第2章 人間万事塞翁が馬

文字数 4,569文字

2 人間万事塞翁が馬
 石橋湛山は、鹿鳴館時代の一八八四年(明治一七年)九月二五日、東京市麻布区芝二本榎(現東京都港区二本榎)において、父杉田湛誓と母石橋きんの長男として出生している。幼名は「省三」といい、一九〇二年(明治三五年)三月八日に「湛山」と改名している。

 父の湛誓(一八五五─一九三〇)は日蓮宗の僧侶であり、当時、東京大教院(現立正大学)に助教補(助手)として勤務している。後に「日布」と改名し、一九二四年(大正一三年)、総本山身延山久遠寺第八一世法主に選ばれている。明治維新後から始まった廃仏毀釈によって日蓮宗も大打撃を受け、湛誓を含めた若き僧侶は再建のため、各地で学校を設立したり、雑誌を発行したり、啓蒙活動に日夜励んでいる。

 母のきん(一八六八─一九三三)は江戸城内の畳表一式を請け負う大きな畳問屋石橋藤左衛門の次女である。石橋家は日蓮宗承教寺の有力な檀家で、同寺院内に所在した東京大教院に在学中の湛誓と親しい間柄である。「私は事情があって、この母方の姓を名乗って、石橋というのである」(『湛山回想』)。

 湛山の前半生はすんなりと進んではいない。思い通りにならないことが多いが、それが湛山を湛山たらしめている。一八八五年(明治一八年)、父湛誓が郷里山梨県南巨摩郡増穂村(現同郡増穂町)の昌福寺住職へ転じたため、母きんと共に甲府市稲門(現伊勢町)へと転居する。一八八九年(明治二二年)四月、稲門尋常小学校に入学、三年生の時、父と同居することになり、稲門から約二〇km奥まった増穂村の小学校に転校する。学校から帰ると、父から漢文の素読の指導を受けている。

 素読は意味がわからなくても、暗誦できるまでに繰り返し読むという伝統的な学習方法である。しかし、それは、漢文の真の魅力である押韻や平仄を味わえない対訳文である。江戸時代に来訪した朝鮮通信使は、新井白石などの例外を除き、役人や知識人たちがあまりにも漢文ができないことに呆れている。李氏朝鮮では、漢文を原文で使いこなせなければ、文官になることなどできない。「私のごときは、子供のころ、家庭の事情で、幾分はまだ漢学教育の名ほりの中に育ったものだが、それでいて、今実際には、論語といえども、ろくに読めない。少しばかりの漢字を習ったとて、漢籍や仏典を理解するのに、なんの足しになるものでもない」(石橋湛山『「当用漢字」と「現代かなづかい」の問題』)。

 小学校時代、都会のお嬢さまだった母は湛山を「東京風のお坊っちゃん」として育てようとしている。木登りや水泳を禁止し、「財布を持って歩いたことがない」という通り、お小遣いを与えず、欲しいものがあればそれを現物支給している。もっとも、水泳に関しては、当時、川泳ぎによって赤痢に感染する危険性があったという事情もある。そのせいか、身体が小さく、運動神経もよくはなく、体育の成績はいつも落第すれすれである。入隊した際も、器械体操などで苦労している。結局、生涯に亘って湛山は木登りはできず、金槌のままである。また、この頃は明治政府が発行した貨幣だけでなく、江戸時代のものも流通しており、教室でその違いを教師が教えていたが、お金に接した経験がない湛山にはまるでちんぷんかんぷんで恥かしい思いをしている。湛山は、そこで、家から小銭をかすめるようになってしまう。「あんまり束縛する教育は良いものではない」(『湛山回想』)。

