第4章 自然主義文学批判

文字数 5,088文字

4 自然主義文学批判
 湛山が文芸批評家として活動していた時期は、自然主義文学が流行していた頃である。この潮流をめぐって肯定派と否定派の間で激しい論争が繰り広げられている。

 人間を客観的かつ経験的に描かなければならないとする自然主義文学はゴンクール兄弟やエミール・ゾラといった一九世紀のフランス文学から生まれ、その後、欧米に広がっている。日本では、日清戦争と日露戦争の間にゾラを中心として西洋の作品が紹介され、影響されて小杉天外が『初すがた』(一九〇〇)、永井荷風が『地獄の花』(一九〇二)を発表している。しかし、本格的に書かれるようになったのは日露戦争後の一九一〇年代であり、社会現象と呼べるくらいに流行している。

 一九〇六年(明治三九年)、島崎藤村が被差別部落出身者を主人公とした『破戒』を公表すると、多くの賞讃の声がそれに寄せられ、翌年、田山花袋が『蒲団』において性をめぐる中年作家の葛藤や欲望を描き、評判を呼ぶ。『早稲田文学』や『読売新聞』といった早稲田系の活字メディアがこれをプッシュし、自然主義は文壇のヘゲモニーを獲得する。徳田秋声や正宗白鳥、近松秋江、真山青果などの作家がこの動きに同調するように登場している。日本の自然主義は人間と社会を自然科学的に観察するのではなく、因習や権威からの解放を求めて自己を告白するという図式に陥ってしまい、次第に身辺雑事を描写するリアリティショー的傾向が強くなり、私小説に至ってしまう。

 この自然主義文学を擁護したのが島村抱月を代表とする早稲田系の文学者たちである。湛山は、抱月に極めて近く、『早稲田文学』にも寄稿している。しかし、湛山の批評は抱月と意見を異にし、明らかに自然主義文学に批判的である。けれども、その一方で、湛山の思想的師匠である田中王堂の主張とも違っている。話にならないと一刀両断をしない。湛山は一方的な擁護も批難もしない。その意義を認めた上で、問題点を指摘する。

 湛山が今でも読み得る理由として確かな歴史認識がある。彼は、『明治時代の文学に現れた思想の潮流』(一九一二)において、明治の文学史を要約し、自然主義文学について論じている。

 明治に入ると、まず西洋事情を滑稽に描いた仮名垣魯文を代表とする戯作が始まり、一八七七年(明治一〇年)に西南戦争が勃発し、その結果、明治維新右派が壊滅すると、政府は威信左派である自由民権派の弾圧に回り、それに対抗するプロパガンダの政治小説が盛んに書かれる。東海散士のように、形式は戯作を脱しているものの、文体は依然として漢文書き下しくずしで、「西洋自由思想の憧憬渇仰時代」の文学である。しかし、明治一四年の決定により一〇年後の国会開設が決まると、自由民権の叫びは失せ、また鹿鳴館のような極端な欧化主義への反発も生じ、政教社が国粋保存主義を提唱するや、仏教や国学が息を吹き返す。『源氏物語』が復刻され、志賀矧川(重昂)の『日本風景論』が愛読されていてた保守的な時期であるが、西洋化に向かって一心不乱に突進するだけから自分自身を省みることに気がついた最初の時代である。

 従前の文学は西洋事情の紹介や政治思想の宣伝などの道具となってしまい、「清志」から離れた「死物」でしかない。その「清志」を発展させるために自由詩や言文一致の運動が盛んになる。新大使運動も重要であるが、それ以上に画期的だったのが坪内逍遥の『小説真髄』(一八八五)である。逍遥は近代小説の「神髄」を近代リアリズムの手法と心理描写であると明確に意義づける。加えて、『当世書生気質』でそのリテラシーを実践して見せる。近代日本文学はこの二冊によってようやく進むべき方向を発見する。

