第1話

文字数 1,481文字

―彼女は過去を水底に捨て去ったが俺は未だに水底に落ちた思い出を引き上げようと、もがいているのである。

千年放浪記外伝-青朽葉の亡霊

 俺が住まう理科研究特別地区、通称理研特区では多少倫理的に問題があっても、ある程度の研究なら許されている。数世紀の歴史の中で大罪として残るのはせいぜい1世紀前に行われた、人類に異能力を与え兵器として活用するといった内容のプロジェクトMM及びその実験として行われた戦争、そして数年前に現れた人々に寄生して理性を奪う人工生物の件くらいだろう。環境や生態系に悪影響を及ぼす実験や被験者に後遺症が残る可能性の高い実験などはこれまでにたくさん見てきたし、クローンや遺伝子組み換えの分野も裏ではかなりの量の論文が散らばっている。かつて何者かが理研特区生態研究科で行われている多くの研究は人類のためのものでありその他のあらゆる生物を排除しているため美しさの欠片もないと非難していたが、表の研究でさえ“ 美しくない”のならば裏の研究というものは一体どれほど醜悪で見るに堪えないものなのだろうか。
 …とこのように今の俺にはあれこれと他人の美学に思考を巡らせる暇も余裕もある。牢獄の中では愛しき者のことを考えることはできてもあの子を取り戻すためにできることは何も無い。だから今までのようにあの子のことで頭をいっぱいにするのはむしろ辛くなるのである。余計だったものたちに目を向けて初めて自分がしていたことは異常で醜悪だと気付くが、だからと言って間違えていたとは思わない。
 「反省はしていないといった様子だな」
「法には触れる行いかもしれないけど、何も“ 悪いこと”はしていないからね」
そう俺は人を傷付けたわけでも陥れたわけでもない。むしろ失われたものを取り戻そうとしているだけなのだ。
「しかし初めは私も目を疑った。まさか違法研究について捜査していたら麝香と再会するなんて…」
「こっちこそ御門が違法研究の捜査官になっているなんて思わなかった。ほんと面白い偶然だねぇ」
「はぁ…囚人であるという自覚は無いのか?毎回そんな同窓会のノリで話しかけられては他の職員に示しがつかない。いっそ担当を変えてもらいたいくらいだ…」
「俺は誰にだってこんな感じで話すよ?…それにしてもほんと、御門が治安を守る立場になるとはねぇ…」
「似合わないことはわかっている」
「本業は切り裂き魔だもんねぇ」
ほんと不思議なものだ。今目の前にいる捜査官御門智華は元同級生である。久々の再会が獄中なのも面白い話だが、彼女はかつて人を殺めたことがある。例の寄生虫騒ぎの際寄生され狂人と化した人々や黒幕を止めるためであったこと、そもそも緊急事態で法が機能していなかったこと、彼女の父親が生態研究科の首脳であることなどが理由で彼女の罪は無かったことになっているが、命を取り戻そうとした俺が命を奪った彼女に裁かれる立場なのもおかしな話である。
「それにしても直接見たわけではないが、およそ生物とは思えないくらい醜悪なバケモノを作ったと聞いたぞ。一体何をするつもりだったんだ…」
「醜悪かぁ…。そうだね、捕まる直前にできたものも失敗作だったから仕方ないか。別に君たちが恐れるような怪物を生み出すつもりはないんだ。俺はただ失われた過去を復元しようとしているだけで」
そう、それこそ御門の言葉をそのまま借りるならおよそ生物とは思えないくらい醜悪なバケモノは俺が不器用だから生まれた失敗作たちだ。出来損ないだけを見て判断されては困る。俺が求めている思い出はそんな醜く恐ろしいものではなく、美しく穏やかなものであるのだから。
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登場人物紹介

麝香憲嗣

科学者の国理研特区にて違法研究が発覚し拘束されている囚人。数多のキメラを生み出すマッドサイエンティスト。

御門智華

麝香の古い知り合い。かつて(『蝶、燃ゆ』)は復讐のために動くロボットだったが今では違法研究を取り締まる捜査官に。

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