 日清戦争が勃発した一八九四年(明治二七年)、父湛誓が静岡市池田の本覚寺住職に転じることになった際、湛山は山梨県中巨摩郡鏡中条村(現南アルプス市鏡中条)の長遠寺住職望月日顕(一八六五─一九四三)に預けられる。湛誓は、自分の子を育てるのは難しいので、他人のこと交換する方がよいという孟子の教え「古者易子而教之」に倣ってこの教育方針を決めている。日謙も後に身延山久遠寺八三世法主になったほどの僧侶であるが、厳格であった父に比して、懐の広い寛容な性格の人物で、湛山自身は「もし望月師に預けられず、父の下に育てられたら、あるいはその余りに厳格なるに耐えず、しくじっていたかもしれぬ。(略)望月上人の薫陶を受けえたことは、一生の幸福であった。そうしてくれた父にも深く感謝しなければならない」(『湛山回想』)と言っている。一九五七年から八二年まで日本医師会会長を務めた「武見天皇」こと武見太郎も、増田弘の『石橋湛山』によると、日謙に影響を受けた一人である。これを機に、湛山は父母との親子関係は事実上断たれ、手紙を出しても、返事が返ってくることはない。

 一八九五年(明治二八年)四月、高等小学校二年で山梨県立尋常中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)に合格する。しかし、二度落第している。最初は勉強についていけなかったからであり、次は慢心が理由だったと湛山は説明している。この間、湛山は学校への月謝を買い食いで使いこみ、日謙は黙って学校に不足分を支払っている。賢いが、ムラのあるやんちゃな生徒だったというわけだ。この落第のおかげで、湛山は、一九〇一年(明治三四年)四月、大島正健校長と出会うことになる。

 大島正健(一八五九─一九三八)は札幌農学校(現北海道大学)第一期生としてウィリアム・S・クラーク博士の薫陶を受けたキリスト教徒で、アメリカの民主主義・個人主義を教育方針として打ち出す。湛山は彼から大変に影響され、晩年まで枕元に日蓮遺文集と並んで聖書を置くほどである。

 当時の湛山を知る上で興味深いのが「紺タビ」のエピソードである。『タビ談義』(一九五一)によると、日清戦争直後の頃、地方ではタビは白木綿の自家製が一般的で、金属製のコハゼもまだなく、タビの首についた共切れの木綿の紐で足に縛りつけている。けれども、紺タビになると、その共切れを入手するのが難しく、店で仕立てなければならない。しかも、このオーダーメードは洗濯すると、色落ちがするし、また穴が開いても、きれいに修繕できない。紺タビは洒落者の履く、贅沢品であり、湛山は中学入学から結婚するまでこれを愛用している。媒酌人の三浦銕太郎夫人から、紺タビは不経済だから、白タビにするように戒められ、それに従っている。戦後、吉田茂首相が白タビを履いているのが「貴族趣味」だと批判された際、湛山はそれを鼻で笑っている。洒落者で知られた最後の元老西園寺公望は、和装の際に、尾張町の佐野屋の紺キャラコのタビを必ず履いていたことを世間は忘れているようだ。紺タビの流行はすたれたが、湛山によると、流行は黒の朱子タビで、依然として白タビはエコノミー・クラスの実用品でしかない。

 日英同盟締結の一九〇二年(明治三五年)三月、山梨県立第一中学校を卒業する。同期生五三名中席次は一七番目である。同年四月、医師志望の湛山は第一高等学校(現東京大学教養学部)受験のため上京、正則英語学校に通い、七月に受験したものの失敗、再度臨んだ翌年の試験にも不合格となり、早稲田大学高等予科の編入試験に合格、九月に入学する。日露戦争勃発の年である一九〇四年(明治三七年)九月、湛山は予科を修了し、大学部文学科(現文学部)哲学科へ進級する。校長(現総長)は鳩山和夫であり、後に衆議院議長になった人物で、その息子が鳩山一郎である。鳩山一郎は初代自由民主党総裁として首相に就任し、その後継総裁に選出され、首班指名を受けたのが湛山である。当時の早稲田文学科の講師陣は、高田早苗、煙山専太郎、安部磯雄、内ヶ崎作三郎、坪内逍遥、金子馬治、島村抱月、姉崎正治、波田野精一、岩谷小波、田中王堂など非常に豪華であったが、湛山は、中でも、王堂(一八六八─一九三二)から多くの哲学的示唆を受け、その弟子であると公言してはばからない。王堂はシカゴ大学でジョン・デューイに師事し、プラグマティズムを初めて日本に輸入した哲学者である。明治末から大正にかけて自然主義文学が流行した際、彼は個人主義・自由主義に立脚して、それを厳しく批判している。