 逍遥の示唆を受けて、日清戦争の頃まで、写実小説・人情小説が流行し、その中心が尾崎紅葉グループである。しかし、彼らは近代リアリズムや心理描写が何たるかをまったく理解しておらず、浅はかな作品ばかり著わしている。着物の縞柄や髪の結い方を精写することがリアリズムだと思っている有様だったが、戯作や漢文書き下し調しか知らない読者にとっては新鮮に感じられ、愛読されている。だが、日清戦争がこの状況を一変させる。初の近代戦争は近代リアリズムや心理描写の何たるカを強烈に文学者たちに覚醒させる。「勃興の英気と哀愁の感情とを事実として味わった」読者は幸田露伴を歓迎し、斎藤緑雨や樋口一葉も次いで登場する。とは言っても、この時期に至ってもまだ真に近代小説の「神髄」を理解してもいない。「人情とは何である。観念は何である。所詮は我れに外から与えられたものではないか。我が希求そのものではない。しかれば則ち今までの明治の文学は、漸次に主観に入り、我れの明瞭なる認識に近づいて来たとはいうものの、これを引き括めていえば、未だ我が周囲を眺め廻して、ここに満足を求めんとしていたにすぎなかった」。

 そこで登場するのが自然主義文学であるが、湛山は、『明治時代の文学に現れた思想の潮流』において、その流行の理由を同時代人として次のように分析している。

 しかるに日露戦役じゃあらゆる方面において我が国民の自覚を促したるが如く、文学においてもいわゆる自然主義の勃興となって、ここに全くあらゆる教健と制度と感情と思想との制縛から離れて、端的にわれを見んとするの努力が起った。これけだし文学のみが独りかく進んだのではない。明治文明の全体が、その政治上におけると経済におけると、その他百般の社会制度の上におけるのとを問わず、既に一通りは西洋文明に倣って改廃すべきは改廃し、輸入すべきは輸入して、而してその結果は、日露戦役における成功となって現れたのであるが、さてなお考えてみるのに、何者か未だ足りぬものがある。落ち着かぬところがある。その足りぬものは何か。落ち着かぬのはどこか。この不満不足を早く感じて、而して明らかな我れの意識からの原因を尋ね出さんとしたものが、すなわち自然主義文学であった。自然主義文学は、これを理論づけんとする人々によって主張された説には大なる欠陥があったけれども、しかしその歴史的意義はかくの如く深きものであった。

 自然主義文学は、日本的近代化を達成して日露戦争で勝利し、脱亜入欧を果たしたという意識が生まれた結果、目指すべき目標を失い、人々は空虚感に襲われる。その欠落感を埋めるために、内向したのが自然主義文学である。しかし、これを擁護する理論には欠陥があり、その可能性を十分に発揮できなかったけれども、歴史的意義は認められる。

 湛山はこうした自然主義文学に関する認識を他の作品でより詳細に考察している。自然主義文学の秘められた可能性と実現できなかった原因を彼は解き明かすが、それを見ると、いかに近代小説の「神髄」を理解していたかがわかる。

 湛山が自然主義文学を評価する点は個人主義的傾向であり、それは「自己観照」、すなわち自己確立の問題である。彼は国家に対する個人の立場と封建的制度からの解放を擁護する。「今は絶対者倒潰の時代である。そしてまさに来るべき時代は智見の時代でなければならない。(略)すべての方面において人間というものが光を放って来た」(『絶対者倒潰の時代と智見の時代』)。文化というものは人間がその欲望を満足させるために、生み出したものである。「自我とは(略)時々に起り来るよく望である。この欲望の満足が人間哀心の願望、最始最終の目的である。(略)而してこの欲望統一の機関として人が工夫し出したものが即ち宗教、哲学、道徳、政治、法律その他一切の文化である。国家というものも、かくして出来たものである」(『没我主義とは何ぞや』)。同様に、国家も個人として生きるために組織されたのであって、「人が国家を形造り国民として団結するのは、人類として、個人として、人間として生きる為めである。決して国民として生きる為めでも何でもない」(『国家と宗教及文芸』)。そのため、湛山は、『イプセンの「人形の家」と近代思想の中心』(一九一二)の中で、個人主義を自分に閉じこもり、社会に対する無関心な態度ではないと言っている。「社会的要素を無視し得ない個人主義」であり、「現実を改造して我の要求に合致するものにしようとする個人主義」でなければならない。「人生自然を最美最完なる」ものとしてその改良を放棄すべきではない。

