕前の持ち主だ」
 兄に教わった短剣使いや弓が、自分の中にある事をディオンは嬉しく思った。一流の戦士であった兄に匹敵する腕になるのは無理だろうが、出来る限り、近付きたかった。
「力任せに長剣を振り回すだけが、能ではない」若いその戦士は言った。「身体の使い方を工夫すれば、その体格でも無理なく扱うことは出来る。ただ、もし、今迄に長剣の扱いを教わった事があるなら、それは全て忘れろ。剣の種類も変える。それでも良ければ、伝授してやるが」
 自分のような痩せたちびでも長剣を扱える。
 父や兄が十二まで待て、と言ったのは、この事だったのかもしれない。
「お願いします」
 ディオンは言った。
「よし、では来い。俺はロスキルだ。これからお前の指導をしてやろう。例え、人並み以上の体軀になったとしても、体得しておいて損は、ない」
「はい」
 ディオンの返事に、ロスキルは大きく笑んだ。


 それからの訓練の日々は、ディオンにとって辛いものではなくなった。
 一人、皆とは離れた場所で手ほどきを受ける事に多少の恥ずかしさはあった。だが、僅かではあったが、自分の剣の扱いが上達している事は分った。やはり、自分には普通の長剣ではなく、やや細身で軽い物の方が合っているようだった。
 ロスキルは、そういう意味では良き師であった。他の見習いには邪道だと言われる事もあったが、ディオンの知る限り、他の戦士との手合わせでロスキルは負けた事がなかった。同じ剣使いの者は他にもいたが、見習いのディオンを相手にする事は殆どなかった。
 年長の戦士達はどちらかと言えば互いに腕を競い合い、子供を相手にすることはない。大抵は若い戦士が一対一で指導に当たってくれる。それでも、熟達の戦士は訓練場に大勢いるので、暇つぶしに自分の得意とする技を教えてくれる事もあった。
 十八になるまでに、憶える事は多かった。
 武器や防具の使い方や手入れの方法だけではなく、操船に必要な知識も座学を含めて教わった。
 特に叩き込まれたのが、何種類もの綱の結び方だった。これは失敗をしたり異なった結び方をしてしまうと、いざという時に解けない、大事な時に解けて出遅れるなどの厄介事を引き起こす。いずれも責任のある仕事だった。だが、そう言われても面倒がる者も多かった。やはり、戦士階級であるからには、武器をふるってみたいものなのだろう。
 遠征にしろ集会にしろ、航海術は必要だった。外洋での嵐や高波に船がいかに脆いのかを、ディオンは聞かされて育った。他の者とて同じであるはずだ。遠征の帰途で嵐に巻き込まれて帰らなかった者も、少なくはない。そのような肉親を持つ者も、同じ見習いの中にはいた。
 海を畏れ、敬う事。
 それを皆、年長者から叩き込まれているはずだった。それでも、派手な剣技にばかりうつつを抜かすのは、何故なのだろうか。栄誉ある戦士には航海術は必要ないとでもいうのだろうか。
 しかし、船長の次に力を持っているのは舵取りだった。この仕事を与えられてこそ、北海の七部族中でも名が知られるようになる。それは武力だけではない。正確に星や太陽、風、天気を読む力が必要とされていた。観測用の器具も扱えなくてはならなかった。
 今の内に憶えておく方が良いとディオンは思ったが、殆どの者が、それは船に乗り組んでからでも大丈夫だと考えているようだった。
 何事も、早くに習得した方が有利だというのがディオンの考えだった。実際に海に出てから途方に暮れるような事があってはいけない。
 十五くらいまでは、船で実際に舵や櫂を握る事はない。島を一周するにも、しっかりと体力を付けろと言われた。
 武器や防具を扱う力、操船の力、そして、鷲を肩に乗せる必要もある。
 鷲の一族は当然、遠征にも鷲を伴う。
 鷲がその威力を発揮するのは、以外にも弓の使えぬ風雨の時だという。船団の鷲が一斉に飛び立ち、標的に襲いかかる様は壮観だ、と。
 師としてのロスキルは、ディオンにとっては理想的だった。師となる戦士と見習いとは義兄弟のようなものだ。だが、ロスキルは本当の兄のようでもあり、必要以上に厳しくもない代わりに、出来る事は次々先に進めてくれた。格闘術や()術では皆に遅れを取っていたディオンだったが、航海で必要な技術や理論は誰よりも先を行っていた。
 そういった日々の内に、いつしか孵化の兆しのある卵が出てきた。
 最初の孵化は幸運の卵。
 孵化からは、その主人(あるじ)となる者が、数刻おきに餌をやらねばならない。その姿を、他の者達は羨望の眼差しで眺めるのだった。
 だが、それもつかの間。暫くすると次々に孵化が始まった。そうなると皆、他人の事に関わってはいられなくなる。餌の配合や与え方、健康状態の見方などを教わり、自分の雛に夢中になった。
 そんな中でも、ディオンの卵には一向に孵化の気配がなかった。
 鶏は平然と卵を抱き続けている。
 焦った所で仕方のない事は分っていた。それでも、自分の卵が遂に最後の一つになった時、さすがのディオンも駄目かもしれないと思った。
「中には二,三日遅れるものもあるからな、心配する事もなかろう」
 ロスキルは全く気にしていないようであった。こういう事は毎年のように起こるのだ、と。それに孵化しない卵ならば、あの雌鶏が抱卵を続ける訳がないと他の戦士達も言った。