 ここまで見てきて気づかされるのは、湛山がアメリカ的思考・認識に馴染んでいた点である。いわゆる開国のきっかけは黒船来航であるにもかかわらず、近代国家形成の際、日本はヨーロッパを参考に諸制度を採用している。産業革命を達成し、世界最大の工業国に成長したアメリカは間違いなく二〇世紀に大国となると見られている。しかし、日本の帝国主義化とアメリカのそれとが平行していたこともあって、学ぶべきお手本ではなく日本はアメリカを対立する相手と捉えている。明治末くらいから日米の未来戦記の本が刊行され、第一次世界大戦後は一つのジャンルと呼べるまでに流行している。アナーキズムを含む社会主義思想がアメリカを経由して伝来し、またキリスト教徒は渡米することが多かったけれども、日本の文学・哲学のメインストリームは、事実上、太平洋の向こう側を無視し、このヨーロッパ大陸偏重は第二次世界大戦後もしばらく続いている。一九一九年(大正八年)、デューイ自身が東京帝国大学で二ヶ月に及ぶ講義「哲学の改造」を行うが、学生たちの反応に失望している。王堂もキリスト教徒であり、湛山のような留学経験もない非キリスト教徒、より正確には日蓮宗の信徒がアメリカ哲学の影響を受けるというのは、当時としては珍しいケースである。それどころか、アメリカ的志向を消化し、後の自然主義文学批判が示すように、王堂以上に自分のものにしている。

 アルバイトに励んでいる学生も多い中、あまり器用な方ではないこともあって、湛山はほぼ学業に専念している。優秀な成績で早稲田を修了し、湛山は文筆生活に入る。もっとも、湛山は文芸批評家になりたくてなったわけではない。明治四〇年代当時、私学出身者には、新聞界か文芸界くらいしか道が開かれていなかったからである。官界・教育界・実業界などは帝大や東京高等師範学校(現筑波大学)、東京高等商業学校(現一橋大学)といった学閥が物を言うのが現状で、うまく入れたところで、私学出は給与の面でみじめなほど待遇の差がある。ただ、私学の中でも慶應義塾大学だけは歴史も古く、福沢諭吉の功績もあって、実業界に人材を輩出している。どんなに優秀であっても、湛山のような早稲田大学の出身者は東京で職を求めようとするなら、新聞界か文芸界に進むほかない。

 早稲田の関係者も現状を承知しており、卒業生への職の斡旋を積極的に行っている。早大の創設者大隈重信を総裁として大学関係者が組織した大日本文明協会が海外の名著を翻訳して紹介する企画をしていたが、これには卒業生へ仕事を提供する目的があり、一九〇八年(明治四一年)七月、湛山もここから『世界之宗教』という本の編纂を委託されている。ところが、東京毎日新聞社への就職が決まり、この仕事に携わる時間的余裕がなくなってしまう。また、一九〇九年(明治四二年)一二月一日より一年間の軍隊生活に入ったため、序論の「宗教之本質」だけ執筆している。残りは大屋徳城、大杉潤作、小沢一が担当し、一九一〇年(明治四三年)三月一〇日に『世界之宗教』は刊行される。いずれも早稲田大学哲学科の出身者で、大屋徳城は湛山の一年先輩、大杉潤作と小沢一は同期である。

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