 自然主義文学は露悪趣味や出歯亀文学と批判されているが、湛山はその見方を斥ける。しかし、彼は、『問題の社会化』(一九一二)において、社会が変わっていくにもかかわらず、いつまで経っても、自然主義文学は「束縛」からの「自由」や「解放」のスローガンを掲げていると批判する。そういった「消極的」な態度ですむ時代は過ぎ去り、「個人の解放」や「伝習の破壊」の時代を超えて、「積極的」に世界を改良していくシナリオを提示する必要がある。結局、自然主義文学は創造的破壊ではない、ただの破壊に終始している。しかし、文芸には大いなる力がある。「文芸は実に政治、道徳の批判者である。又政治、道徳の改革者である。彼は、吾人の欲望と道徳、法律、習慣等との間に矛盾撞着の起った場合に、最も合理的なる方法を用いて、この矛盾を解き、人生を滑らかにすべき使命を負えるものである」(『自己観照の足らざる文芸』)。

 社会改良という公共性・公益性への寄与どころか、文学者たちはとんだ俗物ぶりを見せる。一九〇七年(明治四〇年)六月、内閣総理大臣西園寺公望は、読売新聞社の竹腰三叉に相談した上で、自宅に文学者二〇人を招待する。内閣総理大臣が文学者を招いたのはこれが初めての出来事であり、後に「雨声会」と呼ばれるこの会合は、以降、主客を交代して数回開かれている。六月一七日から三日巻続いたこの会の出席者は徳田秋声、巌谷小波、内田魯庵、幸田露伴、横井時雄、泉鏡花、国木田独歩、森鴎外、小杉天外、小栗風葉、広津柳浪、後藤宙外、塚原渋柿園、柳川春葉、大町桂月、田山花袋、島崎藤村である。人選に携わった近松秋江は、「卑しい文士風情が雨声会一夕の宴席に招待されることを無上の栄誉と感佩するのも無理はなかろう」と述懐している。父親から「小説なんか書いている道楽者はくたばってしめえ」と言われたのに対するユーモアとして、長谷川辰之助が筆名を「二葉亭四迷」にした通り、当時の文学者の社会的地位は確かに低い。けれども、夏目漱石、二葉亭四迷、坪内逍遥は出席を断っている。二葉亭は内田魯庵に、そんな場所に行ってられるかと相手にもせず、逍遥は丁重な手紙を送って辞退したが、漱石は「ほととぎす厠なかばに出かねたり」と一句添えて返答している。自然主義文学は名もなき人を主人公にして描く以上、市井の人々と同じ高さの視線を持っていなければならないのに、上からどう見られているかが気になって仕方がなかったというわけだ。屈折した権力意に満ち満ちた識彼らにとっては個人の解放や因習打破など口実にすぎない。

 湛山は『評論界瞥見』において「小説というものは文明批評の一形式だ」と言っているが、これほど近代小説の「神髄」を把握したフレーズもない。近代小説は近代社会に出現した普通の人々をとり扱う市民の文学である。とり扱い方は社会的・客観的である。登場人物は等身大で、その性格・心理・志向は社会が表われたものである。社会的仮面、すなわちペルソナを被った本当の人間あるいは人間の真の姿を描写しようとすることから、しばしば因習的とならざるをえなくなる。しかし、反面、登場人物の心理に自由にかつ深く立ち入ることができ、それによって読者は平凡でどこにでもいそうな主人公に共感することも少なくない。近代小説の真の主役は近代社会である。そこから社会改良への動きが生まれてくるのは必然的だろう。

 ところが、自然主義文学は、近代小説における社会性を見出せない。社会を扱うために、作品が書かれるのであって、そのとり上げ方は客観的でなければならぬ。けれども、自然主義文学者は客観性ではなく、主観性に傾倒する。抱月は、『文芸上の自然主義』(一九〇八)において、自然主義を主観主義的なロマン主義の一種とさえ見ている。関心が外向的でなければならないのに、「未だ我が周囲を眺め廻して、ここに満足を求めんとしていた」という日清戦争後と同じことが繰り返されている。自然主義文学は近代小説の持っていた可能性を具体化することなく、社会性を欠いたリアリティショーの私小説に堕していく。
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