 それでも、他の少年達が楽しげに雛にやる餌を作り、談笑する姿を見ると苦い思いがした。そして少年達は、必ずディオンを揶揄うのだった。
 自分の責任ではないという事も、誰のせいでもないという事も分っていた。全ては鷲神の采配だ。それだけに、感情のやりどころがなかった。
 皆の孵化が終わり、鶏小屋へ行くのがディオンだけになって三日、遂に待った日が来た。
 卵に耳をつけると、中からこつこつという、微かな音がしていた。
 生きている証拠、生命の音だった。
 ディオンは早速、ロスキルにその事を伝えた。ロスキルはわざわざ小屋に来てくれた。そして、その音を聞くと破顔した。
「始まったな」
 その日は孵化の準備という事でディオンの訓練は休みとなった。音の様子からして丸一日はかかるかもしれないと言われたが、ディオンは平気だった。楽しみの方が勝っていた。
 灰色の綿毛に包まれた、片手に乗る小さな生命。一刻も早く、それを感じたかった。
 逸る気持ちを抑えて、そっと卵を木屑や藁を詰めた箱に入れると、ディオンは小屋を出た。すると、あの雌鶏が後をついて来た。
「お前も来るか」
 悪童からも守ってくれた母鷲代わりの鶏だ。せめて孵化くらいは見せてやろうと思った。どうせ、これが鶏の雛ではなく天敵の鷲の雛だと分れば逃げ出すだろう。だが、それまではふた月近くも抱卵してくれた母鳥だ。
 (はた)から見ても奇妙な光景なのは、分っていた。
 この時期、見習い戦士が木箱を抱えていれば孵化が近いのだと奴隷でも分る。だが、そこに鶏まで引き連れているのは前代未聞の事であろう。皆が大声で笑わないのは、ひとえにディオンが族長の息子であるからなのだという事も分っていた。
「産まれたら、餌の準備ができるように言っておこう」
 ロスキルは言った。
「だが、その鶏はなあ」
「自分の子だと思っているのか、ついて来てしましました」
「まあ、仕方がないか」
 ロスキルは暫く考える風であった。「誰かに何か言われたら、俺が許可したと言っておけ」
「ありがとうございます」
 ディオンはいつもの自分の席に木箱を置いた。すると早速、雌鶏が飛び乗ってきて木箱に座り込んだ。
「おい、何をするんだ」
 のかせようとしても鶏は引かなかった。むしろ、初めてディオンに反抗する仕種を見せた。
 溜息をついて、ディオンは諦めた。この雌鶏の性格は、ふた月の間に良く分っていた。凶暴というよりは頑固者。卵に対する執着も強い。だが、その分、良い托卵鳥だ。
 但し、自分が気に入らなければ抱卵すらしようとしなかったり、托卵の相手を襲ったりする事もあったという。
 ディオンはただ、待つしかなかった。
 時折、鶏はもぞもぞと動き、その度にどきりとした。手を出そうとしても(つつ)かれそうになるので、嘴打ちの様子も確認する事ができなかった。待つだけの時間が、これ程辛いものだとは思わなかった。ゆったりと構えて雌鶏に任せきりにすれば良いのだろうか、まだ十二歳のディオンにそれは難しい事だった。
 長く掛かる事もあるとは知ってはいても、それを実際に体験するのとは違っていた。
 夕刻近くになると、ロスキルはディオンを小部屋に連れて行った。夜間に孵化を迎えた者の為の部屋だった。そこにロスキルは軽い食事と麦芽酒(エール)を差し入れてくれた。広間ではいつものような喧騒が繰り広げられている。
 どの位の時間が経ったのだろうか。つい、うとうととしてしまったディオンを小突くものがあった。
 はっとして目を開けると、雌鶏がふんぞり返るようにしてディオンを見ていた。
 寝るな。
 そう言いたいのだろう。ディオンは思った。お前のつがいじゃないんだから。そこまで要求するなと文句を言いたくなった。
 だが、はっきりとした卵殻を突く音を耳にした時、全ては吹き飛んでしまった。
 慌てて木箱を覗き込んだ。
 卵殻が一部、割れており。黄色い嘴が見えた。
「頑張れ」
 思わず、ディオンは言った。
 徐々に殻が割れて行く。
 卵が横に転んだ時には、あっと思ったが、雛はそのような事は何とも感じなかったようで、殻を割り続けた。半分ほど割れた時、中にうずくまっている雛の姿が確認できた。
 ぐっしょりと濡れている。
 小さな足には既に鉤爪がついていた。脚を必死で動かし、雛はやがて、ごろりと殻の中から完全に出た。
 じぃぃ。
 消え入るような小さな声だったが。ディオンは確かに生命の声を聞いた。
 愛おしげに雌鶏がくつくつと鳴き、丁寧には羽繕いすると、やがて濡れていた身体はふかふかの灰色の産毛に変わった。雌鶏はディオンにじっくりと観察する暇も与えず、その上に座した。
「おい、もっと見せろ」
 そうは言ったものの、産まれたばかりの雛を潰してしまうのではないかという恐怖心から、手を出す事ができなかった。
一刻も早く、誰かに知らせたかった。大きな声で叫びたかった。
 これからこの雛を育てなくてはならないのだが、その大変さと心労などは思い浮かびもしなかった。
 これはまだ、第一の関門でしかなかった。ディオンはその事よりも幸福感に包まれていた。
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